7話
二階のキッチンへ戻ると、そこには先ほどと変わらぬ姿勢で、しかしどこか抜け殻のようなフェリクスがいた。ミルズの気配に肩を震わせることもなく、ただ流し台に溜まったままの水を見つめている。
「……フェリクス」
ミルズの声は、先ほどの刺すような軍人口調ではない。かといって、客に向ける甘い店主の声でもない。
ただ、長年戦場を共にした「相棒」としての、温度の低い、だが確かな実感を伴った声だった。
「いつまで浸ってやがる。さっさと手を洗え、手当するぞ」
フェリクスはゆっくりと顔を上げた。その瞳には、未だに自分という存在への恐怖が澱のように溜まっている。
「ミルズ……俺は、やっぱりここにはいない方がいいんじゃないか。あの子に……フェイに、また昨日みたいな顔をさせるくらいなら……」
「馬鹿を言え。あいつが今、学校でどんな顔をして笑おうと必死になってるか分かってるのか」
ミルズは無造作にキッチンの棚の一角から使い古された救急箱を取り出し、テーブルの上に置いた。
「あいつはお前を怪物だと思っていない。ただ、『調律』が狂っただけだと信じて、今も戦ってる。お前が逃げ出すことは、フェイのその三日間の戦いを『無駄だった』と吐き捨てるのと同じだ。……それが、お前の望む『兄』の姿か?」
フェリクスは絶句し、やがて力なく首を振った。
蛇口を捻る。冷たい水が流れ出したが、彼は石鹸を手に取ったまま、自分の拳を凝視して動かない。その大きな手は、目に見えて震えていた。
ミルズは溜息すらつかず、フェリクスの隣に立った。
「……貸せ」
有無を言わさぬ口調でその手を引き寄せ、ミルズは自ら石けんを泡立てると、フェリクスの指の隙間まで丁寧に、まるで汚染物質を取り除くような手つきで洗い始めた。
「……ミルズ。手首……見せてくれないか」
フェリクスが消え入りそうな声で言った。ミルズは泡を流す手を一度だけ止め、袖を濡らさないように手首を使って不器用に捲り上げた。
白皙の肌に浮かぶ、鮮明な指の痕。どす黒く変色したその指痕は、フェリクスの心にどんな謝罪よりも深く突き刺さる。
「……最悪だ。俺は、お前を……」
「ああ、最悪だな。だから、この借りは仕事で返せ。今日から三日間、時計の磨き上げは全部お前の担当だ」
ミルズは戸棚にかかっていた清潔なタオルでフェリクスの手を拭き取ると、拒絶を許さない力強さでその腕を引き、テーブルへと移動した。救急箱から消毒液を取り出し、フェリクスの拳に目を落とす。暴れた際にどこかで切ったのだろう、赤くにじむ小さな傷を見つけると、ミルズは躊躇なく淡々と薬を塗り始めた。
「……っ」
「痛むか。自業自得だ…。」
ミルズは丁寧に絆創膏を貼り終えると、袖を乱暴に戻した。そして、フェリクスの背中を、今度は地雷の信管を抜くような、慎重な手つきで腰のあたりで軽く突いた。
「さあ、動け。……夜には、フェイがアップルパイを楽しみにして帰ってくる。俺たちの仕事は、その時までにこの店を『世界で一番安全な場所』に整えておくことだ。……いいな?」
フェリクスは、まだ震えの止まらない拳をギュッと握りしめ、一度だけ深く頷いた。
窓の外では、街の喧騒が遠く響いている。
表の通りからは見えない小さな時計店の中で、壊れかけた三人の「新しい回路」が、軋んだ音を立てながらもゆっくりと回り始めた。
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校門を出た瞬間、少し離れた場所にある公園にフェイの琥珀色の瞳が、夕陽を反射して見開かれた。見覚えのある長身の影を見つけて息を呑む。
黄金色の光の中、フェリクスは公園のベンチの端に腰掛け、通行人の邪魔にならないよう、ひっそりと気配を殺して待っていた。
公園の噴水の音だけが、不自然なほど大きく響いていた。
フェリクスは、隣に座ったフェイの方を見ることができず、ただ自分の膝の上で組んだ、大きな手を見つめていた。指先には、今朝ミルズが貼ってくれた絆創膏が、白く浮き上がっている。
「……フェイ。ごめん。……怖かったよな」
先に沈黙を破ったのは、フェリクスだった。その声は、昨夜の獣じみた咆哮とは似ても似つかない、壊れ物を扱うような弱々しい響き。
「……ううん。私の方こそ、ごめんなさい」
フェイは首を振り、カバンのストラップをぎゅっと握りしめた。
「私が作ったイヤーカフ、完璧だと思ってた。……でも、お兄ちゃんを苦しめているのは、外からの音だけじゃなかった。私がもっと、お兄ちゃんの『体』のことを分かってあげていれば……」
「……馬鹿を言うな。お前は何も悪くない」
フェリクスは、ようやく顔を上げた。夕日に照らされた琥珀色の瞳には、かつて戦場で見た絶望よりも深い、自分自身への嫌悪が滲んでいる。
「俺は……俺の中に、自分でも制御できない『怪物』がいるのが怖いんだ。あいつがいつ、お前を傷つけるか分からない。……昨夜の感触が、まだこの手に残ってる」
フェリクスは、自分の右手を恐る恐る開き、そして力なく握りしめた。
その時、フェイがそっと手を伸ばした。
フェリクスの大きな拳を、彼女の小さな両手が包み込む。
「あっ、……っ。」
フェリクスの指先が震える。また「反射」が起きるのではないかという恐怖が彼を襲う。だが、フェイは逃げなかった。
「……温かいよ、お兄ちゃん」
フェイは、その大きな手に頬を寄せるようにして、静かに囁いた。
「お兄ちゃんの手は、私を突き飛ばした時、すごく熱かった。……でも今は、いつもの優しいお兄ちゃんの手だよ。……ミルズさんが言ってたの。昨夜のことは、お兄ちゃんの心が、壊れた檻から出口を見つけようとして暴れただけだって」
「……ミルズが、そんなことを」
フェイは組んだ手に力を込め、忍び寄り始めた夜の冷気を吸い込むように、深く息をついた。
黄金色の空が、少しずつ、けれど確実に濃紺へと溶け落ちていく。
彼女はミルズの言葉を反芻するように一度目を伏せ、再び顔を上げた。
「うん。……だから、お願い。お兄ちゃんが自分を怪物だっていうなら、私はその怪物の隣にずっといるよ。…… 『地雷原でも、誰かが先に道を作れば歩ける』って、ミルズさんも言ってた。……ミルズさんが道を作るなら、私はお兄ちゃんの手を引いて、その上を歩くよ」
フェイの瞳には、涙が溜まっていた。けれど、その奥にある光は、昨夜の絶望を乗り越えた、揺るぎない「覚悟」の色だった。
フェリクスは、視界が滲むのを感じた。
自分を拒絶し、逃げ出してほしいとさえ願っていた。けれど、この小さな妹は、壊れかけた自分を両手で繋ぎ止めようとしている。
「……ああ。……すまない、フェイ。……ありがとう」
フェリクスは、フェイの手を握り返そうとして――一度躊躇い、けれど最後には、自分の節くれだった大きな掌で折れてしまいそうなほど華奢な彼女の指先を、慈しむように優しく包み込んだ。
夕闇が深まり、二人の境界を曖昧にしていく
それは完璧な解決ではない。明日になれば、また別の地雷を踏むかもしれない。けれど、今この瞬間、二人の間にあった鋭い棘は、夕闇の中に溶けて消えていった。
「……さあ、帰ろう、フェイ。ミルズが、鍋を焦がしているかもしれない」
「あはは、ミルズさん、料理だけはちょっと大雑把だもんね」
フェイがようやく、年相応の明るい声で笑った。
二人は並んで、オレンジ色に染まる街路を歩き出す。




