第2話 ヤバ! 出会っちゃったんだけど!
東京都武蔵野市にある、吉祥寺駅。
周辺には西東京屈指の繁華街と井の頭恩賜公園があり、週末ともなると多くの観光客や買い物客が訪れる大きな駅である。
また様々なサブカルチャーの発信地として、また演劇や音楽の町、そして学生の町としても知られている。
とある真夏日の夕方。
その吉祥寺駅南口にあるファーストフード店の一番奥の席で、長い金髪に小麦色の肌をした少女が一人、中身が氷だけになったカップを不安げな表情で揺らしていた。
このとき彼女は、顔も知らない相手と待ち合わせをしていた。
待ち合わせの時間より早く着き過ぎた彼女は、肩とへそを出したチューブトップにミニスカートという格好だ。そのためエアコンの効いた店内は肌寒く感じており、もう一枚何か着てくるんだったと後悔していた。
そして体を震わせては落ち着き無くきょろきょろと周囲を見渡し、相手がまだ来ないのを確認して小さく息を吐く。そしてもう一杯、今度は温かいドリンクでも頼もうかと考え、財布の中身を思い出しながら葛藤していると、彼女のいるテーブルに小さな影が差した。
「あんたが願念さん?」
突然の呼びかけに願念と呼ばれた少女は驚いて顔を上げると、そこにトレイを持った幼い顔立ちの少女が立っていた。
168cmある願念よりも頭一つ分ほど低い身長、肩にかかるゆるいウェーブのツヤがある黒髪、そして細い体の割に大きな胸と、真っ白な肌。
息を飲むほどの美少女であるが、だぼだぼのTシャツとチノパンに腰巻きのパーカーという女の子らしからぬ服装が、願念にはとても勿体なく感じられた。
「夜行から来た、朱坂真琴だ。マコトでいい」
マコトと名乗った少女が願念の返事を待たずに正面へ座ると、ドリンクとフライドポテトの乗ったトレイをテーブルに置いた。そして意志の強そうなマコトの目が、やや垂れ目気味な願念の目へと真っ直ぐに向けられた。
その視線を受けた願念は、あまりの驚きで固まっていた思考が再起動すると、わたふたと手を動かしながら身を乗り出し、顔をマコトへ近づける。
「は? ええ? ちょ、マジ!? 夜行からって……うえええ!?」
「オレはあまり目立ちたくないんだ、静かにしろ」
「ちょマ? そんな可愛いのにマジで探偵?」
願念の待ち合わせ相手、それは探偵のはずだった。ネット掲示板の書き込みで、条件次第では格安で依頼を受けてくれる探偵社があると知った願念は、駄目元で相談してみたところ破格の安さで受けてもらえることになり、今日に至ったのだ。
「ってか『オレ』とかチョーウケルんだけど! ねえねえマコっちゃんって、いつもそんな男みたいな話し方なの? チョー可愛いんですけど!!」
願念は少し前までの緊張を誤魔化すように喋り続けるが、マコトからは何の反応も無い。それどころかその問いかけを全て無視し、眉間にわずかなしわを寄せながら横目で店内を見渡していた。
やがて願念へ向き直ったマコトがズボンのポケットからスマートフォンを取り出すと、願念に画面が見える向きでテーブルに置いた。
「オレは探偵じゃなく、専門の対処要員だ。それとむやみに探偵とか口にするなよ、変な目で見られるぞ。……まずはこれを読め」
スマホ画面の一番上には、『夜行探偵社』というロゴが表示されている。それは願念がメールで貰ったものと全く同じ、筆で書かれたような会社名のロゴだった。
間違いなく自分が依頼をした探偵社だと確認した願念は、視線を下へさっと動かした。
そこには契約について簡単に書かれているが、特に大きく書かれているのは『知り得た事実について一切の口外を禁止する』という一文で、その他は難しい言葉が並んでいたため、願念はあっさりと読むことを諦める。
「スマホいいなー、あたしも欲しいんだけどねー」
願念はそう言いながら脇に置いたトートバッグから、ジャラジャラと色々な物がぶら下がっている、ゴテゴテとデコレーションされた折りたたみ型携帯電話を取り出した。
もう願念の周りでも半分以上の人がスマートフォンに変えているが、願念はまだ機種変更できておらず、素直にマコトの事を羨ましいと感じていた。
「スマホじゃなくて内容見ろ。とはいえ詳細は、事務所の方からメールが行ってるだろうけど……ちゃんと読んでるよな? これは最終確認と念を押すためで、あくまでも依頼者……あんたを守るためだからな? 約束できないなら、依頼は受けられない。見て納得したら契約書だ、これは日付と名前だけで良い」
マコトが無言のまま一枚の紙とペンを取り出してスマートフォンの横に置くと、願念はマコトの無反応さにめげずに携帯を揺らしてジャラジャラ鳴らしてみるが、やはり見向きもしないマコトの様子に肩を落とし、トートバッグに携帯を戻してペンを取る。
「おっけー。……201X年8月7日、っと。……名前、書かなきゃダメ……だよね……?」
「当たり前だろ、書かないならオレはこのまま帰るぞ」
「待って待って、書くからあ! ……はぁ……」
自分の名前を見られたときのいつもの反応を考えると、どうしても躊躇してしまう願念だが、深くため息を一つつき、マコトから借りたペンを握り直す。
そして契約書にロクに目を通すこともないまま名前を書き終えると、ペンごとマコトへと渡して覚悟を決める。
そしてマコトが契約書に目を通し終わるのを、願念は静かに待った。
「……願念聖夜、か。間違いないな。これで契約は成立だ、それで……って、何だよその顔」
「ふえっ!?」
目を見開き大口を上げた願念の顔を見たマコトが、軽く驚いたようなそぶりを見せた。
願念聖夜は、自分の名前をマコトが一発で読み当てたことと、何より馬鹿にするような顔をしなかったことに驚いていたのだ。
確かに夜行探偵社に相談した時点で名前は伝えてあるが、事前に知っているはずの人に笑われることも少なくなかったし、そのため今も読み間違えられるか、何と読むのか聞かれるか、下手をすれば笑われるだろうと覚悟していたのだ。
だからこそマコトの『普通』の反応が、願念には堪らなく嬉しかった。
「あ、ゴメン、なんでもない……ねえ、あたしのことはイブでいいよ、マコっちゃん。てかマコっちゃんっていくつなの?」
「十五」
「うええ! マジで!?」
良い方向に裏切られた動揺を隠すための質問だったが、意外にも素直に答えてくれたマコトの回答に、願念聖夜ことイブは、更に動揺してしまった。だが同時に嬉しさから緊張が解け、頬の筋肉が緩んでいく感覚に任せて、マコトの方へと身を乗り出す。
「タメとかありえないんですけど! チョーやばくない? ねえねえ、どこのガッコ行ってんの?」
「……何ニヤニヤしてんだよ。それにオレのことはどうでもいい、まずは依頼だ。今も『いる』んだな?」
「あ、うん……。どこからかわからないけど……たぶんこっち見てる」
イブは確かに今はおしゃべりを楽しんでいる場合ではないと、背筋を伸ばして座りなおした。
久しぶりに同年代の女の子と話ができたことで忘れていたが、夜行探偵社に相談することになった原因を思い出し、イブのテンションは一気にどん底まで落ちる。
ストーカー。
外から見えにくい位置に座っているにも拘わらず、イブは今現在も何者かの視線を感じていた。
マコトがそれに気付いたのか、小さく「ふんっ」と鼻で息を吐き出すと、ドリンクを一気飲みして立ち上がった。
「キョロキョロするな、行くぞ」
「え、ちょっと待ってよマコっちゃん、ポテトは……って、あれ?」
マコトのトレイに乗っていたフライドポテトは、気付けば一本残らず消えていた。マコトが食べているところを見た記憶がイブには無いのだが、気のせいだろうと考えつつトートバッグを肩にかけると、自分のトレイを片付けマコトを追いかけて店を出る。
夕方とはいえむせ返るような湿度と熱気がイブに纏わりつき、エアコンで冷え切った体に熱が戻る。やはりもう一枚着てこなくて正解だったと思いながら、イブは一足先を歩くマコトに追いつくべく、足を速めた。
「この時間じゃまだまだ暑いよねー、マコっちゃんって暑いの平気な方?」
「あまり得意じゃないけど、嫌いでもない」
「あたしも! 夏って好きなんだけど、暑いからついつい露出増えちゃうんだよねー」
「……そうか」
夕焼けに赤く染まる吉祥寺駅南口。イブは口数の少ないマコトの先導で、人混みに混じり井の頭公園へ向けて歩く。
井の頭公園――吉祥寺駅から南へ500mほどの位置にある都立公園で、正式名称は「井の頭恩賜公園」という。ドーム球場約9個分の敷地に動物園や美術館などを擁し、公園内に広がる井の頭池は、東京都心を流れる神田川の源流となっている。
その公園へと続く道すがらマコトを見ていると、ブティックや雑貨店には目もくれず、クレープを売る屋台やカフェ、そして店先でソーセージを焼いている飲食店などで、何度も不自然に歩みを緩めていた。しかしその全てでマコトが何故か疲れたような顔を見せ、時々胸を押さえスタスタと歩いていくのを見るイブは、ダイエット中なのだろうか、お腹が空いているのだろうか等と心配ながらマコトの顔を覗き込む。
「ねえねえ、マコっちゃんってダイエットとかしてたり?」
「いや、全然」
「じゃさじゃさ、さっきのソーセージの店ってホットドッグにしてくれるからさ、種類もメッチャ多いし今度一緒に行こ!」
「機会があったらな」
イブはそっけないマコトの即答に心が折れそうになりながら、通りにある店から漂う焼き鳥が焼ける匂いの中、マコトと並んで公園へと続く階段を無言で降りる。
犬の散歩をさせている人や散策するカップルを避け、池を右手に見ながら歩くマコトに対し、何か声をかけたいと思ってはいるのだが、なかなか言葉が出てこない。
結局イブは、今の自分とマコトをつなぐ、たった一つしかない共通の話題について話すことにした。
「……最初、ただのストーカーだと思ってたんだよね」
「ああ」
「梅雨が始まってすぐくらいかな? 外歩いてると、変な音が聞こえてくるようになったの」
ある日から突然、べちゃ、べちゃ、べちゃ、という、水溜りを歩くような足音が、一定距離で着いて来るようになったこと。
いつの間にか制服の背中に水をかけられ、濡らされるようになったこと。
高校の机や椅子が、水をこぼしたように濡れていたこと。
下駄箱においてある靴や、ロッカーに入れてあるジャージまでもが、濡れてびしょびしょになっていたこと。
学校での事件という事で教師も動いてくれたが、椅子やロッカーが水浸しにされても、防犯カメラには誰も映っていなかったこと。
警察にもストーカーとして相談したが、イブの姿を見て「誘惑するような格好をしているのが悪い」と言われ、まともに取り合ってもらえなかったこと。
こうなったら自分達で捕まえてやると友達が協力してくれたが、ストーカーを待ち伏せしたはずが捕まえられず、それどころか気付かないうちに友達の背中にまで水をかけられ、びしょびしょに濡らされていたこと。
その件で友達が怯えてしまい、自分から離れていってしまったこと。
これらを一気にマコトに話したイブは、相当溜まっていた鬱憤が幾分か晴れたついでに、両手を高く上げて思いっきり伸びをした。
するとそんなイブの胸とむき出しになったお腹に視線を感じて振り向くと、ちょうどマコトが慌てたように目を逸らして前を向いたところだった。
沈む寸前の夕日は既にマコトを照らしておらず、イブはマコトの顔が若干赤いことを疑問に思うが、伸ばした腕を降ろしてそのまま深いため息を吐き、言葉を続けた。
「はぁ……マジもう、ちょーテンサゲ。あたしも、あたしの友達……だった子も、いつ背中に水をかけられたのかぜんっぜんわからなくてさー。……これもう、普通じゃないよね……」
「……安心しろ。そんな理不尽は、今日で終わらせる。オレはそのために来たんだからな」
マコトの見た目に似合わず男らしい台詞にドキッとしたイブは、その横顔へ驚愕の視線を向けると、そのまま見惚れてしまった。
イブはストーカーの一件で友人から拒絶され、これでマコトにも拒絶されたらという恐怖感もあったのだが、今の一言でそんなもやもやした気持ちが全て吹き飛んだ気がした。
やがて頬が熱くなっていく感覚に戸惑いながら、一歩マコトに近付いたその時だった。
べちゃっ。べちゃっ。べちゃっ。
突然いつもの音が、イブの耳に響いてきた。
たぶんそれは、足音。
イブは驚きと恐怖と怒りがない交ぜになり思わず足を止めるが、マコトがその手を握ると背伸びをし、イブの耳元へと顔を寄せた。
(もう少し先のガード下まで我慢しろ、できるな?)
(え……そこって、京王井の頭公園駅んとこ?)
京王井の頭線、井の頭公園駅。渋谷駅と吉祥寺駅を結ぶ私鉄の駅だが、周辺は公園と静かな住宅街となっており、時間帯によっては人通りが少なくなる辺りだ。
すぐ近くには交番があるとはいえ、ストーカーを連れて人気の少ないところにいくなんて自殺行為にも思えたイブだが、そう思ったのは一瞬のことだった。イブの左手を握るマコトの右手から伝わる暖かさは、今この瞬間イブの心から、一時的とは言え恐怖心を拭い去ってくれた。
イブは「おっけー」とつぶやくと、放そうとしたマコトの右手を逆に握り返し、力強く歩き出した。
人の姿がまばらな井の頭線のガード下を二人でくぐると、イブはマコトに手を引かれて一緒に橋脚の裏へ回り込んだ。
正面には水路――神田川の源流を挟んでもう一本歩道があるが、そちらにも人の姿は少ない。
イブは橋脚を背にマコトと並んで立つと、この場所に居てはいけない気がして立ち去りたい衝動に駆られたが、マコトの右手から伝わる温度が、むき出しの脚をその場に踏みとどまらせていた。
間もなくイブたちの周囲から人の姿が消えると、イブは遠くに見える人たちが不自然にイブ達がいる方向から目を逸らし、まるで迂回するように離れていくことに気がついた。
べちゃっ、べちゃっ、べちゃっ。
どんどん近付く足音が聞こえてくるのは、橋脚の裏側。ついさっきまでイブとマコトが歩いていた場所だ。
あまりの近さに背筋が寒くなるイブの手を、マコトが強く握り返した。
(大丈夫。オレが良いって言うまで目を閉じてここを動くなよ。声も出すな)
(お……おっけー……)
イブはきつく目を閉じ、肩にかけたトートバッグの持ち手を強く握りながら、マコトを信じて待つ。
真っ暗闇の中で近付いてくる『べちゃっ、べちゃっ』という足音がイブの恐怖心を再度呼び起こし、全力で逃げ出してしまいたい衝動に駆られるが、そうしなかったのは「今日で終わらせる」と言い切ったマコトを信じてのことである。
やがて湿った足音は橋脚を回り込み、二人のすぐ近くで立ち止まった。
イブは自分のほうを覗き込んでいるような気配に、背筋が寒くなっていた。
これまで足音は聞こえていても、ここまで近付かれたことは無いのだ。
そのとき生暖かい風が、むき出しになっているイブのお腹に当たり、イブは思わず声を上げそうになったが、かろうじて耐えた。
そして叫びたい・逃げ出したいという恐怖心を抑えるため、イブはマコトの温度を感じる左手だけに、感覚を集中させることにした。
「お先にどうぞ」
その時イブに聞こえた、マコトの声。
ストーカー相手にマコトは何を言っているんだろう。イブはそう思った瞬間に、反射的に声を上げそうになってしまった。
だがちょうど動き出した足音がイブの耳に届いたため、喉まで出かかった声を必死に飲み込むことができた。
べちゃっ。べちゃっ。べちゃっ。
その足音は、確かにイブたちから離れていくものだった。
だが先ほどのマコトの場違いとも思える言葉と離れていく足音への安堵から、思わずイブの緊張が解けてしまう。しかも同時にイブの胸に湧き上がった好奇心が、致命的な行動へとつながってしまった。
魔が差した、としか言いようがない。
イブはきつく閉じていた目を薄く開けると、目の前を通り過ぎたストーカーの姿を、目で追ってしまったのだ。
「ひっ!?」
イブの目に写ったのは、ストーカーだと思っていた男の、後ろ姿ではなかった。
それどころかその姿は、人ですらなかった。
頭も、両腕も無い。
楕円形の体に足が生えただけという後ろ姿は半透明で、反対側が透けて見えている。
イブの小さな悲鳴に気付いて振り返ったそいつの正面には、口だけしかない。それも人間なら腹にあたる部分に、大きな口が一つだけ。
その半開きになって舌を出している口からは、大量のよだれが流れ落ちている。
化物。
そうとしか形容しがたい何かが、ほんの数歩の距離に立っていたのだ。
「ちっ、目を開けるなって言っただろ!」
マコトの苛ついたような声で我に返ったイブは、あまりの恐怖で足がガタガタと震えだし、腰が抜けそうになったはずみで肩に下げたトートバッグを落としてしまい、中身を地面にぶちまけた。
それに一瞬気を取られたイブに目掛け、化物が大きな口を開け飛びかかってきた。
「くっ!? イブ!!」
焦ったようなマコトの声と同時にイブの左手が引っ張られ、イブを化物から庇うようにマコトが前に出た。
だがマコトへ大きな口を開けた化け物が迫るのを見たイブは、反射的にマコトの手を引っ張り返して強く抱きしめ、大きく口を開けて迫る化物へと背中を向けてしまった。
「んなっ!? ちょ、なんでえええ!?」
それはマコトが初めて「イブ」と、自分の下の名前を呼んでくれた嬉しさからだった。
友達になりたいと願った相手と、やっと距離が縮まったのだと感じた瞬間、体が勝手に動いていた。
イブは背後から化け物が襲いかかってくる恐怖感に耐えようと、マコトが驚く声を聞きながら目をぎゅっと閉じる。そして腕の中にあるマコトの温もりと胸の中に生まれた幸福感に身を委ね、その時を待った。
間もなくイブの背中に、鈍く湿った衝撃が伝わった。