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セイヴィア  作者: 砂風(すなかぜ)
1/1

Episode01/辿り着いた場所

「あ……れ……?」


 ふとした瞬間、僕は見知らぬ場所に佇んでいた。

 何かの拍子にハッと意識を取り戻す経験は、誰にでもある。しかし、ハッとした次の瞬間、いきなり見ず知らずの場所にいるだなんて体験をした人間は少ないと思う。

 視界には、人気がない無機質な長い通路が映る。

 どこかの建物の廊下なのかもしれない。だけど、寂しい。なにか、胸が痛むほどの悲哀が漂っている。

 この、泣き出したくなる空気は、いったい……?

 すべてがすべておかしい状況。ここにいるまえの僕は、普通に外の道を歩いていたのに、一瞬の隙に景色がガラリと変わりすぎていた。


 いや、待てよ……本当に、僕は歩いていたの?

 歩いていたなら、どの辺りの道を歩いていた? 

 都道府県、市区町村を答えられるはずだ。そして……どこをどう歩いて此処に来たのか。そもそもどこかにいたのか?

 というより、歩いていたのだろうか?

 もしかして眠っている最中だったんじゃ……いや、別の事をしていた可能性もある。

 わからない……なにひとつ、思い出せない。


「何なんだよ、いったい、何があったっていうんだ……」


 状況に理解が追い付かない。寝起きのように僕の頭はぼーっとしたままだ。ということは、今まで寝ていたのだろうか。

 僕は頭を左右に強く振って、気持ちを切り替える。

 とにかくここから出よう。そうすれば、どうにでもなる。

 僕は辺りをしっかり見渡し観察した。

 なにをするために僕はここへ来たのか、ここはいったい何処なのか、それらを知ればわかるかもしれない。

 目の前に続く道ーー奥行きは結構ある。その反面、高さは2メートルほどしかなく、左右の壁と壁の間に至っては1メートルほどしかない。

 奥行きだけは50メートルありそうだというのに、高さも幅も狭いせいで非情に窮屈に感じる。

 それにーー!?


「ぅ……!」


 酷い立ち眩みが現れ、思わず倒れそうになってしまう。咄嗟に隣の壁に手をつき、倒れないように持ちこたえる。


「冷たい……?」氷水に触れたような冷感が、壁から手に伝わってくる。「……壁の向こうが冷たいのか?」


 目眩が収まると、僕はさっそく壁をさすって確かめてみた。

 ただでさえ寒いのに、壁は酷い冷たさを帯びていた。もしかしたら壁の向こうは外? そもそも冬だったけ……?

 そう考えながら、通路になにかないか観察をつづけた。

 よく見ると、長く狭い道の壁には、一定の間隔を空けながらも、色が違う部分がある。通路全体は錆びた肌のような色調をしており、壁も地面も天井も、大部分は腐った肌色のような見た目をしている。それに反して、扉ほどのサイズに茶色く塗られた箇所が点々とーーいや、扉ほどの大きさ、ではない。

 扉そのものだ。民家に備え付けられているものと変わらない扉が、左右に間隔を空けながらあるだけだ。

 十メートル奥にも左右に扉があるのが見てわかる。多分、通路の果てまでーー規則的かはわからないけどーー距離を空けながら扉が並んでいるのだろうと予想できる。

 そういえば、後ろを見ていなかった。奥に進むのはそのあとでもいい。どこからここにきたのかがわかる背側の確認を忘れていただなんて、まったく。それがわかれば、あるいは……。

 僕は後ろへ振り向く。


「……は?」


 そこには、ほかの扉とは異なる色彩のーー藍色の扉の姿。

 扉の上に【世界】という文字が、青く刻印されていることに気がつく。

 もしかして、と振り返り今しがた見ていた扉の上方を見た。


 ……やっぱり、見落としていただけだった。

 その扉には、背中の扉と同じ高さ辺りに【Ⅰ.孤独】と書かれていた。

 試しにドアノブを捻って引いてみる。

 しかし扉は施錠されているらしく、耳障りな音を出すだけで開きはしない。

 なんとなく、こうなる予感はしていた。けど、ここまで開く気配が微塵もないと不安になってくる。


「なら、こっちは? 僕はここからきたはず!」


 強い不安に曝される。焦りを抑えながら、背後の扉にも同じことをしようと手を伸ばす。ドアノブを掴んだ瞬間、体が得体の知れない鋭利な痛みが脳裏に走り思わず体を止めてしまう。


「ッ!?」


 理解できない謎の恐怖。意味不明かつ恐ろしい憎悪。皮膚が裂けそうな苦しみ。説明のできないそれらが、僕の体を包み込む。すぐに毛穴や汗腺、穴という穴から不気味な悪寒が侵入してくる。寄生虫が皮下組織を蝕む感覚が芽生え、冷や汗と油汗が滝のように溢れ出す。

 そう感じるわけではない。感じるわけではないんだ。間違いなく、僕は今、目には見えない、か、かかか怪物に、からだの、中を、蝕まれているに違いない!

 身動きできない恐怖。吐きそうになる醜悪な汚濁、すべてを蝕む寄生虫が、ぼ、ぼぼぼ僕の皮下を這って、食い潰してーー!?


 ドアノブを捻らず、すぐさま手放し胸を抑える。


 このドアも開かなかった。


 いや、正しくは『ドアノブを引けない』のではなくて、『なにがあろうとドアを開きたくない』としか思えなくなったのだ。


 この扉は、ぜったいに開けてはいけない。ダメなんだ……きっと、そうにちがいない。

 本能が告げてくるのだから間違いない。開けたら終わりだ……。

 脳裏にサイレンの音が木霊して鳴りやまない。

 体は寒さと恐さにガタガタ震え、全身から大量の汗が滴り流れ、止まるのを知らない。汗は地に落ち飛沫をあげる。

 悪寒と得体の知れない恐怖に耐えきれない僕は、その扉からすぐに離れ退避した。条件反射のように、逃げてしまう。


 気力や意志など、そんなものは脆弱でしかない。役には立たず抗えもしないだろう。意志がどれだけ強かろうと、どれだけ逞しく立派な肉体を持っていても、目の前で大切な人をーー妻を、恋人を、我が子を、親友を、両親をーー狂人が満面の笑みを浮かべながら解体する光景を見せられたら耐えられないだろう。その解体した大切な人だった物は、物切りにされシチューの具のひとつとして投入されていき、狂人に完成したそれを目の前に差し出してきて、完食するまで逃げられない窮地に立たされるーーそれと等しい恐怖と断言できた。

 七十億人の内、それでも平然としていられる人間なんて一厘さえもいないだろう。いるとすれば、そいつはサイコパスに他ならない。

 それぐらい、この扉からは嫌な邪気が放たれていた。


 距離をおいても感覚にこびりつく。|心的外傷後ストレス障害《PTSD》になったのかと疑いたくなる。だめだ。扉を見ているだけで、思わず嘔吐しそうになる。

 濡れに濡れた手汗をひたすらジーパンで拭い取り、上着の袖で額の汗を取り払う。

 こんな薄暗くて冷たい空気のなか、汗まみれのままでいたら風邪を引く。ただでさえ悪寒が酷くて凍え死にしそうなのに、これ以上の苦しみはやめてくれ……。

 ドアノブはまだ引いていない。だが……。どうするべきか、少しの間だけ思慮するなり考えるのをやめた。


 ……どうせ、あの扉も開きはしない。

 鍵が掛かっている。

 そうに違いない。

 あんな混沌で不可解な苦痛は、もう嫌だ。

 もう二度と体験したくない。

 ……進もう。


「とりあえず、進もう」


 自身に言い聞かせるようにわざと呟き、僕は道の奥側へと向かい歩きはじめる。

 乾きに乾いたこの空間には、隙間風ひとつ吹いてはいない。なのにも関わらず、異様な寒さが漂っている。どこからか入り込んでいるのか、あるいは、もしかしたら扉の先は外なのかもしれない。


 あれ?

 冬だったっけ?

 ……。

 …………。

 ………………まあ、まあいい、まあいいよ、うん。


 いまは目前の問題が先決だし、深く考えるのはあとにしよう。 

 そう自認しながら、八メートルから十メートルの微妙に不規則な間隔を空けて立ち並ぶ扉を横目に歩きはじめ、早くも最奥になにかが在ることに気がついた。

 視界の中心にある、ソレに注視する。

 一番奥に待ち構えているのは、背後にあった扉と同じように茶色ではないーー綺麗な浅緑色の扉。

 しかし、その扉を塞ぐように、何か物体が配置されていた。


 物体……物?

 物? それか、もの?

 それとも、もしかして、者?

 進むに連れて、そこに在るのが物ではなく何者ーー人なのではないかと認識が変わりはじめる。

 左右には、相変わらず不気味な刻印の書かれている茶の扉がある。

 読みたくないと思いながらも、つい刻まれた文字を流し読みしてしまう。


 最初の扉の隣には【II. 誕生】と書かれており、そこから八メートル先の右に【III. 被虐】、二メートル弱離れた左に【IV. 不信】、その十メートル強先には【V. 静止】と【VI. 再会】と左右に並んであり、さらに同じ距離を進んだ場所には【VII. 崩壊】と【VIII. 決意】が微々にズレて存在している。

 最奥までおよそ十メートル手前の右には【IX. 投身】という不吉な文章が刻まれた扉、その一メートル先の左のみ【Ⅹ. 】と数字だけしか記されていない。


 いつの間にか、奥にある物体、いや、誰かの姿から扉に意識がいっていることを自覚し、慌てて優先事項を変えて目前を見据える。

 そこにあるのは、やはり、物ではない。

【セカイにいく】と書かれた綺麗な扉ーーそこに背中を預け丸くなるように座り、寝息をたてながら眠っている少女が、そこには待ち構えていた。

 12歳にも16歳にも見える顔立ちの可憐な女性が、体育座りのような姿勢で居眠りしているのが、物に見えただけだった。

 一本ずつが生きているかのようにさらさらとした髪は、透明感さえ覚えるほど綺麗に肩まで伸びている。現実離れした色ーー澄んだ白髪をしているが、違和感を抱くどころか、整った顔立ちに遜色なく似合っている。

 白色の無地かつシワのほとんどないワンピースに身を包む彼女を見た第一印象はーー天使。

 地獄のなかの救済として、神様が与えた恩寵とさえ思えてしまう。

 そこで、突如強い既視感に襲われた。


「……いや、待って、そんなはずない。待てよ、だから」そんなわけがあるはずないだろう、僕?


 少なくとも知人よりも、いや、友人以上に、この子と僕が親しい間柄だと錯覚する。

 なぜか、理由なく無性に親しみを覚えてしまう。

 自分は生涯この方、会話するような女子の友人さえいなーーかったのか?

 本当に、僕は女子と会話をしたことがない?

 いや、クラスメート?

 それとも同僚?

 え、あれ?

 ま、待って待って。


「待って! 待て待て待ってくれ! おかしい!」


 おかしい。

 おかしい、おかしいおかしいおかしいにも程がある!

 どうしてソレから思考を放棄しつづけていたんだ!?

 間抜けにも程がある!

 ーーいったい僕は何歳でなにをしている人間?

 ここに来た理由?

 寝ていたんだっけ?

 ーーそんなレベルの話じゃないだろうがっ!


「落ち着け! 落ち着いて考えるんだ……僕はなにを、なにを」


 きょうの朝、僕はなにをした?

 ……わからない。

 僕がなにかをしていたのか?

 ……知るよしもない。

 なら先週の何曜日でもいい! なにをしていたんだよ!?

 ……なにも……覚えていない。なんでもいいから、思い出してくれ……。

 しかし、現実は非情だ。

 なにひとつ、思い出せない。

 頭に浮かびそうにもならない。


「いったい、僕は誰で、何をしている何歳の人間なんだ?」


 ……それを思い出せないのは、ほんの序の口。

 僕の頭から常識や言語以外が欠落しているとしか思えない。

 先週どころの話じゃない。

 先月、いや、去年の出来事さえ思い出せない。

 学校ではなにをしていたのか、そもそも学生なのか、社会人なのか、サラリーマンか、それともフリーター、もしかしたらニートだったのかもしれない。それらがなにひとつ想起できない。

 頭に霞がかっているかのごとく、あるいは最初からそのような思い出はないかのように、頭の記録が再生できなくなっている。


 わかることは……僕が男ということだけ。

 股間をまさぐり、息子と娘、どちらが住んでいるのかきちんとたしかめて、ようやく前者という確信が持てた。

 身なりを振り返るだけで、それなりに推測できたけど……ボサボサの髪、着古したジーパン、よれよれのシャツ、履き潰したスニーカー、体臭や口臭ーーこれで女と言われたら、今の自分が今までの自分に説教するだろう。

 ……いや、男だろうと、一言申したい気持ちに変わりはないくらい、ちょっとアレな格好だ。

 歳を判断できるものはないか?

 手の皺や頬を触るに老人ではない。が、頬に無数のぶつぶつとした突起が皮膚にぶつかることや、粘り気の強い皮脂の付着量、体臭、おそらく身長は160センチ半ばなどから想定するに、若くもない気がする。

 そのまえに、あまり思いたくはないけど、信じたくないけど、つまり、その、顔の造形は整っていない可能性が高い。年齢よりも不細工気味だという嫌な事実が判明してしまった。

 再び頭を振り考察を進めるよう脳を促す。

 ほかに肝心な事はなにがある?


 ーーそういえば、僕の名前って、あれ、僕は……あれ? 僕は、僕は、え、あれ、え、え?

 なんで?

 なんで!?


 どうして一般的な常識ーーと僕は思っている知識ーーはあるのに、自分の名前の一文字すら忘れているんだ!?

 記憶喪失にしても不可解すぎる……なんなんだよ、これ。

 だいたいあんな場所ーー今いる反対側の位置に辿り着いた途端に記憶を喪失するなんて偶然あるか普通!?


「はぁっ、はぁ、はぁ……なんなんだよ……」


 これは……きっと、悪い夢だ。

 夢なら、記憶がない説明もつく。

 知らない少女が知人だと認識するのも可笑しな話じゃない。

 己の頬を強く叩く。

 夢の中で夢だと自覚すれば、自在に操れる夢ーー明晰夢(めいせきむ)に変わるはず……だけど、痛いだけで、夢だと自覚しない。いや、そもそも端から現実味がありすぎる。

 いやいや、明晰夢や幽体離脱(ゆうたいりだつ)を通した夢の世界は、現実と勘違いするくらいリアルらしいし、まだ夢の可能性は……って、どちらにしても、解放されないなら無意味だろ……。


「……どうして?」


 どうして……無駄な知識だけ記憶に在る?

 ーー夢の中で『これは夢だ』と自覚したら明晰夢という自らの意志で夢の世界を行動できる状況になる。

 ーー金縛りを経由した明晰夢に類似している技術に幽体離脱というものが実在する。

 こういう知っていても今は無価値なオカルト染みた知識はあるのに、どうして名前すら思い出せないんだ……。


 そもそも明晰夢っていうものは、夢から移行する出来事であり、夢から明晰夢ーー自覚夢ともいうーーに変わった時点で、『これは夢だ』という認識が極端に強まるからすぐさまわかるようになっている。

 幽体離脱は、最初から明晰夢状態だけど、大抵は幽体離脱(夢だと自覚した状態で夢の世界に来ることが)できたとわかる技術だ。

 それに比べ、今回はそういう認識はまるでない。現実感が薄いのは状態だけだ。

 第一明晰夢や幽体離脱なら、繊細かつ明晰なリアリティーのある世界で、飛んだりビームを放ったり地球一周をしたり、はたまた、強姦など現実ではできない行為がーー慣れたらの話だがーー好き放題できるといった、素晴らしい技術。


 その反面、これは、いったいなんだよ?


 ただただ寒く、痛くて、怖くて、寂れ切った真っ直ぐな通路の始点に、ポツン、と仁王立ちからスタートする悪夢にしてもイカれている内容。飛行どころか現実から逃避行することさえ許されない。

 類似点は、まるで現実と同等のリアリティーがある点だけ。そもそも現実かもしれない。

 試しに壁を破壊できないものか、助走で勢いをつけ壁面に飛び蹴りした。

「いッつ!」意外なのか当然なのか、僕は想像よりも貧弱らしい。のろのろ走って低空ジャンプしたすえ、#壁をける__・__#ではなく#壁に片足を当てた__・__#だけで終わってしまった。

 いや、そもそも明晰夢ではないなら仕方ないけど。


「うう……どうすりゃいいんだよ?」


 こうなると、段々夢だという説が封じられてきてしまうじゃないか。


「きみ」と、鈴と透くように響く女声が直近から聞こえた。「いきなりなにをするかと思えば……気でも触れたか?」

「え……?」


 いつから、彼女は目覚めていたのだろうか。

 その声の主は、ひとりしか考えられない。

 己以外で此処にいる者は、彼女ーー天使に思える容姿をした少女以外、誰一人いないのだから……。

 前髪を手で払い靡かせる白髪の少女は、座りながらも、いつの間にか僕をジッと観察していたのだ。

 地味に恥ずかしい。本当、いつから起きていたんだろ?


「今しがたトチ狂った奇行に及んでいたじゃないか。気でも触れたのか? それとも元から奇人、はたまた、キチとガイな人間か。いったいどれなんだい?」


 明るく鈴の音のような音。されど気品ある中性寄りな彼女の声は、頭の隅々まで鮮明に届き渡る。

 その声を聞いてーーなぜかわからないけどーー懐かしい感情が記憶の底から押し出てこようとする。春に吹く特有の風香を一身に浴びた際に感じる、暖かで、なにか思い出すような、そんな感情が湧く。

 だけど……あと一歩、足りない。力不足、なにも思い出は甦らない。


「……あ、あの、ごめん」

「なにか謝るような事をボクにしたのかい?」

「い、いや、なにもしてないしてない!」


 焦って手を振るレベルで否定した。

 寝込みを襲っただなんて勘違いされたらかなわない。


「実は僕、どうしてここにいるのか……いや、名前も年齢も何も思い出せなくて……これって、夢だったりするかな? まさか、現実?」


 彼女は一瞬、なにか考える素振りを見せ口を開いた。


「夢でも現実でもない場所というのが、ボクが考え得るなかでは一番適当な表現かな?」


 なんじゃそりゃ……?

 というか、さっきから気になってたけど、この娘、見た目にそぐわないしゃべり方するんだな……自称が、ボク、だし……似合わなくもないけど、その口調だけ違和感を抱いてしまう。

「夢でも現実でもない……なら、そうだ。悪いんだけど、ここから出る方法を教えてくれないかな? 家に帰れば、きっと、いや、ぜったいなにかしら思い出せるだろうから! ねえ、お願いだから教えてよ?」

 マシンガンみたく言葉を連射するのを、少女は凛とした表情を変えずに手を差し出し、僕の口に当てて止めてきた。


「とりあえず落ち着いたらどうかな? 些か以上に混乱していると見た」


 表情を微妙に和らげると、彼女は僕をそう宥める。そして、そのまま彼女はつづけた。


「だいたい、名前も年齢も自宅も思い出せないまま此処から出て、いったいどうするつもりだい? なにかあてはあるならまだしも、何も思い出せないんだろう?」少女は膝を軽く叩くと、ゆっくりと立ち上がる。「それに、此処に来たとき、きみのすぐ側にあったじゃないか」

「え? なにが?」

「ーーここから出る扉」


 その一言が、すぐには受け入れられなかった。

 あの扉が……出口?

 あんな、あんなにもおぞましい異空間に繋がっていそうな、狂気の扉が……出口だって?


「待ってよ! あそこ以外に出口はないわけ? 鍵がかかってるんじゃないの? だいたい、あの扉は、あそこは、あんな、あんなにも」


 怖くて、寒くて、寂しくて、苦しい空気が這い出ているのに……。


「ーーないよ」


 彼女は『出口はあそこのみ』だと、不自然なくらい強い口調で答えた。

 いきなり声質が中性的から容姿相応の高い女声に変わり、少しばかり驚いてしまった。

 けれど、それ以上に実感してしまう。

 この娘は、初対面ではないという錯覚が、驚きを塗り潰す。

 それはともかくーーあそこの以外、出口はない、だって?

 あの、最大積載量を優に越えた憎悪の数々が押し込まれているかのような扉しか、出口がない?

 たしかに、ドアノブに触れただけで手放したから、施錠の有無は未確認だけど、でも、いや、だって、だって、あれは、あそこだけはーー!


「うげッ……ぁぁ……」


 胃液が喉へ急上昇をはじめ、酸っぱい唾液が口内に蔓延する。

 今にも嘔吐しそうになり、その場で屈む。

 扉に接触した記憶を必死に霧散させ吐き気を抑制するよう意識を促しつづける。

 忘れろ、忘れろ、思い出すな、記憶から削除しろ! あれはない、触っていない! 存在しない! その記憶は存在しない!!


「落ち着くんだ。ボクはね、きみを救うために此処で待っていたんだよ。存分に頼ってくれ」

「す、スケット的な? ……こ、ここから僕を、出してくれるの? きみが?」

「いいや、少し違うね」少女は訂正した。「ここから出るのか出ないのか、選ぶのはきみ自身だ。ボクは、きみが正しい選択をする後押しをするだけさ」

「は……え、いや、あの、意味が、よくわからない……」


 出るのか、出ないのか、それを決めるのが、僕自身?

 その問いには、何の意味もないだろう。

 出たくないなどと言う人間、地球上にひとりたりともいないんじゃなかろうか?

 なのに、彼女は僕に『出るか出ないか選ぶのはきみだ』と言う。わけがわからない。


「ーーわかりやすい言い方に変えるとしよう」


 中性的な声、とはいうものの、まだ幼さを残す彼女の声質でのその口調は、やはり似合っていないと感じる。

 どこかぎこちないという印象を抱いてしまう。

 僕は真下に向けていた顔を彼女に向けるため、少し上げる。

 彼女は立っており、僕は屈んでいる。この状況で視線がまっすぐ向いた位置で、思わず動作を止めてしまうのは致し方ない。

 そこにあるのは、少女の穢れを知らぬ神々しい生足。見惚れてしまい直視しつづけてしまうのは、男のDNAに刻まれた本能レベルの行為だから仕方ないことだ。今さっきまで吐き気と悪戦苦闘していたことを一瞬で忘れるくらい意識が移ってしまうのも、本能。僕の性癖じゃない。多分。


「きみは会話の只中に足を凝視する趣味があるのか。説明するのがバカバカしく感じてしまうのだが、やめてしまっていいのかい」

「え、いや、見てません見てません! 説明? とかいうの、してほしくてたまらない」


 慌てて生足から少女の顔に目を移す。


「きみにはこれから、忘れてしまったものを回収し取り戻す作業をすることになる。回収するたび、きみの生は再起していくことになる」少女はつづけた。「その果てに、あの扉を……いや、生きるか生きたくないかの選択に迫られることになるのさ」


 分かりやすく、といったわりに抽象的すぎて意味がいまいちわからない。


「生に近寄る? え、ここってまさか、三途の川なの?」


 こんな、川どころか水素すら無さそうな密閉空間が三途の川の真相だなんて嫌過ぎるんだけど。


「焦らないでいい。わ……ボクが一から説明するから、きみはそれを聞いて、行動していくだけでいいだけなんだからね」

「う、うん、わかった……?」


 曖昧に空返事してしまう。

 そういえば、この子の身長ってどれくらいなのかな?

 僕より頭ひとつくらい低いのはわかるけど、そもそも正確な高さを測るのに使える対象物がないから、自身の背丈がわからない。

 もしも予想どおり僕が160センチの半ばだとしたら、彼女は140センチ……かなりちんまいサイズじゃないか?


「どうかしたのかい? 急に沈黙に徹して」


 瑠璃色のビー玉のようにきらきらした大きな瞳、二重の瞼、小さな鼻と口、バランスの良い輪郭、綺麗と可憐を兼ね備えたといえる、まさしく僕の理想とする異性像ーー口調は除いて、だけど。それを踏まえても、本当に天使なんじゃないかと思えてきた。


「あのさ、きみって、もしかして……天使?」

「えっ?」彼女はきょとんとした表情を浮かべる。「……なにを言い出すんだい、きみは。ボクの背中に羽が生えていたり、頭上に黄色い輪っかでも見えてるとか言い出さないでくれよ?」


 当然の如く否定された。

『コイツなに狂ってんだ?』みたいな顔で言われた。

 ……僕って、異性にこんな質問できるような人間だったっけ?

 なんか違う気がする。わからないけど、違和が生じる。


「ごめん。えっと、結局、これから僕はなにをするの?」

「落ち着いてきたようだね? うん、そっちのほうが、きみらしくていいよ」


 その言葉で、不意に胸が強く弾んだ。

 ただ単に『きみらしくていい』と肯定されただけなのに、こんなにどぎまぎしてしまうだなんて……もしも僕が社会人なら、少女性愛の変態扱いされてしまう。


「さて、ボクは此処にある扉の鍵のうち、七本所持してる」

「え?」


 つまり、12個ある扉のうち、五ヵ所は最初から施錠されていなかったと言いたいのだろうか?


「早とちりしないでくれ。9つの扉は施錠されているんだ。10と記された扉と、きみが嫌がる扉を除き、全ての部屋は鍵付きさ。ただ」少女は後頭部を掻く仕草をする。「二つだけ紛失してしまったんだ、第二の扉と、第六の扉の鍵をね」

「ええ……無くしたってことだよね? それって平気なの? そのせいでお陀仏確定しないよね?」

「安心してくれ。この二つの扉は、さほど重要なものが入っていないんだ。一、三から五、七から九の扉にある生を回収さえすれば心配不要さ」


 自分の素性すらわからないのに、居場所も何処だか正確に認知できていないのに、なんでだろう……この子と会話をしているだけで、気持ちが徐々に穏やかになっていく。


「あれ、ちょっと待って。10の扉ときみの後ろにある扉は無関係なの?」


 思考回路が混線しつつも、気になる点が浮かびあがったため、質問することにした。


「こっちはぜったいに入らないっーーでくれ。こっちは死、あっちは生、だから」コホンとわざとらしい咳払いをして彼女はつづけた。「十の扉は中身がない、つまり、鍵もないだけだ」


 心はだいぶ落ち着いてきた反面、未だ思考は追いつかない。

 そんな状態に陥っている僕に追い討ちをかけるかのように、彼女は難解なことを発言した。 


「纏めるとしよう。きみはこれから、()くしてしまったモノを取り戻していき、現実世界に帰還したいかーー要するに、生きたいのか生きたくないのか決めるだけさ」


 ……?

 …………は?


「ちょっと待って。さっきも思ったけど『死にたい』なんて人間いないと思うんだけど……」


 思うというか、多分、実際いないと思う。


 なかにはいるかもしれないけど、少なくとも、僕は死にたいだなんて思わない。


「どうだろうね? だけどボクは信じているよ? きみは』彼女は悲しそうに微笑む。「生きるのを選んでくれるって。ね?」


 彼女は言い終えると、間を置かずに本題に入ろうとしたのか、ポケットから鍵を取り出す。


「まっ、待って。ひとつだけ、聞いていい?」


 それを僕は止める。

 聞きたいと思いながら、問う隙がないまま話が進んでしまい聞けなかったこと。それがひとつだけあった。

 重要な事じゃないかもしれない。だけど、このままだとなんだか不便に感じてしまう。


「なんだい?」


 彼女は僕のことを『きみ』と呼ぶ。

 それに対抗しているみたいに、僕も彼女を『きみ』と呼んでしまっていた。

 これが、先刻からどうも気になっていた。

 他称がきみ、自称はぼく……僕も彼女もなんだか似ているのだ。

 それに、依然として謎だけどーー彼女のことを『きみ』と呼ぶような間柄ではなかった気がするし、なんだか気まずく感じてしまう。

 だからーー。


「きみの名前、教えてくれないかな?」


 彼女の名前を、僕は恐る恐る尋ねる。

 純粋に知りたい気持ちもあるし、ずっと『きみ』と呼び続けるのは居心地が悪い。そう思い至ったすえの問い。


 ……もし、答えてくれなかったら?

 負の記憶が想起してしまったら?

 そんな悩みもあり、僕は少し緊張してしまう。

 ただただ彼女の言葉を僕は待つ。 


「……そういえば名乗っていなかったね。名前、名前か……まあ、名前なら大丈夫かな……」

「え?」


 呟いた言の葉の意味がわからないうちに、彼女は口を開きつづけた。


「セイヴィア」


 彼女は詠うように述べた。


「……セイヴィア? 白髪なのって、アルビノじゃなくて外国人だから? それにしても、セイヴィア……。セイヴィア、セイヴィア、セイヴィア……」


 僕は根拠もなく、それが嘘ではないと確信できた。確信できたような気がしたわけではなく、真実なのだと確信できたのだ。

 その名を反芻するたんび、悲しいような、楽しいような、寂しいような、愛しいような、嬉しいような、哀しいような……そんな気持ちが、波のように体に押し寄せる。

 とても大切にしていた、唯一無二の宝物。それを失くしてしまっているような、そんな錯覚が僕を強く苛む。なんとも言いがたい、この気持ちは……いったい?


「そう、セイヴィアだよ。セイヴィア。きみだけのセイヴィア」


 そう告げる彼女、セイヴィアを見る。


「僕だけの……セイヴィア……?」

「そう」


 やっぱり僕の瞳には、彼女が天使に映るのだった。


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