1.それは深海から来た
皆さん、こんにちは!台湾出身の作者です。
私の物語を楽しんでいただけたら嬉しいです!
俺は、自分がどこまでも沈んでいくのを感じていた。
陽の光が水面を透過し、海中に細かく揺らめく光の斑点を落としている。
俺は顔を上げ、どんどん遠ざかっていく水面を見つめながら、目を刺すような光を遮ろうと手をかざした。
しかし、どれだけ遮っても、その痛みは消えなかった。
やがて俺は両手を下ろし、身体を反転させて水面の光に背を向け、そのまま深みへと沈んでいった。
深海の暗闇の中で、何かが「手」を伸ばし、俺を迎え入れようとしているようだった。
「…………」
バンッ!
「はぁ……はぁ……」
俺は勢いよく机から飛び起きた。
机が前の席の椅子の背もたれにぶつかり、大きな音を立てた。ちょうど俺の後ろを通りかかった先生も、驚いて足を止めた。
だが、今の俺にはそんなことを気にする余裕なんてなかった。
まるで水の中から引き上げられたばかりのように、口を開けて何度も荒い息をしながら、周囲を見回した。
窓、黒板、机と椅子。
そして、こちらを見つめているクラスメイトたち。
意識が徐々にはっきりしてくるにつれ、ようやく自分がどこにいるのかを思い出した。
(そうだ……今、授業中だったっけ。)
「いてっ!」
突然、頭を叩かれた。
俺は反射的に首をすくめた。
振り返ると、いつの間にか教科書を丸めた歴史の先生が、呆れた顔で俺を見ていた。
「久世くん、ずいぶん怖い夢を見ていたみたいだね!」
「えっと……」
「顔を洗ってきなさい。少し目を覚ましてから戻っておいで」
「……はい」
俺は少し恥ずかしくなってうつむき、足早に教室を出た。
背後では、先生が再び歴史の授業を始めていた。
「西暦1916年頃、世界大戦の最中に、初めて大規模に観測された怪異が出現しました。その怪異が引き起こした現象は、後世に『大遷徙』と呼ばれることになります……」
教室の扉が閉まるとともに、先生の声も次第に聞こえなくなっていった。
---
トイレに着くと、俺は蛇口をひねり、両手ですくった冷たい水を顔に浴びせた。
ひんやりとした感触のおかげで、ぼんやりしていた頭が少しすっきりした。
頬を伝って落ちる水滴を手で拭い、洗面台の縁に両手をついて、鏡の中の自分を見上げた。
鏡には、まだ少し見慣れない顔が映っていた。
「久世湊」という名前の顔だ。
まず、俺はもともとこんな名前じゃなかった。
前世の俺は、卒業を間近に控えた、ごく普通の高校生だった。
ところが一週間前、何が起きたのかもわからないまま、再び目を開けたときには、この世界の久世湊になっていた。
そう。
簡単に言えば、俺は異世界に来てしまったのだ。
こんな話、小説の中でしか起こらないように思えるだろうが、実際に俺の身に起きてしまった。
では、元の身体の持ち主が残してくれたものはというと……
この世界に関する記憶。
一年に数回しか顔を合わせない、保護者である叔父。
それから、家で飼っている茶色い柴犬。
だいたいそんなところだ。
では、俺自身がどうやってこの世界に来たのかというと……
俺は鏡の中の自分をじっと見つめた。
その黒い瞳を見ていると、何かを思い出しそうになった。
途切れ途切れの光景が、突然脳裏をよぎる。
深海。
暗闇。
そして、その暗闇の中に潜む……
ザザ……ザザ……
#@$%……
「うっ……!」
突然、激しい痛みが襲ってきた。
俺は反射的に額を押さえ、身体を折り曲げた。
ぼやけた、ひどく歪んだ声が頭の奥底に響く。
まるで何か古い存在が、俺に向かって低く語りかけているようだった。
だが、何を言っているのかはまったく聞き取れない。
ここまで思い出そうとするたびに、突然頭痛が起こり、今にも頭が割れてしまいそうになる。
「……またかよ」
俺は洗面台に手をつき、しばらくしてからゆっくりと身体を起こした。
この世界に来てからというもの、俺は一週間続けて同じ夢を見ている。
昼でも夜でも、眠りにつけば必ずあの深海へと沈んでいく。
そして目を覚ますたび、頭の中には聞き取れない声が残っている。
そのせいで、ここ数日はどんどん体調が悪くなっていた。
医者でさえお手上げだった。
検査では何の異常も見つからず、結局、薬を処方され、精神科でも診てもらうよう勧められただけだった。
「……まさか、本当に何か変なものに取り憑かれてるんじゃないだろうな」
俺は小さくつぶやいた。
でも、そんなことが本当にあり得るのだろうか?
……まあ、いいか。
これ以上考えたら、また頭が痛くなりそうだ。
俺は頭を軽く振り、蛇口を閉め、手を拭いてからトイレを出た。
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教室に戻ると、ちょうど授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
俺は自分の席に戻って座り、組んだ腕の中に顔を埋めた。
ここ数日まともに眠れていないせいで、今はとにかく休みたかった。
ところが、目を閉じて間もなく、机を軽く叩く音がした。
トントン。
「湊?」
聞き慣れた声に、俺は少しだけ顔を上げた。
一人の少女が机のそばに立っていた。
ぱっちりとした丸い目に、整った可愛らしい顔立ち。
今は少し腰をかがめ、不思議そうに俺の顔を覗き込んでいる。
彼女が首をかしげると、髪を結んだリボンについた小さな鈴が揺れ、澄んだ音を立てた。
「ねえ、湊。ここ数日どうしちゃったの? ずっと魂が抜けたみたいになってるよ」
「別に……また悪夢を見ただけだ」
俺は彼女をちらりと見て、再び腕の中に顔を埋めた。
目の前の少女の名前は雨宮瀧。
この身体の元の持ち主が、幼い頃から知っている幼馴染だ。
元の持ち主の記憶は受け継いでいるものの、今の俺にとって瀧は、まだ一週間しか付き合いのない相手だった。
特に、彼女のあまりにも積極的な性格には、どう接していいのかわからないところがある。
「悪夢?」
瀧は両手を伸ばして俺の顔を挟み、頬を軽くむにむにと押した。
「うーん……」
首をかしげながら、左から覗き込み、今度は右から眺める。
……何をしてるんだ、こいつ?
しばらく観察した末、彼女はますます眉をひそめた。
「うーん……やっぱり放課後、私についてきてくれない? うちの神社で診てもらおうよ」
「いや、また今度でいい」
俺は彼女の手をそっと押しのけ、再び机に突っ伏した。
今は他の場所へ行く気力なんてなかった。
「えっ?」
瀧が一瞬固まった。
次の瞬間には、俺はもう目を閉じていた。
「ちょっと、また寝るの!?」
彼女は慌てて俺の肩を揺さぶった。
「湊! 今日もう三時間も授業中に寝てるんだよ!」
「…………」
「ねえ、起きてってば!」
「……すぅ……」
「寝ちゃダメ! 次はあの鬼ババアの授業なんだから! ねえ!」
俺は何とか目を開けようとした。
しかし、どれだけ頑張っても、まぶたが信じられないほど重い。
瀧の声が次第に遠ざかっていく。
まるで分厚い海水の層を隔てているかのように。
そして俺は、再びあの深海へと沈んでいった。
---
「……湊」
「……湊……」
「湊! 起きて!」
誰かが肩を強く揺さぶっている。
俺はぼんやりと目を開け、身体を起こして目元をこすった。
「……ん?」
待てよ。
ここはどこだ?
目の前にあるのは、見慣れた教室ではなかった。
見知らぬ和室だった。
部屋はそれほど広くないが、きれいに片付いている。小さな棚と座卓のほかには、ほとんど家具がない。
壁には掛け軸が掛かり、棚の上には時計が置かれていた。
俺はしばらく呆然としてから、ようやく頭がはっきりしてきた。
「ここって……お前んちの神社か?」
「やっと起きた!」
瀧が俺の目の前に正座していた。
彼女はすでに巫女装束に着替えており、両手で俺の肩をしっかりとつかんでいた。
「湊、最近本当におかしいよ!」
彼女は眉をひそめ、明らかに心配そうな声で言った。
「数日前からずっと上の空だし、今日はもっとひどかったんだから! 四時間目から今までずっと寝てたんだよ!」
「……今まで?」
「あの鬼ババアが、立ったまま寝てる湊を見たとき、どれだけ驚いてたと思う?」
「…………」
立ったまま寝てた?
俺は自分の身体を見下ろし、それから壁の時計に目を向けた。
どうやら、また長い時間の記憶が抜け落ちているらしい。
しかも、まったく覚えていないうちに、瀧に神社まで連れてこられていたようだ。
……このままで本当に大丈夫なのか?
瀧は俺がようやく目を覚ましたのを見て、少しだけ手の力を緩めた。
「一昨日、病院に行っても何も異常が見つからなかったって言ってたよね?」
「ああ……」
「さっき帰ってくる途中も、ずっとぼんやりしてたし。だから、もしかしたら何か怪異の仕業なんじゃないかと思って、おばあちゃんに診てもらったの」
瀧は座り直し、俺の向かいで姿勢を正して正座した。
「でも、おばあちゃんが調べたら、怪異の問題じゃないって……」
スッ。
話が終わる前に、襖が外側から開かれた。
伝統的な巫女装束を着た女性が入ってきた。
見た目は三十代から四十代くらいだろうか。髪には白いものが混じっており、手にはお茶と茶菓子を載せたお盆を持っている。
「あ、千代おばあさん」
「おばあちゃん!」
千代おばあさんはお盆を座卓に置き、襖を閉めてから俺たちのそばに腰を下ろした。
「瀧、そんなに心配しなくても大丈夫よ。湊ちゃんは平気だから」
彼女は湯呑みを手に取り、お茶を一口飲んだ。
「湊ちゃんの問題はそれほど深刻じゃないわ。もう少し処置をしておいたから、この二日ほどで少しずつ落ち着いてくるはずよ」
千代おばあさんは湯呑みを置いた。
「でも、念のために一人、助っ人を呼んでおいたの」
「誰かを?」
「ええ。ただ、今は伏見区にいないから、こちらに着くのは夜の八時か九時くらいになるでしょうね」
彼女は俺のほうへ顔を向けた。
「湊ちゃん、明日もう一度来てちょうだい」
「……わかりました。ありがとうございます」
彼女が一体何をしたのかはわからないが、助けてくれるというのなら、断る理由もなかった。
ゴーン……ゴーン……
遠くから、低く長く響く鐘の音が聞こえてきた。
千代おばあさんは壁の時計をちらりと見た。
「あら、もうこんな時間なのね」
彼女はにこりと笑った。
「湊ちゃん、夕飯を食べてから帰りなさいな」
「いえ、うちの犬がまだ……」
俺は遠慮しようとした。
何しろ、家には柴犬のハチが待っている。
しかし、瀧と千代おばあさんに熱心に引き止められ、結局、神社で夕飯をご馳走になることになった。
幸い、千代おばあさんの処置のおかげか、体調は確かによくなっていた。
少なくとも食事中に突然眠ってしまうことはなかった。
帰る準備をする頃には、すでに夜の七時を過ぎていた。
瀧は家まで送ろうとしてくれたが、俺は断った。
「こんな時間に女の子を一人で帰らせるのは、ちょっとな……」
「じゃあ、私が湊の家に泊まる」
「それはもっとダメだ!」
俺は即座に断った。
こいつ、一体何を考えてるんだ?
だが、瀧は当然のことを言ったとでもいうような顔で俺を見ていた。
結局、俺は一人で鞄を持ち、神社を後にした。
鳥居を出たところで振り返り、そこに立っている瀧と千代おばあさんに手を振った。
「それじゃ、帰ります」
ちょうど背を向けようとしたとき、何気なく神社の上へと視線が向いた。
「……ん?」
何だ、あれ?
今、一瞬だけ、巨大な白い獣が見えたような気がした。
そいつは神社の上に現れ、まるで俺を見つめているかのようだった。
俺は慌てて目をこすり、もう一度見上げた。
しかし、神社の上には何もなかった。
「……幻覚か?」
俺はその場でしばらく眺めていた。
結局、首を振った。
ここ数日、体調が悪かったせいだろう。
それ以上深く考えず、俺は神社を後にした。
---
神社を出てしばらく歩いたところで、俺は首を回し、腕を軽く動かした。
「ふぅ……」
身体がずいぶん軽くなった気がする。
千代おばあさんが何をしたのかはわからないが、目を覚ましてから今まで、ずっと付きまとっていた眠気は確かに消えていた。
少なくとも今は、何かにつけて目を閉じたくなることはない。
スマホを取り出して時間を確認した。
もうすぐ八時だ。
太陽はとっくに沈み、周囲の通りには街灯が灯っていた。
そのとき、突然スマホが震えた。
画面に一件のメッセージが表示された。
叔父さんからだった。
『200,000円振り込んでおいたよ。
水道代と電気代は叔父さんが払ってあるから、これは今月の生活費だ。
それと、ここ二日ほど体調が悪くて眠気がひどいって瀧ちゃんから聞いたけど、どうしたんだ? 叔父さん、一度帰って様子を見ようか?』
俺はメッセージを見ながら、画面に指を走らせた。
途中まで打ったところで、手が止まった。
……やっぱり、心配はかけないほうがいいよな。
俺は入力した文章をすべて消し、改めて一行だけ打ち込んだ。
『大したことないよ。最近ちょっと寝不足なだけだから』
送信すると画面を消し、スマホをポケットにしまった。
しばらくすると、また二、三回続けてスマホが震えた。
たぶん叔父さんからの返信だろう。
俺は確認せず、見慣れた道を家に向かって歩き続けた。
十数分ほど歩くと、果物の入った籠を手にしたおばあさんが、白い大きなプードルを連れて向こうから歩いてきた。
うちの住宅街は、この時間になると普段ほとんど人通りがない。こんな時間に散歩している人がいるのは珍しい。
ああ、水田おばあさんと、飼い犬のロクちゃんだ。
近所に住んでいる人で、朝出かけるときには、いつもにこにこしながら挨拶してくれる。
「あら、湊ちゃんじゃない。今日はどうしてこんなに帰りが遅いの?」
「水田おばあさん、こんばんは」
俺は足を止め、プードルの頭を撫で、そのふわふわした毛を軽くわしゃわしゃとした。
「ロクちゃんを食後の散歩に連れてきたんですか?」
「そうなのよ。でも、ここ二日ほどロクちゃんの元気がなくてね。何だかずっとしょんぼりしてるの」
水田おばあさんは隣にいるロクちゃんを困ったように見つめた。その話を聞いて、俺もようやく少し様子がおかしいことに気づいた。
ロクちゃんの目はどこか虚ろで、ずっとまっすぐ前を見つめていた。さっき俺が頭を撫でてから、ようやくゆっくりとこちらに視線を向けたのだ。
「今日もずっと庭に座って塀の外を見ていてね。時々立ち上がって塀に前足をかけて、外をじっと眺めてるのよ。外で遊びたいのかと思って、夕飯のあとに散歩に連れてきたんだけど」
「そうなんですか……」
俺はロクちゃんを見下ろした。
そのとき、少し離れたところにある街灯が突然ちらついた。
チン……ゴトゴト……バチッ!
俺と水田おばあさんはその音に反応し、思わずそちらへ顔を向けた。
二人が振り向いたその瞬間、さっきまで元気のなかったロクちゃんが突然飛びかかってきて、俺の顔を舐めたり身体をこすりつけたりし始めた。
俺も水田おばあさんも突然の行動に驚き、俺はバランスを崩して尻もちをついてしまった。
水田おばあさんはリードを軽く引いて落ち着かせようとしたが、ロクちゃんはまるで気づいていないかのように、俺の胸元へと潜り込もうとしてくる。
俺は困りながらロクちゃんの頭を軽く撫でた。
「ロクちゃん、いい子だから。うちのハチもまだご飯を食べてないんだ。また今度遊ぼうな」
水田おばあさんは申し訳なさそうに俺を起こしてくれた。
「ごめんね、湊ちゃん。ロクちゃんに痛いことされなかった?」
立ち上がって服についた埃を払っている間も、水田おばあさんは何度も謝っていた。
「大丈夫ですよ、水田おばあさん。ロクちゃんは力を入れてませんでしたし、びっくりして転んだだけですから」
「それに、普段からロクちゃんは俺によく懐いてますし、ちょっと興奮しただけかもしれません」
水田おばあさんは明らかにほっとした様子で、隣にいるロクちゃんの頭を軽く叩いた。
「何ともなくてよかったわ。ロクちゃん、こんなことしちゃダメでしょう?」
俺も水田おばあさんにつられてロクちゃんに目を向けた。
あれ?
さっきまであんなに興奮していたロクちゃんは、いつの間にかまた虚ろな様子に戻り、静かにその場に立っていた。
まあ、疲れてるだけかもしれないな……。
「まったく……明日はロクちゃんをお医者さんに連れていかないとね。このままじゃ困るわ。住宅街には子供もたくさんいるんだし……」
水田おばあさんは困ったようにぶつぶつと話し続けていた。このままでは、ここ数日と同じように一、二時間は立ち話に付き合うことになりそうだったので、俺は別れを告げることにした。
「あの……水田おばあさん、俺、まだ用事があるので先に帰りますね。また明日」
背後で水田おばあさんは話すのをやめ、俺に手を振った。
「あら、ごめんなさいね。年を取るとついおしゃべりになっちゃって。ずいぶん引き止めちゃったわね。また明日ね」
俺も水田おばあさんに二、三度手を振り、急いで家へ向かった。
———
さらに数分歩いてからスマホを取り出して見ると、画面に表示されていた時刻はすでに八時半になっていた。
「まずい、遅くなりすぎた。ハチ、お腹を空かせてるだろうな」
普段ハチに餌をやるのは七時頃だ。今日はもう一時間以上遅れている。帰ったらきっと腹ぺこになっているだろう。
「ふあぁ~」
俺は両腕を上げ、大きく伸びをした。
そのとき、視界の端で屋根の上を黒い影が一瞬横切ったような気がして、俺は目をこすった。
「見間違いか……?」
口ではそう言いながらも、自然と足早になる。前の角を曲がれば、もう家だ……。
「ん?」
角を曲がった先の光景に、俺は思わず足を止めた。ロクちゃんが水田おばあさんの家の玄関灯の下に、こちらに背を向けて一匹で座っていた。うつむいたまま、ただ静かにそこにいる。
首にはまだリードがついていた。周囲を軽く見回したが、水田おばあさんの姿は見当たらなかった。
記憶にある限り、彼女が散歩中にロクちゃんだけを外に残したことは一度もない。それに、別れてから俺は最短の道を通ってきたのに、途中で水田おばあさんたちを見かけなかった。
水田おばあさんって、そんなに歩くのが速かったっけ?
それに、よく耳を澄ますと、ロクちゃんが何かを噛んでいるような音まで聞こえてくる。
少し気味が悪かったが、水田おばあさんが何かを取りに家へ入り、ロクちゃんを外で待たせているだけかもしれないだろ?
俺は余計なことを考えないようにして、少し横へずれ、足早に通り過ぎようとした。
だが、ロクちゃんのそばを通るとき、どうしても気になってちらりと見てしまった。
「えっ?」
水田おばあさんの家の玄関先に、人の形をした死体が倒れていた。死体はひどく食い荒らされ、顔も判別できないほどで、服もぼろぼろに引き裂かれていた。
だが、服の柄からして、おそらく少し前に俺と別れたばかりの水田おばあさんだった……。
「うっ、おえっ……」
死体を見た瞬間、強烈な生臭さが鼻を突き、思わずえずいて口元を押さえた。
そしてそのときになって、ロクちゃんの顔の毛が真っ赤な血に染まっていることに気づいた。
それに、さっき聞こえていたのは咀嚼する音ではなかった。ロクちゃん……いや、もうロクちゃんと呼べるようなものじゃない。
ロクちゃんの皮を被った怪異だ。そいつは口を絶えず開け閉めしていて、その口から黒く粘ついた液体が地面へと滴り落ちていた。
俺が呆然としている間に、そいつはゆっくりと顔を上げた。今度は、その顔がはっきりと見えた。
顔の皮膚はだらりと垂れ下がり、今にも顔の筋肉から剥がれ落ちそうだった。
口の中では黒い粘液がうごめき、眼窩は真っ黒な空洞になっていた。
やがて口が耳元まで裂けるように大きく広がり、不気味な笑みを浮かべたかと思うと、ゆっくりと後ろ足で立ち上がった。
そのとき、俺の頭の中には一つの考えしかなかった。
逃げろ!!!
俺は吐き気を必死にこらえ、すぐさま背を向けて走り出した。頭の中では、学校で教わった怪異に遭遇したときの対処法を必死に思い出していた。
学校では何て教わったっけ? 逃げる、安全な距離を保つ、怪異災害の緊急電話に連絡する……そうだ、電話!
元の持ち主の記憶では、叔父さんが俺のスマホに緊急連絡先を登録していたはずだ。怪異に遭遇したらそこに電話しろと言っていた。普通の窓口より早く対応してくれるらしい。
俺は慌ててポケットに手を突っ込み、スマホを取り出して緊急連絡先に電話をかけた。
プルルル……
プルルル……
くそっ、早く出てくれ!
カチャッ。
『はい、こちら怪異災害専用窓口です。救助が必要な場合は、遭遇した状況を簡潔にお伝えください』
よかった、つながった! 俺はスピーカーに切り替え、音量を最大にした。
「近所の犬が怪異になって、人を食い殺して……」
俺は走りながら、現場の状況を簡単に説明し始めた。
だが、まだ話し終わらないうちに、角を曲がった先の街灯の下に、背の高い痩せた人影が立っているのが見えた。
人だ! 早く逃げるように伝えないと!
俺が声をかけようとしたそのとき、人影がゆっくりとこちらを振り向いた。
「!!!」
待て。
あいつは人間じゃない。ロクちゃんだ!
俺は急ブレーキをかけ、迷わず踵を返して走り出した。
何でだよ!?
さっきまで後ろにいたはずだろ!?
『もしもし? お客様?』
「あいつ、人間の服を着て、人間のふりをして……」
言い終わる前に、左肩に突然激痛が走った。
「ぐあっ!」
速すぎる!
反応する暇すらなかった。そいつはあっという間に追いつき、犬の爪で俺の肩に三本の血の筋を刻んだ。
俺は数歩よろめき、手に持っていたスマホも地面に落としてしまった。
反射的に視線だけを後ろへ向けると、そいつは攻撃したあと、ひとまず追ってくる様子を見せなかった。
俺は傷ついた肩を押さえてしばらく走り、それからもう一度振り返った。
そいつはその場に立ち、俺が落としたスマホを見つめていた。ゆっくりと腰をかがめ、前足の爪を伸ばしながら、喉の奥から奇妙な音を出し続けている。
「ググ……ゴロロ……う……あ……」
そいつが突然、声を上げた。
気のせいだろうか。耳に届く声が少しずつ変化していく。高くなったり低くなったりして、今の声は、さっき俺が上げた悲鳴にそっくりだった。
「う……あ……グルル、グググ……ばあ……ちゃん……水田……」
「!」
気のせいじゃない。こいつ、本当に俺の声を真似している。
続いて前足の爪が不自然にねじれ始めた。犬の爪だったものが指のような鋭い爪に変わり、そいつは俺のスマホを拾い上げると、口元に近づけて俺の声を出した。
「グググ……カカカ……大丈夫……俺の勘違い……でした……すみません……」
そいつは口を開け閉めしながら、俺の声でゆっくりと話した。
途中に奇妙な音が混じっているものの、確かに俺の声とほとんど変わらなかった。
それに、気のせいかもしれないが、その不気味な笑い声からは、獲物を弄ぶことを楽しんでいるような響きが感じられた。
『もしもし? お客様? 何とおっしゃいました? もし……』
ツー……ツー……
電話の向こうではまだ女性が呼びかけていたが、怪異は指を伸ばして通話を切り、スマホを遠くへ放り投げた。相手の声はそこで途絶えた。
俺は絶望的な気分になった。外に助けを求める唯一の手段がなくなってしまった。
俺は傷ついた肩を押さえた。
まだ諦めるな。何か方法があるはずだ。
頭の中で、元の持ち主の記憶や、自分が学んだ知識を必死に探った。どんなに小さな可能性でもいい。
怪異の狩猟行動、徘徊する時間……。
今いる場所から家までは、あとほんの数歩。もう最後の手段しか残されていない。
最後の賭けだ。どうせあいつはあんなに速い。大通りを走り続けても、確実に殺される。それなら家に入って、あいつとかくれんぼでもしたほうがいい。救助が来るまで持ちこたえられるかもしれない。
あの怪異は人間の真似ができるとはいえ、さっきの電話は明らかにおかしかった。向こうの救助隊が異常に気づかないはずがないだろ?
それに、あいつには獲物を弄ぶ癖があるようだ。それをうまく利用できれば、まだチャンスはあるかもしれない。
玄関にたどり着く直前、俺はポケットから鍵を取り出し、必死に冷静さを保ちながら鍵穴に差し込んで回した。
よし、開いた。あとは……あとは……。
ぴちゃっ。
透明で粘り気のある液体が、俺の肩に落ちてきた。
俺がゆっくりと顔を上げると、暗闇の中、醜く歪んだ巨大な獣が我が家の玄関にうずくまっていた。
頭の中が真っ白になった。足が無意識にゆっくりと後ずさる。それに合わせるように、そいつもゆっくりと外へ出てきた。
そこでようやく、巨大な獣の姿がはっきりと見えた。
そいつは座っているだけで四メートルもの高さがあり、全身の肉と皮膚は溶けた蝋のように、ゆっくりと滴り落ちていた。
背骨から生えた骨の棘は、木の根のように皮膚を突き破り、ねじれながら伸びていた。
「…………」
俺は口を開いたが、声が出なかった。
巨大な獣には目がなかった。両目のあるべき場所はただの真っ黒な穴だった。それなのに、そいつが俺を「見ている」ことだけは感じられた。
口は閉じることができないのか、大きく開いたままで、顎は地面に届きそうなほど垂れ下がっていた。
そいつの吐く息が肌にかかるのを感じた。
ゆっくりと近づいてくる。巨大な影が俺を覆い、まるでその大口に呑み込まれてしまったかのようだった。
そいつが近づいてくるまで、ほんの数秒しか経っていないはずなのに、俺には一生分の時間が過ぎたように感じられた。
冷静になれと何度も自分に言い聞かせた。だが、身体はまるで言うことを聞かず、震え続けていた。
そいつの舌が、俺の顔をそっと舐めた。まるで美味そうな食べ物の味を確かめるかのように。
「や……」
今にも食われると思ったその瞬間、背中に激痛が走り、身体が勝手に前へと倒れ込んだ。
そうだ……後ろには、まだ……。
そこで俺の意識は途切れた。
本作の日本語訳にはAIを使用しています。そのため、文法や表現に不自然なところがありましたら、お気軽にコメントでご指摘いただけると嬉しいです。
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