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6話

朝の光が、昨日までと同じように無機質な三階の作業部屋に差し込んでいた。

 フェイが休憩用に設けていた小さなソファの上で、ミルズは体を折り曲げるようにして目を覚ました。慣れない狭さと、昨夜ねじ伏せられた際に負った脇腹の痛みが、目覚めと共に鈍く疼く。彼は顔を歪めることもなく、ただ一つだけ外れたポロシャツのボタンを指先で探り、無音で留め直した。

 鏡は見ない。指先の感覚だけで、寝癖一つない完璧な毛流れを整える。その動作には、戦地の塹壕で泥にまみれながらも銃の手入れを欠かさなかった男の、病的なまでの自律心が宿っていた。


 彼は階下へ降り、二階のキッチンでフェリクスと合流した。キッチンの床には椅子が擦れた不自然な跡が残り、シンクの縁はわずかに歪んでいる。それが、昨夜の出来事が夢ではなかったことを無言で突きつけていた。

 フェリクスは、食卓に置かれた自分の手を見つめていた。親友を痛めつけ、愛する妹に「クソガキ」と吐き捨てた、忌まわしい感触が指先にへばりついている。


「……起きたか、ミルズ」


 低く掠れた声で言った。その視線は、まだ自分の手から離れない。

(……俺は、あの子を殺そうとしたのか)


 断片的な記憶が、鋭いガラスの破片のように脳に突き刺さる。

 フェリクスはTシャツ一枚。浮き出た肩の筋肉が、彼が平穏を望もうとも「殺人のための個体」であることを残酷に突きつけていた。


 そこへ、寝室のドアが細く開く。

 フェイが、濃紺のブレザーにプリーツスカートという「完璧な日常」を纏って現れた。

「……あ」


 目が合った瞬間、フェイの肩が小さく跳ねる。

 そのわずかな「拒絶」が、フェリクスの胸を鋭利に抉った。彼女はすぐに無理な笑みを作ってブレザーの襟を正したが、震える指先がデフォルメされた犬のキーホルダーを激しく揺らしている。


「……お、おはよう……お兄ちゃん」


 フェリクスは妹を見上げ、何かを言いかけて、やめた。

 「すまない」という言葉の軽さに、吐き気がしたのだ。

 彼はただ、血が滲んだ己の拳を隠すように、無意識にテーブルの下へと手を引いた。その臆病な動作こそが、かつての勇猛な兵士のなれの果てだった。

 ミルズは、その光景を視界の端に追いやりながら、音もなくコーヒーを淹れた。

 陶器のカップが触れ合う音さえさせない、精密な所作。だが、その目は店主の穏やかさではなく、戦況を俯瞰する偵察兵の冷徹さで親友を射抜いている。

 彼は冷めた湯気を喉に流し込むと、震えるフェイの隣に歩み寄った。


「フェイ、学校まで送ろう。……君の城を少し汚してしまった。その詫びだ」


 そこまで優しく告げると、ミルズは一転、鋭い眼光を食卓のフェリクスへと向けた。


フェリクスは、黒いTシャツから覗く己の拳を見つめたまま固まっている。まるでその拳にこびりついた罪悪感に、魂まで吸い取られているかのようだった。

ミルズは、同情でフェリクスを甘やかすことが、今の彼を最も壊すと知っていた。だからこそ、敢えてその傷口に戦場の泥をぶっかけるような言葉を選んだ。


「――おい、フェリクス。いつまでそうしてやがる。さっさとその薄汚ぇ拳を洗ってこい」


 吐き捨てるような軍人口調。フェイに向ける声音とは似ても似つかない、相棒への容赦ない叱咤だ。

 フェリクスが弾かれたように顔を上げる。二人の視線が空中で激しくぶつかった。ミルズの瞳には、「プロとして失格だ」という冷徹な評価だけだ。


「……ミルズ……」

「自分の制御もできずに傷を作るとは、新兵以下だな…。……フェイ、行こう。こいつの不甲斐ない面を拝んでいても、遅刻するだけだ」


 ミルズは、コーヒーカップを置く指先だけは優雅なまま、口端だけで冷たく笑った。

 フェリクスは立ち上がることさえできず、ただ二人の背中を見送る。


----


 重い木扉を閉め、朝の冷気が肌を刺した瞬間。

 フェイの隣を歩くミルズの空気は、まるで薄皮を剥ぐように変貌した。

 先ほどまで親友の傷口を抉っていた獰猛な気配は、街の雑踏へ霧のように溶けて消える。背筋はすっと伸び、口元には客を安心させる柔らかな、けれど隙のない笑みが戻っていた。


朝の光は、残酷なほど昨日と同じように石畳を照らしていた。

 フェイの隣を歩くミルズの足取りは、昨日よりもわずかに重い。シャツの襟元で隠しきれない首筋の赤紫の痕が、彼が吸い込む冷たい空気と共にズキリと疼く。

 二人の間に、沈黙が長く横たわった。

 フェイの視線は、自分の足元、あるいはミルズの隠された手首のあたりを彷徨っている。


「……ミルズさん」

 

 大通りに出る直前、フェイが足を止めた。その声は、震えるのを必死に堪えた、乾いた響きだった。


「私、昨夜お兄ちゃんの背中にしがみついた時……わかっちゃったんです。お兄ちゃんの筋肉が、私の声を聞くより早く、次にどこを打てば効率よく人を殺せるか、勝手に計算して動いてるのが。……あれは、もう『癖』とか『習慣』じゃない。お兄ちゃんの命そのものが、凶器として組み上げられちゃってるんだって」


 ミルズは足を止め、ゆっくりとフェイに向き直った。

 彼女の瞳にあるのは、一時的な恐怖ではない。愛する兄という「地雷原」の隣で、一生を過ごさなければならないかもしれないという、底冷えするような予感への絶望だ。


「……ああ、その通りだ。奴の肉体は、あの忌まわしい銀の糸を仕込んだ連中によって、戦うためだけの装置に作り替えられた。……フェイ、絶望したか」


 ミルズの声には、冷徹な響きと、それ以上に深い「共犯者」としての苦みが混じっていた。


「……怖いです。でも、絶望はしたくない。……お兄ちゃんが自分の手を見て、あんなに泣きそうな顔をするなら、私はその手を一生、繋いでいたいから」


 フェイは、震える手でブレザーの裾を握りしめた。その姿は、嵐の中に立つ小さな、けれど決して折れない鋼の芯を感じさせた。


「……時計を直すように、簡単にはいかない。昨日、俺の浅はかな接触がそれを証明した」


 ミルズは自室から持ち出した、小さな古い銀時計をポケットから取り出した。彼はそれをフェイの目の前に掲げ、蓋を開ける。カチ、カチ、と規則正しい音が朝の街に響く。


「時計の針を逆回転させても、失われた時間は戻らない。だがな、フェイ。歪んだ歯車を削り、新しい油を差し、少しずつ噛み合わせを調整し続けることはできる。……あいつの肉体に刻まれた『記憶』を消すことはできなくても、それと共生するための『新しい回路』を、俺たちで作るんだ」


 ミルズは時計を閉じ、自分のポケットに滑り込ませた。


「君が作ったイヤーカフは、外の声を遮断した。それは、あいつが『自分の意志』を取り戻すための最初の土台だ。……昨夜の暴走は、戦争による心の傷が、溢れ出したに過ぎない。君の技術が否定されたわけじゃないんだ」


 ミルズは、フェイの頭を大きな手で一度だけ、昨夜よりもずっと慎重に、壊れ物を扱うように撫でた。


「いいか、フェイ。これから俺たちが歩くのは、どこに地雷が埋まっているか分からない荒野だ。……だが、俺たちが立ち止まれば、あいつは一人で爆発する。……俺が前を歩き、君が後ろから回路を補修する。あいつが『人』として踏みとどまるための道を、三人で踏み固めていくんだ」


 校門が見えてくる。平和な制服の波の中に、フェイは飛び込んでいかなければならない。


「……今日のアップルパイは、昨夜の分も合わせて最高に甘いやつを買っておこう。……お前が今日一日、普通の女の子として笑って過ごせることが、今のあの男にとって唯一の『許し』になるんだ。……行ってこい」


 フェイは一度だけ深く頷き、校門へと走り出した。

 その背中を見送りながら、ミルズは隠していた右手首をぎゅっと握りしめた。


(それが間に合わなければ、俺があいつを殺すしかない)


 キャスリンとの冷徹な約束が、喉の奥で苦い鉄の味をさせた。


「……やれやれ。店主の次は、不発弾処理班か。……高くつくぞ、フェリクス」


 彼は独り言を吐き捨てると、店主の柔らかな仮面を再び被り、ゆっくりと引き返し始めた。だが、大通りへ出る直前、ふと、向かいの路地に目をやった。

 朝の喧騒の中、一台の黒塗りのセダンが、排気音も立てずにゆっくりと角を曲がっていく。そのナンバーは、この地区のものではない。

 後部座席の窓は厚いスモークに覆われ、車体には東国の国章――和平式典を司る運営委員会のステッカーが貼られていた。


(……式典の公用車か。随分と早くから、この界隈を『掃除』し始めているらしいな)


 ミルズはそれ以上追うことはせず、雑踏に紛れて店へと戻った。

 重い木扉を開けると、そこには昨日までと変わらない、油と古びた真鍮の匂いが満ちている。

 ミルズはまず、仕事机に座り、ルーペを手に取った。震える指先を落ち着かせるように、昨日から止まったままの客の時計を一つ、無心で分解し始める。カチ、カチ、と刻まれる秒針の音だけが、店内の静寂を支配していた。

 ひと通りの「店主の儀式」を終え、呼吸を整えたミルズは、ようやく椅子を立ち上がった。

 彼は店の奥にある、居住スペースへと続く階段を見上げる。

 あの上に、地獄が作り変えてしまった「火薬庫」がいる。

 ミルズはシャツの襟を正し、鬱血した手首を再び袖で隠すと、音を立てずに二階へと足を踏み出した。




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