海士坂 司
「うわあ……」
周囲を照らす。入口こそ狭いが、暖炉の中は意外と開けていた。司の後ろから聖一も入ってくる。膝立ちではあるが、大人ならば三人は充分に入れる大きさだった。
足元を見る。燃え尽きたような灰色の薪が入り口付近にのみ置かれていた。しかし本物ではない。精巧に着色された、床と同じ材質のダミーだ。
――おかしいと思ったんだ。
実用品としての暖炉ならば、真上に人形など置くはずがない。熱で変質してしまうからだ。とくに髪の毛などは熱に弱い材質だろう。柵や扉がないことからも、これはただの装飾ではないかと予想していた。
――だけど、実際は違った。
これは『ただの』装飾ではない。
司の目の前には、小さな扉があった。
「隠し扉……!」
コトリがうなずく。暖炉の奥の壁に鉄製の扉があった。周囲の壁と同じに見えるよう、煤けたレンガ模様が描かれている。
「まずは入ってからよ」
手慣れた様子で押し開ける。彼女に続いて司たちも扉をくぐった。
固い床に足を着く。恐る恐る腰を伸ばす。頭がぶつからないことを確認し、スマホの光量を最大にして周囲を見た。
隠し部屋だ。
天井はホールよりも低いが、申し分のない高さはある。床も壁も木製で、飴色に変色していた。ほかの部屋と比べれば手狭だが、一人暮らし用のワンルームなら問題ない広さだ。八畳はあるだろう。正面奥の壁は、一面が腰の高さのほどの棚になっていた。その中には工具、ガムテープ、洗剤、スプレー缶など、雑多なものが詰め込まれている。棚の上も雑然としており、その中に真鍮製のクラシカルなオイルランプも置かれていた。
床にも古雑誌や紙くずが散乱しており、ほかの部屋とはずいぶんと様相が異なっている。右には木製の小さな作業机があった。左隅にあるソファは一人用だ。
「ここは……?」
「私の命綱よ。随分散らかってたのね……今まで真っ暗だったから分かんなかった」
コトリがスカートの裾をはたく。
「宝の山かもしれないよ」
きょろきょろと物色する。棚の上のこまごまとしたものを流し見た。油性マジックや蓋つきのアルミ缶や刷毛に交じって、銃のような形をした長いライターも置いてある。
「そっちにランプがあったよね」
「これね。つけ方分かるの?」
「多分これオイルランプだ。床に灯油の缶が置いてあるし」
足元に目をやる。ステンレス製の携行タンクが直置きされていた。満タンならば十リットルくらいは入っているだろう。しかし持ち上げてみると期待外れに軽かった。ほぼ中身はないに等しい。
「ランプにまだオイルが入ってるみたいだし、付けてみようか」
ライターのレバーを人差し指で引く。カチカチと何度か試してみると、四度目には筒の先に炎が灯った。
「いきなり爆発しないでしょうね?」
ライターの先をランプに差し入れる。途端、灯油の染みた芯にオレンジの光が灯った。棚の隅に陶器の灰皿が見えたので、部屋の主は喫煙者だったのだろう。
「良かった、付いた!」
「わあ……久しぶりに見ると、火ってこんなに明るかったんだ」
コトリが眉尻を下げながらしみじみと言った。
「これでスマホの電池が節約できる」
振り向いて聖一に話しかけた。弟は入り口付近に立ったまま、浮かない顔でコトリを見ている。
「こっち来て、一緒に調べようよ。こんなにいろいろあるんだし、きっと役に立つものがあるんじゃないかな」
「……何?」
コトリが司に向けて言う。真顔のまま、聖一とは目も合わせようとしない。知らないあいだに二人に何かあったのだろうか。
けれど些細なことだ、と司は思った。コトリと生きて合流できたのだ。拾っておいたスマホを取り出して彼女に差し出す。
「回収してくれてたんだ。ありがと」
「本当にラッキーだったね。偶然ここに逃げ込めたなんて」
「偶然ってわけじゃないの」
ランプの炎が揺れる。コトリの横顔で影がうごめく。
「じゃあ知ってたってこと? 暖炉はカモフラージュだったって」
勘が鋭すぎる、と司は思った。
暖炉の上に人形が置かれていたり、扉どころか柵さえなかったりと、偽物であることを推理できる要素はある。しかし隠し部屋となれば別だ。コトリは光源を持っておらず、部屋へと通じるドアを照らすことはできなかった。やみくもに触っていたら開いたというわけでもない。今コトリは、これが偶然ではなく必然だったと言ったのだ。
「どうして知ってたの?」
司は一歩下がった。喉が詰まるような不快感がある。
「ちょっと、誤解してるでしょ」
コトリが唇を尖らせた。悪気の感じられない仕草に、司は困惑する。
「来るのは初めてだけど、この屋敷については知ってたってだけよ。人形者のディープな噂として聞いたことがあるの」
「噂……? それに、車の中でも言ってたけど人形者って何?」
「私みたいな人形愛好者のことよ。お気に入りを着せ替えさせるだけで満足する人もいれば、デートしたり話しかけたりして恋人みたいに接する人もいる」
「そういう人たちなら妙法寺峰子の住んでる家についても詳しいってこと?」
峰子自身が自宅の秘密を誰かに打ち明け、それが広まったということだろうか。しかしコトリは即座に否定する。
「そうじゃない。私たちは根本的なところで騙されてたの」
「どういうこと?」
「司は昔、妙法寺峰子に誘拐されたって言ってたよね。そのときのこと覚えてる? どこの部屋に連れて行かれたとか、どんな間取りだったとか」
「うーん、紗雪ちゃんの部屋にたくさん人形があったって程度かな。十一年も前の話だし、全然覚えてない」
こんな状況なのに役立てず申し訳なく思う。
「ううん、当然だよ。八歳のころの記憶を正確なまま十一年間も覚え続けるほうが珍しい。ましてや、人や会話じゃなくて建物の記憶なんて」
「……?」
「考えてみて。ここに来た人全員、妙法寺邸がどんなところなのかなんて知らないの。来れたのは招待状があったからってだけ。逆に言えば、あの招待状に『ここが妙法寺邸です』って書かれてたからそう思い込んだ」
瞬きを忘れ、コトリの言葉を咀嚼する。
ここが妙法寺邸であるという根拠はあの招待状に書かれていたからというだけでしかない。インターネットサイトの地図で事前に調べていたとしても、民家の所有者の名前までは出てこない。固定電話の番号から住所を調べるサイトもあるらしいが、あの招待状に記載されていたのは携帯電話の番号だった。
「ここは……妙法寺邸じゃない?」
「ひとつ思い当たる節があるの。妙法寺峰子にはコアなファンが多いんだけど、その中でとびきり強烈なヒノノメって人がいた。直接話したことはないけど。彼はほかの人形作家には全然興味なくて、ただひたすら妙法寺峰子だけを信奉してた。寡作で知られる彼女の作品を何体も持ってて、本人ともつながりがあるんだって自称してたみたい」
「うん」
「とにかくお金があるみたいで、この村にある潰れたペンションを買い上げて移住したって話も聞いた。もちろん妙法寺峰子に近づくためにね」
そういえば、屋敷に来る途中で出会った老人が『酔狂な金持ちが引っ越してきた』と言っていた。
「そのとき大幅にリフォームしたらしいんだけど、面白い仕掛けがあるんだって匂わせてたらしいの。スタッフルームを改造して、秘密の部屋を作ったって。この話を聞いたときは変わり者の妄想だとしか思ってなかったけど」
二階で見つけた死体を思い出す。廊下と部屋に一体ずつ、身元不明の死体があった。あの人たちこそがこの家の本当の住人だったのか。
「それだけの情報で、よく暖炉が部屋の入り口だって分かったね」
「人形に心血注ぐような男が、わざわざ本物の暖炉なんか使うわけないでしょ。面倒くさいし、上に人形なんか置いたら傷んじゃう。ペンション時代の遺産なんだろうけど、残しといたのには意味があるはずよ」
「単に取り壊すのは面倒くさくて放置してるだけとは思わなかった?」
「スタッフルームを改造したって言ってたのよ? こういう部屋って、客室には向かない位置に作られると思うの。階段の近くだと上がり降りの音がうるさいから、とかね。ここの場合、階段が暖炉の埋め込まれてる壁のずーっと後ろにあるんだけど、その距離感にも引っかかった。明らかに、あいだに何か挟まってそうな位置関係って言うか」
「すごいね、そこまで分かったんだ」
「思わない? 暖炉の両脇に細い廊下が続いてて、その奥には階段とほかの部屋があるのよ。その細い廊下の長さは、明らかに階段を設置する分よりも長くとってある。そう考えると『ああ本当はこっちの壁にもスタッフルームのドアがあったけど塗りこめられたのかなあ』って」
「それで、暖炉に隠れたんだ」
「位置的に良かったってのもあるしね。玄関も、エサとしてスマホを置いてきたバスルームに向かうための道も見張れるから」
「この建物、反対側にも階段があったんだよ」
「みたいね。だけど、そこまで予想できるわけないでしょ。分かったところで、あんなドタバタやってる間に出てく勇気もないしさ」
「あ、やっぱり聞こえてたんだ」
「当然よ」
プイと顔を背け、コトリは声を落とした。
「……助けに行けなくて、ごめん」
「え? 当たり前だよ、コトリは女の子なんだし」
「お、女も男も関係ないでしょ。友達が死にそうなときにさあ……」
「関係あるよ。力なら男の方が強いんだから」
罪悪感からか照れなのか、コトリは視線を合わせないまま何か言いたげに唇だけを動かす。
「その代わり、力以外のところでこれから手を貸してくれたら嬉しいな。玄関ドアが開かないみたいで方法を考えなきゃいけないから。ね?」
振り返って、先ほどから静かな弟に話を振る。いまだ彼は入り口付近で佇んでいたが、久々に話しかけたせいか、はっとした目でうなずいた。
「何?」
不思議そうにコトリが訊く。彼女はまだ知らないのだろうか。
「玄関ドアが開かないんだって。僕はまだ試してないけど、ほかの部屋の窓は確かに開かなかったよ。殴ってもびくともしないし、変なことが起こるし」
「変なこと?」
「いきなり血が飛び散ったり、女の人の顔が見えたり……」
「何よそれ……」
コトリの顔が引きつった。不安げに周囲を見回す。
「ここにもいたりするの?」
「この部屋では見えないよ。二階ではほかにもいろいろあったけど」
「そう……玄関も窓も、私はまだ試せてないの。ごめんね。とにかくここでじっとしてばっかりで、何も」
「待っててくれてありがとう」
笑いかけると、コトリの眉間から力が抜けた。
「奈々雄も早く来れると良いんだけど。居場所知らない?」
ほころんだ表情で、悪気なくコトリが問うた。
「あ……」
当然だ。何も彼女は知らない。
「何? さっきから様子が変よ」
奈々雄があれほど惨い殺され方をしたことも。
目の前にいる司たちが、彼を見殺しにしてしまったことも。
「……奈々雄も、もしかして?」
「ごめん、コトリ」
深く頭を下げた。自白するより早く、彼女が言う。
「分かった。もう、それ以上言わないで」
「え……」
コトリは両手で自らを抱きしめた。視線を落とし、唇を噛む。
「あんたを責める資格なんてないよ、私だって同じなんだから。分かるでしょ」
黒川とのバスルームでの対決時に出てこなかったことを言っているのだろうか。けれど、司たちはこうして生きている。結果論ではあるけれど、司のしたこととは釣り合わない。
「今だけは前を向きましょ。まずは生きてここを出るの。償うとか謝るとかはそのあと。あなたの弟さんの頑張りを無駄にしたくないから」
最初に黒川と戦って足止めしてくれたことを言っているのだろう。本人に直接ありがとうとは言わないが。
司が聖一に目をやると、そっぽを向いて気恥ずかしそうに後頭部を掻いていた。
――なんで僕を挟むんだ。
この二人は案外お似合いなのではないか、と司は思う。気が強いくせに照れ屋だ。
「ここからはじっくり行くべきだと思うの。屋敷から出なきゃ帰れないけど、この部屋にいるぶんには安全だから。まずは現状を把握して、作戦を練りましょ」
「あの、それなんだけど。今いる場所が現実の世界ってのが分かったことだし、もう一度通報できないか試してみたいんだ」
司は、ジャマーを切って通報したときのことを話した。すでに妙法寺邸は火事で焼け落ち、峰子も死亡していると。
「……はあ?」
その意味を理解したとたん、コトリの顔が険しくなる。
「じゃあ何? 何度確認しても電波入らないからって断腸の思いでバスルームにスマホを残さざるを得なくなったのは、そのジャマーのせいってこと?」
「いやあの、電波自体は通報したあと入らなくなってたし、ジャマーのせいってだけじゃ……」
助けを求めようと聖一を見やるが、もはや視線すら合わせようとしない。コトリはお前だけが悪いとでも言うように司を睨んでいる。
「でも、そのおかげで全員がピスガで居場所特定されずに済んだんだし……」
「最初っから位置情報オフれば良いことくらい分かるっての!」
それを忘れていたために危うくアスカと同じ部屋で殺されそうになったのだとは言い出せなかった。
「けど、相手がどこにいるか分からないってのも怖いもんだよ。ちょうどこの停電と同じで、目隠しされてるみたいでさ。自分の位置がバレるって思っても、相手が近くにいたらどうしようって怖くなってピスガをチェックする気持ちはわかる。だからこそ奈々雄は位置特定されて狙われちゃったんじゃないかな。知ってると思うけど、どっちかが一方的に位置情報を得るような使い方はできないようになってるから」
「……そうなのね」
「でも普通、誰かがジャマーを持ってるなんて思わないから。黒川先輩としても、雨だし山だし電波が入りづらくても仕方ないなって考えてるかもね。ネットなしでも近距離ならピスガは使えるなんて知ってる人少ないだろうし。今でも電波が入るようになってないかチェックしてそう」
「……司」
なぜか遠慮がちに聖一が話しかける。
「おそらく電波は復活しないでしょう。この部屋を出てジャマーを切ったところで、もう一度通報することは不可能です」
「なんで分かるの?」
「……感じるので。嫌な気配が妨害しているのを」
言い終わると、また聖一はそっぽを向いた。コトリが「なんなのよ」と訝しげに言う。
――聖一の言葉は信じられる?
通報は無駄だからやめろと彼は言う。これが弟の言葉なら司は信じられた。問題は、本当に弟なのかということだ。
最初に聖一に感じた違和感は、まだ拭えてない。
「それで、妙法寺峰子が死んだってのは本当なの?」
コトリの声で我に返る。答えの見つけようがない疑問は考えるのをやめた。
「……警察が言うんだから本当じゃないかな」
「じゃあ今までに何回も同じような通報があった、ってのはどう考えればいいわけ? 私たちみたいにここで先輩に殺されかけてた人が過去にもいたってこと?」
そんなわけないだろうけど、と言わんばかりの口調だ。司もこの考えには否定的だった。
「今回のことは、結構周到に練られた計画だと思うんだ。計画者は『万が一』を考えて、僕たちが通報しても助けが来なくなるような仕込みをした。そのひとつが『ここは妙法寺邸だという誤認識』だし、さらに自分たちが何度も『妙法寺邸で囚われてる』っていうイタズラ通報をすることで、妙法寺邸からの通報に対して警察側が不信感を持つように仕向けたんじゃないかな」
右手のスマホに視線を落とす。
――今電波さえ入ったら、すぐに真相を話して助けに来てもらえるのに。
「今なら、ジャマーを切って電話を掛ければここまで助けに来てもらえそうね」
コトリも司と同じようなことを考えていたようだ。
「ジャマーじゃない方の電波障害さえ直ればね……。それに、試しに掛けてみるにしてもこの部屋にいるときは駄目だ。ピスガも使えるようになってこの場所が特定されちゃうから」
「分かってるよ」
コトリが口を尖らせる。
「そもそもなんだけどさ。私たちをこんな目に遭わせてるやつの目的は何? 司はなんで誘拐されたの?」
司は誘拐事件について説明した。さきほど聖一から聞いたばかりの、ハンカチが原因の人違いの話にも触れた。
「じゃあ、娘が仲良くなれそうだからって理由だけで妙法寺峰子は誘拐したってこと?」
「お菓子食べさせてもらっただけだけどね。なんでか両親がえらく深刻になって、そのあと僕たちは引っ越しちゃった」
「そりゃ引っ越すよ、普通の思考回路じゃないでしょ。それで、娘さんはいまだに司のことが忘れられないってこと?」
「分からない。小学校のときにちょっと助けたってだけで、そんなに引きずるもんかな」
「けど実際ここに招待されちゃったわけでしょ。司と紗雪さんの結婚式」
そうだ。おそらく司は、紗雪と結婚させるために呼ばれた。
――誰に?
「紗雪ちゃんは死んだんだよね。黒川先輩が言ってた」
「それがどうかした?」
「どうして死んだんだろう」
「んー……司と結ばれるためとか?」
「じゃあ自殺? それとも殺した人がいるの?」
「自殺でしょ。わざわざ他人が殺してまで紗雪さんと司をくっつけることになんの意味があるの」
返す言葉が見つからない。しかし司はコトリの弁に納得しきれないでいた。
司と結婚したいがために用意周到な計画を立て、他人まで巻き添えにして自殺する。しかもそれは確実性のない呪い頼みだ。無駄死にの可能性も充分あった。
普通の精神状態ではできないことだが、妙法寺紗雪はそこまで狂っていたのか。
――そんな子じゃなかったけどな……。
十一年前にたった一度話したきりの関係だ。あれから彼女は心を歪めてしまったのだろうか。それならば一体なぜ。
「あ、そういえば」
十一年前で思い出す。二階にいたときに見たあの写真立てだ。
かいつまんで話すが、コトリは腑に落ちない様子だ。
「アスカさんが妙法寺紗雪ねえ……」
「すごく似てるんだ。ただ、大学に偽名で通うなんてできるのかってなると」
「それはできるかも」
すぐにコトリが言葉を返す。
「司はその母親に誘拐されたんでしょ。だとしたら母親は犯罪者ってわけよね? 妙法寺なんて結構珍しい苗字だし、事件を知ってる人なら百パー気付く。あの子は犯罪者の娘だってね。差別やいじめを避けるために学校側が通り名を許可するのはあり得る話よ」
いわゆる人道的な配慮というやつだ。コトリの言い分はもっともだと司は思う。
しかし一方で、先ほどの推論とは齟齬が生じる。
「だとしたら紗雪ちゃんは他殺ってことになる。あんな死に方は一人じゃできないし」
「司の『紗雪=アスカさん説』が正しかったらの場合だけどね」
コトリはまだ疑っているようだ。
「そういえば僕、二階で二人分の死体を見つけたんだ。一人は小柄な男の人で、もう一人は女の人」
女性の方は直接見たわけではないが、聖一が言っていた。
「なっ……まだ死んだ人がいるっていうの?」
「ヒノノメさんのプロフィールや家族構成は知ってる?」
コトリは動揺しながらも、気丈に思い出してくれた。
「中年の男で金持ちで……この家の持ち主。SNSで夫婦二人で悠々自適って自慢してたのを見かけたことがある。太ってはいないんじゃないかな、食に興味がないって言ってたし」
小柄な中年男性の夫婦。司の予想は確信に変わった。
「ってことは、司が二階で見た二人って……」
「ヒノノメさん夫妻だろうね」
ここまでは分かる。問題は一階にあった女性の死体だ。
「……髪型も体型もアスカさんっぽいんだけど、あの死体が先輩だっていう確信が持てないんだ。裸だったしさ。顔の皮を剥いだのは人形婚に則ってとも考えられるけど、死体の身元を隠す目的でも使えるから」
しかし、依然として死体の身元を誤認させる意味は分からない。
――分からないってだけで、隠されたメリットがあるのか。それとも考えすぎなのか。
「……でもやっぱり、私はアスカさんだと思う」
コトリがぽつりと言った。
「天然なんだ、アスカさん。綺麗な爪の形してるのにネイルどころか手入れすら全然してなくて、しないんですかって訊いたら何それって感じで返されて。爪切って、甘皮取ったり爪やすりで磨いたりしてあげたらすごく喜んでさ。だったらって感じで使ってなかったピンクベージュのマニキュアあげたら、すごく大切そうに両手で包んで……」
綺麗に飾り立てた自身の爪を見て、彼女は続ける。
「一本五百円くらいのお下がりのネイルだよ。なのに初めて見た宝物みたいにキラキラした顔したの。世間知らずだって見下してたけど、正直黒川先輩の気持ちが分かるくらい可愛かった」
口の端がゆがんだ。泣きそうになりながらも、無理やり笑みを作って司を見る。
「なんでこんな話したかっていうと、あの死体の爪見ちゃったからなの。綺麗な形してて、ピンクベージュのマニキュア付けてた。そんな人ごまんといるなんて分かってるけど、でもどうしても、私にはアスカさんにしか見えないんだよ……」
「……そう」
なんと答えるべきか迷ったのち、司はストレートに伝えることにした。
「コトリがそう思うなら僕は信じる。一階のあの人はアスカさんだ」
「良いよ別に……ごり押ししようとしたんじゃなくて、私がそう思ったってだけ」
「分かってる」
ただの同情心からではない。そのことをコトリに伝えたい。
「大事な人とか大事な出来事って、ときどき理屈を超えるくらい大きな力になるんだ。直観って言うのかな。本能的に大切にしてる思い出は、結構本質を見抜いてるもんだと僕は思う」
何よそれ、とコトリが茶化した。泣き笑いの表情から強張りが抜けている。
「なんか、それはそれで複雑かな」
司がコトリを信じることで、二人のあいだでのアスカの死は決定的なものとなるのだ。受け入れがたい事実だということに違いはない。爪だけで当人だと分かる関係だからこそ、死んでいてほしくはない。
「まだ分からないことが山積みだからね。今だけ仮に『一階のあの女の人はアスカさんだ』ってしておこう」
「うん……」
「あとは、紗雪ちゃんは自殺なのかってことと、アスカさんが紗雪ちゃんと同一人物なのかってことだよね」
司は坂俣アスカが紗雪であると感じている。しかしコトリは先ほどから納得できないようだ。
「アスカさんが妙法寺紗雪だとしたら、誰が殺したのってことになるでしょ。さっきも言ったけど、私は妙法寺紗雪は自殺だと思う。誰かにたまたま殺されたから司を呪います、じゃ行き当たりばったり過ぎるでしょ。あんな招待状まで送ってきてるのに」
「そうだよねえ……」
言いながらも、司は自分の考えを捨てきれない。コトリに言った「直観は本質を見抜く」という考えは、自分にも当てはまると思っていたからだ。二人が同一人物なのではないかと、司は直観的に感じていた。しかし理屈ではないからこそ、他者にどう説明していいのか分からない。
――自分では直感したと思ってることでも、深層心理ではちゃんと理由があるのかも。
なぜその考えに至ったのか。理由を探すも、思考の迷路にはまり込むだけだった。パズルのピースが少なすぎる。この感覚以外に、頼れる判断基準が見つからない。
そのとき、不意に背後から声がした。
「ペンを持ちなさい」
ドア付近にいた聖一が、いつの間にか斜め後ろに立っている。有無を言わさず司の手首をつかみ、棚の上に置かれていたマジックへと引っ張った。
「ちょっ、いきなり何」
「紙がないので棚に直接書きましょう。ローマ字で『海士坂司』と」
――ひとり離れてずっと黙り込んでたかと思ったら。
司は訳が分からないまま、言われた通りに木製の棚に直接マジックで自分の名前を書いた。
「何してるの?」
コトリの困惑顔に苦笑いを返す。いくら双子でも頭の中まで同じではない。
「書けましたね。では次は『坂俣アスカ』と」
「これもローマ字?」
「当然です」
言われた通りに書いた。太い黒ペンで書かれた名前が二つ、縦に並んでいる。
『AMASAKA TSUKASA』
『SAKAMATA ASUKA』
「司のツはからヘボン式で書かれていますが、訓令式に直しましょう。Sを消してください」
TSUのSにマジックで斜め線を引いた。
「あとは簡単です。SAから順に、坂俣アスカの名に使われているアルファベットをお前の名前から消していきなさい」
ようやく司にも聖一の考えが分かった。
ひとつずつ文字に斜線を引いていく。横で見ていたコトリが息を飲んだ。
どれ一つとして余ることはない。
十三個のアルファベット全てが、アスカの名によって消された。
「アナグラム……!」
坂俣アスカという名は司から生まれたものだったのだ。そうでなければこれほど完璧なアナグラムにはならない。坂俣アスカという名は偽名であり、彼女は司に対して特別な思いを持つ人間だった。
「やっぱり、アスカさんは紗雪ちゃんだったんだ。でも僕を追って県外の大学に進学したわけじゃないよね。だって紗雪ちゃんの方が一個上だし、入学も研究室選びも紗雪ちゃんの方が先だから」
「……うちの県、三つしか大学ないから。それぞれレベルがキッパリ分かれてるし、高校のときの成績で大体どこに入れるかくらい予想つくよ。県外に進学するなら別だけど」
「なるほど」
「それにしても……こんなのよく気付いたね。いつから?」
コトリの質問に、司は聖一を見た。
「……俺は坂俣アスカという偽名を見たときから疑ってました」
「え? どこかで見せたっけ?」
「この建物に入ってすぐピスガを使ったでしょう。あのときポイントの右上に黒川鉄二と並んで坂俣アスカと書かれていました」
「それだけで? 僕なんか自分の名前使われてるのに全っ然分からなかったよ」
「お前はいろいろ鈍すぎです」
「そうかなあ」
「現に今だって――」
聖一が何かを言いかけたとき、コトリが遮った。
「司」
「ん?」
何気なく振り向いて、ぎょっとした。コトリの目が笑っていない。
不安げな作り笑いで、おずおずと司に問う。
「……さっきから、誰と喋ってるの……?」
「――え?」
振り返る。
何を言っているんだと言おうとした。そこに聖一がいるからだ。今まさにこの場所に立ち、喋って、坂俣アスカの名の秘密を教えてくれた。
誰もいなかった。
「……聖一?」
ぐるりと見まわす。オイルランプを手にとって、隅々まで照らした。元より八畳ほどしかない部屋だ。隠れる場所などどこにもない。
「どこ? 部屋出ちゃった?」
出るには扉を開けるしかない。聖一は鈍いと言ったけれど、背後の人間がドアの前に移動して出ていけば、いくら司でも気づく。
不思議に思ってきょろきょろとする姿を、コトリは憐憫の表情で見つめていた。少なくとも、司のように状況が飲み込めていないわけではないらしい。
――コトリ、何か知ってるのかな。
「聖一知らない?」
途端、彼女の顔がくしゃりと歪んだ。両手で顔を覆い、震える声で繰り返す。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
――「あんたを責める資格なんてないよ」。
奈々雄が死んだことを告げたとき、確かにコトリはこう言ったのだ。
――「私だって同じなんだから」。
脳髄に、ぬるりと嫌な感覚が流れ込む。
聖一に感じていた違和感の正体が、絶望の足音を立てて姿を現す。
司は走り出していた。
「待って、司!」
身一つで外に出る。ドアをくぐり、暖炉を抜けて、殺人鬼がいるかもしれない広々としたホールへと転がり出た。
――何も考えたくない。確かめるまでは何も。
その思いとは裏腹に、今までの出来事が堰を切ったようにあふれ出す。
――血まみれのジャマー。
――傷ひとつなかった聖一の顔。
――突如芽生えた霊感。
――行くことを拒絶し続けた正面玄関。
聖一は車の中で、敬語を使う理由を説明していた。心理的距離を取るためなのだと。おそらくは、深く関わることで傷つくことがないように。自分と関わり続けることで、二度と誰かが傷つかないように。
暗闇の中、汗でべたつく手でスマホを取り出す。電源を入れると同時に、何かで塗れた床で滑った。
バランスを崩して両手をつく。伝わってきたのは、床の硬さではなく柔らかな感触だった。青白い光がそれを照らす。見覚えのある黒いスーツだ。司の手の下にある足首の先には、擦り傷だらけになった革靴が履かされている。
濃い鉄錆の臭いがした。
「あ……」
スマホを取り落とす。
扉のそばに転げ落ち、赤い飛沫をあげた。ライトアップするように空へと光を投げかける。事実を暴くには充分だった。目の前に、懐かしい顔がある。
聖一は絶命していた。
扉に背を預けた彼は、赤黒い面を被せたようだ。剥ぎ取りやすいよう切り取り線を入れたのだろう、こめかみから顎にかけて、綺麗に皮膚が分断されている。そのあとは力づくで引きちぎったらしい。血管や筋組織が、伸びて千切れた断面をのぞかせながら顔のあちこちで垂れ下がっていた。司と同じ顔は、もうそこにはない。
胴体も服ごと切り裂かれ、破れた服の隙間からはぬめぬめとした内臓がはみ出ていた。聖一の左手が、それを押し戻そうとするかのように添えられている。
耐えられなかった。
誰に聞かれるかを考える余裕はない。司は身を振り絞って慟哭した。したはずだった。
また、あの手が口元を覆う。
鼻も口も抑え込まれた。悲しい叫びが行き場を失う。ぼろぼろと涙がこぼれた。顔の半分を覆う手を濡らす。死体は扉を塞いだままだ。男の手は、司の声を殺し続ける。
「……司」
背後で声がした。コトリが言葉を詰まらせながら言う。
「私、てっきり知ってると思って……ごめんなさい。あの停電のとき、聖一君は殺されたの。助けられなかった……今そこで、人が殺されてるって分かってても……どうしても、怖くて……」
司の顔を押さえる手に、彼女の指先が触れた。温かい。
――ああ、そうだったんだ。
コトリの体温を感じながら悟った。感情の波がすうっと引く。
――これは、僕の手だったんだ。
固まったような指の筋から力を抜く。ぎこちなく、手を下ろす。だけど一緒じゃないか、と司は思った。この身体は、全て聖一と同じものでできているのだから。
「ねえ、とにかく部屋に戻ろう? 武器も何もないのに襲われたら、このままやられるだけだよ」
「……コトリ」
「え?」
「心臓はどこ?」
開いた傷口に手を突っ込む。表面付近は冷めていたが、肉の隙間を割り入っていくと、温かさを感じるようになった。司の指の動きに合わせて、聖一のみぞおちの皮がもぞもぞと動く。
「な、なにして……」
「聖一の心臓は?」
強く指を突き立てる。ぐじゅうと湿った音がして、むき出しになったピンクの歯の奥から血泡が滴った。込み上げられる血反吐を浴びながら、司の手はなおも臓腑をまさぐる。
「やめて……!」
コトリは背一杯の力で司の手を引いた。勢いで、司が後ろに尻もちをつく。指先から死体の傷口にかけ、血の糸が引いていた。それがふっつりと切れたあとも、司は抵抗もせず呆けている。
「ない……ないよ……」
「もう帰ろ、あの部屋に戻ろうよ」
涙ながらに腕を引く。司はなされるがままに腰を上げ、コトリに押し込まれるようにして暖炉奥に戻った。
部屋に連れ戻されると、司は棚にふらふらと歩み寄り、両手をついてうなだれた。目を見開いたまま、コトリが再度部屋を出たあとも、指一本動かすことはなかった。
雨の音もここまでは響かない。聖一の声も聞こえない。狂いそうな静寂だ。いっそ狂えばまた会えるのか。あの声がまた、行く先を示してくれるのか。
背後で扉の音がした。
「……今、見てきた」
ほんの十数秒間だけ部屋を出ていたコトリが戻ってきた。手には自らのスマホと、落としてきた司のスマホも持っている。
「今、黒川先輩は二階にいる。この部屋のちょうど真上あたり」
司は答えない。
「……もしかしたら、この真上にある部屋に何かあるのかもね。呪いの源とか」
一切反応しない後ろ姿に、コトリは深く首を垂れた。
「本当に……ごめんなさい。何度謝っても済む問題じゃないのは分かってる。でも――」
「……なかった」
ぽつりと司が呟いた。コトリは薄く口を開いて顔を上げる。
「心臓は、なかったんだ。肋骨を過ぎたあたりから肉の圧迫感が減ってた。手もやけに入りやすかった。やっぱり、盗られたんだ」
徐々に司の声の輪郭がクリアになる。目的が定まっていく。
「顔の皮も心臓も盗られた。このままじゃ聖一は呪物にされる。あの人みたいな悪霊になる……」
身を起こし、振り返る。
司の目には光があった。明確な意思の光だ。
「――絶対に、取り戻さなきゃ」
けれど、光が清らかなものとは限らない。黒く燃えるような色を帯びた司の瞳に、コトリは身をすくめた。
「武器を探そう。それで黒川先輩を殺す。ただの依り代でも、向こう側にとっては主戦力だ。まずはそれを削ぐ」
ざっと棚を眺める。
何をどうするべきかは、きっと聖一が教えてくれる。
「同時進行で呪いの出所を突き止める。この状況を作り出した元凶を探し出して、潰す」
――「目指すべきは、この状況を作り出した元凶を探し出すことです」。
確かに聖一がそう言っていた。だとしたらそれは真実だ。
「探すって、どうやって……」
「きっとわかるよ。そのときになったらまた教えてくれる」
今までのように。何度も危機を乗り越えさせてくれた彼ならば。
コトリは諦めたように首を振ってうつむいた。何を言っても無駄だと諦めたのだろう。司にとってはどうでも良いことだった。彼女は彼女の役割を果たしてくれさえすればいい。
部屋を見回す。棚の工具入れに金槌があった。それを取り出すと、コトリに差し出す。
「僕は今から武器になりそうなものがないか調べる。それまでに黒川先輩がその入り口から強行突入してきそうになったら、それで頭でも殴っといて。入り口は小さいから狙いが定めやすい」
コトリは司を上目遣いに見た。何か言いたそうな表情をしていたが、すんなりと受け取って入り口わきに立つ。
「武器なんて、本当にあるの……?」
見たところこの金槌が一番攻撃力が高そうだ。短いスパナや釘も工具入れに入っていたが、とても黒川の包丁には敵いそうもない。それでもないよりはマシかと思い、安っぽいペラペラの小さなスパナをポケットに仕舞った。
「なければ作るよ」
手に取ったのは高さ二十センチほどのスプレー缶だった。錆びついた金属を滑りやすくする潤滑スプレーだ。成分表にLPGと書かれていることを確認し、振ってみる。中身もちゃんと入っているようだ。
次に、ランプを点けるのに使った長いライターとガムテープをそろえた。ライターの先端とスプレー缶の噴射ノズルとの間をわずかに開くように調整し、この二つをガムテープでぐるぐる巻きにして一体化させる。
「何、それ」
コトリに答える代わりに、ライターの火をつけた。身体から充分に放し、スプレーを噴射する。
火柱が音を立てて噴き出した。
「即席の火炎放射器」
コトリを見る。喜ぶかと思いきや、表情は硬いままだ。
特段気にせず次に移る。
部屋のものをざっと見まわしたが、大したものは置いていない。部屋の隅に発泡スチロールが少量あるくらいだ。
――ナパームもどきは作れそうだけど、屋敷全体が燃えたら厄介だ。
灯油と発泡スチロールで、水では消せない燃料ができる。しかし玄関や窓が閉まったままでは心中することしかできない。
――火に頼るより、敵だけを討てる何かが欲しい。
棚の中には洗剤のストックも入っていた。「超強力」と書かれたトイレ用洗剤だ。業務用らしい。
同じく棚の上には、コーヒーの入っていたアルミ缶が一本転がっていた。中身は入っていないが蓋つきなので、液体を入れても漏れることがない。
――問題は、時間だ。
一本の蓋に洗剤を垂らす。三分ほどで細かい泡がわき、蓋の底がほの温かくなってきた。アルミとアルカリが反応しているのだ。この反応熱で反応は加速し、水素がさらに発生していく。
司は工具箱に入っていた二センチほどの釘をアルミ缶に入れた。何度か揺すって内部に傷をつける。多分、アルミ缶内部は何らかの樹脂でコーティングされているからだ。
――これほどのアルカリなら樹脂でも溶かすだろうけど、反応時間が長すぎるのは困る。
そのあとは洗剤を入れるだけだ。零れないように注いできっちり蓋を締める。
――まだこれだけじゃ足りない……。
「コトリ」
「え? な、なに」
「ストッキング履いてるよね?」
「履いてるけど……」
「脱いで」
何を言い出すんだこの男、という目で司を見る。
「ボーラを作るんだ。狩猟でも使う武器の一種だよ」
「あ……あっち向いてて」
「うん」
衣擦れの音を聞きながら棚に向き合う。中に詰める重りを探さねばならない。
――釘じゃストッキングを突き破るし、残量も少ない。丸くて重くてストッキングに詰められる大きさのもの……。
再び工具箱をあさる。釘の入ったプラスチック製の小箱があった。これだけでは心もとないので、自身の左腕にある腕時計を外す。金属製なので、二つ足すとそれなりの重量感が出た。棚の隅で見かけた陶器の灰皿は直径十センチ程度の小ぶりなものだ。これも重量感があって突起がないので適している。
「脱いだけど……」
「じゃあ貰うね」
頬を染めたコトリからストッキングを受け取る。まだ人肌の残るそれに手を差し入れて、左足と右足を重ねた。補強のためだ。つま先部分に灰皿を入れてからずれないように手前をくくる。同じように、ヒップ部分の手前もくくって腕時計と釘入れを詰め、外に出ないように反対側の端もくくった。筒状の布の両端に重りの入ったこの武器は、殺傷力はないが、足止めにはもってこいだ。
「それどうやって使うものなの?」
「走ってきたら投げつける。足に巻き付いて転ばせるんだ」
即席の武器もどきはこれが限界だ。あとは運と個々の頑張りに賭けるしかない。
「今から僕はもう一度聖一のところに行く。すぐに戻ってくるから、コトリのスマホと金槌貸して」
「なんで?」
「スマホをセットしてくるんだ。ついでにこれも」
アルミボトルに釘と洗剤を入れたものを持った。
「どうやって? それは何?」
「ここで待ってて、代わりにこれ上げるから」
答えずに火炎放射器を渡した。金槌の代わりの護身具だ。
「僕が言うまで、何があってもドアを絶対に開けないで」
扉の外に出る。ホールの中ほどでピスガをチェックすると、黒川は階段を下りてきている。一階に向かってきているようだ。
――早くしないと……。
聖一に駆け寄り、ポケットを調べる。すぐに聖一のスマホは見つかった。しかし画面は割れ、上半分しかまともに見られない。
司は自身のスマホのアラームを一分後にセットし聖一に持たせた。コトリのスマホは少し離れた左の壁際に置いた。
画面の左端に『黒川鉄二』の赤いポイントが出現する。
――来た……!
予想よりも早めの邂逅となってしまった。大丈夫だろうか。隠し部屋の扉の外、暖炉の中に隠れ、暗闇の中でじっと待つ。
――もし駄目でも、仇だけは討つからね。
心の中で聖一に語りかける。誰も答えてはくれない。聖一ははるか前方で、司のスマホを静かに持ってくれている。
足音が近づいてきた。
予想よりも手前、司寄りだ。暖炉を調べようとしているのだろうか。サーチライトのようにスマホの光が跳躍している。
光が、探るように暖炉に固定された。
いよいよ足音が大きくなる。距離四メートルほどだろうか。暖炉がなければ見つかっていただろう。暖炉内を調べようとしていることは明白だ。
――早く……。
暖炉内の暗闇で、手に持ったアルミ缶に目をやる。温かいを通り越して熱かった。このまま持っていては司まで危ない。しかし、まだだ。
けたたましいアラーム音が響いた。
ヴェルディの『怒りの日』だ。あと三メートルというところで黒川の足が止まる。
――コトリらしいけど、今にはぴったりの曲だ。
生前の行いに審判が下されるという『怒りの日』。この日、全ての悪人は地獄に落とされるのだ。
――今度は僕が、お前を地獄に叩き落としてやる。
遠ざかっていく足音を確認する。スマホの光をかざしているから司から確認するのは容易だ。予想通り真っすぐに聖一の死体に向かう。
と思いきや、手前で止まった。
――気づかれた……?
含み笑いが聞こえる。黒川だ。分かりやすすぎる手だったか。しばらく沈黙したのち、今度は左の壁際へと向かっていく。
――ピスガでコトリのスマホの位置をチェックしたんだ。
司もコトリもスマホを持っていない。それでピスガをチェックすれば黒川に嗅ぎ付けられると思ったからだ。そして、黒川もそれは分かっている。相手がピスガを使わないならば、自分の位置を捕捉するには隠れながら目視するしかないと分かっている。
つまり、あの暖炉から。
黒川は、左の壁際に置いたコトリのスマホを拾った。余裕の足取りで暖炉に向かう。もう隠れる場所があそこしかないのは分かっているのだ。あとは、どう殺すかしか考えていない。
身をかがめ、暖炉を覗く。
そこには、『誰もいない』。
四つん這いでやっと入れるスペースだ。目の前は壁に似せた扉になっている。黒川は目ざとくそれに気づき、光で照らして調べた。足元のことは全く気にも留めていないようだ。
長身を支えている脚が、何かを踏みつけた。
アルミ缶が爆発した。
耳をつんざく爆音が隠し扉を揺らす。その音は司の場所からも充分に聞こえた。
司は今、聖一のそばにいた。
聖一をチェックしたのち、黒川がコトリのスマホを見に行ったすきに、司は暖炉から聖一のそばへと移動していたのだ。一度チェックした聖一付近はあまりよく調べないだろうと予想した。
「ぐおおぉおおおおおぉおおおぉぉおおおおおぉおおおぉおおおおおおぉぉ」
狂ったような怒号が響く。
水素で膨張したアルミ缶が爆発し、中に入っていた強アルカリ液と釘を全身に受けてもなお、黒川の殺意は衰えていない。
狂ったがゆえにタフなのか。痛みを感じていないのか。思考はさほど低下していないのに、精神そのものはもはや人間のそれではない。
――見つかった。
暗闇の中、爛れた気配だけが肌を舐める。これが第六感というものだろうか。明確な殺意が真っすぐに向けられたのが、嫌というほど伝わってくる。
脇に佇む聖一の手から、司のスマホを取った。
最大光にして正面を照らす。
大口を開けて迫りくる黒川が見えた。顔中に釘を打ち込まれている。皮膚のあちこちが赤く蕩け、右目は完全に白濁していた。着ているスーツは誰のものか分からない血にまみれている。
足元めがけてボーラを投げた。
ストッキングが両足に絡みつく。そのまま突進しようともがくが無理だった。つんのめり、体勢がぐらりと崩れる。それでもなお司に掴み掛からんと腕を伸ばした。
黒川の爪が、司の鼻先をかすめる。
「ぐううううっ」
黒川は土下座するように、二人の目の前で突っ伏した。司はベルトに挟んでおいた金槌を取り出す。
「今、どんな気持ち?」
身を起こそうと床についた黒川の指が、容赦なく叩き潰された。
「ぐあ!」
手を引っ込め、上半身が床に落ちる。今度はこめかみに向かってスイングした。
「ごっ……!」
その間にも折れっぱなしの指が司に向かって伸ばされる。しかし無視して、司は側頭部だけを殴った。
額周りの頭蓋骨は硬い。延々とこめかみを殴り続けると弱ってきたので、つま先で胴をひっくり返す。いまだに戦意を持ち続けているのは驚異的だった。ほぼ意味のない抵抗だけれど。
「ねえ、どんな気持ち?」
正面から振り下ろす。金槌の先が鼻を押しつぶし、開いた口から血飛沫が上がった。
「答えろよ」
頬骨を殴る。二発で陥没し、顔が変形した。見る間に頭部全体が、ぶよぶよとした水風船のようになる。苦しそうに悶える黒川の横腹を、力任せに蹴り上げた。赤黒い顔に埋まっていた眼球がせり出す。
「どんな気持ちで聖一を殺したの?」
次第に黒川は反応を示さなくなった。それでもやめる気はなかった。口と鼻から血に交じって、クリーム色の何かが零れている。
「死んだらまた、僕のとこおいで。何度でも殺してやる」
靴の裏で顔面を踏む。ピクリともしない。
ふと横を見ると、コトリが立ちすくんでいた。手にはオイルランプと火炎放射器を持っている。黒川を討ったというのに、まるで喜ぶ様子がない。
「片付けたよ」
声を掛けると、怯えた目が司を映した。気丈にそれを隠そうとはしているけれど。
「し、死んだの?」
「さあ? 触ってみたら」
「……遠慮しとく」
左足で喉仏を踏む。体重をかけても特に反応はない。足の裏に喉骨の割れる感触があった。その様子を、コトリは信じられないものでも見るかのように注視している。
「やっぱり動かないねえ」
「……司」
「ん?」
「司は、司だよね……?」
なんだか可笑しくて吹き出した。司は同じことを聖一に言ったのだ。弟もこんな気持ちになったのだろうか、と考える。あのときは茶化されてしまったけれど。