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4話

ミルズがゆっくりと自室のドアを押し開けると、朝の光に満ちた部屋の空気が外へと流れ出してきた。

 ベッドの端に腰掛けたフェリクスが、隣で泣きじゃくるフェイの頭を、大きな手で不器用に撫でている。その仕草は彼らと出会ったころと何も変わっておらず、ミルズは一瞬だけ、時が止まったような錯覚を覚えた。


「……あ、ミルズさん。ごめんね、勝手に部屋使っちゃって」


 入ってきたミルズに気づき、フェイが慌てて顔を上げた。真っ赤な目をして、着ている長袖の袖で乱暴に顔を拭う。

 フェリクスは少し困ったような、けれど照れくさそうな笑みを浮かべて、妹の頭から手を離した。


「……悪いな、ミルズ。フェイが、なかなか泣き止まなくて」


 そう言って苦笑するフェリクスの左手には、泥に汚れた、深いボルドー色の腕章が固く握りしめられていた。かつての英雄の象徴でも、西国の階級章でもない、出所不明の不気味な布切れだ。


「気にするな。……それよりフェリクス、その腕章はどうした」


 ミルズが視線で促すと、フェリクスは自分の手元に目を落とした。


「……フェイが洗ってくれると言ったんだが、どうも気が進まなくてな。汚れを落とせば済むような、そんな単純な代物じゃない気がして……」


 フェリクスが差し出した腕章を、ミルズは受け取った。


 ずしりとした不自然な重み。よく見れば、汚れの隙間から銀色の刺繍が覗いている。それは、中央から無残に叩き折られた、一本の「指揮棒タクト」の意匠だった。


「……折れた、タクトか」


 ミルズの呟きに、フェイが涙の跡が残る顔を近づけて、技術者らしい鋭い目でその刺繍を覗き込んだ。


「これ……お兄ちゃんを操っていた人たちのマーク?」


 その言葉に、部屋を流れる穏やかな空気が、わずかに緊張を帯びた。

 

 ミルズは腕章を握りしめ、ベッドの上の二人を見つめた。

 まだこの「タクト」を振る主の名も、その目的も分からない。だが、親友の手に残ったこの忌まわしい傷跡を、今度は自分が引き受ける番だと、静かに確信した。


「フェイ、これをお前の部屋へ持っていけ。汚れを落とすついでに、糸の一本まで徹底的に調べてくれ。……できるか?」


 フェイは一瞬だけ、兄の顔を見た。フェリクスが優しく頷くのを確認すると、彼女は力強く頷き、ミルズの手から腕章を受け取った。


「……うん、やってみる。お兄ちゃんをこんな目に遭わせた奴の正体、絶対に見つけてやるんだから」


-----


 フェイはボルドーの腕章を大切そうに抱え、解析道具の揃った自分の部屋へと急ぎ足で戻っていった。パタン、とドアが閉まる音が響き、足音が遠のいていく。


ベッドの上のフェリクスは、魂が抜けたようにぼんやりと自分の手を見つめている。ミルズはそのあまりの危うさに、無意識に手を伸ばした。


「……フェリクス。顔色が悪い、一度横になれ」


 ミルズの指先が、フェリクスの肩に触れようとした、その瞬間――。


「…………ッ!」


 フェリクスの肩が不自然に跳ね、空気が凍りついた。

 ミルズが反応するより早く、フェリクスの右手が、獲物を捕らえる猛禽のような速さでミルズの手首を掴んだ。骨が軋むほどの握力。そのまま力任せにミルズを床へ叩き伏せようとする。だが、ミルズは無意識に重心を低く落とし、掴まれた手首を内側へ回して力を逃がしていた。

床に背を打つ寸前、左手で着地を和らげ、喉元へ伸びるフェリクスの右手を、反対の腕で辛うじて弾き飛ばす。


「な……っ、フェリクス!?」


 喉は辛うじて守ったが、馬乗りになった親友の握力は、それでもなお骨を軋ませるほどだった。

 見上げた親友の瞳に、先ほどまでの穏やかな光はない。

 琥珀色の瞳は極限まで瞳孔が収縮し、まるで冷徹な硝子玉のようだ。そこに「親友」を認識する温かさは微塵もなかった。


「……あ? どこのどいつだ、俺の領域シマにツラ出しやがったのは」


 低く、地這うような声。それはかつての英雄の声でも、洗脳された人形の声でもない。


(……瞳孔の収縮、四肢の硬直。これは洗脳による『命令』ではなく、重度のフラッシュバックによる自己防衛反応だ)


 三年前、東部戦線の最終防衛線――味方が全滅し、降り注ぐ砲火の中で一人、死体の山に埋もれながら「生き残る」ことだけを命じられた心が作り出した、非情な生存本能の人格だった。


「……待て、フェリクス! ここは時計店だ! 敵なんていない!」

「抜かせ。……境界ラインを越える奴は、どいつもこいつもブチ殺すと決めてんだよ」


 フェリクスは、ミルズの声を聞いていない。

 彼の意識は今、あの日の地獄――血の匂いと硝煙が渦巻く戦場にいた。空いた左手で、枕元に置いてあったミルズの護身用ナイフを迷いなく抜き放つ。


「フェイが……っ、隣にフェイがいるんだぞ! お前は、またあの子を泣かせるつもりか!」


 その名前が出た瞬間。

 フェリクスの瞳が、バグを起こしたように激しく揺れた。

 ナイフを振り下ろそうとしていた腕が、目に見えて震え始める。

「フェ……イ……? ……チッ、黙れ……! 俺は、守らなきゃならねぇんだよ、クソが……ッ!」


 裏人格が「生存」を叫び、表の心が「大切なもの」を思い出そうとする。その激しい内的葛藤の隙を突き、ミルズはフェリクスの腕を払い、頸動脈を鋭く打った。


 ガクン、とフェリクスの力が抜け、ミルズの上に重なるように崩れ落ちる。


 荒い息をつきながら、ミルズは奪い取ったナイフを遠くへ投げ捨てた。ミルズはゆっくりと、自分にのしかかる親友の体を押しのけ、床に手をついて立ち上がった。膝の震えを無理やり抑え、乱れたシャツを正すと、彼はすぐさまフェリクスの脈を取り、打撃による損傷がないかを確認する。 荒い息をつきながらも、その手つきは、次に備えて部屋の「出口」と「武器」の配置を再確認することを忘れなかった。


「……っ、重てぇな、相変わらず……」


 意識を失って泥のように眠るフェリクスの脇に手を通す。

 かつて戦場で、この背中に何度も命を預けた。その逞しかった体躯が、今はどこか空虚で、壊れ物を扱うような危うさを伴ってミルズの腕にのしかかる。ミルズはフェリクスを抱え上げ、乱れたシーツの上へと静かに横たえ直した。


「……はぁ、はぁ……。なんてザマだ、フェリクス」


 首筋に残った指の跡をさすりながら、ミルズは戦慄した。

 キャスリンの言う「洗脳」は、この壊れた心を利用して上書きしたに過ぎない。


 この男の本当の病巣は、三年前のあの日、彼を英雄に仕立て上げ、同時に一人の人間として再起不能なまでに破壊した「戦争」そのものだった。


「……すまない。何も知らずに、よく戻ったなんて言っちまったな」


 ミルズは、意識を失った親友の顔を、悔しさを噛み締めるように見つめ続けた。


 部屋には、再び時計の「カチ、カチ」という音だけが虚しく響き渡っていた。

 洗脳が解けたはずの親友の奥底に、自分ですら制御不能な「怪物」が潜んでいる。その残酷な事実に、ミルズは戦慄した。


----


 喉元には熱い拍動が残り、指の跡がヒリつく。彼はシャツの襟を一番上のボタンまで留め、鏡を見ることもなく髪を整えると、一度自室を出て、静まり返ったダイニングへと踏み出した。

 隣の部屋のドアを叩く。


「フェイ、入るぞ」

 返事を待たずにドアを開けると、そこは作業灯の青白い光に支配された別世界だった。

 フェイは拡大鏡に片目を押し付け、ピンセットを操っていた。ボルドーの布地から、刺繍に紛れた「銀色の細い繊維」を、一本ずつ慎重に引き抜いている。


「あ、ミルズさん。お兄ちゃん、寝ちゃった?」


 フェイは手を止めずに尋ねる。その声は明るいが、集中力の限界に近いのか、少しだけ上ずっていた。


「ああ、酷く疲れていたみたいだ。……そっちはどうだ」


 ミルズはフェイの背後に立ち、彼女の視線を遮らないように手元を覗き込んだ。

 デスクの上には、分解された腕章のパーツが整然と並べられている。


「……これ、見て。この銀糸の束、ただの飾りじゃない。芯に導線が通ってる。特定の周波数を拾うと微弱な振動を起こして、腕の骨から直接、頭の中に音を響かせる仕掛けになってるんだ」


 フェイがデスクの奥にある、円形の真空管モニター(オシロスコープ)を指さした。緑色の光の線が、不規則な波形を描いて震えている。


「これを作った奴、最低だよ。お兄ちゃんの脳が特定の旋律フレーズを『命令』として認識するように、ずっとこの腕章から信号を送り続けてたんだ。……お兄ちゃんの心を、無理やり楽器みたいに調律チューニングしてたんだよ」


 フェイはそこまで言って、ふと、ピンセットを動かす手を止めた。彼女の瞳が、モニターの波形の「ある一点」を凝視する。


「……ねぇ、ミルズさん。おかしいよ」

「何がだ」

「この腕章の出力……。骨を伝わって脳まで届かせるには、あまりに微弱すぎるの。これじゃ、せいぜい肘のあたりを痺れさせるのが関の山だよ。……おかしいと思わない?」


 フェイはピンセットで、腕章から剥ぎ取ったばかりの「銀の繊維」をそっと持ち上げた。それは生き物のように、空中の微かな電気に反応して揺れている。


「もし、この腕章が『音を出す装置』じゃなくて、単なる『中継器アンテナ』だとしたら……。信号を受け取って、増幅して、その先にある『本当の受信機』へ橋渡しをしているだけだとしたら……」


 フェイの視線が、隣の部屋で眠るフェリクスの方へと向けられた。その瞳には、恐怖と、信じたくないという拒絶が混じっている。


「……まさか、お兄ちゃんの頭の中に、これと同じ『銀の糸』が埋め込まれているんじゃ……。骨そのものを導線にして、脳に直接信号を流し込むための『アンテナ』が……」


 ミルズは言葉を失った。

 もしその仮説が正しければ、腕章を外したところで、フェリクスは一生、マエストロの支配下にあることになる。


「……もし、お兄ちゃんが急に怖いくらい変わっちゃっても……それはお兄ちゃんのせいじゃない。人間を、ただの演奏機械パーツみたいに作り替えた……あの最低な連中のせいなんだから。お兄ちゃんの心を調律して、尊厳を弄んだあいつらを、私は絶対に許さない」


 フェイの小さな拳が、デスクの上で固く握りしめられる。

 ミルズは、シャツの下に隠した首筋のアザがズキリと痛むのを感じた。


 「お兄ちゃんのせいじゃない」――その言葉を、自分自身に言い聞かせているようなフェイの横顔。


「……わかっている。あいつは、あいつのままだ」


 ミルズは、フェイの細い肩にそっと手を置いた。

 先ほどフェリクスに掴まれた時の、骨を砕くような暴力的な力とは対照的な、折れてしまいそうなほど華奢な肩。


「一時的でもいい、洗脳をジャミングする装置を何日で作れる?…あいつを、もう二度と操らせないための『盾』だ。……作れるか?」


 ミルズの声は低く、しかし確かな祈りがこもっていた。

 フェイは一瞬、デスクに並んだ銀糸の束とオシロスコープの波形を見比べた。


「……あと少しで、この信号の『発信源』の癖が掴めそう。脳のアンテナに届く前に、この周波数を相殺するノイズをぶつける回路を組むわ。……流石の私でも、調整に3日はかかるかな」


 フェイはそう言って、決意の混じった微かな微笑みを浮かべ、再び拡大鏡に目を戻した。

 ミルズは彼女の邪魔にならないよう、音を立てずに部屋を出た。




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