2話
「明日も学校があるから」と、フェイは慌ただしく自分の部屋へ入っていった。
これからあの少女は、明日の準備をして、子供らしくベッドに潜り込むのだろう。
そんな彼女を見送った後、ミルズは一人で皿洗いを済ませ、一階の修理テーブルへと向かった。
使い込まれた木製の椅子の下――床の隙間に指をかけ、手すりを引っ張る。すると、隠し扉が開き、闇の先へと続く縄梯子が姿を現した。
隠し扉を抜けると、そこには油の匂いと冷えた石畳の地下室が広がっていた。
中央に鎮座するのは、真鍮と真空管が鈍く光る巨大な遠隔投影機テレフォノグラフだ。
ガラスの円筒の中で、緑色の光が明滅し、一人の女性のシルエットを浮かび上がらせる。
西国の知性――キャスリンが、歪なノイズの向こう側からミルズを凝視していた。茶髪の長髪をなびかせ、白のテーラードジャケットに黒のブラウスを隙なく着こなしている。
「今日もご苦労さま、ミルズ。例の男が隠し持っていた『偽装コイン』の暗号、解析が終わったわ。……末端にしては、上等なものを持ってたわね」
キャスリンの蒼眼が画面越しに、冷ややかな微笑を浮かべた。
「リーダー、お疲れ様です。……あの男から、何が出たんですか?」
「東国の『掃除屋』への依頼書よ。……標的は、我が国の要人。そして実行役は、最近東国で頭角を現した新型の殺し屋――コードネーム『シレント(静寂)』」
キャスリンの声が、ノイズ混じりのスピーカーから冷たく響く。
「事前に情報を掴んだおかげで要人と偵察班はルートを変更しことなきを得えているけれど……、その現場には、念のためにと工作員を一人、待ち伏せさせていたのよ」
キャスリンの手元で、資料がパラリと音を立ててめくられる。
「……現れた殺し屋は緑の軍服、そして首元のドッグタグ。凄まじい速度のナイフ捌きで、彼は抵抗の跡すら残せず、喉元を一突き。……心臓が止まる瞬間まで、自分が斬られたことに気づかせない神業だそうよ」
ミルズの背筋に、氷を押し当てられたような戦慄が走った。
緑色の服。圧倒的な近接格闘能力。そして、ドッグタグ。
サングラスの奥で、ミルズのアメジストの瞳が激しく揺れる。
「……そいつは、不殺を貫いているのか?」
「いいえ。躊躇も慈悲もない、完成された殺人機械オートマタよ。……そしてミルズ、これが一番の懸念材料なの」
キャスリンが画面越しに、一枚の写真を差し出した。
そこには、血に濡れた石畳の上に転がる、見覚えのある銀の懐中時計が写っていた。
外装には、ミルズ自らが彫り込んだ精緻なアラベスク模様。世界に二つとない、かつて親友とお揃いで持っていた「約束」の証。
(……そんな、馬鹿な……)
脳裏に、戦場でのフェリクスの笑顔が蘇る。
彼は卓越したナイフ使いでありながら、常に切っ先を数ミリ手前で止める男だった。「僕の手は人を殺すためじゃなく、妹の手を引くためにあるんだ」――照れくさそうに笑っていた、あの頃の彼。
ミルズの指先が無意識に、ポケットに入っていた銀の懐中時計の鎖を弄った。
特徴も、技術も、そして何よりその「時計」も、すべてがフェリクスを示している。だが、自分の知る彼は、誰よりも殺しを嫌う男だった。
(……フェリクス。お前なのか……? お前の刻む時間は、いつから狂い始めたんだ……)
暗い地下室で、ミルズはかつての親友の面影を、冷徹な殺人者の影へと無理やり重ね合わせていた。
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時計店をオープンして昼過ぎ。カチ、カチと無数の秒針が時を刻む静かな店内に、軽やかなカウベルの音が響いた。
「……いらっしゃいませ」
ミルズはサングラスを外し、ルーペ越しに客を見た。入ってきたのは、灰色のコートを着た中年の男だ。どこにでもいる平凡な男だが、彼がカウンターに置いたのは、外装がひどく歪んだ懐中時計だった。
「時計の修理を依頼したい。明日の十一時四十五分に引き取りに来るよ」
ミルズの指先が止まる。故障の原因を告げず、具体的な「秒単位」の時間を指定する客。それは、西国ウェスタの組織が接触を図る際のサインだ。
「……承知いたしました。湿気で内部の油が固まっているのかもしれません。お預かりします」
男は満足げに一度だけ頷くと、音もなく店を去っていった。
ミルズは一階奥の修理テーブルに向かい、椅子を引いた。ピンセットで慎重に裏蓋を開け、細かな歯車をかき分ける。中から現れたのは、爪の先ほどの小さな紙片だった。
ルーペで覗き込むと、そこには微細な文字で暗号が記されている。
『西側の海岸沿い、第四倉庫。十九時。銃火器の密輸――』
「……十九時か。今夜も、ゆっくりはできそうにないな」
ミルズは紙片を灰皿の上で焼き捨て、静かに立ち上がった。
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「熱源、三つ倉庫内に集結。……ミルズさん、準備はいい?」
西の海岸沿い、第四倉庫を見下ろす物陰。ミルズがサングラスのフレームに触れると、カチリ、と微かな歯車音がした。
漆黒のレンズの裏側に、蒸気圧で駆動する緑色の燐光が走る。
フェイが事前に仕掛けた『ホクロ型追跡装置ビーコン』が捉えた、三つの光点が、倉庫の奥で不自然に重なっていた。
「ああ。……裏切り者の位置を確認した」
ミルズは外壁の蒸気式の複雑なダイヤル錠にフェイが発明した周波数干渉儀を差し込む。真鍮の筐体から、耳の奥をくすぐるような超高周波の震えが伝わり、重い正面扉が、人が一人通れる分だけ音もなく滑り上がった。
一階部分は巨大なコンテナや木箱が乱雑に積み上げられ、迷路のようになっている。その奥、わずかに漏れるガス灯の下で、木箱から覗く鈍色の銃器を囲み、男たちが密談していた。
壁を這う太い蒸気配管が、不気味な脈動と共に「シュ、シュ」と高温の吐息を漏らしている。 湿り気を帯びた倉庫の空気は、その熱のせいで肌にじっとりと張り付いた。
ミルズは闇に紛れながら、左手でサングラスのフレームをわずかに押し上げた。つるの部分が導音桿になっている。
「……一分待て。」
木箱の陰から音もなく踏み出したミルズが、一人目の後頭部へ、鞘に収まったままの仕込み杖を叩きつける。脳を揺らす鈍い衝撃。男は声も上げられず、膝から崩れ落ちた。
二つ。
異変に気づき、懐の銃に手を伸ばした二人目。その手首を、ミルズの指先が冷徹に捉える。関節を逆手に極め、最短距離で喉仏へ掌打を叩き込んだ。男の視界が反転し、床に叩きつけられる。
三つ。
最後の一人が叫ぼうと口を開いた瞬間、ミルズは杖の石突でその鳩尾を正確に貫いた。
「……、が……っ」
肺から空気が根こそぎ奪われ、男はくの字に折れ曲がって沈黙した。
数分後。
散乱した薬莢やっきょう一つ立てることなく、全ての無力化を終えたミルズが、再び同期を繋いだ。漆黒のレンズの向こう側で、三つの赤い光点が、音もなく灰色へと変わっていく。
「……終わった。ターゲットは全員確保だ」
だが、任務完了の合図を送ろうとしたその時、倉庫内のスピーカーがガリガリと不快なノイズを上げた。静寂を切り裂き、歪な旋律のクラシックが流れ出す。
「……何、この音……? ミルズさん、気をつけて。正面扉から、熱源反応が一つ!」
フェイの声が、サングラスのつるを介してミルズの骨を震わせる。
彼女のモニター上では、一つの赤い点が、人間とは思えない速度と規則性でミルズへと接近していた。
再びせり上がった鉄扉から、月光と共に一人の男が入ってきた。
緑色の軍人服に、首元でチャリリと鳴るドッグタグ。腕の赤い腕章には折れたタクトが描かれていた。
「フェリクス……?君なのか……?」
「えっ?!、お兄ちゃんがそこにいるの??」
通信越しのフェイの息が止まる。
だが、現れた男――フェリクスは、妹の声など届かぬように腰のナイフを抜き放った。その瞳は光を失い、音楽のリズムに合わせて指先が細かく痙攣している。
フェリクスが地を蹴った。
かつて背中を預け合った親友の、容赦のない一突き。
「……ッ、フェイ! 指示を!!」
近接戦闘を専門外とするミルズにとって、ナビゲーターの混乱は「死」を意味する。
フェリクスのナイフが、防戦一方のミルズの頬を浅く裂いた。熱い血が滴る。
「フェイ! 目を覚ませ! お前が導を捨てれば、俺もあいつも二人共死ぬぞ!!」
その叱咤が、通信の向こうの少女を「技術者」へと引き戻した。
鼻をすする音が一度。それから、氷のように研ぎ澄まされた声が、ミルズの脳を叩く。
『ミルズさん、そのまま右へ三歩! ……そこに高圧蒸気のバイパス弁があるわ!』
骨伝導から響く、冷静なナビゲート。
フェイの指先は、手元で倉庫の配管図面をなぞっていた。彼女はその建物の「内臓」をすべて把握している。
ミルズは格闘を放棄し、なりふり構わず背を向けて地を蹴った。
背後から迫る「シレント」の殺気。逃げ切れない。だが、フェイの指示通り、彼は壁から突き出た真鍮のバイパス弁を仕込み杖の石突で叩き折った。
――プシュゥゥゥッ!!
激越な悲鳴と共に、白濁した蒸気がフェリクスの足元から噴き上がる。
「……、……ッ」
視界を奪われ、一瞬だけ停止する殺人機械。
「……悪いな、フェリクス。……近接は、専門外なんだよ」
ミルズは視界を塞いだ白煙を隠れ蓑に、二階へと続く鉄階段へ跳躍した。
宙を舞うミルズ。その右手の仕込み杖が、鋭い弧を描いて一閃する。
――ガシャァァァン!!
薙ぎ払われた真空管式受信機が、青白い火花を散らし、ガラスの破片と共に床へと叩きつけられた。
不協和音が途切れ、倉庫に完璧な静寂が戻る。
同時に、フェリクスは糸の切れた人形のように、その場に膝から崩れ落ちた。
「……、……終わった、か」
ミルズが肩で息をしながら、仕込み杖を鞘に納めようとした、その時だ。
チリ、チリ……。
床に転がった、飴細工のように捻じ曲がった真鍮の拡声器の奥から、不快な熱を持ったノイズが漏れ出した。
真空管は砕け、電源は落ちているはずだ。なのに、拡声器の根元、予備の振動板が、何事もなかったかのように震えを再開したのだ。
『……演奏、終了だ。……連れ帰るがいい、スパイ。』
陶酔しきった老人の、不気味な声。
それは通信ではなく、「破壊された瞬間に再生されるよう仕組まれた」、録音の声だった。ミルズの勝利さえ、敵の脚本通りだったのだ。
ガチリ、と、拡声器の奥で最後のゼンマイが弾け、老人の声は完全に沈黙した。
後に残されたのは、かつての相棒を抱き起こすミルズの、血の気の引いた貌だけだった。
「……フェイ、聞こえるか。……お兄ちゃんを、連れて帰るぞ」
「……う、……うう、うん……! 待ってる、待ってるから……っ!」
雨の降り始めた港湾地区。
西国のスパイは、かつての相棒を背負い、泣き続ける少女の待つ「家」へと歩き出した。
背中に伝わるフェリクスの体温は、驚くほど低かった。
それは、救い出した安堵よりも、これから始まる「終わり」を予感させる冷たさだった。




