夏の夜のお使い
「煙草」「暗闇」「少女」をお題とした三題噺になります。
人っ子一人いない神社の境内。田舎で寂れていて、ろくに手入れもされていない、年末年始にだけほんのちょっぴりだけ人がやってくる、ちょっと通りから外れた山の中のその場所。
普段から人が寄り付かない上に、夏の、しかも深夜の時間帯に誰かがいるわけもなく、街頭もない真っ暗なそこをスマホのライトでもって照らしながら、あたしは歩いている。
平日だけど夏休みだから、明日の朝のことなんて考える必要もなく、もう片方の手に提げたコンビニの袋をぶらぶらと揺らして本殿へと向かう。
本殿とはいっても殆ど朽ちかけの小屋みたいなその建物には威厳とか神々しさとか、そういうものはもう全くなくなっていて、いつのものだかわからないクワやつるはし、スコップなんかまで立てかけてあって、年寄りたちにすら崇められないこの奉られた神のことを少しだけ哀れに思う。
森の中だから虫が多くて、すぐにいろんなところを刺されて痒くなる。
時折よってくる蚊を手で追い払い、時に果敢に叩き潰してみたりして、暑さに負けて半そでなんて着てこなければよかったと昨日と同じ後悔をしながらやっとあたしは本殿の裏側、目的地へと到着する。
「遅かったじゃない、てっきり道中で襲われでもしたのかと思ったわ」
暗闇からぬっと赤い点が現れたかと思うと、煙草の先に灯った火に続くように、背の高い女の人が現れる。名前は聞いていない。
「襲われないって何回いったらわかるの、こんな人のいない田舎でそんなこと起きるわけないじゃん」
本殿のへりに腰掛けながら持ってきたコンビニ袋を差し出すと、彼女はこちらの言葉に耳もくれずはしゃぐ子供のようにその中身をあさり始める。
「助かるよほんと、こう暑いと日中は何も食う気しないしさぁ……ってアイスないじゃん、アイス」
「ここからコンビニまで徒歩でどれだけかかるかわかってんの? 生ぬるくて甘ったるいジュースが飲みたいなら別にいいけど」
自然と漏れるため息。
彼女は名残惜しそうにしながらも袋の中を眺めながらも、ジーンズのポケットにねじ込んだ財布を取り出してあたしに一万円札を放り投げた。
「毎日ご苦労様」
「こんなに割りのいいお使い、誰でもやるよ普通」
「そりゃそうだ、私だって子供の頃だったら絶対食いついたわ」
ケラケラと笑いながら彼女はあたしの隣に腰掛けてもう随分とぬるくなり始めたお茶を勢いよく飲み干した後、コンビニ弁当をがっつき始めた。
安っぽい真っ赤なウィンナーを頬張りつつ間抜けそうな幸せそうな顔を晒している。
こうして彼女と過ごす夜ももう一週間続いていた。
私の財布には七枚の一万円札が入っていて、その全てはこんな場所で野宿をしている彼女から受け取ったもので。
何の変哲もない、多分三十手前くらいの彼女がこんなところでこんな羽振りがいいのか悪いのかよくわからない生活をしているのは、酷く奇妙だったけれど、私は何も聞かず、ただ彼女の言うとおりにお使いをただ遂行するだけの夏休みを送っていた。
夜の散歩が日課というわけでもなく、夏休みも半ばを過ぎた八月の夜、あたしは寝付けずに静かに家をでた。色々考えていたらなんとなく眠れなくなって。
スマホで時刻を確認すると二時を回ったところで、生暖かい空気はいかにも何か出そうな気味の悪さで、自然と足取りが速くなる。
沿岸沿いの道は街灯が少なくて、足元すらもよく見えない。ただその分の風が吹いていて気持ちよかった。
遠く地平線のほうには沢山の漁船の明かりがぽつぽつと浮かんでいて、見慣れた、というほどでもないにしろ、ありきたりなその田舎の風景があたしの記憶の中に刻み込まれているのだと思うと、なんだか酷くやるせない気持ちになった。
別にこの街が嫌いだとか、そういうわけではないのだけれど、中学三年で高校の受験を控えているあたしは、なんだか進んで行く時の流れについていけず、変な焦りや不安ばかりが募っていて、こんな古臭い光景をしっかりと記憶に残したまま、新しいことなんて全然知らない自分に嫌気がさしていたのだ。
友達はもうみんな進路を決めていて、メイクを覚えたり、彼氏ができたとかそんな話をしているけれど、この二年間で全く成長をしていないところのあたしは、そんな話にはてんで興味が持てず、心ばかりが小学生の頃とさして変わる事もなくアンバランスに育ち続ける自分の体とのギャップにただただ悩んでいた。
それは決まって一人になった時のことで、友達といる時はそんなこと全然考えもしないし、むしろ、誰かと一緒なら、何にも負ける気がしないくらい楽しくて、楽しくて、何にも怖くないのに、それは一人の時ふっと頭を過ぎり、あたしを苛むのだ。
気づけば漁港を過ぎて、もうコンビには程近かった。
重いため息を一つ吐いて、なんとなしに眺めた防波堤越しの砂浜にあたしはその人を見つけた。
最初は暗闇ににぽつんと浮かぶ赤い点に幽霊かと度肝を抜かれたのだが、よくよく目をこらせばそれは煙草の火だとすぐにわかった。
それをすっているのは、スタイルこそいいものの、顔は平凡な女性で、足元には二つの大きな旅行かばんを投げ出していた。
やけに絵になるなと思いながら眺めていると、振り返ったその人と、目が、合った。
視線を合わせたまま金縛りみたいに動けなくなって、まさか本当に幽霊だったのだろうかとあたしが馬鹿なことを考えている内に、彼女は砂の音を鳴らしながらあたしのすぐ近くまでやってくると、しっかりと目を合わせたまま口を開いた。
「ねぇ、この辺で野宿できるところってないかしら?」
以来あたしは、こうしてこの人の変わりにお使いをする日々を送っている。
友達を会うことのない夏休みを潰すように、日中は惰眠を貪って、夜になるとこうしてふらふらと出歩いてコンビニへと向かい、彼女と他愛のない言葉を交わす。
食事を終えたあと決まって彼女はミネラルウォーターをタオルに含ませ、体を拭き始める。
どちらもあたしがコンビニから買ってきたもので、あたしはそれらを帰りにコンビニに捨てる。
なんとも勿体無い話だが、彼女からしてみればはした金なのだろう。
その最中にも彼女は煙草は咥えたままで長くなりすぎた灰が本殿の床にポトリと落ちて、あたしの鼻腔を夏と煙草のにおいが通り過ぎて行く。
未成年であるところのあたしは当然煙草は買えないので、彼女が煙草を入手する手段はないと思うのだけれど、毎日毎日山のように吸っている彼女の煙草が切れる様子はない。
きっとあの鞄の片方には沢山の煙草が詰まっているのだろう。そうして恐らく、もう片方には、札束が、ぎっしりと。
そんな風に考えながら、なんとなしにあたしは彼女にふと、思い浮かんだ疑問をぶつけた。
「なんで煙草なんか吸ってるの?」
「んーなんでか……」
唸りながら彼女は短くなった煙草を床でもみ消して、新しく咥えなおすと新しく火を点す。
「歳をとるとさ、明かりが足りなくなるんだよ」
あまりにも抽象的で不思議な言葉に首を傾げて魅せると、彼女はバリバリと頭をかいた。
「あんたにわかるかわかんないけどさ、多分、本当の意味ではわかんないだろうけど。あんたくらいの年の頃はさ、いろいろ真剣に悩んだり、どうしようもない事に腹立てて、でも子供だから何もできなくて、辛いことも沢山あったけどさ」
白い煙を吐き出しながら、目を細め、虚空を見つめながら彼女は続ける。
「でもそれでも何とかなるっていつかきっとどうにかできるって思ってたし、何かをやってやろうって力に、熱に溢れてたんだよ。それが明かりだよ」
「つまり、どういうこと……?」
「これは、私の人生観なんだけどさ、人の人生ってのはずぅっと同じ暗闇なのさ。それを照らすには気力とか、精神とか、魂とか、そういう自分を燃やさなきゃなんないんだよ、だからさ社会に出る前の私は凄い眩しかった、何でもできると思ってたから、ね。でも実際はさ、何にもできないんだこれが、そうやって怒られて、嫌になって明かりは弱くなって、どうしようもない暗闇で立ち止まる」
新しい煙草はもう根元まで燃え尽きて、本殿の床にあたらしい焦げ跡が増える。胸ポケットから取り出した箱の中にはもう煙草がなかったのか、それをくしゃりと潰して近くの藪に投げ捨てて、彼女は横になる。
「煙草を吸ってる間はさ、そういう不安とか、自分への苛立ちとか、忘れられるんだよ。自分を燃やさなくても煙草を燃やしてれば、ゆっくりだけど私は進めていけるんだ。私はもう、やる気とかそういうの全部燃やしちまったから」
それでもう全部なのか、彼女は軽く目を閉じて何も喋らなくなった。
その話の意味はあたしには三分の一も理解はできなかったが、ただ、彼女もあたしと同じように、きっと子供のまま歳をとってしまった大人なのだと、仲間なのだと、そんな奇妙な意識だけが芽生えていた。
出会いと同じように、彼女との別れも何の前触れもなく突然やってきた。
八月もあと一週間程、夏休みももう終わりかけのまだまだ暑い夜のこと。いつものようにコンビニの袋を片手に訪れた神社。
ばっちりとメイクを決めた彼女の顔を見た時、一瞬誰だかわからなかった。
ぴったりとした体のラインの出るタイトな黒いスーツを着込こんだその人が彼女だとわかったのは、その煙草のにおいのおかげだった。
「今日も来たの?」
普段どおりのトーンで語りかけてくるその声に、妙な安堵を覚えつつも、あたしの胸中は何故だか、焦りと不安でいっぱいだった。
「逃げるの……?」
とっさについて出た言葉はこの場には似つかわしくなく、でも、それは絶対に間違っていない言葉だったはずだ。
「日の出までには迎えが来るの、白馬の王子様とかロマンチックな迎えだったらよかったんだけどね」
笑いながらそう言った彼女は、あたしの言葉を否定することもなく、地に落とした煙草をヒールの高い靴のつま先で踏み消した。
「誰だか、わからなかった」
本当にメイクをした彼女の顔はあたしの知るどんな顔とも違っていた。毎日のようによく見知ったその顔とも、暗がりでみる上手く見とれないその顔とも。
「化粧ってのは、女の武器の一つだから」
屈託なく、美しくなった彼女は笑いながら、いいことを思いついた、とでもいいたげに、手を打った。
「せっかくだから、教えたげる。こっちにきな」
手を引かれ、無理やりに本殿の縁に座らされて、まるで人形のように、丁寧に丁寧に、彼女はあたしの顔を作り変えていった。
鏡とライトできちんと照らして、一つずつ細かく説明をして、あたしに彼女の技術の全てを教えてくれた。ご丁寧に道具まで一式渡して。素材がいいのに勿体無いなどと彼女は言ったが、そんなことはない。あたしも彼女と同じように、どこにでもいるほんとうに平凡で、普通な、女子中学生に過ぎなかったのだから。
けれど鏡の前にいるあたしは、まるで別人のように綺麗で。
本当に心だけを残して、自分の外側だけがどんどんと変わっていくような気がした。
そうしてそれも終わると、手持ち無沙汰で話すこともなく、時間は過ぎていく。
「せっかくだから吸ってみる?」
そう言って渡された煙草はまだまだあたしには早かったようで、散々咽た挙句沢山笑われた。
だんだんと空が明るくなり始めて、彼女は、「いかなきゃ」と軽く呟いて立ち上がる。
「ありがとう、ほんとに助かったわ」
「別に、あの程度のお使い、お駄賃に比べたらたいしたことない」
「そう……? まぁ。それ以外にもありがとう。感謝してもしきれないわ」
その言葉の真意に、あたしは気づかないふりをして、ぶっきらぼうに「別に」とだけ返す。
二人で見合わせるように、自然と笑みがこぼれた。
「よかったら、あんたも来る?」
そういって差し出された手を、じっと見つめる。
この手をとればきっと、今あたしを苛むいろんな物や事をすべて置いて逃げ出すことも可能だろう。
だけどあたしは、首を横に振った。
「そっか、なら達者で。あんたが私みたいにならないよう、祈ってるよ」
踵を返して歩き出した彼女のその背をあたしはただ、黙って見送った。
あたしが彼女みたいにだなんて、なれるわけがない。
それからというもの、あたしは大人になったふりをすることばかりが上手くなっていった。相変わらず心は子供のままに高校受験を終えて、興味のないことばかりを覚え、大学にも無事合格して、二十歳になった時、ふと彼女のことを思い出して煙草を買ってみた。
あの頃に比べて随分高くなったモノだと思いながら、一本咥えて火を点す。
あの時は咽て吸う事もできなかったのに、私の大人のふりはさらに磨きをかけ上手くなったのか、長く吐いた息は白く、暗闇に一筋の跡を残す。
鼻を抜ける煙草のにおいと動じに、私は夏のにおいを感じた気がした。
今なら、あの人の言っていた事が少しだけわかるような気がした。
あの夏の終わりには、もう彼女の顔をテレビで見ることはめっきりと減った。
世間を騒がしていた巨額の横領事件の犯人は未だ捕まっていない。
友達も、彼氏もいない、小学生の頃からずっと目立たずに、大学の卒業まで特別仲のいい友達もいなくて、その両親すらも本当の彼女がどんな人だったのかを知らない。
果たして彼女は無事に逃げ切ったのか、それともどこか暗い闇の中でひっそりと死んでしまったのか、それはわからないけれど。
きっと私はこの煙草のにおいを鼻にするたび、思い出すのだ。
私だけが知っている大人になりきれなかった子供みたいな彼女の壮大な悪あがきの末に起きた大きな事件のその一端を。