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その週末、中央地区の本部ビル近くにある市街を歩くトバイアスの姿があった。ドナの端末をハッキングして提出した通信申請を利用して、長官に直接交渉に向かうためだ。
ドナの代わりをすると提案し、取り入ることで信用を得て、長官の企みを暴く事を狙っている。二重スパイという危険を冒してでも、情報が欲しかった。
指定されたビルの入り口で、来訪予定に入っている人物ではないと警備員に止められるが、直後に警備員のインカムに来た指示によって、そのまま上層階の個室へと案内された。
開いた部屋の扉の向こうは、四方が10mほどの豪奢なダイニングになっていた。天井には小振りながらシャンデリアが輝き、壁龕には品よく花の活けられた花瓶が置かれている。中央のテーブルは純白のクロスが掛けられ、カトラリーとナプキンがセットされていた。ゆったりとした間隔で置かれた6脚の椅子は、濃い赤の天鵞絨張りだ。
「友人と待ち合わせをしていたのだが、現れなくてね」
トバイアスの姿を見て、部屋の奥側の椅子に座る肉感的な美女が口を開いた。手にしたグラスには淡い黄金色の液体が揺れ、細かな泡が立ち上っている。
「おまえが原因か?」
「その待ち合わせは、ボクがあなたに会いたくてセッティングしたんだよ。・・・座っても?」
緊張で乾く唇を何度か湿らせて、トバイアスは尋ねた。基地長官である美女、キャンディス・ヘンダーソンは、手で向かいの椅子を指し示した。
「若い青年に会いたいと言われるのは悪い気はしないが、さて、何用だ」
「ボクを買って欲しい」
「ほう?」
椅子に座るや、そう告げたトバイアスに、キャンディスはわずかに面白そうな表情になった。
「あいにく、愛人は募集していないが」
「身体じゃないよ。能力を買ってくれって言ってる」
くつろいだ様子で座っているキャンディスだが、大佐の地位にふさわしい威厳を漂わせている。トバイアスは、気圧されないように腹の底に力を込めた。
「あなたの野望に手を貸す。まずは、うちの班への妨害を引き継ぐよ」
「なんのことだかわからんな」
「ドナ・クレスト」
はぐらかすようなキャンディの言葉を断ち切るように、トバイアスは挑戦的な目を向ける。
「もちろん知ってるよね? 今日の待ち合わせ相手だと思ってたはずなんだし」
「友人だが、それがどうかしたか」
「彼女、全部打ち明けたよ。妹の治療費と引き換えに、あなたの指示に従って妨害工作をしてたって」
告発を聞いても全く動じないキャンディスに、トバイアスは焦りを覚えて早口で続けた。
「それを非難するつもりは無いよ。むしろボクも1枚噛ませて欲しいんだ。ドナは心が折れちゃって、もうあなたの役に立てそうもないから、代わりにって感じかな。貰えるものをちゃんと貰えるなら、どんなことでもやってみせるけど、どう?」
「金が目的、ということか」
「そう!」
ようやく口を開いたキャンディスに、トバイアスが勢い込んで頷く。
「お金が無いつらさは身に染みてるから。綺麗ごとだけじゃ食べていけないこともね」
トバイアスは、本当に班を見捨ててキャンディスへ寝返るつもりはない。だが、この言葉には実感がこもっていた。施設育ちであるトバイアスにとって、軍への入隊は生きるための手段だった。金銭の有無は、選択肢の数に直結する。
「なるほど。おまえは苦労してきたようだ」
グラスを持ち上げて一口飲み、キャンディスは薄く笑った。
「しかし、その要望には応えようがないな。個人的に人を金で動かすようなことはしていないし、ましてそれが軍の利益に反するような妨害とは・・・あり得んよ」
「言い逃れする気? でも現にドナはあなたに言われてプログラムを書き換えたりしてる」
「私の命令だという証拠は?」
キャンディスは泰然とした態度を崩さず、グラスへと目を落とした。
「そ、そんなの、ドナの妹をコネで入院させたり、治療費を払ったりしてるのなんて、調べればすぐ・・・」
「ああ。わかるだろうな」
真っ赤なルージュが弧を描く。そしてゆっくりと上げられた目は、獲物を追い詰めた猛禽のような光を宿していた。
「だがそれは、私が難病治療の研究に出資しているという事実を示すに過ぎない。慈善事業は名家の義務だ。ヘンダーソン家としても、私個人としても、様々な案件に寄付や出資をしている。ドナの妹の病も、そのひとつ。それだけのことだ」
「・・・っ」
言葉に詰まるトバイアスを、キャンディスは楽しげに見やった。
「対して、私がドナに任務妨害を指示していたというのは、おまえが聞いたと主張する彼女の証言のみ・・・話にならんな」
時間の無さに焦りがあったのは否めない。懐に潜り込めさえすれば、という楽観視もあった。だとしても、ここまで軽くあしらわれてしまうとは。トバイアスは悔しさに唇をかみしめた。
「いわれのない言いがかりで上官を侮辱したとして拘束してもいいが、実害があったわけでもないからな。今回は若気の至りということで目をつぶろう。以後、発言には気を付けたまえ」
グラスを置いたキャンディスは、懐から薄くて四角い何かを取り出した。
「ちょうどいい。リバルト・リズカミル軍曹も、おまえの班だろう。渡してやれ」
テーブル越しに、トバイアスのほうへと滑らせる。目の前に来たそれを手に取ると、意匠化された蔦模様のエンボス加工で縁取られた白い封筒だった。裏は暗い赤の封蝋で閉じてある。その他は、表書きも何もない。
「なに、これ・・・」
「見ての通り。手紙だ。お使いくらいは出来るだろう、坊や」
弾かれたように顔を上げるトバイアスに、キャンディスはくつくつと笑った。
「さて、誤解も解けたことだし、食事でもしていくかね?」
挑発するような笑みを浮かべてグラスを掲げてみせるキャンディスに、トバイアスは血が出そうなほど唇を噛んで立ち上がった。
「・・・失礼します」
絞り出すようにして言い、踵を返して部屋を出る。扉を閉めると、廊下にはかすかにBGMが流れているのがわかる。数歩歩いて立ち止まり、拳を握りしめると、勢いよく壁に叩きつけた。
そのまましばらく立ち尽くしたトバイアスは、手にした封筒を乱暴にポケットに押し込みながら、エレベーターホールへと向かった。