新生活の舞台
少しずつ気温が上がり、まだ冷たさを残しながらも温かみを増した風に桜が舞う。テレビから流れる新生活に向けての家具、家電のCM。新たな年度の始まりに多くの人が不安や期待、そうでなくてもなんとなくの心地よさを覚えているであろう。季節は春を迎えていた。
春、一般には始まりの季節である。僕の友人の中には故郷を離れた者も多くいた。東京、大阪、人によっては北海道など、皆バラバラであるが、そこで新生活を始めるのであろう。で、とうの僕はというと、確かに新たな生活が始まろうとしているのであるが、それは皆のそれと大きく異なるものであった。
桜は意外に早く咲き、散ってしまうのだな
そんなことを考えながら家から駅へと向かう途中の公園の横を通った。三月の終わりの朝は春とはいえ少し寒い。青のセーターに濃紺のデニム、グレーのスプリングコートを着て、その寒さと春という季節に合わせた格好で僕は駅へと向かった。友人はいよいよ始まる大学生に向けてバラバラに旅立っていった。薔薇色の生活が彼らを待っているのだろう。
さて、僕はというと、家から二駅離れたところにある予備校に今日から通うことになるのだ。今まで使ったことのない定期券をカバンから取り出し、田舎によく見られる自動改札のない駅の入り口で、駅員にそれを見せ、ホームに立った。ホームからは反対側の改札と、その奥に桜が見える。もう満開であった。いや、ところどころ、新緑が見え、桜の花びらとなんとも言えない不愉快なコントラストをなしていた。右手から電車がやってきた。ここY駅は市街地から数えて二つ目の駅である。そのためこの時間は、各駅で客を乗せた電車がやってくる。扉が開いても降りる人はおらず、その窮屈そうな空間に、体を押し込んでいかなくてはならない。慣れない僕は少しばかりの嫌気と、乗り合わせている人もその嫌気を感じているであろうことへの申し訳なさと、なぜかそこから得られる優越感を覚えながら、その中へとぐい、ぐいっと入っていった。二つ離れたH駅に着くと入り口付近にいた僕は、後ろから押し出されるように電車をでた。僕を押し出した乗客たちは、瞬く間に僕を追い抜いていった。紺や黒、グレーのスーツを着た彼等のほとんどは、向かいのホームへと行き、東へと向かうのであろう。東に行けばKという都市がある。僕はこの場合少数派であり、この駅で改札をでた。そして、駅前の新開発工事から聞こえてくる音とを聞きながら、まだ人気の少ない商店会を抜けて目的地に着いた。○○予備校。ここが目的地であり、僕の新生活の舞台だ。
その建物はH市の中では目立って綺麗な建物であった。一階の入り口がある側面はガラス張りになっている。建物自体は5階建てで、やはり、こちらの大通りに面した側面はガラス張りになっている。向かって左側は別のビルと隣接しており、詳しくは見えぬが、右側は白塗りの壁で所々に窓があるといった具合になっている。
入り口の自動ドアまでは屋根がついた短い道があり、その道の左右には掲示板がある。その奥は駐車場や駐車場になっている。左右の掲示板にはT大○人、K大○人といった予備校の実績を示す広告の他に、新入生募集という文字が見られる。
こんな人の不合格を前提にしたセリフがあってはせっかくの綺麗な建物が台無しである。そもそも勉強をするのにはちとこの建物は立派過ぎる。
そんなことを考えながら、自動ドアを入ると、綺麗な女性と大きな体の男が出迎えてくれた。
「おはよう。隆也。早いな」
大男はこれまた、声も大きく挨拶をした。
僕はまだ会うのが二度目なのにいきなり『隆也』はちと馴れ馴れしいなと思いながらも
「おはようございます。高橋先生。」
と挨拶を返した。
高橋先生とは入塾の手続きの際に色々と話をした。どうやら進路指導の先生らしい。本人は国語が専門だと言っていたが、おそらく進路指導を主な役割としているのであろう。
前回から気になってはいたが、ネクタイがどうも派手である。今日は赤、黄、青の三色のストライプのネクタイで、今では珍しく、太いもので、くっきりとディンプルを作っている。相当な拘りがあるように思われる。
一方女性の方はというと、
「夏野君。おはよう。」
とこれまた綺麗な声で、挨拶をした。
この人はいつも受付にいる宮下さんだ。
年はかなり若い。24,5歳で、この校舎の中で、生徒を除けば最年少であろう。壁で下の方は見えないが、白のシャツにネイビーのカーディガンを羽織っていた。
僕はこちらに対しては、全く何も考えず、反射的に、であるから素直な言葉で
「おはようございます。」
と返事を返した。
ここでは毎回、登校するとその日のスケジュールなるものを受付でもらうことになっている。僕は宮下さんからそれを受け取ると、受付の左奥、受付の後ろに衝立一枚で隔てられた事務スペースの隣でエレベーターを待った。後ろ高橋先生がやってきて、
「若いのに、階段をつかえよ」
と笑顔で話しかけてきた。
「若くても体力はないんですよ。」
適当に返事をした。
学習塾や予備校の講師とは皆、彼のように
いつもにこにこしている。そして、無理やり自分を鼓舞してまでも(僕にはそう見える)陽気に振舞っているのである。そして、僕はそれが苦手だ。なので今回もなるべくそっけなく返事をした。
エレベーターに乗ると、その空間は限られているというのに、また密室であるというのに、必要以上な大きな声と、テンションで高橋は話を続けた。
「今日は、本年度の生徒全員でオリエンテーションだからな。10時に3回の大教室集合だ。遅れるなよ。」
「はい。」
「今日は授業はないけど、自習して帰るだろ?」
「はい。」
「おおう!やる気だな!」
「はい。」
僕は必要最低限の返事をした。
意識は会話にはなくエレベーターの壁に貼られている名言集のようなものにあった。
「努力は裏切らない」「この一瞬を無駄にするな」などと書いてある。なるほど、予備校にはふさわしいセリフだ。しかし僕にはどうもしっくりこなかった。誰もが口にしているような、使い古されたこれらのセリフからはなんの重みも感じられないのだ。僕が思うに、言葉は誰が言うかが重要である。特別な経験をした人が、彼あるいは彼女の経験を振り返り、そこからなにかしらの彼等なりの論理を組み立てて、なんとか言葉にする。この構造が背景にあって初めて言葉は心に響くのではないであろうか。例えば僕が、「天才とは1%のひらめきと99%の努力である。」などと言っても、だれも関心を示さないだろう。
こんな形でエレベーターの装飾に、異議をとなえながら、高橋の話を聞き流していた。
なにか、電子音がなり扉が開いた。自主室がある4階に着いたようだ。
「じゃ10時大教室な。あと1時間だからな。今日から頑張ろうな。」
高橋は最後に詰め込むように話した。
「頑張ろうな」この言葉だけ何故か受け取れられた。そひてそれに対しては
「はい。」
と自然に返事できた。エレベーターの赤い扉が閉まり、高橋先生はその扉の向こう、狭いその空間に残った。エレベーターは一つ上の5階に行くらしい。
僕は、それを見送り自習室へと向かった。
この後はオリエンテーションがあるが、それまであと一時間。みっちりと、無駄なく勉強しょう。
そう思い自主室の扉を開いた。
開く前、その扉の中央の大きなガラスの部分からガラ空きの自習室が見えていた。
僕は一番乗りで勉強を始めたことで、少し気分が良くなった。他の生徒への優越感と、この浪人生活のスタートが良好であったから。