ねじれすぷらったほら
深く考えないでください。
「ああ、加藤さんとこのお兄ちゃんか。ほら、いつものすぷらったーだ。お母さんによろしくな」
ホラー屋さんのおじさんは酒焼けした黒い顔に満面の笑みを浮かべて、活きの良いすぷらったーほらーを白いビニール袋に入れてミチル少年に渡した。
「ありがとう、おじさん」
ミチルは袋からはみ出た臓物を親指で押し込んで元気よく御礼を言った。
袋の中でぬめぬめとしたスプラッターホラーがごぞりと蠢く。
学校が休みの今日、お母さんに頼まれて、ミチルは今夜使うすぷらったーほらーを買いに来たのだ。
だけどこれでお使いは終わり。
あとは家に帰るだけ。
まだ風が少し冷たいけど、暦の上ではもう春だ。
冬の面影を残した風とうららかな陽光がくすぐったくてミチルは歩きながら鼻歌を歌い出した。
家までもう少し、というところでアヤちゃんに会った。
アヤちゃんはミチルと同じクラスの女の子で、犬を飼っている。
この寒い中、ノースリーブのワンピースに青いリボンの麦藁帽子という爽やかないでたちだ。
ミチルは自分の方が寒くなってしまい身震いをした。
「ミチル君お使い?」
「うん。今帰るとこ」
アヤちゃんはミチルの顔をじっと見て、それから金魚によく似た眼をくりくりさせながら言った。
「ふうん。ねえ、ちょっと公園で遊んでいかない?誰も来ないから一人でズズルゾゾラしてたの」
「一人で?」
「ほら、ミチル君、早く早く」
返事を聞かずにアヤちゃんはミチルの手をとって公園の方へ走り出した。
ミチルはアヤちゃんの手が思いのほか柔らかかったので、少し恥ずかしくなり右手のビニール袋をしっかりと握り締めて俯いたまま走った。
公園に着くと、砂場には大きめのバヌーが描いてあって、アヤちゃんがついさっきまで一人でズズルゾゾラをしていたあとが残っていた。
「ほら、ミチル君のビブラオ」
アヤちゃんはとても楽しそうだ。
ミチルはベンチの上にすぷらったーほらーを置いて、代わりにビブラオを受け取った。
断るタイミングはとっくに逃している。
「じゃあ私からね……」
公園には誰もいない。
隅っこのほうでお菓子の袋がかさかさと転がっている。
「ズズルゼラゾグバゼゼリオグズヌラゼブル……」
「あ、わっ、待ってよ」
ミチルが周りを見回している間にアヤちゃんは勝手に始めてしまった。
慌てて砂場へと駆け出したミチルの背後ですぷらったーほらーを入れたビニール袋に穴が空き、赤黒い何かがでろりと垂れ下がった。
ミチルは気付かない。
アヤちゃんも気付かない。
誰も気付かない。
小春日和……とは言えまだまだ寒い。
ブランコに腰掛けながら公園で遊ぶ子供達をぼんやりと眺めていた俺はぶるりと体を震わせた。
せっかくの休日、家で寝て過ごすのももったいないから外に出てみたものの、特に行くあてもなくこうして公園でだらりと過ごしているのだ。
公園には俺の他に小学校低学年くらいの男の子と女の子が一人ずつ。
砂場で仲良くトンネルを作って遊んでいる。
俺にもあんな時代があったんだろうな、などとありきたりな感傷に浸ってみるがすぐにやめた。
考え事をすると眠くなる。
大きなあくびを一つして、俺はブランコから立ち上がった。
こんな寒いところでうとうとするくらいなら家に帰って寝よう。
一周まわって辿り着いた馬鹿らしい結論に苦笑した。
公園の入り口に向かって歩きだそうとして、足を止めた。
入り口のそばのベンチの上に何かある。
……買い物袋だ。
いつの間に置かれていたのだろう。
誰が置いたのかと公園内を眺めるが、買い物袋を持ちそうな奥様は見当たらない。
相変わらず子供が二人で遊んでいるだけだ。
まあいいか、と入り口に視線を戻して俺は少し驚く。
さっきまでベンチの上にあったビニール袋がなくなっているのだ。
変な事もあるものだ。
「うわあ、またアヤちゃんの勝ちだ」
ミチルは五連敗の衝撃に耐え切れず尻餅をついた。
アヤちゃんのゲミオラスはバヌー全体のおよそ四分の一を占領していて、ミチルのボブジャは所々に散らばっているだけだ。
「ね?わたし強いでしょ?お父さんといっぱい練習したんだから」
アヤちゃんは頬を流れる汗を肩で拭いながらニッコリと微笑んだ。
学校でもよく見るはずの笑顔なのに、何故かミチルの心臓はどきどきと心拍数を増加させる。
「疲れたの?じゃあわたしも休憩」
アヤちゃんはそう言うと砂場であることも気にしないでミチルの隣に足を伸ばして座った。
こういうざっくりしたところがアヤちゃんにはある。
2人きりの公園だからよりいっそうはっきりと伝わる隣の子の存在感。
ミチルは我慢できなくなって立ち上がった。
熱でもあるみたいに顔が熱い。
頬と額に手を当ててみる。
手が冷たいのか顔が熱いのか。
よく分からないけど早めに帰ったほうが良いのかもしれない。
ミチルはアヤちゃんに別れを告げようと隣を向き、思わず一歩飛び退いた。
いつの間にかアヤちゃんも立ち上がって、それだけでなく、鼻の先が触れそうなくらい顔を近づけていたのだ。しかも無表情。
ミチルは座る――半分ほど腰を抜かした結果だ。
アヤちゃんも座る――と言うより膝から崩れ落ちたと言った方が正しいかもしれない。
ミチルが立つ。
アヤちゃんも立つ。
ミチルが座る。
アヤちゃんも座る。
再度立ち上がろうとしたミチルの肩をアヤちゃんが押さえる。
食い込む指先にミチルは小さく悲鳴を上げた。
冷たい風が吹き、ミチルの体がぶるりと震えた。
「うぎゃあああああああ」
俺が公園から出ようとしたまさにその時だった。
子供の悲鳴が平穏を裂いた。
反射的に振り返り、数瞬遅れて何が起きているのかを理解する。
砂場には2人の子供。
女の子が1人と男の子が半分。
そう、半分。
涙と砂で顔をぐしゃぐしゃにしながら泣き叫ぶ男の子の下半身は完全に砂場に埋まっている。
身を捩り、周囲の砂を散らし、大層な暴れようだ。
女の子が男の子の手を取ろうとして弾き飛ばされた。
擦りむいた頬を赤くして半身を起こした女の子は半狂乱の男の子を呆然と見つめる。
落とし穴?いたずら?
それにしては男の子の泣き方が尋常ではない。怪我をしているかもしれない。
「大丈夫か」
男の子を助け出そうと駆け寄ったが、俺は砂場に踏み入る事ができなかった。
「いやああああああああだずげでえええええ」
男の子はただ埋まっているだけではなかった。
砂場が、生きている。
砂場はそれ自体がある種の内臓であるかのようにびくりびくりと脈打ちながら男の子の体を内部へと引きずり込んでいく。
「いやだあああああ、あっ、ああが、あががががががが」
男の子の体はすでに胸の辺りまで飲み込まれている。
砂の圧力で胸を締め付けられて息が苦しいのだろう。
男の子の顔は紫がかった赤色に変色し、悲鳴も途切れがちだ。
「ミチオくんっ。ミチオくんっ」
女の子の叫びで我に返る。
見れば女の子の足首にも砂がまとわりつき始めているではないか。
「君っ、こっちに」
意を決して砂場に踏み込む。
不愉快な弾力が足の裏を押し返す。
女の子を担ぎ上げて転げるように砂場を出た。
女の子に絡み付いていた砂がぶつんと不快な生物的な抵抗と共にちぎれた。
「ミチオくんが、ミチオくんがああっ」
泣き叫びながら腕を伸ばす女の子の前でミチオ君はずぶりずぶりと飲み込まれていく。
「が、ががあっがががっがっがが」
ミチオ君は既に絶望的だ。
涙を流しつくした光の無い眼にただ物理的に公園の風景を映しながら意味の無い声を上げている。
……そして、やがて声も出さなくなり、腕と頭をがくがく揺らしながら砂の中に沈んでいった。
女の子を抱きかかえたまま呆然とする俺の目の前で、砂場は蠢動することを止めた。
「ミチル君ってカオルちゃんのことどう思う?」
アヤちゃんはミチルの肩を掴んだまま聞いた。
聞かれたミチルはと言うと質問の主旨を図りかねてただ口をパクパクさせるだけだ。
「じゃあエリちゃんのことは?」
アヤちゃんは次々とミチルのクラスメートの名前を挙げていく。
その顔は完全な無表情。石のようだ。
「トモコちゃんは?」
「……と、トモコちゃんは嫌いだよ。すぐ泣くから……」
ミチルはようやく腹の底から搾り出すように答えた。
今までの人生の中で、産声の次くらいに頑張って出した声だろう。
「ユミちゃんのことは好き?」
質問が微妙に変わった。
変わったのは質問の仕方だけではない。
アヤちゃんは眉を八の字に寄せて神妙な顔で訊ねる。
「ユミちゃん?なんで?」
「ミチル君、好きな子いる?」
ミチルの質問に答えず、アヤちゃんは更に神妙な――否、泣きそうな顔で訊ねた。
「い、いないよっ。いるわけないじゃん」
ミチルは裏返った声で答える。
女の子にこんなことを聞かれるなんて初めてのことだ。
また顔が熱くなってきた。
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
「ほんとにほんと?」
「ほんとだってば」
アヤちゃんの手がぱっと肩から離れた。
塞き止められていた血液が一気に腕まで流れてなんだか冷たい。
「ミチル君。帰ろ」
立ち上がったアヤちゃんは何故か嬉しそうだ。
ミチルは何がなんだか分からない。
「と、とりあえず警察に。いや、救急車だ……」
俺は立ち上がろうとしたが情けない事に腰が抜けて思うように動けない。
そして女の子は虚ろな目でぼんやりと砂場を見つめたまま動こうとしない。
砂場の縁でみっともなくもがく俺の前に、ああ……。
「ひっ」
女の子が息を呑む。
何の前触れもなく、ずぼり、と砂場から頭が生えた。
言わずもがな、さっき呑まれた男の子の頭だ。
目を閉じ、口を閉じ、血の気を失い蒼白なその顔は精巧な彫像のように無表情。しかしその無表情がたまらなく不気味で不吉だ。
首は砂場から生えたまま微動だにしない。
おばけ屋敷に売ればさぞかし高い値がつくのではないか……あまりに現実離れした光景のせいで俺はそんなことを思った。
異様で静かな公園を北風が吹き抜ける。
木の葉やゴミが地面を駆け抜け、男の子の髪もばさばさとなびいた。
首が寒さに震えるかのようにかたかた小刻みに動きだす。
首筋や二の腕に鳥肌が立った。無論、寒さのせいだけではない。
かたかたかたかた。
かたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかかたかたかたかたかかたかたかたかたかたかた。
俺はとっさに両手で女の子の目を覆う。
そして俺自身も首から目をそらそうとしたが、遅かった。
首が目と口をいっぺんに開く。
ざらざらざらざらと、砂が。
開いた目と口から、まるで頭の中に砂しかつまっていないかのように止めどなく砂がこぼれ出る。
砂の涙を流す眼窩に眼球は見えず、ただ茶色い砂が後から後からでてくるだけだ。
口も同じだ。顎の下にできた小山と、限界まで開いた口を見て、俺はマーライオンを思い出した。
「あっ」
ミチルは公園を出ようとして思い出した。
「何?」
アヤちゃんが怪訝な顔をして立ち止まる。
「僕、すぷらったーほらーどこに置いたっけ」
「向こうのベンチじゃなかった?」
アヤちゃんが公園の奥、滑り台の向こう側にあるベンチを指差す。
「そうだった。ちょっと待ってて」
ミチルはベンチに走りより、白いビニール袋を手に取り、
「あれ?」
中身が無いことに驚いた。
袋に出来た裂け目から生臭い汁が垂れてズボンを汚した。
開いて中を見るが、袋の裏側にぬらぬらとした粘液と赤い汚れがこびりついているばかりで肝心の本体がいない。
「どうしたの?」
何事かと歩み寄ってきたアヤちゃんにミチルは事情を説明する。
「……ふうん」
アヤちゃんは早く帰りたそうだが、ミチルはお母さんに怒られるのではと泣き出しそうな気分だ。
首から流れ出る砂に湿り気が混じってきた。
俺はそれの意味するところが分かり、なんとか目を閉じようと、首を見まいと、努力した。
しかし何故か目を閉じられない。逸らせない。
砂はざらざらからぼそぼそに。ぼそぼそからどろどろに。
血と砂の混じった泥が首の目鼻口耳顔中の穴という穴から流れ出てきた。
白い顔は赤黒く汚れていき、鉄の匂いと生ぬるさがこちらまで伝わってくる。
泥はどろどろからだらだらに。だらだらからどぼどぼに。
砂の割合が徐々に減って血の量が増していく。
「うぐっ」
それは誰が発した声でもない。
首が出した音だ。
血の流れが内部で何かに塞き止められてぴたりと止まる。
「やめろおおおおおおおおおお」
俺は考え得る最悪を想像し、そしてそれが実行された。
首と目が合う。暗い眼窩の奥から血と砂に塗れた眼球がずるずるずるりと押し出されて糸を引きながら砂場に落ちた。
耳と鼻から流れ出てくるどろどろとしたものは脳みそ。灰色であると聞いていたがこれも血と砂が大量に混ざっているので本当の色は分からない。
口からは内臓とおぼしき赤黒い肉塊がむちむちとはみ出てきた。湯気を立ててぷるぷると蠕動しながら名称の分からない肉塊が、ぐちゃり。
「うわああああああああああああ」
俺は絶叫し、千切れそうになる正気をどうにか繋ぎ止めようと女の子の目を覆っている手に力を込めた。
……力を、込めた……?
腕の中に女の子は居ない。
冷えた腕の内側には子供一人分くらいの空間がある。
もう、わけが分からない。
目の前では首が自らの中身を力ずくでひり出している。
俺はたった一人でそれを見ている。
どこかでカラスが鳴いた。
もう夕方だ。
腹の底で何かが動く。
何かが、俺の胃から、太くて長い何かが、無理矢理食道を押し広げて這い上がってくる。
気管が圧迫される。
「う、ご……が、がはぁ、あっ、げえっ」
地面に両手をついてえづく。
やたら粘っこい唾液が口の端から垂れた。
何かが口いっぱいに広がる。
それでも外に出るには窮屈らしい。
顎の関節がみしみしめきめきと悲鳴を上げる。
「あぐぅ、あ、がぐおお、お」
ばきっと音がして顎が外れ、何かがその一端を表した。
赤紫色で微細な血管の浮いた、蛸の足によく似た太い触手が俺の口から伸びている。
胃の辺りでまた何かが蠢く。
涎に血が混じる。
二本目の触手が俺の食道を押し破りながら出口を目指しているらしい。
ミチルは泣きながら夕暮れの公園を彷徨った。
アヤちゃんは途中で帰ってしまった。
一人でいる公園は二人でいた時より数段寂しく数段寒い気がする。
それでもすぷらったーほらーを見つけなければ家に帰れない。
ベンチの下を覗きこみ、植え込みの中を探り、砂場を掘り返し、ぐるぐるぐるると歩き回る。
五回目にベンチの下を覗いた時、がこん、と背後で音がした。
ミチルは弾かれたように振り向いた。
一見さっきまでと何も変わっていない。……いや、砂場そばに、本来ブランコの隣にあるはずのペットボトル専用のゴミ箱が倒れている。
アヤちゃんとズズルゾゾラをしている時にそんな物はなかった。
ミチルが凝視しているとゴミ箱の丸い口から触手が伸びて地面を這いだした。
それはまるで蛸壺に入ったタコ。
ミチルは急いでゴミ箱の元へと駆ける。
足音を聞きつけて触手はゴミ箱の中に引っ込もうとした。
ミチルは逃さない。
飛びついてぬるぬる滑る触手に爪を食い込ませ、そしてそのまま思い切り引っ張る。
触手がのたうつ。
ミチルはゴミ箱に両足をかけて力の限り引っ張った。
「びぎゃあっ」
ゴミ箱のふたが外れてすぷらったーほらーが飛び出す。
勢い余って尻餅をつくが握った触手は放さない。
「ふう……」
何とか見つけた安心感で涙が出そうになるが、ぐっとこらえてミチルは空を見上げた。
オレンジ色の夕焼け空をカラスが横切った。
公園に死体がある。
見るも無残な二つの死体にベテランの刑事も思わず吐き気を催した。
春が近いある日のことだ。
まあ、それだけの話である。
深く考えないでください。