9話
皿の底をスプーンで削る、不快な金属音が止まった。
その男は空になった皿を乱暴に押しやり、口元を手の甲で拭うと、椅子の背もたれに深く体重を預けた。その目は、温かな湯気に満ちた食卓を、今なお「敵地」として値踏みしている。
「……ケッ、最後まで温くて味がしねえ。こんな泥水で腹を満たすなんて、どうかしてやがる」
彼はガタリと椅子を鳴らして立ち上がるとキッチンの奥……フェイが立ち尽くす流し台の方へと、獲物を追うような足取りで歩き出した。
「……おい。明日はもっとマシなもんを作れ。……こんな出来損ないの餌で、俺を飼い慣らしたつもりになるなよ」
それは、明日もまたこの場所で「獲物」を喰らうという、怪物なりの傲慢な生存宣告だった。
その男は、フェイを小馬鹿にするように、片方の口角を醜く吊り上げた。琥珀色の瞳が、冷ややかな嘲笑を湛えて細まる。
フェイが顔を上げるより早く、彼の身体が大きくよろめいた。流し台の縁を掴む指に、白くなるほど力がこもる。
「……っ、が……あ……っ」
喉の奥で、獣の唸り声が、苦悶に満ちた青年の声へと塗り替えられていく。
鋭く釣り上がっていた口角が、力なく垂れ下がっていた。光を吸い込んでいた瞳に、急速に「光」と「正気」が戻ってくる。
「……ぁ……フェイ……? ミルズ……?」
フェリクスは、自分がなぜ二階のキッチンに立っているのか必死に思い出そうとした。だが、脳裏にこびりついているのは、自分がフェイの細い首へ指を伸ばした、あの瞬間の手の感触だけだ。
「僕、は……。また、あいつが……」
自分の両手を見つめ、フェリクスは血の気が引いた顔で後ずさった。
その手にはまだ、フェイの柔らかい髪の感触と、買い物袋の重みが残像のように残っている。自分が愛する妹を殺そうとしたかもしれないという事実が、胃の底を冷たく冷やしていく。
「お兄ちゃん……」
フェイが駆け寄ろうとするのを、フェリクスは片手で制した。その顔は、今にも泣き出しそうなほど歪んでいる。
「……ごめん。……ごめん、フェイ。近づかないでくれ」
フェリクスは、自分の手が汚物であるかのように凝視し、震える肩を抱いて後ずさった。
駆け寄ろうとしたフェイの足が、その拒絶の言葉に凍りつく。
フェリクスは階段の上がり口で足を止め、顔を上げられないまま、絞り出すような声でミルズに告げた。
「……ミルズ。今日は、僕が三階に行くよ。……あそこなら、一階分くらいは距離が置けるだろう」
「フェリクス……」
ミルズが何かを言いかけるが、フェリクスはそれを遮るように、今度はキッチンに立ち尽くす妹へと視線を向けた。視線が合うのを恐れるように、その瞳はひどく泳いでいる。
「フェイ……。勝手をごめん。今日だけ、君の作業部屋を、……貸してほしい」
「お兄ちゃん、そんな……。私の部屋、寒いでしょ? 毛布、持っていくから……!」
「いいんだ! ……いいんだよ、フェイ。……頼む、一人にさせてくれ」
悲鳴のような拒絶を残して、フェリクスは逃げるように階段を駆け上がっていった。
三階へと続く扉が閉まる音が、静まり返ったリビングに冷たく響き渡る。
残されたのは、湯気の消えかけた食卓と、仕込み杖を握ったまま動かないミルズの、重苦しい沈黙だけだった。
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豪華絢爛な装飾が施された中央ホールの喧騒を、二人の男が横切る。
一人は、使い込まれた工具鞄を提げ、糊の効きすぎたシャツに窮屈そうな表情を浮かべるミルズ。もう一人は、その背後に控える、巨大な木製の部品箱を肩に担いだ、感情の抜け落ちた無骨な助手――フェリクスだ。
今回の潜入名目は、四日後に迫った和平式典の目玉である、中央ホールの巨大な振り子時計の「最終調整」。
だが、工具鞄を握るミルズの真の目的は、時計の修理ではない。警備体制の完全な把握、戦場の下見だ。
「……おい、フェリクス。あまりキョロキョロするな。化粧が剥げるぞ」
ミルズが低い声で釘を刺す。彼は変装が苦手だと言いながらも、その指先が持つ職人としての精密さは、フェリクスの顔を別人のものへと変えていた。
フェリクスは、磨き抜かれた大理石の柱に、ぼんやりと映る自分の影を盗み見た。……そこに映るのは、ただの、影の薄い時計師の助手だ。
かつて戦場を蹂躙し、東国で『処刑人』と忌み嫌われた、あの鋭い面影は、そこにはない。
フェリクスは、ミルズの自室で「作り替えられていた」時間を思い出していた。
部屋には、いつもの金属的な時計洗浄液の匂いに混じって、どこか浮ついた白粉の香りが、場違いに漂っている。
「……おい、フェリクス。マダムに微笑みかけた顔は忘れろ。今のお前は、名前すら持たない壁の一部だ」
ミルズは、文字盤を修正する時と同じ細密な筆を取り、フェリクスの整った顎のラインに手をかけた。粘土質のワックスをあえて歪に盛り、シャープな骨格を鈍重な輪郭へと書き換えていく。
「いいか。潜入の極意は『化ける』ことじゃない。『消える』ことだ。……『素敵な店員』は記憶に残るが、『汚い荷物持ち』をわざわざ思い出す奴はいないからな」
鏡の中に現れたのは、かつての英雄の面影など微塵もない、ただ重い箱を運ぶためだけに存在する、感情の摩耗した「装置」だった。
眉の形は削るように細められ、若々しく健康的な肌の輝きは、ミルズの刷毛が動くたびに、陽の光を知らない地下労働者のようなくすんだ質感へと沈んでいく。もはやそこには、琥珀色の瞳だけが浮き上がる「生気のない土壁」があった。
さらに、靴の片方のインソールに薄い革の端切れを数枚仕込み、あえて左右の重心をわずかに狂わせている。 痛みはないが、普通に歩こうとすると自然にバランスが崩れるため、軍人特有の堂々とした歩幅を強制的に制限しているのだ。
イヤーカフができるまでの三日間、品の良い店員として振る舞っていた時も、誰一人としてあの『処刑人』の面影を見出せなかった。
「……驚いたよ、ミルズ。あんたの時計を直すその指先は、人間の顔まで塗り潰しちまうんだな」
「……時計も人間も、表面の数ミリを弄れば印象などいくらでも変わる。……だが、中身の『狂い』までは隠せねえ。余計な殺気は出すなよ。……荷物持ちがそんな目をしやがるか」
ミルズはぶっきらぼうに言い放ち、杖を床に突いた。カチリ、と硬質な音が静かなホールに響く。
「……へいへい、旦那。……今の俺は、ただの冴えない運び屋ですよ」
フェリクスはわざと猫背になり、重心の狂った足取りで、重い木箱を抱え直した。社交界の主従というよりは、偏屈な時計師と、その日暮らしの雇われ人。その不釣り合いな二人の姿は、華やかなホールにおいて「背景」として完璧に機能していた。
二人はホールの中央へと歩きながら、ゆっくりと目的の時計へと近づいていく。だが、その視線は文字盤ではなく、ホールの構造、非常口の配置、そして「人の動き」を執拗に追っていた。




