5話
それからの三日間は、拍子抜けするほど穏やかに過ぎていった。
フェリクスは「怪物」を見せることもなく、ミルズと並んで店番をしたり、マダムから「あら、素敵な新しい店員さんね」と声をかけられて戸惑ったりしていた。
フェイはといえば、昼間はいつも通り学校へ通い、放課後になると寄り道もせず作業机に向かう日々を送った。学校の課題を片付けた後、深夜まで拡大鏡を覗き込んで回路と格闘する。そんな彼女の静かな努力が、この時計店の平穏を支えていた。
三日目の夜。
フェイがふらふらとした足取りで作業部屋から出てきた。目の下には隈ができ、指先はハンダや油で汚れきっていたが、その手には銀色に光る小さなイヤーカフが握られていた。
「……できた。お兄ちゃん、こっちに来て」
夕食の片付けをしていたフェリクスが、緊張した面持ちで椅子の前に座る。
キッチンの流し台で、皿を洗っていたミルズは、水音を止めた。濡れた手を布巾で拭いながら、少し離れた場所から、固唾を呑んで二人の様子を見守る。
フェイは震える手で、兄の左耳にその銀の金具を滑り込ませた。
「……っ」
装着された瞬間、フェリクスは短く息を吐いた。
三日間、ずっと頭の片隅で「不快な耳鳴り」のように響き続けていた、あの忌々しいノイズが――スイッチを切ったように霧散したからだ。
「……静かだ。フェイ、これ……すごいよ。何も聞こえない。ずっと脳をかき回していた、あの『音』が……完全に消えた」
「うん。……でも、お兄ちゃん、忘れないで。これはあくまで、外からの信号を無理やり『かき消してる』だけなの」
フェイは兄の耳元にあるイヤーカフを、愛おしそうに見つめた。解析の結果、彼女はこの電波の向こう側に、明確な殺意を持った「誰か」がいることを確信している。
「もしこれが壊れたり、外れたりしたら……お兄ちゃんの脳は、今まで以上に無防備な状態で、あの『命令』を浴びることになるわ。そうなったら、もう……今度こそ、お兄ちゃんの自我は焼き切れてしまうかもしれない」
フェリクスは、耳元の冷たい金属の感触を確かめるように指先で触れた。
自分を「楽器」のように扱う、正体不明の何者か。その見えない鎖を断ち切ってくれるこの銀の輪は、彼にとって自由の証であり、同時に、一歩間違えれば破滅へと繋がる「命綱」だった。
「わかっている。……大切にするよ、フェイ」
キッチンで最後の皿を拭き終えたミルズが、布巾を丁寧に畳んで流し台の脇に置いた。濡れた手をよく拭い、二人のもとへ歩み寄る。彼はフェリクスの耳元で鈍く光る銀の輪を、品定めするようにじっと見つめる。
「……まあ、よく似合ってるよ。どこぞの貴族のドラ息子に見えなくもない」
ミルズの軽口に、フェリクスが少しだけ照れくさそうに頬を緩めた。その表情は、この三日間で一番「彼らしい」柔らかなものだった。
「ありがとう、ミルズ。……フェイ、本当にありがとう。この三日間、ずっと怖かったんだ。また自分が自分でなくなるんじゃないかって」
ミルズはフェリクスの左肩に右手で力強く一度だけ叩いた。
励ましの、頼もしい重み。……のはずだった。
だが、その衝撃が引き金となった。
叩かれた肩の衝撃が、フェリクスの神経を駆け上がる。その瞬間、彼の視界が白く反転した。
平和な時計店の風景が掻き消え、代わりに脳裏を過ったのは、硝煙の匂いと、命令を叫ぶ教官の怒鳴り声。そして、自分を「磨き上げる」ために与えられた、終わりのない激痛。
(……動け。迷うな。邪魔な奴は叩き潰せ。……壊せ。俺の邪魔をする「ノイズ」は、全部ぶち殺せ)
フェリクスの脳の奥で、何かがカチリと噛み合う音がした。
耳元のイヤーカフは静かに機能し続けている。だが、遮断された「静寂」が皮肉にも、彼自身の内側に眠る「裏」の思考を、より鮮明に浮き彫りにしてしまった。
「……あ、……」
安堵に緩んでいたはずのフェリクスの表情が、一瞬で凍りついた。
フェリクスの指先が、痙攣したように跳ねた。頬の筋肉が、凍りついたように強張る。彼がゆっくりとまぶたを持ち上げたとき、そこに宿っていた「フェリクス」の温かな光は、底冷えするような無機質な冷徹さに塗りつぶされていた。
次の瞬間。
フェリクスは自分の左肩に乗っていたミルズの手を、人間離れした速度で掴み取った。驚愕に目を見開くミルズに隙を与えず、フェリクスはそのまま、椅子を蹴るようにして立ち上がり、その勢いと自重をすべて乗せて、ミルズの右手をテーブルへと叩きつける。
「……ッ!?」
テーブルが悲鳴を上げた。視界が180度回転し、肺から空気が弾け飛ぶ。気づいた時には、ミルズの視界は木目の天板に押し付けられていた
「……っ、フェリクス!?」
ミルズが呻く。
その旋回の衝撃は、左隣にいたフェイを容赦なく巻き込んだ。フェリクスの強靭な左肩がフェイの胸元を突き飛ばす。
「あ……っ!」
フェイが倒れ込んだすぐ後ろには、ミルズの部屋へと続くドアがある。
そこへ飛び込んで鍵をかければ、一時的には逃げられるかもしれない。けれど、肺から空気が追い出され、喉の奥で呼吸が引き連れる。目の前の兄から放たれる、暴力そのもののような殺気に縫い止められ、指先一つ動かせなかった。
「……フェ、……お兄ちゃ……?」
フェイの声は喉の奥で震え、形にならなかった。
フェリクスはミルズの右手をテーブルにめり込ませるように押し付けたまま、ゆっくりと、首を巡らせた。
肩越しにフェイを射抜いたその瞳には、かつての慈しみなど微塵もない。そこにあるのは、自分を脅かす不快な羽虫を叩き潰そうとする、底知れない苛立ちと拒絶だった。
「……チッ、ガキか。どいつもこいつも、俺の頭を弄りやがって」
フェリクスの口から漏れたのは、低く、地を這うような獣じみた声だった。その瞳は、逃げ場を失いうずくまる彼女を「いつでも殺せる獲物」として冷酷に捉えている。
フェリクスは、手近な障害物であるミルズをさっさと排除し、フェイのもとへ歩み寄るための最短ルートを計算した。彼は、テーブルに押し付けていたミルズを、まるで不要な荷物をどかすかのような無造作な動作で、シンクの方へ力任せに放り投げようとした。
だが、その殺意の矛先がフェイへ向いた一瞬の隙を、ミルズは見逃さなかった。
「よせ、フェリクス!! その子はフェイだ! お前の妹だろうが!!」
喉が裂けるような絶叫。それは感情の爆発ではない。フェリクスの思考回路に「家族」という定義不能なノイズを叩き込み、コンマ数秒の硬直を誘うための、ミルズの賭けだった。
放り捨てられようとした勢いを逆に利用し、ミルズは天板を強く蹴って跳ね起きた。彼は叫びながら、フェイへと踏み出そうとしたフェリクスの脇腹へ、弾丸のような体当たりを見舞った。
ドォォォン!!
ミルズの捨て身の体当たりが、フェリクスの脇腹を捉えた。
だが、フェリクスはその衝撃を脊髄で受け流し、一歩も引かずにミルズの首根っこを掴み返した。骨が軋むほどの握力。そのまま横のシンクへと叩きつける。
「がはっ……!!」
「……うぜぇんだよ。死に損ないの軍人が」
フェリクスは、呻くミルズの腹部に無慈悲な膝蹴りを叩き込む。かつての戦友を「死に損ない」と吐き捨てるその声に、フェイは震え上がった。
「やめて……!!」
壁際で震えていたフェイが、弾かれたように駆け出した。
彼女はもみ合う二人の間に、自ら死地へ飛び込むようにして割って入った。
「お兄ちゃん、もうやめて!!」
フェイは、フェリクスの逞しい背中にしがみついた。
鋼のように硬く、殺意に昂ぶって熱を帯びた筋肉。その熱量に圧倒されながらも、彼女は必死に声を張り上げた。
「私だよ、お兄ちゃん! フェイだよ!! 私を……私を置いていかないで!!」
フェリクスの動きが、ピタリと止まった。
喉元まで迫っていた殺意の塊が、空中で静止する。
「……あ……が、……つ……」
フェリクスの喉から、先ほどまでの獣じみた声とは違う、掠れた呻きが漏れる。
背中に回された小さな手の温もりと、必死に自分を呼ぶ声。それが、脳内に居座る「裏」の論理を、根底から掻き乱していく。
(……この、クソガキっ……いや、違う!……この声は……)
フェリクスの視界を覆っていた無機質な漆黒が、激しく明滅する。
彼は頭を押さえてミルズから離れると、よろめきながらキッチンの壁に背中を預けた。
「……フェ、イ……?」
ゆっくりと、首を巡らせる。
そこには、涙を流しながら自分を見上げる、たった一人の妹がいた。フェリクスの瞳に、深い苦悩と、ようやく手放しかけた「人間」の光が戻り始める。
「……すま、ない……逃げろ……俺が、俺でなくなる前に……ッ!!」
フェリクスは自分の喉を掻きむしるようにして叫び、そのまま力尽きたように床へと崩れ落ちた。
ドサリ、と重い音を立ててフェリクスの体が床に崩れ落ちた。
荒い呼吸だけが、静まり返ったキッチンに響いている。
フェイは、床に倒れ込んだ兄の傍らに崩れるように膝をついた。震える手で、その大きな、まだ熱を帯びた背中に触れる。
「……お兄ちゃん? お兄ちゃん……!」
返事はない。フェリクスは深い眠りに落ちたかのように、意識を完全に失っていた。
シンクの縁に背中を預け、激しく咳き込んでいたミルズが、痛む体を引きずるようにして二人のもとへ歩み寄る。
「……助かったよ、フェイ。お前が止めなきゃ、俺は今頃……死んでたな」
ミルズは自嘲気味に笑おうとしたが、脇腹の痛みに顔を歪めた。ミルズは苦い顔で、自分の右手首を見下ろした。
シャツの袖は捲れ上がり、そこにはフェリクスの指の形そのままに、どす黒い鬱血が浮かび上がっている。骨が軋むほどの力で固定されていた証拠だ。首元にも、叩きつけられた際に掴まれた赤紫の痕が痛々しく残っていた。
「……ミルズさん、ごめんなさい。私、怖くて……すぐに動けなくて……」
「謝るな。あんな化け物じみた殺気、軍人でも足がすくむ。……それより」
装置は正常に作動している。外部からの「不協和音」が届いた形跡はない。それでもフェリクスは、ミルズが肩に触れたその瞬間に、まるで弾け飛ぶように変貌してしまった。
「……あいつを操る『音』は聞こえていなかったはずだ。なのに、俺が触れただけであんな風に……」
ミルズは苦い顔で、どす黒い鬱血の浮かぶ自分の右手首を見つめた。
イヤーカフで外部の介入を遮断しても、フェリクスの肉体そのものに刻み込まれた「条件反射」までは消せなかった。誰かが背後に立てば、あるいは体に触れれば、即座に敵を殺すためのスイッチが入る。それはもはや魔法や術式ではなく、終わりのない激痛の中で叩き込まれた、生存のための呪いだった。
「……装置で外の声を消したところで、あいつ自身の血に混じっちまった『躾』までは、どうにもならないらしいな」
ミルズの絞り出すような言葉に、フェイは兄の髪を撫でる手を止めた。
外部の敵から守るための装置をつけていても、お兄ちゃんの体そのものが、お兄ちゃんを苦しめている。その残酷な事実に、フェイの指先が冷たく凍りついた。




