記憶を失くした俺を、学園一の高嶺の花がなぜか重く愛している ~夜空に舞うサファイアとトパーズの中で~
「持ってないなら、言っても仕方ないだろ」
「気持ちの問題だよ! 俺だって甚平くらいなら親父の借りてきたかもしれないのに……ってか、お前ガチで似合いすぎてて腹立つな」
「……爺ちゃんが和装好きだったからさ」
「ああ、そっか。わりぃ」
「それはいいんだけど、健太」
「ん?」
「あのな。甚平は部屋着だぞ?」
「え、まじで? じゃあ、もしかして……ここに寝巻でくるようなもんか?」
「まあな」
「あぶないところだったぜ……」
こんなバカな会話を続けながらも、友人──小園 健太の視線は終始出口の方へとせわしなく向けられている。
無理もない。これからここに現れるのは、俺たちが通う学院でもトップクラスの美少女の二人組なのだから。
一人は、二学年でも最上位の可愛さを誇る高階 萌さん。
少し前、葵さんがちょっとした厄介ごとに巻き込まれたことがあって。俺がすぐ駆けつけられたのは、この人の機転のおかげ。
挙げ句、自分まで心配で飛んできて……それ以来すっかり打ち解けて、
『お礼じゃないけど、私のことは萌って呼んでよね』
と、なぜか名前で呼ぶことをせがまれている。
そしてもう一人はもちろん。そう、聖諒学院高等部が誇る、誰もが認める高嶺の花のあの女性だ。──九条 葵。
ひっきりなしに人を吐き出し続ける外苑前駅の出口。
まるで駅そのものが、ふっと呼吸をやめてしまったかのように。行き交う人々が一斉に声を潜め、ただ言葉にならない感嘆だけが世界に取り残された気がした。
それは、ほんの一瞬だけ訪れた三番出口の奇跡。
「──へあ?」
間抜けな声を漏らして、健太が固まる。
すれ違う男たちが次々と振り返り、カップルの女性たちでさえ目を奪われるその中心に。圧倒的なオーラを放つ二輪の花が、並んで立っていた。
その花たちは俺たちの姿を見つけると、嬉しそうに、華やかにこちらへと歩み寄ってくる。
「ちょっと小園。なーに口開けて呆けてるのよ。バカみたい」
「ああ、……いや」
呆れたようにため息をついたのは、白地に赤や紺、緑の椿柄が鮮やかにあしらわれた浴衣を着こなす高階さんだった。
綺麗にまとめられた髪と、いつもより少し大人びたメイク。
普段の勝ち気な雰囲気と、椿柄のレトロモダンな可愛らしさが絶妙にマッチしていて、健太が固まるのも無理はないと。素直にそう思った。
だけどやっぱり、俺の視線は、その隣に佇む彼女に釘付けになってしまう。
こればかりは無理だ、勝手に吸い寄せられていく。
「…………」
「…………」
いや、こんな偶然ってあるのか?
まるでお揃いじゃないか、俺たち。
涼やかで深い、紺青の地。
そこに大ぶりな白い向日葵がパッと咲き誇る、極上の浴衣姿。そして、その細い腰を凛と引き締める真っ白な帯が眩しい。
……白い帯だぞ? そんなの、これまで見たことがない。
長い黒髪は艶やかに編み込まれてうなじを覗かせ、手には小ぶりな竹籠のバッグが握られている。
向日葵。
その名に君と同じ『葵』の字を宿す花。
黄色ではなく、あえて白く抜かれたその花柄が、彼女の持つ圧倒的な気品と清楚さをこれでもかと引き立てていた。ただそこに立つ君を見るだけで、周囲の雑音が消え去って、視界が極端に狭くなっていく。
ダメだ、少しずつ目を慣らさないと、これはマジでヤバイ。
友人たちがすぐ傍にいるというのに、脳裏に浮かんだ恐ろしいことをそのまま口走ってしまいそうな気がして、俺は慌てて葵さんから目をそらす。
いいか、蒼。直視厳禁だ。しばらくは我慢しろ。
「た、高階さん、すごく似合ってるよ。なんていうか、モダンで……逆に凄くお洒落だ。なんだか、いつもより大人っぽくて、いいな」
狼狽えを隠すように、回るクチが滑稽だった。
我ながら、誤魔化し方が下手くそすぎて嫌になる。お前は子供か。
「ほーら。小園、いまの聞いた!? これよこれ。さすが水無月くんよね。あんたも少しは見習ったらどう?」
「へっ!? あ、ああ、そーだな! 顔だけは可愛いもんな。顔だけは!」
「いつも一言余計なのよ!」
「いてっ! ちょ、おま……っ、下駄で蹴るな、下駄で!」
「ふん。馬鹿は置いておいて。水無月くん、その浴衣すっごい本格的じゃない? 超似合ってるよ。お洒落~」
「そうかな? ガチすぎて浮いてないか心配だったんだけど……」
「くっ……。コイツが一人で勝手に張り切ったせいで、俺だけ私服だよ」
「だーかーら、お前持ってないだろ」と、健太を適当にいなしながら、俺はふと、静かなままの彼女へと視線を戻した。
当の葵さんはというと、この賑やかなやり取りからぽつんと外れて、自分だけ蚊帳の外に置かれたような……違うな。
たぶん、一番望んだ言葉を俺から貰えなくてヤキモキしているのだろう。
手にした竹籠バッグの持ち手を指先で弄りながら、どこか不満げにもじもじと視線を彷徨わせていた。
可愛らしい唇が心なしか、尖っていく。
どんどん、どんどん……。
神宮球場へと続くスタジアム通りを、君と並んで進む。
押し寄せる人波が自然と、俺たちを二人ずつの並びへと誘ってくれたおかげで、健太と高階さんが少し前を歩く形になった。
前の二人の視線が外れたのを、これ幸いとばかりに。
隣の君が、俺の浴衣の裾をきゅっと小さく引いて見上げた。
「……蒼くん」
「ん?」
「……私には、何もないのかしら?」
不安げに揺れる、その真っ黒な瞳に。
一瞬、心臓を直接掴まれたような錯覚に陥る。
彼女は時々、信じられないほど甘い言葉をさらりと落としてくるから。そう、俺への想いだけは絶対に隠さないんだ。
そしてさっき、よりにもよって俺の方が、それと似た台詞を口走りかけていた。友人が傍にいるというのに。
俺は照れ隠しにすこしぶっきらぼうな態度で返す。
周囲の雑踏が、俺の言葉を隠してくれると信じて。
「違う。変なことを口走りそうになったから、その」
「変なこと?」
「き、君が言いそうなことを、俺もつい言ってしまいそうになったからだよ」
「二人きりになれたら……聞かせてくれるの?」
「なれたらね」
「ふふっ、わかったわ。なら、私もその時に言うね」
歩幅を合わせる彼女の、真っ白な帯に映える紺青の布地が、その心音に合わせるように、小さく、小さく揺れていた。
スタジアムの入り口付近に差し掛かると、人混みはさらに密度を増していた。
浴衣姿のカップルや、お祭り気分のグループが入り乱れ、油断すれば一瞬ではぐれてしまいそうなほどの巨大なうねりとなっている。
「そうだわ。あまりにも人が多いから、先にチケットを渡しておくわね」
人の波に押されそうになりながらも、葵さんが小さな竹籠バッグから四枚のチケットを取り出し、俺たちに手渡してくれた。
「はぐれてしまっても、これなら席で合流できると思うの」
「ありがとう。じゃあチケット代──」
財布を取り出そうとした俺を、葵さんがふるふると首を横に振って制止する。
「ううん、いいの」
「そんなの悪いわよ……葵さん」
「だよな」
高階さんの言葉に、俺も相槌を打つ。
「萌さん、これはね……母からのプレゼントなのよ。だから気にしないで」
「えっ、九条さんの母ちゃんから!? マジで!?」
健太が素っ頓狂な声を上げながら、受け取ったチケットの券面をまじまじと見つめていた。わかるぞ健太、いくらなんでもだよな。
なにしろ、手元にあるのは『神宮球場 アリーナSS席』だ。甘えるにしても限度があるだろう。
「なら、こうしよう。アリーナ席は飲食禁止って書いてあるからさ。始まるまで周辺の屋台で少し食べないか? せめてものお返しに、葵さんの分は俺が払うよ。……まあ、これじゃ全然足りないから、残りはまた後日ってことで」
「蒼くん……いいのに」
「水無月くん、それずるすぎ! 私も葵さんのぶん出す!」
「え、俺の出すぶんもう無さそうじゃね? 九条さん絶対小食だろ……」
心底困ったような健太のぼやきに、俺と高階さんがたまらず吹き出す。
目を細めていた葵さんも、意味を理解して少し遅れて「ふふっ」と肩を揺らした。
「しかも、炭水化物は驚くほど食べない」
なぜか俺が誇らしげに胸を張ると、健太がすかさずツッコミを入れてきた。
「キッチンカーでサラダとか、ねえよ!」
「もう、みんなして馬鹿にして……」
「あははは、面白すぎ~」
夏の夜の生ぬるい風が吹き抜ける、スタジアムの入り口付近。
数万人が行き交う途方もない喧騒の片隅で、俺たちは顔を見合わせて、おかしいくらい自然に笑い合っていた。
「あと、オリーブオイルが大好きだ」
「うえ、あの……何がいいのかさっぱりわからんヤツきた!」
「追いオリーブもあるからな!」
「追いオリーブってなんだよ。意味わかんねえ」
「もうっ! それ、まだ続くわけ!?」
「あは、でも葵さんっぽいー」
そんな賑やかな笑い声を余韻に残しながら、俺たちはスタジアム周辺にひしめき合うキッチンカーや屋台へと足を向けることにした。
スタジアム通りから続くその一帯は、熱気と食欲をそそる匂いに包まれ、あちこちで長い人の列を作っている。
「うーん、折角なら今日しか! ってやつがいいよなあ」
ずらりと並ぶ魅惑的な看板を前に、健太が腕を組んで真剣な顔で唸る。
焼きそばに、なぜか牛丼。ヒレカツサンドなんてのもある。
「ありきたりなのは、ちょっとね~」
「よし決めた! 俺、あそこの『限定メガ盛り焼きそば』と特大フランクフルト買ってくる!」
「ちょっと小園、私にもフランクフルト一口ちょうだいよ!」
「自分で買えよ!」
「一本は無理だもん!」
宣言通りにお祭り感全開のジャンクフードへ突撃していく健太を、高階さんが楽しげに目で追いかける。
そんな友人の背中を見送ってから、俺は隣を歩く女子二人へと視線を向けた。
あらためて思う。本当に、目立つ二人だなと。
「さて。炭水化物をあまり食べないお嬢様のお口に、あうものはあるかな」
「もう、それ。まだ言うの?」
「あはは。でも実際、浴衣が汚れそうなのは困るよね」
「なるほど、確かに。なら、ソース系とかはやめておいたほうがいいな。……じゃあジェラートとかどう? 今晩も暑いしさ」
「それがいいわ」
「私も!」
「お、決まりだね。じゃあ買ってくるから二人はここで待って──」
そこまで言いかけて、俺は周囲の視線にはたと気づいた。
すれ違う男たちが、さっきからチラチラと俺たちの……正確には、浴衣姿で圧倒的なオーラを放つ二人の様子を、あわよくばと隙を窺うように見つめている。
「……いや、やっぱりやめだ」
「え?」
きょとんと首を傾げる二人に、俺は少し声を潜めて言う。
「俺が離れたら絶対にナンパされると思う。二人だけでは残しておけないから。悪いけど、一緒に並んでくれるか?」
その言葉に、高階さんは少し驚いたように目を丸くした後、
「……み、水無月くんがそこまで心配してくれるなら、一緒に並んであげよっかな」
と嬉しそうに口元を綻ばせた。葵さんも、
「ふふっ。もちろんよ。むしろ来るなと言われても付いていくわ」
と、さも当然のように微笑んでくれる。
高階さんの前では、随分と俺への執着を隠さなくなってきていた。
そうして俺たち三人は、健太とは別のキッチンカーの列へと並ぶ。
少しずつ順番が近づき、色とりどりのメニューボードを見上げながら俺は二人に尋ねてみた。もちろん、彼女たちに払わせる気なんてない。
それどころか、あのチケットの値段に比べれば、これっぽっちでは全然足りやしないのだ。かといってアイスを何十個も食べさせるわけにもいかず……。
「二人は何にする?」
「うーん、どれも美味しそうで迷っちゃうね。……あ、そうだ葵さん!」
「え?」
「私たち、別々の味にして少しずつシェアしない? そしたら二種類の味が楽しめるし!」
「シ、シェア……? え、ええ、いいわよ。……なんだか、楽しそうね」
色んなものを少しずつ食べたいという、高階さんの女子らしい欲求と、葵さんが未知の体験への少しの照れを込めて頷く形で、二人のメニューが決まっていく。
俺はそんな二人を眺めながら、この暑い夏の夜に相応しい、さっぱりとしたラムネ味を頼むことにした。
三人でカップのジェラートを受け取り、少し開けた場所まで移動する。
「蒼くん、ありがとう」
「私まで。ごめんね、ご馳走になっちゃって」
「いいって。そんなことより早く食べよう、溶けてしまう」
「そ、そうね」
「確かに!」
「んー! 冷たくて美味しい。じゃあ、葵さんのピスタチオも一口ちょうだい」
「え、ええ、どうぞ」
不意にスプーンを差し出され、一瞬だけ戸惑ったように目を瞬かせる葵さん。
たかがジェラートのシェアに、ほんのりと頬を桜色に染めている。たぶん君は、こんな些細な友達とのやり取りすら初めてなんだろうな。
「私のクッキー&クリームもどうぞ」
「……で、では。あら、萌さんのも甘くて美味しいわ」
「でしょう? やっぱりシェアして正解!」
それぞれの小さなスプーンで互いのカップをつつき合い、二人は満面の笑みを浮かべている。甘いものを食べている時の女子って、本当に幸せそうだよな。
……しまったなあ。
俺ももう少し二人が食いつきそうな、モノにすればよかったか。
ラムネて。
選んだ自分が、恥ずかしい。
「……こんなので良かったら、食べてみる?」
俺が少し控えめに自分のカップを差し出すと、葵さんはパッと花が綻ぶような笑顔を見せた。それにつられて高階さんまで、ぱぁっと表情を輝かせている。
すごいな、美少女二人の笑顔の大洪水だよ。
こんな眩しい二人と同じクラスになれて、仲良くなれて。実は俺って、もの凄く幸運な奴なんじゃないだろうか。
しかも、その内の一人には、こんなにも真っ直ぐに想われて。
「ふふっ、ありがとう」
葵さんは自分のスプーンで淡い水色のジェラートを掬い、小さく口を開ける。冷たそうに目を細め、ラムネの味を存分に楽しんでから。
「……んっ。さっぱりしていて美味しいわ。なら、私のもお返しね。はい、蒼くん。あーん」
「えっ!?」
自分がたったいま、口に含んだばかりのスプーンでピスタチオのジェラートを掬うと、そのまま俺の口元へと差し出してきたのだ。
「あ、いいな、いいな。じゃあ私のもあげる! ああでも、ちょっと待って、あーんしてる葵さんが尊すぎて無理……! シャッター切りたい!」
張り合ってくるのかと思いきや、まさかの限界オタク化!?
右からは、少し首を傾げて俺の口が開くのを待っている、圧倒的に可愛い葵さんの『あーん』があって。
左には、葵さんを拝むように見つめている高階さんの姿。
どういう構図だよ。
「……蒼くん?」
「あ、ああ。……いただきます」
促されるまま、俺はそのスプーンを口に含んだ。
濃厚なピスタチオの甘みと、冷たいはずのスプーンに微かに残る彼女の体温を、唇が生々しいほど鮮明に感じ取ってしまう。
だからこそ、かな。それを飲み込んだ瞬間、俺の口から、ふっと我慢しきれない笑いが漏れていた。
だって、なあ? 物凄い落差なんだ。
「……ふふっ、ははっ」
「えっ? ど、どうしたの? 今の、笑うところだったかしら」
葵さんが少し不安げに俺を見つめる。
その戸惑った様子が、余計におかしくて。
「いや……ごめん。ちょっと思い出しちゃってさ。ほら、ずっと前の病院のこと。覚えてる?」
「病院……?」
「俺が、入院してた時のことだよ」
葵さんが記憶を辿るように、小さく眉を寄せる。その瞳に、ある光景が徐々に蘇りつつあるのが分かった。
「も、もしかして」
「そう。食事を手伝ってくれようとした君にさ、こう『あーんとでも、言えばいいの?』って言われたんだよ。今より随分と冷えた顔で、ぶっきらぼうに」
「っ……!?」
瞬時に思い出したのだろう。
さっきまで得意げに微笑んでいたはずの白い向日葵さんが、一瞬で耳の先まで真っ赤に染め上げられていく。
「……そ、そんなことばっかり、克明に覚えてるんだから。もう忘れて!」
「な、なになに今の!? 病院に入院してたときの話? 私知らないんだけど!?」
「ああ、萌さんまでっ」
「昔は冷たかったんだよ。『蒼くんのバカ! アホ!』って言われたこともあるな」
「えっ、葵さんが? 信じられない……!」
「ち、違うの。……あれは、そう、蒼くんがいけないのよ! 勘違いさせて、私一人にだけ変な告白させるからっ!」
「こ、告白ぅーっ!?」
特大の爆弾発言に、高階さんが目を輝かせて身を乗り出してくる。
「ちがっ、萌さん忘れて! そういうのじゃないから」
と顔を覆う葵さんと、「詳しく! どっちでもいいから詳しく教えて!」と詰め寄ってくる高階さん。
ああ、もう。
完全に自業自得とはいえ、俺は完全に逃げ場を失ってしまった。
こんなにも可笑しくて、愛おしい。高校二年の夏休み。
俺は冷たいジェラートを目の前にしているはずなのに。
夏の夜の生ぬるい風のせいか。それとも、交互に突きつけられる彼女たちの眩しさのせいか。
うん、なぜかちっとも涼しくなかった。むしろカッカとするばかり。
健太はまだか……。おせーぞ。
「それにしても小園、遅すぎない?」
「限定メガ盛り焼きそばの列、相当並んでたみたいだからなあ」
「もう、待ってられないっての。ねね、あそこのチュロス美味しそうじゃない? さっきのジェラートのお返しに、今度は私がご馳走しちゃう! 葵さんへもお返ししたいしね」
「そんな、いいのに」
「ううん、葵さん待ってて」
「あっ、おい高階さん、待てって!」
なんともはや。俺の止める声よりも早く、高階さんは一直線にチュロスの屋台へと駆けていってしまった。
いくら女子とはいえ、さすがにさっきの小さなジェラートだけでは食べ足りなかったらしい。
ただでさえ目を引く浴衣姿だというのに。
この二人はホント、変なところで似てるというか、擦れていないというか。自覚というものがどうも足りない。
心配する俺をよそに、あっという間に三人分のチュロスを買ってきてくれたのはいいとして。
「はい、二人ともどうぞ。シナモンシュガー味! 勝手にこれにしちゃったけど、シナモン大丈夫よね?」
「ええ、大丈夫よ。ありがとう、萌さん」
「ああ、俺も。ありがとう」
手渡された長いチュロスを、葵さんは両手で大切そうに持ち、端のほうから小さく上品に齧り始めた。
少しこぼれそうになった砂糖を気にしてか、小動物のようにカリカリとかじっていく姿が可笑しくて、俺はつい高階さんと顔を見合わせて笑ってしまった。
「葵さん、もっと、こう食べるんだよ」
「日が暮れちゃうよ、その食べ方。って、もう夜だけど」
「ええっ!?」
まさかの、俺たちからの二人同時ダメ出し。
俺が手本を見せるようにガブッと大きくかじりつき、高階さんはクスクスと笑う。葵さんはぱちくりと瞬きをして、チュロスと俺たちを交互に見比べている。
「だ、だって、大きく口を開けるなって教わったもの」
「さすが葵さんね、ガチお嬢様だわ」
「ガ、ガチって……」
「えっ、もしかして葵さん『ガチ』も知らなかったりする?」
「……か、帰ったら調べておくわ」
顔を赤くして目を逸らす葵さんに、俺と高階さんはたまらず吹き出した。
そんな他愛のないやり取りで笑い合いながら、サクサクとした甘いチュロスを三人でかじり終え、ウェットティッシュで手を拭き終わった頃。
高階さんが包み紙を捨てようと、少し離れた場所にあるゴミ箱へ小走りで向かおうとしたので、俺はすかさず声をかけた。
「さっきもそうだけど、あまり俺から離れるな。まじでナンパされても知らないぞ」
「えっ? あ、うんっ。……もう、水無月くんってば過保護で優しいんだから! いいなぁ葵さん」
「でしょう? でも、あげないわよ」
「ええっ、じゃあたまにでいいから、貸してよ」
「だ、だめよ。いくら萌さんでも、そ、それだけは」
おい、本人の前でそのノリはやめてくれ。
何だか妙に恥ずかしくなって、居心地の悪さに視線を彷徨わせ始めると。
「おーい! 待たせたなー!」
人混みを掻き分けて、両手に溢れんばかりのプラスチックパックと大きな串を抱えた健太が、満面の笑みで帰還した。
「おせえよ健太」
文句を言う俺に、健太は片目を瞑ってニヤリと不敵な笑みを浮かべてみせる。
「すまんすまん。でも、楽しかったろ?」
「あのなあ……」
色々ありすぎてどこから突っ込むべきか頭を抱える俺の横から、
「小園まじで遅すぎ! 私たちもうジェラートとか食べちゃったとこよ。で、私のフランクフルトは!?」
「は? お前のじゃねえし」
「お前言うな!」
「ぐっ、俺がどんだけ必死に並んだと思ってんだよ……」
「いいから早く!」
「しゃーねーな。ほらよ」
健太が渋々と、特大のフランクフルトを投げやりに突き出した、その瞬間だった。
ぼたっ、と。
たっぷりと塗られていたケチャップの塊が、あろうことか、高階さんの椿柄の浴衣の、ちょうど胸元のあたりに落下した。
「ああっ!? 嘘でしょ?」
「げっ。わ、わりぃ! ちょ、蒼これ持ってて!」
「はっ? お、おいっ!」
高階さんの悲鳴に顔面を蒼白にさせた健太は、両手に抱えていたメガ盛り焼きそばのパックを強引に俺の胸へと押し付けてきた。
両手が空くや否や、健太は何を血迷ったかポケットからハンカチを引っ張り出し、あろうことか高階さんの胸元を直接ゴシゴシと拭き始め……。
「ま、待て、健太そこはマズイっ!」
「んあ? なんだよ蒼」
「あ……」
自分の胸元で無遠慮に動く健太の手を、高階さんは信じられないものを見るかのようにまじまじと見つめていた。
みるみるうちに顔を沸騰したように赤く染め上げ、華奢な肩がわなわなと、小刻みに震え始める。
これは、終わったな……。
俺は両手にメガ盛り焼きそばを抱えたまま、親友の命日が今日になったことを悟った。
さようなら健太。なんて馬鹿なことをしでかすんだ、お前は。
拭く手もそうだが、添えた左手の場所も悪すぎる。
「ちょっ! ど、どこ触ってんのよこのバカぁぁっ!」
「え、でも全然柔らかくねえし……」
「今すぐ死ね!」
「ぐふぉっ!?」
ドゴオッ!
可憐な浴衣姿からは到底鳴ってはいけない、うん。素人とは思えない鈍い打撃音が響いた。
見事なフルスイングの右拳をアッパー気味に腹へと叩き込まれ、健太は『くの字』に折れ曲がってそのまま地面に崩れ落ちる。
顔を真っ赤にしてフンスフンスと荒い息を吐いている高階さんと、白目を剥いてピクピクと痙攣している健太。あれは痛い……。
「ま、まさかの、フルスイング腹パンっ!?」
「こんな奴、当然よ!」
「甘いわね、蒼くん。私だったら、今のは膝蹴りだったかもしれないわよ」
「さすが葵さん。話がわかるー。ありえないよね」
「ええ、あそこは駄目よ」
「ひ、膝蹴り……」
いくら場所が悪かったとはいえ。容赦がなさ過ぎる。
キレた美人は怖い。そういえば担任の吉岡先生もそんな節がある。
こんなの全然、ガチお嬢様じゃない。
さっきまで小動物のようにチュロスを食べていたお嬢様から飛び出した、あまりにも物騒なお言葉に戦慄する。
両手にメガ盛り焼きそばを抱え、俺は自然と背筋をピンと伸ばしていた……。この二人相手のラッキースケベは命懸けだぞ、と知る。
「……う、ううぅ……胃が、胃が裏返ったかと思った……」
ようやく呼吸を再開した健太が、伸ばした俺の腕を掴んで立ち上がる。
まだ膝に力が入っていないのか、ガクガクと震わせながら。
「自業自得よ。あーあ、まだ汚れが残ってるじゃない。どうしてくれるのよ。……これだから小園は嫌なのよね」
「小園は嫌って、それ酷くないか」
「なによ、文句ある?」
高階さんは、まだ赤みが残る椿柄の胸元を、これでもかと健太の目の前に突き出した。そこには、健太がパニックでこすったせいで余計に広がってしまった、無残なケチャップのシミが痛々しく居座っている。
それはまさに、彼がしでかした大罪の証拠そのものだった。
「これを見ても、まだそんな口が叩けるの? ねえ? もう一回死ぬ?」
「い、いや、ないです。……本当にすみませんでした」
「ふんっ」
あのフルスイング腹パンの後だもんな。
そりゃ、敬語にもなる……。
未だにプンスカと怒りの収まらない高階さんと、その横でひたすら小さく縮こまる健太。
そんな二人の間に、葵さんがスッと割って入った。
「萌さん、少しじっとしていてくれる?」
「えっ、葵さん?」
葵さんは手に持っていた涼しげな竹籠の鞄から、小さなスプレー状の物と白いハンカチを取り出した。
「これ、応急用の染み抜きなの。放っておくと色が定着してしまうわ」
手際よくキャップを外し、シュッと一吹きしてから、葵さんは高階さんの胸元へ慎重に手を伸ばした。
彼女の白く細い指先が、トントンとリズム良くシミを叩いていく。
「葵さん、どうしてそんなものを持ってるの?」
「ふふ、モデルという仕事柄、つい常備してしまうの」
「あー、なるほど。さすが葵さんね」
「わあ……。すご、随分薄くなったような!」
「完全に乾く前で良かったわ。帰ったらちゃんとクリーニングに出しましょうね」
「はーい。……ってもう、葵さんマジで女神! あーん、大好きすぎる~」
高階さんはそう言うが早いか、葵さんの細い体に正面から抱きついた。
「ちょ、ちょっと、萌さんっ? 浴衣が崩れてしまうわ」
と頬を染めて慌てる葵さんと、「いやーん。超いい匂いするー」と顔をすり寄せる高階さん。
「はぁ、水無月くんですら、もったいなさすぎる気がしてきたわ」
「言ってろ。そんなことは俺もわかってるよ」
「ふふ。私の方こそ、蒼くんには勿体ないくらいだと思っているのだけれど」
「ああああ、やっぱり女神~」
女子二人の間で完全に置いてけぼりにされ、俺はただ苦笑いするしかない。
それは、未だにお腹をさすりながら引きつった笑いを浮かべている健太も同じだった。
そんな時、スタジアムの巨大な壁の向こう側から、地鳴りのような重低音が漏れ聞こえ始める。
──ドォン、ドォン。
空気を、地面を、そして内臓を直接震わせるドラムの音。それに急かされるように、周囲の観客たちが一斉に入場ゲートへと足を速める。
いよいよ、祭りの本番が始まろうとしていた。
「あっ、ライブ始まっちゃう! 行こ!」
「色々ご、ごめんなっ、高階さん……」
「しょうがない。葵さんに免じて許してあげるわ」
そう言って、高階さんは小さく笑いながら健太の背中をぽんと叩き、二人で人混みの先へと歩き出していった。
その背中を追いかけようとした時、ふと、隣を歩く葵さんと目が合う。
未だに「膝蹴り」という単語の威力から立ち直れずにいる俺に気づくと、葵さんは夜闇に咲く艶花のように、この上なく艶麗な微笑みを向けた。
「ふふっ。大丈夫よ、蒼くん。そんなに怖がらなくても」
「え……?」
「蒼くんにはそんなこと、絶対にしないわ」
それは知ってるさ。ただギャップに戸惑っただけで。
鈴の音のような澄んだ声。さっきまでの艶麗さはどこへやら、そのあまりに無垢な表情に、俺は思わず安堵の息を漏らしそうになった。
だけど。
葵さんは、すれ違う観客の誰にも聞こえないような小さな声で、俺の鼓膜にはっきりと刻み込むような、ひどく冷たくて甘い声で付け加えたんだ。
「私を捨てたり……浮気、しなければ。……だけど」
「そんなこと、あるわけが」
慌てて返した俺の言葉を、彼女はさらりと、けれど絶対に逃がさないように受け止める。
「ええ。期待しているわね、蒼くん」
鼓膜を揺らす鈴のような声と、腹に響く地鳴りのような音。
俺たちは流れるような人混みに乗り、いよいよ光り輝くスタジアムの中へと足を踏み入れていく。
熱狂の渦に呑み込まれ、互いの距離すら見失いそうな雑踏の中で。
俺を見つめる彼女の視線だけは、片時も外れることはなかった。
「誰よりも、信じているから」
熱い風と、重低音。
動いた唇が紡いだはずの最後の言葉だけが、俺には聞こえなかった。
──聞こえないばかりの夜が、もう間もなく始まる。
神宮球場を揺らす、地鳴りのような重低音。
用意してくれたアリーナSS席には、ステージから放たれるカクテル光線が、色とりどりの光の礫となって絶え間なく降り注いでくる。
見たことも無い光のシャワー、耳をつんざくような凄まじい音圧。
十数メートル先で歌い踊る女性アーティストの輝きは、その歌声を含めて確かに圧倒的だったけれど、今の俺の視界を支配しているのは、隣に座る彼女の横顔だったりする。
この異常なほどの興奮と音の中でさえ、俺の言葉が少しでも届いているか、確かめずにはいられなかったから。
「俺さ! って、葵さん聞こえる?」
これ以上ないくらい声を張り上げてみても、俺の声はスピーカーから放たれる爆音にあっさりと呑み込まれ、彼女の鼓膜へ届く様子はない。
「ええっ? 聞こえないわ。蒼くん!」
葵さんがこちらを向き、困ったように眉を下げて首を振る。
陶器のように滑らかで白い彼女の肌が、ライトに照らされて赤くなったり、青くなったりと、目まぐるしくその表情を変えていく。
折角のアリーナ席だというのに、俺は一瞬だけライブの熱狂を忘れてその姿を眺めてしまっていた。
鼓膜を震わせる圧倒的な音圧が、ささやかな会話すら許さないとでも言うように、俺たちの間を乱暴に分断していく。
すると葵さんは、俺の話を聞き取ろうと少しだけ腰を浮かせ、耳を俺の唇へと近づけてくれた。
あまりの音に届くか不安になった俺は、さらに距離を詰め。
「実はライブって、初めてなんだよね!」
声を張り上げた瞬間だった。
ダン、ダダン、ドォォンと。
今日一番の重低音が腹を突き上げた。完全に油断していた俺は、音の衝撃にビクッと体を跳ねさせてしまい。
「あっ……!?」
勢い余った俺の唇が、あろうことか、無防備に差し出されていた彼女の柔らかな耳へと、吐息ごとそのまま押し当てられてしまったのだ。
意図せぬ、耳への口づけ。
「きゃっ!?」
葵さんの華奢な肩が、大きく跳ね上がる。
慌てて耳元から顔を離すと、彼女は驚いたように目を丸くし、びくりと細い肩をすくめながら、真っ赤になった耳を押さえて俺を凝視していた。
マズい。つい、耳を。
俺が慌てて謝ろうとした、その時だった。
今度は葵さんが、逃がさないと言わんばかりに俺の首筋に手を回し、その顔をぐいっと引き寄せてきた。
驚く間もなく、彼女の潤んだ唇が俺の耳元へと寄せられる。
「私もよ! ライブは初めて! 会話もできないくらいうるさいのね!」
熱い吐息が、ダイレクトに鼓膜を揺らしてゾクリとする。
普段は隙のない彼女が、珍しく耳まで真っ赤に染めたまま、俺に聞こえるように一生懸命声を張り上げてくれている。
「でも、本当に耳はやめて! こそばゆいからっ!」
最後の方は、音楽にかき消されてほとんど声になっていなかった。
けれど、至近で見つめ合う彼女の唇の動きと、その恥ずかしそうな表情だけで、俺には十分すぎるほど伝わった。
アーティストが煽る熱狂よりも、いまも首元に残っている彼女の指先の熱さのほうが、よっぽど俺の心臓を狂わせていた。
——ライブも初めて。
——こんなに心臓がうるさいのも、葵さんが初めてだ。
そして、今日初めて知った。君は耳が弱いことを。
俺が一人、胸の内の熱に浮かされている一方で。
「……っ、……っ!」
葵さんの向こう側では、健太が何かを叫びながら拳を突き上げているのが見えた。
その隣に座る高階さんはといえば、ペンライトを激しく振りながら完全にステージへと没入している。
数分前まで「死ね!」「ひでえ!」と罵倒し合っていたはずなのに、あの二人はなんだかんだで本当に仲がいい。
スタジアムを支配する、理屈抜きの熱狂。
その後も何組かのトップアーティストたちが次々とステージに登場して会場を沸かせ、神宮球場の熱気は留まることを知らずに上がり続けた。
大トリを飾る演奏が終わり、夜空に向かって銀テープが勢いよく舞い散る。
割れんばかりの拍手と歓声が響き渡る中、ステージの眩しい照明がゆっくりと落ちていった。
少しずつ、暗くなるスタジアム。
「楽しいけど、暑いな」
漏らした呟きに合わせるように、熱気で火照った体を冷ます心地よい夜風が、アリーナ席を吹き抜けていく。
ふと見上げれば、いつの間にかすっかり日は落ちていて。そこには都会特有の、白茶けてどんよりとした、星一つ見えない夜空が広がっていた。
皆には言ったことないけどさ。
実は俺、子供の頃から星や星座の図鑑を眺めるのが、結構好きだったんだよな。
「神宮じゃ、星も見えやしない」
「え?」
「ああ、いや。ここじゃ星が見えないなって。俺、子供の頃とか、星を見るのが好きだったんだよね」
「うん……知ってる」
「え、なんて?」
ライブの凄まじい音圧の余韻で、俺の耳の奥では未だにキーンという甲高い耳鳴りが続いている。だから、彼女の唇が微かに動いたのはわかったけれど、その声は全く拾えなかった。
それはたぶん、君も同じはずで。
届かなくていい。いや、届かないでくれ。
今から呟くこれは、俺の勝手な願望でしかないから。
そんなズルい言い訳を盾にして、俺は誰にも聞こえないほどの小さな声で零してみた。星の見えない夜空に乗せた、俺のセンチメンタルを。
「冬になったら、奥多摩に星でも見に行かないか?」
我ながら、地味すぎる好み。
もっとお洒落な場所に誘えよ、と自分にツッコミたくなる。
隣の彼女にすら届かないことを期待した、ただの恥ずかしい独り言。
だからやっぱり、何の反応もなかった。ただ君は俯き、膝の上のペットボトルをぎゅっと握りしめている。それでいい。
『──これより、神宮外苑花火大会を開始いたします』
直後、その俺の小さな声すらも完全にかき消すように、場内アナウンスがスタジアムに響き渡った。自分の勝手な羞恥と心音を塗り潰してくれるその音声に、今は救われている。
その声につられて、数万人の観客から「おおっ!」というどよめきと歓声が上がる。
ライブの『動』の熱狂から、夜空を見上げる『静』の期待感へ。
スタジアム全体の空気が、魔法をかけられたようにガラリと変わった。
「いよいよだな!」
「超、楽しみ~」
「ふふっ、私も楽しみよ」
期待に満ちた会話を最後に、スタジアムの照明が完全に落とされた。
都会の夜に、ぽっかりと空いた巨大な闇。
未だ耳鳴りの残る鼓膜で、俺たちは暗闇の奥からやってくる『その時』を、固唾を呑んで待ち構える。
来た!
シュルシュルと、空を切る小さな音。
その音を捉えた直後。
ドォォォォンッ!!
ライブの重低音すら上書きするような、腹の底を直接揺さぶる爆裂音が神宮球場に叩きつけられた。
夜空に咲いたのは、視界すべてを埋め尽くすような巨大な赤い牡丹。
パラパラと火の粉が降り注ぐような余韻の中に、緑や青の光が重なり合い、遅れてまた「ドンッ」と重い音が空気を震わせる。
「わあ……っ! すごい、近い……っ!」
「うおおお、玉屋―!」
「え、じゃあ鍵屋ー!」
今どきそんな掛け声、誰もしてないだろうに。
そうツッコミたくなったけど、葵さんの向こうで声を合わせる二人は、まるで子供のように目を輝かせて夜空に釘付けになっていた。
赤に、緑、そして青。
夜空を彩る極彩色の光が、隣に座る彼女の横顔を代わる代わるに照らし出す。
俺たちは並んで、少し身を寄せ合って。
健太たちの騒ぎ声を遠い世界の出来事のように聞き流しながら、じっと、その色彩の渦を見つめていた。
ドンッ、という心臓の拍動にも似た音が、耳の奥で反響する。
「……蒼くん」
次に上がった特大の打ち上げ音に紛れて、彼女が俺の名を呼んだ気がした。
一転、今度は音もなく空が裂けた。
天の高みから、幾千もの金の雫が光の筋となってしだれ落ちてくる。
夜闇を侵食していくのは、ありふれた黄金を遥かに凌駕する、眩いほどに光り輝く『金白』の柳。
その贅沢な煌めきに負けることのない、どこまでも澄んだ『青』の閃光が、砕け散る宝石の破片さながらに鮮烈に弾け飛んだ。
なんという、美しさだろう。
確かに、君が隣で俺の名を呟いた気がした。けれど今は、この贅沢な光の饗宴からどうしても目が離せない。視界のすべてを染め上げる金白と青の光の帳が、アリーナ席に座る俺たちを優しく包み込んでいく。
夜空に浮かぶ、深黒な巨大キャンバスに描かれた、鮮烈な二色の対比は。
その圧倒的な光景は、俺の脳裏に、幼い頃に何度も眺めた星の図鑑の一ページを、鮮明に呼び覚ましていた。
「……まるで宝石、アルビレオじゃないか。なんて綺麗なんだ」
無意識だった。
その呟きは、周囲の歓声にかき消されて、誰の耳にも届かないはずだった。
ハッとして口をつぐむ。しまったなあ。つい、昔の癖で星座オタク的な発言を漏らしてしまった。
はくちょう座の連星アルビレオ。こんなの、誰も知らないだろうに。
自分のセリフに顔が熱くなり、誤魔化すように視線を泳がせた、その時だ。
「……葵さん?」
隣に座る彼女の横顔を見て、俺の心臓は一瞬、拍動を忘れた。
黄金の光に照らし出された彼女の頬を、一筋の銀色が伝っていた。
夜空を見上げたまま、葵さんの瞳からは、絶え間なく涙が溢れ出していたのだ。
なんで? どうして?
心がざわつく。
腹の底を震わせる打ち上げ音が続く中、彼女は声を漏らすこともなく、ただ静かに、その二色を見つめ続けていた。
「え。な、なんで? 何か悲しいことでもあった?」
「ふふっ……」
慌てて身を乗り出した俺に、葵さんはゆっくりと視線を落とす。
瞳に溜まった雫が、夜空の花火を反射して星のように煌めく。そのまま彼女は困ったように、けれどこの上なく幸せそうに微笑んでみせたよ。
「大丈夫、蒼くん。……花火を見て泣くなんて、この広い神宮球場できっと私だけなのでしょうね。どうか、気にしないで」
そう言って、彼女は指先でそっと涙を拭った。
夜空を彩った金白と青の連なりは跡形もなく消え去り、次なる大輪、鮮烈な赤や緑の光が彼女の横顔を別の色へと塗り替えていく。
その目まぐるしく移り変わる色彩の中で、彼女はぽつりと言葉を紡いだ。
「人は、変わらない。それが嬉しかったの」
* * *
"|I am from Japan.《私は日本人よ》"
今の私なら、胸を張ってそう言えるけれど。
当時の私にとっての日本は、息が詰まるほど退屈で、ひどく閉鎖的で。子供心に、とてもくだらない国に思えた。
「Hey, Grandma, why did you marry a Japanese man?(ねえ、おばあ様はどうして日本人のおじい様とけっこんしたの?)」
まだ幼かった私の問いに、ナンシーお婆様は優しく微笑んでこう答えてくれた。
「Japanese men are strong-willed and wonderful. I hope Aoi finds a boyfriend like that one day.(日本の男性は芯が強くて素敵なのよ。葵にも、いつかそんな彼が見つかるといいわねえ)」
「Humph.(ふうん)」
大好きなお婆様からそう聞かされていたから、私は変に期待し過ぎていたのかもしれない。この小さな島国に。
祖母の暮らすアメリカから、両親の待つ日本へ。
けれど、日本に来て初めて受けた洗礼は、ひどく冷たいものだったわ。
何の疑いも知らなかった私の心は、その日々のなかで、容赦なく散々に打ち砕かれていった。
『うわ、外国人だ!』
『日本に来たら、日本語を話せよな!』
『マイネイム、イズ、タロウヤマダ、あはは』
『オレも知ってるぜ、アッポーペンだろ!?』
『おい、英語混じりで喋ってんじゃねえよ!』
馬鹿にしているの?
向けられるのは、私の容姿や、時折混ざってしまう英語を面白半分に揶揄う、心無い言葉ばかり。
排外的でツマラナイ国、それが私にとっての日本。
悲しかった。辛かった。だからいつしか私は、早くアメリカへ帰ることばかりを望むようになっていた。塞ぎ込んだ私の目には、見るもの全てに影が差して見えたのだと思う。これが、悪循環の始まり。
そんなある日、お婆様から頂いた大切なテディベアを、意地悪な男の子たちに奪われてしまった。
嘘みたいでしょう?
当時まだ体も小さくて、病弱だった私では、それを取り返すことさえできなかったのよ。乱雑に扱われる宝物を前に、ただ立ち尽くし、泣いて、一所懸命に叫ぶだけ。
よわむしで、なきむしのアメリカ帰りのアオイ。
泥だらけにされていく宝物を前に、ただ泣くことしかできなかった私の前に、突然、一筋の光が差した。
どこからか颯爽と現れて、傷だらけになりながら私の宝物を取り返してくれた男の子がいたわ。
泥のついたテディベアを丁寧に払って、私に差し出してくれた小さな手。
そこから、私の本当の日本が始まったのだと思う。
退屈だったこの島国は、彼に出会った瞬間、輝かしい母国へと変わったの。
『……あなた、そうくんって言うの?』
『うん。あおい空の「蒼」って書いて、「そう」なんだ』
『あおい……そら』
黒い髪に、真っ直ぐな黒い瞳。
泥だらけになりながら太陽みたいに優しく笑うその男の子は、かつて、あの坂の下に住んでいた。
『まあ。……わたしと、似ているのね』
『似てる?』
『ええ。わたしのなまえは、くじょう あおいよ』
蒼と、葵。
響き合うような名前の偶然。坂の下のキミとの物語は、そこから始まったの。
私の放課後も、息抜きであるはずの習い事のないお休みも、気づけばいつも彼と共に在った。
大人でも息が切れるような、あの岡本の急な坂道を。
毎日毎日、ただ彼に会いたいという一心で降りて、遊んで、また登って帰る。もちろん、彼の方から汗だくになって坂を駆け上がってきてくれる日もあった。
私たち二人の間には、常にあの坂を上り下りする労力が挟まっていたけれど。
汗ばむ夏の午後も、凍えるような冬の夕暮れも。その苦労なんてちっとも気にならないくらい、彼と過ごす時間は特別だった。とても楽しかったの。
だからこそ、随分と成長した彼に再会して『高嶺の花子さん』と少し距離を置くように言われた時は、胸の奥がキュッと切なくなった。
覚えていないのは私のせい。だとしても。
まるで、必死に埋めようとしてきたあの坂の高低差を、今更突きつけられているみたいで。高嶺という言葉が嫌だった。
私にとってあなたは、見上げる星でも、見下ろす花でもなく、ずっと隣にいる男の子なのに、ね。
それを強く自覚したのは、ある日のこと。
彼のお家の畳の上に寝そべりながら、いつものようにお気に入りの図鑑をめくっていた彼が、ふと声を上げたの。
『ほら、これ見て、アルビレオ! すげー、あおいちゃんと同じじゃん』
『白鳥座? これが、わたしとおなじ?』
『そう、白鳥座のくちばしにあるんだって!」
彼が指差したページには、「全天で最も美しい二重星」という言葉と共に、サファイアとトパーズの星が、寄り添うように輝いていた。
『あおいちゃんはアルビレオだ、きみは天上の宝石かぁ。いいなぁ。……でも、そのとおりだよね。きれいだもんな』
『わたしが、ほうせき……? きれい?』
『ああ、そうだよ』
迷いのない、真っ直ぐな言葉。
無邪気に笑う彼の横顔を見ていたら、胸の奥がくすぐったくて、でも、ぎゅっと締め付けられるように苦しくなって。
生まれて初めて味わう感覚。これは、なあに?
思えばこの人ばかりが、いつでも私を丸ごと肯定してくれている。
だから私は、周囲から嘲笑の対象になり始めていたこの青い目を、また愛すことができたのだ。大好きなお婆様と同じ、この『蒼眼』を。
あまつさえ、天上の宝石だなんて、言うの……。
そして何より、『二重星』という響きが、まるで彼と私がセットであるかのようにも思えて。
図鑑の中の小さな星に、私自身の姿と、私たち二人を重ねてくれた。それがただの子供の思いつきだとわかっていても。
胸が苦しくなるほど、嬉しかった。
そして、知った。
──これが、今も続く私の初恋。
だからあの言葉は今も、甘い魔法として胸の深奥に残っている。
ねえ、蒼くん。
あなたは「昔の癖でつい口にしただけ」だと、恥ずかしそうに目を逸らすけれど。
誰も知らないような小さな星の名前を、あなたが今でも覚えていてくれただけで、私の世界はこんなにも鮮やかに色づくのよ。
ときめいて、もう、どうしようもないくらいに。
忘れてしまっている悲しさよりも。
たとえ忘れていても、あなたが私を救ってくれた言葉を心のどこかに覚えていてくれたことが、何よりも嬉しかった。
そんな私へご褒美をくれるように。スタジアムの夜空に、あの日図鑑で見たのと同じ、金と青の花火が降り注ぐ。
ああ、本当に、ここに来てよかった。
無理をいって、チケットをお願いした甲斐があったわ。ふふっ。
多幸感に包まれる私の耳奥に、さっきのあなたの声がリフレインする。
『──冬になったら、奥多摩に星でも見に行かないか?』
……見に行きたいな。
ううん、絶対に行くわ。
少し前に、歓声に紛れてこぼれ落ちたあなたの不器用な誘いを思い出し、私はまた泣きそうになるのを必死に堪えていた。
聞こえていないふりをして、ごめんなさい。
だけど、神宮の夜空には星が見えなくたって。
あなたがかつて私に語ってくれたアルビレオは、ずっと隣で輝き続けているわ。今はまだ、隠すように黒の帳で覆われているけれど。
もう間もなく、その日がやって来る。
抑えきれなくなった想いを、私は轟音を上げるスターマインの中にそっと隠した。だって、まだ面と向かっては言えないもの。
「蒼くん、もうすぐ言うね。それから……坂の上の私は、今もキミを愛しているわ」
いつかちゃんと、その目を見て伝えたいな。
いつか、この偽りの黒を脱ぎ捨てて、あなたにもう一度「天上の宝石」と言ってもらえますように。
私は、この鈴蘭の鈴にそっと願いを込めた。
二人で参った、東京大神宮の素敵なお守りの加護を信じて。
──チリン。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
作者の神崎 水花です。
本作は、現在連載中の長編小説『九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~』の夏休みのクライマックスにあたる、神宮外苑花火大会編(第208話~第212話)を一つの独立した物語として切り抜いた特別短編です。
花火の轟音の裏で、二人が紡いだ聞こえないばかりの本音。
なぜ蒼は過去の記憶を失っているのか?
なぜ学園一の高嶺の花たる九条 葵は、これほどまでに激重な想いを彼に捧げ、何を隠しているのか?
そして、ラストに響いた『東京大神宮の鈴蘭のお守り』が、二人の運命にどのような奇跡と救いをもたらすのか。
少しでも二人の行く末や、隠された真実が気になった方は、ぜひ本編の一話から彼らの歪で美しい物語を見届けていただけると嬉しいです。
九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~
https://ncode.syosetu.com/n1198lh/
お願い
実は、皆様のなかの「たったお一人」が★5をくださるだけで、日間のジャンル別ランキングに飛び込めてしまうんです。それくらい、あなたの手元にある一票には力があります。
こんな物語があることを、出来ればたくさんの方に知って欲しいから。
もしよろしければ、お力を貸していただけると幸いです。
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