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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

時代小説系

サクラ狩り

 この時、私は不服でなりませんでした。

 突然こんなことを言い出しても、なんのことやらと思われたでしょうが、言わずには居られなかったのです。

 そうして、江戸を一度も離れずに過ごしていた私は、憤りと不安を半分ずつ抱えながら、住み慣れた家を後にするのでした。



          ※※※



 私の名はつると申します。

 少々お転婆が過ぎるとたしなめられはしますが、十一の娘にございます。

 自ら申すのもなんですが、私は器量は並とはいえ、武家の娘として育ちました。

 何不自由なく優しい両親ふたおやに育てられ、いずれ嫁ぐ日のために行儀作法や手習いの数々をこなす日々を過ごしておりました。


 ところが、そんな暮らしは突如として終わりを告げました。

 私の両親は酒席で乱心した父の友人に斬り殺されてしまったのです。

 わけもわからぬまま突然の凶事に泣きぬれる私に、たった一人の身内となってしまった兄はこう申しました。


「私はこれから仇討ちの旅に出る。ただ、お前を一人残して行くのは忍びない」


 兄は吉之助きちのすけと申す、この梅津うめづ家の嫡男であります。仇討ちは当然にございます。本懐果たせず墓前に参れるはずもございません。見事討ち果たしてこその孝行息子にございます。

 私はそれを聞いた時、不覚にも更に声を高くして泣いてしまいました。

 それは、兄がそのように当たり前のことを申したからなのです。


 実を申しますと兄の吉之助は、妹の私から見ても少しも武家の嫡男らしくございません。

 まるで役者のように姿がよいのは認めますが、どちらかというと女子おなごのような美しさなのです。

 その上、剣術やっとうも自ら学ぼうとはせず、論語のひとつもそらんじず、両親が甘いのをいいことにふらふらとしているばかりなのでした。


 そんな頼りない兄ですが、それでも父母の死に直面し嫡男としての自覚が芽生えたのでしょう。

 それに感涙してしまった次第でございますが、私の考えは甘かったのです。

 兄は美しい顔で嘆息いたしました。


「もし私が首尾よく本懐を遂げられなかった場合、当家は断絶。後ろ盾のないお前を娶ろうという者もないだろう。申しにくいことだが、吉原行きは必至だ」


 この時代、跡継ぎのいないお家に存続は認められません。

 家のない娘を嫁に迎える物好きな家もありません。こうなってしまうと、私の前途はすでに暗澹あんたんたるものでございます。

 いくら悲しくとも、めそめそと泣いている場合ではございませんでした。


「そ、そんな……。兄上様、仇を討てる自信のほどは――」


 三つ違いの兄はあっさりと嫌なことを口にいたしました。


「あるはずがなかろう。お鶴、お前は生まれてこの方、私が一度でも剣術で誰かに勝ったところを見たことがあるのか」


 一度だってございません。がりがりに痩せた野良犬にさえ、兄は馬鹿にされているのですから。

 自分の将来を切り開くだけの力は、悲しいかな、女子にはありません。しとやかに慎ましく、親を敬い、夫を立て、子を慈しむ。それこそが求められるのです。


 好いた人と所帯を持ちたいなどと、浮ついたことを考えては居りませんが、せめて人並みの幸せくらいは望んでも許されると思っていた子供心に、うつつは厳しいものでした。

 半ば放心して居りました私に、兄は更に嫌なことを申します。


「それで、お前にも手伝ってもらおうと思うのだ」


 時折、兄の頭をかち割りたい衝動に駆られます。こぶしを握って耐えました。


「このか弱い妹に、侍を仕留められるとお思いですかっ」


 兄は物憂げな瞳で、


「では、帰りは遅くなるけれど達者で暮らすのだぞ」


 と、ため息混じりに申します。

 確かに、私共に頼れる身内は居りません。子供の私が一人、いつ戻るとも知れない兄の帰りを待ち続けるなど、無理なのやも知れません。いくら当家に恩義があるとはいえ、日々の暮らしが立ち行かなくなれば、小間使いたちにだって愛想を尽かされることでしょう。

 兄はおもんぱかった末、このようなことを言い出したのだと、ようやく理解しました。


「あ、や、いえ、やはり、私も参ります。お役に立てるかはわかりませぬが」


 兄はようやく花のように微笑みました。その麗しさは母によく似ています。私も母に似たかったものだと、よく父を困らせました。


「よし。では、支度をして参る」



         ※※※



 私は兄が用意した装束を手渡された時、開いた口が塞がりませんでした。


「あ、兄上様、お間違えになったのでございますね」


 けれど、兄はにっこりと笑って居りました。


「何も間違えてなど居らぬ。さ、早く着替えるのだ。仇が遠のいてしまうぞ」


 まだ固まっている私を置き去りにして、兄はふすまの向こうへ消えました。

 私は震える手で濃紺の小袖に腕を通します。そして、その下に袴を履くのでした。

 つまりは男装です。

 けれど、これは仕方のないことやも知れません。兄弟二人旅と思われた方が、きっと危険は少ないのです。


 こんな姿は友人知人には見せられませんが、私はきっちりと男装いたしました。

 かんざしを抜き取り、くしで髪をすきます。艶やかな黒髪が私の一番の自慢ですが、このままでは長すぎます。私は涙ながらに髪を六寸ほど切りました。

 そして、私が髪を若衆髷に結った頃、兄の消えたふすまがいよいよ開きました。

 兄はさぞ凛々しく仇討ち装束に身を包んでいるのだろうと、ほんの少しだけ期待していた私は、きっと兄の次にうつけ者だったのでございます。


「あ、あ、兄上様……」

「ほう。よう似合う。では、参ろうか」


 何事もなかったかのように自然に申すその姿は、私の期待した凛々しさとはあべこべだったのです。

 抜けるような白い肌に桃色の着物は、驚くほどによく似合っております。兄が着ると天衣のようです。けれど、それは女装束です。これから仇討ちに向かわんとする武家の嫡男が、何故なにゆえの女装なのでしょう。

 私は情けなくて涙が出ました。


「兄上様、私はもう、どうしたらよいのかわかりません。私共は何をしに参るのでしたか……」

「寝ぼけたことを。仇討ちに決まっておる」


 まだ前髪を残している兄は、洗い髪を後ろでまとめただけでも違和感がありません。少しほつれた感じがなんとも艶っぽいのですが、私は兄に憤りしか覚えませんでした。


「寝ぼけているのはどちらですかっ。兄上様のお考えが、私にはさっぱり見えて来ません」


 すると、兄は不思議そうに申しました。


「我らが追う仇敵、佐倉(さくら)和春(かずはる)は父の友人であった。子である我々の顔も見知って居る。だが、こうしておけば、姉と弟。兄と妹と思うて居る佐倉は、気付かぬだろう」


 油断させて近付くための策だというのです。

 そうでございました。剣術のできない兄に、正攻法を求めた私が悪かったのです。

 この際、卑怯はお互い様です。諦めます。

 そうして、私共はちぐはぐななりで旅立つことになってしまったのでした。



          ※※※



 道中の無事と、大願成就を神社で神仏にお祈りしておりますと、一匹の野良犬がやって参りました。がりがりに痩せ細った、いつものやつです。

 さすがは犬と申しますか、犬は女装束であろうと、その鼻で兄を見破りました。しかも、これから旅に出る私共はおまんまを持っています。それを察知するや、犬は兄と私を威嚇し始めました。姿勢を低くして、牙を剥いてうなります。


 いくらみすぼらしい犬でも、あの牙に噛まれては大変です。

 兄は一応、私を庇うように前に出ました。そして、かごから握り飯を取り出します。遠くにほうった隙に逃げ出そうという策なのだと思いました。

 けれど、兄の取った行動は、またしても私の理解できないものでした。

 握り飯を手の平に、兄は犬に訴えかけます。


「犬、お前にはこれから私が毎日えさを与えよう。その代わり、私を主として付き従うのだ」


 犬が言葉を解するはずがございません。牙を剥いた犬に兄が襲われるさまを想像して、私はただうろたえました。けれど犬は、驚いたことに兄の手を噛むことなく手中の握り飯を食べ始めました。それはそれは美味しそうに。


 それを食べ終えた犬は、兄が頭を撫でてもおとなしいものでした。これは、交渉成立の証でしょうか。

 しかし、ただでさえ金子は心もとなく、着物などを質に入れて用意したおまんまです。畜生に与えるとは何事でしょう。


「兄上様、この犬を連れて行くおつもりですか……」


 冷ややかに私が訊ねますと、兄は得意げに申しました。


「この犬は賢い。きっと役に立つ」


 そうでしょうか。それにしたって、みすぼらしい犬です。

 薄汚れた毛は、本来は白いのかも知れません。それに、なんとなく間抜け面です。

 兄はうぅんと小さくうなりました。考え直してくれるのかと思いきや、そうではございませんでした。


「体に五つの丸い模様があるから、イツマル。お前は今日からイツマルだ」


 わん、と嗄れた声でその犬、イツマルは鳴きました。

 こんなに簡単に餌付けされる犬のどこが賢いのか私にはわかりませんが、もうどうでもよくなりました。



          ※※※



 佐倉が向かいそうな方角は北か南か、東か西か。見当も付きません。

 江戸から逃げ出したらしいのですが、わかるのはそこまでです。

 妻女の実家も江戸で、遠方に頼る者も居らぬはずです。手がかりはありません。


「手がかりがないのなら、行きたい方に行くだけだ。寒いのは嫌だから上方にしよう」


 兄はまたしても、とても適当に決めてしまいました。けれど、一か八かです。下手をすれば何十年だろうと何百里だろうとかかるのです。もう、どこだっていいのです。

 私は反論せず、兄に従って旅立ちました。このあわただしさがあったからこそ、悲しむいとまがなかったのも事実でしょう。


 しかし、兄は奇行ばかりかと思えば、意外に真剣だったようです。関所や宿、茶屋、立ち寄る場所では必ず佐倉のことを訊ねて居ります。兄の手による人相書きもよく似て居りましたし、背丈や癖なども正確に伝えます。

 幼い弟を連れた美貌の娘が仇持ちと聞けば、大抵の人は親切にして下さいました。おまんまを分けて下さったり、大切なお守りを手渡しながら熱く激励して頂いたり。

 仇討ちは本当のことなのでかたっては居りませぬが、兄に対する恋情を感じると心苦しい限りでございました。兄は知ってか知らずか、どこ吹く風です。


 そんな日々が六日ほど続きました。

 毎日えさを与えられているイツマルは、もう兄のそばを離れません。肉付きもよくなり、毛並みにも艶が出て参りましたが、やはり間抜け面はそのままです。


 そうして、桜の花弁が舞う辻を二人と一匹で歩みました。兄は桜を一片捕まえると、手の平のそれをしばらく眺めて居りました。

 桜は少々特別な花でございます。この国に生まれた者にとって、理由もわからぬままに思い入れの深い、不思議な花とでも申しましょうか。

 凛と美しく潔く散る様に、私のすさんだ心は洗われるようでした。

 けれど、兄はその花弁を突然握りつぶしたのです。その力強さに、私は驚きを隠せませんでした。


「兄上様――」


 私がおずおずと声をかけますと、兄はすでに微笑を浮かべていました。


「うん、どうしたのだ」


 何も訊けませんでした。

 兄が桜を握りつぶした理由は、仇敵の佐倉と同音の花が憎かったからなのでしょう。この無数に舞う花弁が、兄にはどう映っていたのでございましょうか。それを思うと切なさが込み上げます。


 とぼとぼとうつむいて歩く私は、あまり前を見て居りませんでした。唐突に兄の手が私の襟首を捕らえます。

 首が絞まりました。兄と来たら、私の体が浮くほどに力強く引っ張ったのです。抗議しようと兄を見上げますと、兄はひどく厳しい緊張した面持ちで正面を見据えています。

 けれど、佐倉ではありません。ただのごろつきが二人いるだけです。


 着物の前はだらしなくはだけ、筋張った脚が見えます。よどんだ目付きと不摂生で荒れた浅黒い肌をしておりました。どちらも似たような手合いにございます。

 うつむいていた私はごろつきに近かったのでしょう。兄がとっさに二人の進行先から、私をどけたのです。

 けれど、二人はすでに私共に目を付けて居りました。私共と申しますより、兄と申した方がよろしいようですが。

 下卑た笑いを浮かべ、兄を値踏みして居ります。


「こりゃあ別嬪さんだ。どこに向かっているのかねぇ」

「――先を急ぐ旅故に、失礼いたします」


 兄は柳眉をひそめると、ぴしゃりと言い放ちます。

 私の肩を抱き、兄は足早にすり抜けようとしましたが、ごろつきは兄の腕を素早くつかみました。


「そうつれないことをお言いなさんな。一寸ちょっとくらい付き合ってくれてもいいだろうに」


 にやりと汚れた歯を見せて笑います。私は背筋がぞっとしました。

 その途端、イツマルがごろつきの脚に噛み付きました。主人の危機を察知したのでしょう。ただ飯食らいと思っていた私は、この時初めて兄がイツマルを連れて来たことを英断だったと思えたのです。


「うぎゃあっ。なんだこの畜生はっ」


 噛み付かれたごろつきは恐慌をきたし、青ざめて泣いて居りますが、イツマルは許しませんでした。低くうなりながら牙を立て続けます。

 けれど、もう一人のごろつき仲間は逃げ出さずにイツマルに立ち向かって来たのです。


「このっ、人間様に何しやがるっ」


 わき腹を蹴り上げられ、イツマルはきゃうんと鳴き声を上げて吹き飛びました。それでも、イツマルは兄と、ついでに私も守るように正面に立ち塞がります。


「ど、どうしたら――」


 私がうろたえて居りますと、兄は思案顔で辺りを見渡しました。そして、何かを見付けたようです。場違いなほどの笑顔になりました。


「大丈夫、どうにかなる」


 楽天的にもほどがあります。けれど、私が口を開きかけた時、さっと吹いた風が私共を通り抜けて行きました。

 それは、目にも留まらぬ神速の絶技で、私はただ、そのしろがねの輝きを最後に目にしただけでした。


 桜吹雪の中、陽に輝く刀身を一瞬で鞘に収めたのは、まだ歳若いお侍様でした。

 まだ元服して間もないご様子で、幼さも残しつつ、それでも清々しく意志の強さも感じさせられます。きっちりと折り目正しく整った袴姿は惚れ惚れするほどです。

 兄と同じ身分とは思えません。私の思い描く理想の兄上像が、息を吹き込まれて動き出したかのようでございます。


 ごろつきは着物と髷を刀に刻まれ、イツマルに追い立てられながら大声を出して逃げ出しました。よい気味です。


「どうにもほうっておけぬ性分でな。怪我などはないか」


 お声も爽やかでございます。私がうっとりとしたのも束の間、そのお侍様は兄と目が合うと、一瞬にして固まってしまわれたのです。

 そして、耳まで真っ赤に染め上げる様は、誰が見ても一目でわかります。また、犠牲者が一人出てしまいました。

 兄も気付いたようですが、とぼけます。これは仕方のないことにございます。


「危ないところをお助け頂き、ありがとうございます。お助け頂いたと申しますのに、十分なお礼もできぬままに立ち去る御無礼をどうかお許し下さい。何分、私共は仇敵を追う身。一刻を争うのでございます」


 泣き真似をし、しなを作る兄と、その様子を哀れに思って心打たれるお侍様は、私には滑稽でなりません。兄はどうやらさっさと立ち去りたいようですが、お侍様はがんばります。


それがし猿渡(さわたり)祐真(ゆうま)と申す」


 気取って名乗られました。


「剣術修行の最中なのだ。こうして知り合うたのも縁なれば、義により助太刀いたそう」


 兄は一瞬、迷ったようです。このお侍の祐様の剣術の腕前は鮮やかなものでした。

 結果、利用価値があると踏んだようでございます。兄は唯一のとりえのかんばせで、にこりと微笑みます。


「私はお吉、こちらは弟の鶴之助と申します。勿体無いお言葉とそのお気持ち、誠に痛み入りますが、恩人のあなた様を巻き込みたくはございません」


 ゆるゆるとかぶりを振って居りますが、本音は裏腹というやつでございます。けれど、祐様に見破ることはできません。


「いやいや、先ほどのようなこともある。遠慮いたして居る場合ではござらぬだろうに」


 仰ることはごもっともです。顔がそんなに赤くなければ、もっと説得力があったかとは思いますが。

 祐様はようやく私に顔を向けられました。


「大変な旅だ。苦労も多かったであろう。その歳で姉上を守りつつ仇を追い続けるとは、お前は立派な男だな」


 なんてお優しい眼差しなのでしょうか。祐様はとても純粋なお方のようです。

 私は兄のおかげで心苦しくて仕方がありませんが、兄は平然として居ります。懐から人相書きを取り出し、それを祐様にお見せしました。


「これは、我らが仇敵、佐倉和春と申します。歳は三十路を四つ五つ過ぎた頃でございます。背丈は――」


 詳細を説明する兄に、祐様は人相書きを持つ手を震わせて仰いました。


「こ、この男、昼餉ひるげに蕎麦屋に入った時、肩がぶつかった御仁によく似て居るような……」


 その途端、兄の眼が鋭く光りました。昼行灯ひるあんどんの兄のものとも思えない、鷹の眼ような輝きでした。


「その御仁はどちらの方へ向かったのですか」

「え、あ、先方は食べ終えて出る時に、入って来た某とぶつかったのだ。どちらに向かったのかまではわからぬ」


 当然、注意して見ているはずがございません。それでも、仇敵が近くに居る可能性が出て参りました。こんなに早く足がかりをつかめるとは思って居りませんでした。戸惑う私とは違い、兄は落ち着いて居ります。そして、突然、


「イツマル」


 犬を呼びました。わん、と追いかけっこに飽いて戻って来ていたイツマルが答えます。

 それから、兄は祐様に向かって柔らかい声音で問います。


「ぶつかったのは右肩ですか、左肩ですか」

「右、だが」

「では、失礼」


 兄は祐様の襟元に手を添えると、そのお着物をずり下げたのです。唖然としている私と祐様に構わず、イツマルだけが兄の意図をくんで祐様のお着物のにおいを嗅ぎ始めました。

 立派な祐様の袴に丸っこい足型が付いてしまい、私は平謝りでございます。

 わん、と自信満々に鳴くと、イツマルは駆け出します。本当でしょうか。


 それでも、兄は疑いもせずにその後を追いました。

 女装束とはいえ、やはり男子です。その健脚に祐様は驚いたことでしょう。

 私も後に続きます。私が一番必死で追わねばなりませんでした。なりは男子でも内は女子のままの私にはかなりつらい疾走にございました。



          ※※※



 その後、イツマルは走ったりうろついたり、進む速さにむらがありました。犬の後を人間様が付いて回るという、少しおかしな光景でございます。

 そろそろ宿をとらねば、すでに逢魔おうまが時です。薄暗い空の色があやかしにでも遭遇しそうで、私は不安でございましたが、兄とイツマルはまだ粘って居ります。

 祐様もお付き合い下さって居りますが、私はこれ以上暗くなる前に落ち着きたいものだとこっそりと考えてしまいました。


 そんな時、イツマルは大きく吠えると再び駆け出しました。兄も祐様も駆け出し、私もしぶしぶ置いて行かれぬように駆けるしかございませんでした。


 私が二人と一匹の背中に追い付いたのは、朽ちて打ち捨てられた寺の片隅でございました。

 まるで狐狸妖怪のたぐいが住み着いていそうな廃寺のそばには、それはそれは立派な桜の樹がそびえて居りました。よわいを重ねた桜の大樹は、妖しい美しさを放ちながら、そのうらぶれた場所に屹立していたのです。


 そして、その樹の下には、驚くべきことに仇敵の佐倉が立ち尽くして居りました。

 私の知る父の友人としての顔ではなく、それは間違いなく罪人つみびとの顔でした。月代さかやきは伸び、無精ひげも目立ちますが、何よりも印象がひどく暗いのです。目は落ち窪み、くまになり、頬はこけて居ります。


 けれど私は、それが罪悪感から来るものだとは認めたくございません。

 佐倉がどんなに悔いようとも、私には許すことなどできません。恨み抜くためには、そんな顔は見せずに居直ってくれればよかったのでございます。


 私は、恐怖でもなんでもなく、ただただ体が震えて居りました。兄はというと、あまりに走ったために髪は解け、着物も着崩れております。その抜けるような白さと美貌が相まって、まるで桜の下の幽霊でございます。

 佐倉にもそう映ったのでしょうか。兄の顔を見るなり、怯えに拍車がかかったようでした。

 ただ、佐倉が見たものは桜の樹の下の幽霊ではなく、自らが殺めた私共の母の亡霊だったのでございます。


「お、おふじ――」


 すると兄は、私の知るどんな時よりも低い声で小さく笑いました。


「何を言うか。そのおふじを、おのれで死に追いやっておきながら」


 その声で、佐倉は目の前の亡霊の正体に気付いたようです。


「お前、もしや、吉――」


 けれど、兄は仇敵に親しげに名を呼ばれるのが嫌だったのでございましょう。その背から発せられる怒気に、私までもが身をすくめてしまいました。


「貴様に馴れ馴れしく名を呼ばれる謂れはない」


 兄は深く憤っていたのです。私が思う以上に深く、許せぬ思いで居たのです。

 そのことを今、嫌というほどに思い知りました。

 佐倉はぼろぼろの風体で頭を抱えました。体をよじる様は、気でも違ったかのようです。


「せ、拙者は、そんなつもりではなかったのだ。ただ、ただ……」


 この期に及んで言い逃れようとする佐倉に、私の胸にも憎悪がたぎります。こんな人間だと見抜けずに愛想を振り撒いていた自分が愚かしくてなりません。

 兄はすぅっと冷めた口調に戻り、佐倉に申します。それは、私の知らぬ事実でございました。


「母はずっと貴様の恋慕に気付いていた。決して二人きりにはならぬように気を配り、母に生き写しの私や幼い妹も不用意にそばに近付けようとしなかった。ただ、人のよい父が友と呼ぶので仕方がなく持て成していただけだ」


 佐倉の顔が壊れたように崩れます。それでも兄は止めません。


「あの日、私は見ていたのだ。酒に酔った振りをして、貴様は母に迫った。けれど、脅されても屈しなかった母に、貴様は刀を抜いた。気付いて止めに入った父を貴様は斬った。その後で我に返り、ほうけて取り落とした貴様の刀で母は自刃した。のどを突いた母が倒れるよりも先に、貴様は逃げ出した」


 一部始終を見ていたなんて、兄は今まで一度も申しませんでした。

 思わず耳を塞ぎたくなる内容に、私の頬は涙で濡れていました。泣いている場合ではございません。それでも、止め処なくあふれるのです。


「せ、拙者は――っ」


 そんなうわ言を発しながらも、佐倉は抜け道を探して居たのでございます。兄は刀一本佩いては居りませんから、斬れば逃れられると思ったのでしょう。つくづく、外道としか申せません。

 佐倉は狂ったように吠えると、血走った眼を剥いて大刀を抜きました。母が自刃した大刀ではなく、新たに買い求めたものでございましょう。

 ぬらりと光る刀身が兄に迫った時、私は叫ぶことしかできませんでした。


「兄上様っ」


 その私の声に、任せておけとでも言いたげな、わぅ、という勇ましい声で応えたイツマルは、刀を持った佐倉の腕に噛み付きました。


「ぎゃぁ」

「猿渡祐真、助太刀いたす」


 その隙に、祐様も踏み込みます。流れるような動きで佐倉の邪刀を絡め取り、弾きます。それから、佐倉の肩を突いて体を開かせました。


「いざ、仇をっ」


 兄は懐刀を抜き、佐倉の腹に垂直に差し込みました。その刃を真横にぐい、と一文字に引きます。ごふ、と嫌な音が血と共に佐倉の口からこぼれました。

 最期には兄の顔を魂が抜けるまで眺めておりました。


「母に似たこの顔で、この姿で、ほふってやると決めたのだ。存分に恨みを味わうがいい」


 崩れ落ちる佐倉の体を突き放すと、肩で息をしている兄の背に、私は思わずすがり付いて泣きました。兄は私が回した手を握り締めて普段の兄に戻りました。

 兄は桜を眺めながらつぶやきます。


「父上と母上の無念、悲しみ、晴らすことができただろうか。誠実に生きた二人の死に際があんなにも無残であったことが、私には悔しくてたまらなかった」


 父と母の苦しみはもちろんですが、私は兄も苦しみから救わねばならないのだと、この時やっと気付きました。それこそが、父と母が私に望むことのように思えました。


「兄上様、ひとつ申し上げます」

「うん」

「父上は、愛する母上を守って死に、母上は愛する父上が自分のために命を賭して下さった姿を見届け、その後を追いました。少なくとも母上は女子としてはこの上なく幸せに逝ったのだと、私は、鶴はそう思います」


 すると、兄はようやく微笑みました。


「女子のお前がそう申すのなら、きっとそうなのだろうな」


 この時、兄は重荷から解き放たれた、そんな気がいたしました。

 私共の仇討ちの旅はこうして終えたのですが、ひとつだけ傷が残りました。


「鶴之助は女子と……。それに、先ほど、お吉殿を兄上と呼んだように思うのだが……」


 祐様の視線を受け、私は祐様がそこに居られたことをようやく思い出しました。

 冷や汗をかいて言葉を失くす私とは対照的に、兄は平然と言い放ちました。


「それが何か」


 傷はひとつ、祐様のお心の中に。

 けれど、大丈夫でございます。傷は浅いと申しておきましょう。


                    【完】


 《桃》色の着物を着た吉之助が、イヌ、トリ、サルをお供に鬼退治をするという話です。キビ団子ではなく、おにぎりでしたけど……。

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[一言]  先日、板橋の仲宿という交差点を車で通りました。  自動的に「つばくろ屋」を思い出し、そうだそうだと思い立って、五十鈴さんの作品の歴史[文芸]ジャンルの三つの作品、「偃武の刻」と「人に非ず」…
[一言] 時代小説なのに少女の優しい語り口に、とても心地よく読み進む事が出来ました。けれど展開にはメリハリがあって、短編ながら読みごたえも感じられました。 兄の策の意外性と、それが解明した時の爽快感!…
[一言] はじめまして。第二回アルファポリス歴史時代小説大賞から御作を知り、読ませていただきました。 読みやすい分量で、よく纏められている作品で楽しませていただきました。 ただ惜しいと思いましたのが、…
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