第3話 この力は使いたくなかった
マコトは混乱していた。
自分一人でも、余裕でこなせる依頼のはずだった。
『人避けの護符』を橋脚に貼ることで、邪魔されず相手と対峙できる状況を作り出し、どう転んでも確実に依頼を遂行させられる状況を作ったつもりだった。
初めて間近でギャルっぽい女の子を見て、浮かれていたのかもしれない。
イブのむき出しになった脇やお腹、下着が見えそうな短いスカートに、気を取られすぎたのかもしれない。
そしてイブの大きくて柔らかいおっぱいに顔を埋めてしまい、その感触に思考が停止してしまったのかもしれない。
格好つけようとして、無駄に気持ちが空回りしていた。
庇ったはずのイブに引っ張り返されるほど力が無いのは、この女の体のせいだ。
助けに来たはずなのに逆に庇われるなんて、この見た目のせいに違いない。
理不尽だ。
そんなことがマコトの頭の中をぐるぐると回っているのは、完全に手遅れであることに気付いたからだった。
イブの背中に迫る、妖怪『べとべとさん』の舌を、今のマコトには止める手段が無い。
『べちゃっ!!』
「うひいっ!?」
唾液で濡れた大きな舌が、イブの背中をべろんっとひと舐めした。
そのせいでイブの背中が、水をかけられたようにびしょびしょに濡れてしまう。
だが、それだけだ。
妖怪『べとべとさん』とは、濡れたような足音をさせながら人の後をつけてくる妖怪で、人を怖がらせる悪戯をする他には害の無い妖怪とされている。外見は丸い頭部に足が生えた格好で、その頭部には大きな口だけしかないのだが、普段は透明で姿を見ることはできないという特徴を持っている。
当然だが、唾液に触れたからといって火傷をするわけでもなければ、服だけが溶けるようなこともない。物理的な害は全く無いのだ。
だがあの大きな舌に舐められるというのは、精神的な被害を見れば計り知れないだろう。
そのべとべとさんが舌を降ろして体勢を低くし、もう一度イブを舐めようとしている気配を感じたマコトは、仕方なく覚悟を決める。
マコトはできることなら、今から使おうとしている力に頼りたくなかった。
べとべとさんは言葉だけで退散させられる、本来なら無害な妖怪なのだから。
だがこうなった以上は仕方がないと諦めながら、イブに聞こえないよう様子をうかがいつつ、マコトは小さな声でつぶやいた。
「変身……マジカル、フォックス」
つぶやきと同時に全身に力が漲るのを感じたマコトは、イブの腰に手を回すとその体を軽々と持ち上げて一息で飛び退いた。そこにべとべとさんの大きな舌が空を切り、飛び散った唾液が橋脚を濡らした。
そして飛び退いた先でイブの濡れた背中から手を放したマコトは、そのままイブを引き剥がしてべとべとさんを睨みつけた。
「……って……ええええええ!? マ、マコっちゃん!?」
「大きな声出すなよ。それと離れてろ」
マコトはイブとべとべとさんの間に立ち、べとべとさんを睨みつける。
変化したのは身体能力だけではなく、姿も大きな変貌を遂げていた。
マコトの黒かった肩にかかるくらいの髪は背中まで伸びて銀色に光り、服装も白衣に赤い袴のようなスカートという、一見すると巫女のような格好に変わっていた。
上半身を覆う白衣の胸元は大きく開いて胸の谷間が丸見えになり、ほぼむき出しになっている二の腕の先には、大きな振袖がひらひらと舞っている。下半身のスカートは太ももの大半が露出するほどの短い丈に、太ももの下半分から先は白いニーソックスに包まれ、靴は草履にしか見えない。
巫女服に似てはいるのだが、それはあまりにも露出の激しいものだった。
そして何よりも大きな変化は、その短いスカートの裾から伸びて揺れる、銀毛に包まれた三本の尻尾と、頭上に生えた銀色の耳。
さらに幼さが消えたその顔には赤い口紅が引かれており、妖艶な色気すら漂わせている。
それはまるで、銀毛の狐と人間が融合したかのような姿だった。
「追口優一さん、だっけ?」
銀色の狐と融合したマコトは、両腕をハンカチで拭きながらべとべとさんに向け言葉をかける。
追口優一、それは妖怪『べとべとさん』となった大学生の本名だ。
「都界大学の二年で二十一歳、奈良県出身で吉祥寺駅北側にあるワンルームマンションに一人暮らし。全部知っているぞ」
依頼を受けた夜行探偵社は相手の正体も素性も調べてあり、その情報は全てマコトの頭の中に入っている。
だがべとべとさんには動揺する様子もなく、舌と体を横に揺らしながら攻撃の機会を覗っているのを感じたマコトは、既に人としての意識はないものと判断し、実力行使に切り替えことにし拳を構える。
しかしその時後方から『とすん』という、何かが落ちるような音が聞こえてきた。
振り返るとそこには、腰を抜かしたのか尻餅をつき、足を広げてパンツを丸出しにしているイブの姿があった。
マコトはその、普段は隠されているはずの白い布地へと、無意識に視線を固定してしまう。ギャル系の外見からは予想外だった、純白の下着。勝手に赤か黒かなんて想像していた、秘匿されるべき布地の色。
そしてパンツに見とれるマコトにできた大きな隙を、べとべとさんは当然のように――見逃した。
「……って、きゃあっ! ちょ、二人してどこ見てんのさ!?」
慌てた様子で足を閉じ下着を隠すイブに、マコトも慌てて背中を向けると、べとべとさんへと向き直る。
しかしそのべとべとさんもまた、慌てた様子でマコトの方へ体の向きを変えたところだった。
「……追口さん、あんた……」
マコトの言葉に、べとべとさんの体が僅かに横を向く。
それはまるで、知らんぷりを決め込んで目を逸らすかのような動きだった。
その様子からマコトは、べとべとさんの中に『追口優一』の意識があることに気が付いた。
べとべとさんは女の子のパンツに興味を持つような妖怪ではないし、慌てて視線を逸らして誤魔化すのは、人間の男性くらいなものだ。
人としての意識があると確信したマコトは、説得する方向に切り替える。
「妖力に完全に飲まれると、人間に戻れなくなるぞ。今なら人間に戻るか妖怪として生きるか、選ばせることもできる。降参してくれないか?」
しかしべとべとさんはマコトの問いに答えること無く、体と舌を左右に大きく揺らし続ける。その度にべとべとさんのよだれが、マコトの足元にびしゃ、べちゃ、と水音を立てて飛び散った。
やがてべとべとさんが重心を落としたのを感じたマコトは、説得が失敗に終わったことを悟り気持ちを切り替える。
そのマコトにべとべとさんが、口を大きく開けて突進した。
「交渉決裂だな……狐火」
マコトはその場で迎え撃つべく右手を振り上げると、べとべとさんの目の前に拳大の火の玉が現れる。
熱を発しない幻の炎だがべとべとさんの足を止めるには十分で、べとべとさんはマコトの狙い通りに突進をやめて左側に飛び退き、マコトはそこへ一瞬で間合いを詰めると、楕円形の胴体へ左の掌を押し当てた。
「ドレイン!」
同時にびくん! と、べとべとさんの半透明の体が揺れたかと思うと、その体の透明度が落ち、少しばかり太めな男性の姿へと徐々に変化していく。
「あんたの妖力を総て貰うぞ。まずは……人間に戻れ」
「う……うわあああ! やめろおおおお!!」
左手を通してべとべとさんの妖力がマコトへと流れ込むと、追口の姿があっという間にほぼ人間の姿へと戻っていった。
追口が自らの置かれた状態に錯乱したのか、マコトの細い首へ向け両手を伸ばしたが、マコトはそれを屈んで避け、更に追口の方へと一歩踏み出す。
「これはお前がイブに与えた理不尽の代償だ。少し頭を冷やすんだな」
マコトはそう言って追口の脇腹に当てたままの左手に、ほんの少し力を入れる。変身したことによって強化されたマコトの筋力は、ただそれだけで追口の決して軽そうには見えない体を、いとも簡単に宙に浮かせた。
そして空中で完全に人の姿になった追口が、目の前の水路へと『ばしゃん!』という水音を立てて吸い込まれると、仰向けのまま動きを止めた。
「浅いから溺れることはないだろ。風邪ぐらいはひくかもしれないが、自業自得だ。……消えろ、狐火」
そう言いながらマコトは幻の炎を消すと変身を解き、ダボダボシャツにチノパン姿に幼い顔立ちという、元の女の子の姿へ戻る。
少しお尻の辺りを気にしているのは、変身したときに現れた尻尾のせいでチノパンに穴が空いているからなのだが、それを腰巻きにしたパーカーで隠すと、何食わぬ顔でイブに近寄り右手を伸ばした。
「もう大丈夫だ。……立てるか?」
「……ねえ、マコっちゃん……あたし、夢でもみてるのかなぁ?」
「事実だ。ストーカーの正体は、妖怪という存在だ。といってもこいつは純粋な妖怪じゃなく、妖怪の血を濃く引いた半妖という奴だ。……オレと同じ、な」
『妖怪』とは人間の理解を超える現象を起こす、不可思議な力を持つ存在のことだ。世界各地に伝わる魔物や妖精なども同様の存在であり、全て空想上のものとして扱われている。
そして『半妖』とは、過去に人化した妖怪が人と交わって産まれた子やその子孫の中で、妖怪の血が濃く現れた人のことを指す。
マコトもまた、人間ではない。
マコトはそう告白したつもりなのだが、イブが何のためらいも無くマコトの伸ばした右手を握り返したことで、驚くというより呆れてしまった。
しかし立ち上がろうとしたイブが、「痛っ」と小さくつぶやいて再度尻餅をつき、左の足首を押さえた。
そのせいでまたもマコトにはイブのスカートの奥にある、白い三角地帯が丸見えになっていたが、マコトは同じ失敗を繰り返さないよう注意しながら、視線をイブの足首に固定してしゃがみ込む。
「……ったく……余計な手間を……」
マコトは悪態をつきながらイブの左足首に右手で触れ、そのまま少し押したりさすったりしながら様子を見ると、折れていないことを確認し安堵のため息を吐いた。
そして挫いていると思われるイブの左足首へ、右の掌を押し当てる。
「リリース・タマ」
マコトは右手に感じた力を、イブの左足首へと送り出す。
マコトの中にある『タマ』という存在の妖力が右手を伝わり、イブの足首へと流れていった。
間もなくイブの目が、驚いたように見開かれた。そして目をパチパチさせると、左の足首を自分で揉んだり強く押したりと、何かを確かめるような素振りをし始めた。
「あれ? あれ?? 痛くなくなってるよ!? え、ちょ、ねえマコっちゃん、これってどういうこと!?」
「軽い捻挫で済んでよかったな。ほら、これで立てるだろ」
マコトは今度こそイブの手を握り、引っ張って立たせると後ろを向かせ、手にしたハンカチでイブの背中を拭いてやりながら、軽くため息を吐く。
「あ、ありがと、マコっちゃん……。ってか……今まで、あたしの背中とか濡れてたのって……妖怪? の……よだれ!? うげぇ……」
「気付かなきゃ良かったのにな……ほら、あとは自分で拭け」
マコトはイブの背中を一通り拭き終わると、今度はイブに自分の方を向かせてハンカチを渡した。イブが気持ち悪そうな顔のままハンカチでで腕や首を拭くのを黙って見ていたマコトは、イブがあらかた拭き終わったのを見計らうと、不機嫌さを押し出した低い声を出した。
「で、だ。足首、いつ挫いた? オレが、その……狐みたいになるまで、何とも無かったよな?」
「あ、あはは……腰抜かしちゃって、そのときにコキッって……」
「自爆かよ! それにお前な、オレを庇ってどうすんだ。何のためにオレが来たのか、忘れてただろ!」
「なんかつい、体が勝手に動いちゃって……」
「だいたいな、オレが良いって言うまで目を閉じてろって言ったよな?」
「うう、マジでゴメンってばぁ……」
軽く涙目になっているイブには、一切の悪気はない。そう感じたマコトは呆れはしたが、これ以上怒ることではないと気持ちを落ち着かせる。
見たところイブは、悪意は無いがちょっと好奇心が強く、考えなしに動くことも少なくない、普通の女の子だ。そう考えて心を落ち着かせたマコトは、先程の自分の言葉が単なる八つ当たりだと気付いてしまい、大きく深呼吸をした。
「だが結果的に怪我をさせてしまったのは、オレの落ち度だ。こっちこそごめん。それと……庇ってくれて、ありがとな」
「……マコト、ちゃん……マコっちゃん!!」
涙目で不安げな表情を一変させ明るくなったイブが、両手を広げると勢いよくマコトへと抱きついた。
またも顔面に柔らかいおっぱいを押し付けられたマコトは、慌ててイブの体を引き剥がそうとするが、その体が小刻みに震えていることに気がつくと、仕方がないとそのまま耐えることを選ぶ。
「うう……マコっちゃぁん……ありがと……ありがとぉ……ぐすっ」
ここまで気丈に振舞っているイブだが、ストーカーに追われるようになってから今日まで、心が休まる間も無かったのだろう。そして最後には妖怪と出会うという、恐らく最大級の非日常を体験したのだから、安堵で気が抜けるのも無理はない。
そう考えたマコトはイブが落ち着くまで、顔に当たるイブの胸の感触から何とか意識を逸し、耐えようと考えていた。
しかしそのマコトの忍耐は、マコトにとって予想外の形で終りを迎えた。
「ちょっとー! なに鼻の下伸ばしてるのよマコト!」
マコトの頭の上に突如小さな動物が姿を表し、小さな前足でマコトの頭をぽこぽこと殴り始めたのだ。それは銀色の毛皮と三本の尻尾を持つ、三頭身で仔猫くらいしか無い小さな狐だった。
その出現に驚いた様子のイブが、マコトの頭を抱きしめる力を緩めると、目の前の小動物を目を見開いて凝視している。
「え……なにこれ!? チョー可愛いんですけど!!」
「タ、タマ!? 何出てきてんだよ!!」
マコトの頭上ではその小さな狐――『タマ』が、「ムキーッ!」という奇声を上げながら、小さな前足でマコトの頭をぽこぽこと殴り続けていた。