8話
2階のダイニングに、アップルパイを囲む二人の仲睦まじい喧騒を残したまま、ミルズは一人、階段を降りた。
向かいの作業場の使い込まれた古い椅子の下にある重い扉を開ける。地下の機密室へと続く縄梯子は、上階の温もりを拒絶するように冷え切っていた。
時計の規則正しい刻音さえ届かないその場所で、冷たい電子音と共にモニターが起動する。
青白い光に照らされたミルズの顔から、先ほどまでの「店主」の温もりは完全に消え失せていた。感情を排除したその眼差しは、精密な機械の不具合を冷徹に見定める、熟練の時計師のそれだった。
ノイズ混じりの画面に、キャスリンの鋭い美貌が映し出された。彼女は手元の書類に目を落としたまま、顔も上げずに口を開く。
「……昨夜の不始末は耳に入っているわよ、ミルズ。随分と派手な『調律不良』を起こしたみたいじゃない。」
「……修正は済んでいる。現状、運用に支障はない。それより、次の依頼を聞こうか」
ミルズの淡々とした答えに、キャスリンは鼻を鳴らした。だが、彼女がようやく顔を上げ、モニター越しにミルズを射抜いた時、その瞳には隠しきれない焦燥が混じっている。
(……余裕がないのは、俺の『不始末』のせいじゃないな)
ミルズは、モニター越しの彼女が背負っている「爆弾」の正体を見定めた。
「一週間後、東国との和平記念式典が行われる。場所は中央ホール。……その警備に、貴方とフェリクスを含めた全工作員を指名するわ」
「……あの西国の英雄を、大衆の面前に晒せと? 正気か。東国からは恐れられ、西国からは亡命したのかと勘違いされる。それに今のあいつは、いつ爆発するか分からない不発弾だぞ」
「変装させればいいじゃない、あなたの稚拙な変装術でも、東国の愚民どもの目を欺くくらいはできるでしょう?…、いい?私は正気よ。……これを見て」
画面が切り替わり、一枚のスキャンデータが表示された。
西国の象徴である『双頭の鷲』を模した便箋に、血のように赤いインクで書き殴られた一文。
『偽りの平和に、終止符を。式典の調べは、英雄の断末魔で幕を閉じるだろう』
「西国政府に届いた犯行予告よ。……犯人は、式典の最中に『英雄』を使い、平和の象徴であるはずの会場を血の海に変えると宣言している。……つまり、彼らがフェリクスを再び『起動』させるつもりよ」
ミルズの奥歯が、ギリリと音を立てた。
「……あいつらは、フェリクスを駒として使い潰す気だ。式典で暴れさせれば、東国との和平は決裂し、再び戦争の火種が燃え上がる。……それが奴らの狙いか」
「阻止なさい、ミルズ。これは命令よ。……貴方が守りたいものがその時計店にあるのなら、何が何でもフェリクスを制御下に置きなさい。暴走の兆しがあれば、その時は貴方が殺すのよ」
地下室の冷気が、肺の奥まで凍りつかせるような感覚。ミルズは喉の渇きを無理やり嚥下し、一言だけ返した
「……了解した」
通信が一方的に切断され、地下室に重苦しい静寂が戻った。
ミルズはモニターの黒い画面に映る、自分の冷徹な貌を見つめる。
一週間後の式典。それはフェリクスが三人と同じ時計店に留まるための試練か、あるいは彼という人間が完全に使い潰される終着点か。
ミルズは鈍く痛む右手首を静かにさすり、闇の中で独りごちた。
「……いいだろう。この茶番、誰が書き上げた脚本か知らないが……。舞台袖で、その正体を引きずり出してやる」
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式典を五日後に控えた日。
物騒な予感を拭いきれず、フェリクスは約束もないままフェイの通学路で彼女を拾った。
夕刻の柔らかな光が街をオレンジ色に染め、家路を急ぐ人々の足音が心地よいリズムを刻んでいた。
だが、その平穏を切り裂くように、路地裏で荷台から鉄パイプが崩れ落ちる鋭い金属音が響いた。
その瞬間、フェリクスの脳内で精密に構築されていた日常の「仮面」が剥がれ落ちる。
鼓膜を叩いた衝撃音は、彼の中で「砲声」へと変換され、視界の端で揺れる通行人の影はすべて「排除すべき標的」へと書き換えられた。
――そして、真隣で自分を呼ぶ「琥珀色の熱源」さえも、今はただの、最も速やかに沈黙させるべき障害物に過ぎない。
「お兄ちゃん、次はあっちの角の——」
フェイが弾んだ声で振り返る。夕日に透ける琥珀色の瞳は、親愛なる兄の姿を疑いもなく映し出していた。
しかし、顕現した『怪物』の指先は、買い物袋を提げたままの不自然な体勢で、獲物の急所へと最短距離で肉薄した。
袋を提げた腕が、その重みを無視して機械的に跳ね上がり、鋼の杭のように突き出される。
だが、その指先が彼女の喉元を捉える直前、手首にぶら下がった重い袋が激しく揺れ、中で野菜たちが無様にぶつかり合う『生活の音』が響いた。
遅れてやってきた袋の慣性が、鋼のように研ぎ澄まされた軌道をわずかに外側へと引きずる。
コンマ数秒のミス、それは戦場しか知らない怪物にとって、計算式を狂わせる何よりも耳障りで、理解不能なノイズとなった。
(……なんだ、この匂いは)
鼻腔を突いたのは、硝煙の臭いではない。買い物袋から溢れ出す、焼きたてのバゲットの香ばしい匂いと、先ほどフェイが「今夜のサラダに加えよう」と笑って選んだセロリのみずみずしい香りだ。
(……この音は)
戦場の断末魔ではない。つい先ほどまで隣で跳ねていた、ひどく音程の外れた、けれど楽しげな鼻歌の残響だ。
そして何より、自分に向けられた瞳。
そこには恐怖も、憎悪も、戦闘の意志も微塵もなかった。ただ純粋に、夕飯の献立を楽しみにしている、無防備なまでの信頼だけがそこにあった。
「戦場」という地獄の論理では、この色彩も、温度も、重さも、すべてが「定義不能」なエラーデータだった。
首を絞めるために形作られた指が、その「日常」の圧力に耐えかねたように痙攣した。
「……お兄ちゃん?」
フェイが不思議そうに首を傾げる。その拍子に、子供のように細い首を覆う柔らかな髪が、標的の喉元へ肉薄していた大きな手の手の甲をかすめた。
そのあまりの柔らかさに、『化物』はまるで高電圧の電流を浴びたかのように、内側から激しく拒絶反応を起こした。
これまで何百もの太い喉笛を粉砕し、掻き切ってきた指先だ。それなのに、指先に触れた髪一本の軽やかさに対し、この手の『使い道』を脳が完全に喪失していた。
(……殺せない。いや、殺し方が、分からない)
殺戮の化身は、自らの中にあるはずのない「躊躇い」という名の猛毒に、激しい吐き気を覚えた。
このままでは「自分」という存在が、この温い平和に溶かされて消えてしまう。そんな根源的な恐怖が、彼の手を強引に引き戻させた。
「……。……なんでもない。荷物が、少し、重かっただけだ」
掠れた声でそう告げると、彼は逃げるように視線を地面に落とした。
背中を伝う冷たい汗が、「バケモノ」の敗北を物語っていた。彼は自嘲した。自分を繋ぎ止めるのは鎖でも薬でもない。一袋の野菜と、出来損ないの鼻歌。そんな些細なものが、これほどまでに強固な「怪物」の首輪になるとは。
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無言のまま店に帰り着いた二人を、カウンターで時計を分解していたミルズが迎えた。
作業灯の光を跳ね返す、漆黒のサングラス。その奥にあるはずの瞳は、レンズに遮られて一切の感情を読み取らせない。
彼は顔を上げず、ただピンセットを動かす手を止めただけで、空気の変化を察知する。フェリクスの歩法、呼吸の間隔、そして隣に立つフェイの強張った肩。
「フェイ」
ミルズの短く、重い声が店内に響いた。カウンターの脇をすり抜け、音もなく二人の間に割り込んだ。
「夕食の準備はいい。今日はもう三階へ上がって休め。……降りてくるなよ」
「でも、ミルズさん、お兄ちゃんが——」
「いいから行け。……これは店主としての命令だ」
ミルズは仕込み杖の柄を握り直し、フェイを背中に隠すように一歩前へ出る。その背中は、彼女にとっての唯一の防波堤だった。フェイはミルズのシャツを強く握りしめ、その肩越しにフェリクス——今、その内側にいる「怪物」を真っ直ぐに見つめた。持っていたスクールバッグを握りしめ、叫ぶように訴える。
「嫌……嫌です、ミルズさん! お兄ちゃんを、そんな怖い目で見ないで!」
その瞬間だった。
「怪物」から放たれた、獲物の急所を無意識に値踏みするような冷たい殺気。それに反応し、ミルズの左手が、フェイの肩を強引に自分の方へと引き寄せた。同時に、右手が雷光のような速さで杖の柄を捻り、押し出す。
「カチリ」
静寂を切り裂く、乾いた硬質な音。
鞘の中から、研ぎ澄まされた細身の鋼が放たれた。それはフェイを傷つけるための刃ではない。彼女を「死」から遮断するための、防波堤としての輝きだった。
ミルズの瞳には、温厚さなど欠片も残っていない。フェイの肩を強引に引き寄せ、自身の背後に隠しながら、その切っ先は寸分違わずフェリクスの喉元——その内側に潜む「怪物」を射抜いていた。
「下がっていろと言ったはずだ、フェイ。今のこいつは、お前が知っている兄じゃない」
「分かってます……分かってる。でも、お兄ちゃんの手、震えてた。買い物袋を持ったまま、ずっと……」
その言葉に、暗闇に佇む「怪物」の眉がピクリと跳ねた。
彼は自分の右手を忌々しげに見つめ、それから嘲るような笑みを浮かべて一歩、踏み出した。
「……フン。鋭い小娘だ。……安心しろ、四眼。今日はもう、殺す気は失せた。あの奇妙な鼻歌とパンの匂いのせいで、俺の指先が鈍ってやがる」
剥き出しになったミルズの刃を、まるで羽虫でも見るような退屈な目で見つめながら、無造作に、持っていた買い物袋をカウンターの上へ放り出した。
「空腹だ。毒を食らわば皿まで、ってな……? ……その『シチュー』とやらを作れ。このふやけた日常がどうやって壊れんのか、特等席で見届けてやりたくなったぜ」
ミルズの瞳に鋭い警戒が走る。だが、背中のフェイが、彼のシャツを離して一歩前に出た。目に涙を溜めながらも、真っ直ぐに「怪物」を見据える。
「……作ります。お兄ちゃん。今、すぐに」
三人の間に、奇妙な沈黙が流れた。
時計の刻音だけが響く店内で、ミルズはゆっくりと仕込み杖を鞘に納めた。だが、それを手放すことはしない。杖を傍らに立て掛けたまま、カウンターに置いてある買い物袋を持つ。
その脳裏には、先ほどキャスリンから叩きつけられた「暴走の兆しがあれば、その時は貴方が殺すのよ」という冷徹な声が、耳鳴りのように響いていた。
「……フェイ、包丁は俺が使う。お前は野菜を洗っていろ。……英雄さん、お前は椅子に座って大人しく時計のネジでも数えてるんだな」
ミルズの皮肉を、「怪物」は鼻で笑って受け流した。
やがて、時計の刻音だけが響く静かなキッチンに、不釣り合いなほど柔らかなシチューの香りが満ちていく。
差し出された白い皿を、その男は嫌悪感を隠そうともせずに見下ろした。
立ちのぼる湯気の向こう側で、スプーンを手に取る。
彼は自らを壊さんとする『幸福』という名の猛毒を、喉の奥へと流し込んだ。




