3話
まどろみの中で、フェリクスは規則正しい音を聞いていた。
カチ、カチ、カチ――。
戦場の砲声でも、耳を劈く不協和音でもない。それは、時を刻む穏やかなリズムだった。
ゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、柔らかいオレンジ色の壁だった。温かみのある、どこか懐かしい色。
右側の窓からは、グリーンのカーテンを透かして眩いばかりの朝日が差し込んでいる。
「……ここは……?」
フェリクスは横向きに置かれたベッドの上で、上体を起こした。
左側に目を向ければ、使い込まれた木製のテーブルと椅子。その上には、難しそうな数冊の本が整然と積まれている。
殺風景な軍の宿舎でも、冷たい実験室でもない。誰かの「生活」が息づく、静かな寝室だった。
「……気が付いたか」
部屋の入り口から、落ち着いた声がした。
立っていたのは、白いシャツの袖を捲り、盆を手にしたミルズだった。サングラスはしておらず、その眼差しには親友を案じる色が濃く滲んでいる。
「ミルズ……。……ああ、そうか。お前、本当に時計屋になったんだな」
フェリクスは掠れた声で笑った。
三年前、泥濘の中で語った夢。自分はパン屋に、お前は時計屋に。
その半分が叶っている光景を見て、フェリクスの胸に温かいものが込み上げる。
「……長く、嫌な夢を見ていた気がするよ。……誰かを、酷く傷つけるような」
その言葉に、ミルズの手が微かに震えた。
昨夜の音楽や、倉庫への襲撃に対する記憶があやふやなのだろう。
「……夢だ。気にするな、フェリクス」
ミルズは努めて冷静に答え、テーブルの上に盆を置いた。そこには、湯気を立てるスープと、近所のパン屋で買ってきたばかりの香ばしいパンが並んでいる。
その時、廊下からバタバタと騒がしい足音が近づいてきた。
勢いよくドアが開く。
「お兄ちゃん!!」
オレンジのズボンの裾を揺らし、フェイが飛び込んできた。
昨夜、モニター越しに絶望の淵にいた少女は、今、最高の笑顔を浮かべて兄のシーツをぎゅっと握りしめている。
「おかえりなさい、お兄ちゃん! ……もう、どこにも行っちゃダメだよ!」
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二階からは、フェイの弾んだ声と、フェリクスの穏やかな笑い声が微かに漏れ聞こえてくる。
三年の空白を埋めるように、二人は温かいスープを囲み、再会の喜びを噛み締めているはずだ。
その団欒に水を差さないよう、ミルズは音もなくその場を離れ、地下室へと続く梯子を下りた。
石造りの冷たい壁に囲まれた地下室。
そこは、平和な日常の皮を被った「時計店」の、剥き出しの臓物のような場所だ。
ミルズは一人、巨大な通信機の前に座った。
真空管がじわじわと琥珀色の光を増し、特有の熱気が部屋を満たしていく。ミルズは重い受話器を取り、暗号ダイヤルを回した。
「……第4倉庫の件、片付きました」
ノイズの向こう側から、氷のように冷ややかな女性の声が響く。西国の作戦官、キャスリンだ。
『報告を。暗殺者はどうしたの? 遺体は確認した?』
ミルズは一瞬、喉の奥で言葉を止めた。
感情のままに「親友が生きていた」と報告すれば、キャスリンは即座にミルズを任務から外すだろう。
スパイにとって私情は致命的な欠陥だ。
彼は深く息を吸い、友情を「報告書」という名の無機質な記号へと変換した。
「……生かして確保しました。正体を確認したためです」
『正体?』
「三年前、東部戦線で行方不明になった、元西国軍第4部隊所属――フェリクス・ベルガーです」
通信の向こうで、わずかな沈黙が流れた。
キャスリンの頭脳が、フェリクスの過去の戦績と、現在の「シレント」としての利用価値を瞬時に計算している。
『……生きていたのね。でも、彼は「洗脳」されていた。東国の完璧な殺戮者よ。そんな裏切り者をどうするつもり?』
「洗脳の鍵は『音楽』でした。現在は正常な人格に戻っており、戦闘能力も健在です」
ミルズは淡々と、けれど説得力を込めて言葉を紡ぐ。フェリクスが「特定の条件下で豹変する」可能性など、露ほども思っていない。ただ、洗脳が解けた親友を守るための理屈を積み上げる。
「洗脳の鍵は『音楽』のようです。彼が身につけていた腕章に、奇妙な意匠がありました。……折れた指揮棒です。現在、解析に回しています。この背後にいる存在を特定するには、彼の証言が不可欠です」
ミルズは淡々と、けれど説得力を込めて言葉を紡ぐ。あの不気味な音楽とタクトの腕章が、ただの偶然ではないことだけは直感していた。
「彼を監視下に置き、『協力者』として活用すべきです。……責任は、私が持ちます」
『……監視、ね。どこに置くつもり?』
「私の店――『ミルズ時計店』です。時計の修理は繊細な作業だ。リハビリも兼ねて、店員として潜伏させます。彼が暴走すれば、その場で私が始末します」
キャスリンは低く、楽しげな含み笑いを見せた。
『時計店の店員……。かつての英雄が、エプロンをして時計を磨くわけ? 皮肉な隠れ蓑ね。……いいわ、彼の生存を黙認しましょう。ただし、ミルズ』
声が一段と低くなる。
『少しでも「洗脳」の兆候が見えたら、迷わず引き金を引きなさい。……あなたの「情」が、西国の平和を乱すことだけは許さないわよ』
「……了解しました。任務に、私情は挟みません」
通信がプツリと切れた。
受話器を置いたミルズの掌には、じっとりと冷たい汗が滲んでいる。
時計店の店員。
それは、フェリクスを再び戦場へ渡さないための唯一の「居場所」だった。だがそれは同時に、彼を常に銃口の先に置き続けるという、キャスリンとの非情な契約でもあった。
「……情、か」
ミルズは椅子を立ち、ゆっくりと梯子を上って一階の店舗へと戻った。まだ開店前の店舗はカーテンが引かれ、薄暗い静寂に包まれている。ミルズはそこを通り抜け、居住スペースへと続く階段を上がった。
二階に上がると、自室のドアの隙間から、眩い朝日の光が一本の線となって漏れていた。
その光と共に、ひっそりと、けれど切実な音が聞こえてくる。
――ひっ、く……う、ううぅ……。
それは、堪えきれずに溢れ出した、フェイの震える泣き声だった。
兄が無事に戻り、かつての優しい眼差しで自分を呼んでくれた。その瞬間に、張り詰めていた彼女の糸が切れたのだろう。
「……ごめんね、お兄ちゃん……。もう、二度と会えないかと思って……」
「いいんだ、フェイ。……泣かせて悪かった。俺は、ここにいるよ」
扉の向こうで、フェリクスが優しく妹を宥める声がする。
その穏やかな光景を守るために、自分は先ほどキャスリンに「兆候があれば即座に殺す」と誓った。任務を遂行するためには、親友をただの「監視対象」として見なさなければならない。
平和な食卓を維持するために支払ったのは、親友に対して「引き金に指をかける覚悟」を持ち続けるという、あまりに重い精神的負担だった。
「…………」
ミルズは扉の前で立ち止まり、サングラスを直した。
この扉を開ければ、そこには再会の喜びに震える兄妹がいる。その光の中に、今の自分の「覚悟」を持ち込むわけにはいかない。
ミルズは深く一度だけ息を吐くと、再び穏やかな時計屋の顔を作って、ゆっくりと扉を開けた。




