1話
石畳の路地には、霧のような小雨が降っていた。
ミルズは壁に寄りかかり、雨粒に濡れるのも構わず、彫刻のように整った横顔を闇に潜ませている。ストレートの黒髪が額に張り付いているが、彼は微動だにしない。
室内でもないのに外さない漆黒のサングラス。その奥には、鋭利なアメジストの結晶を思わせる紫の瞳が隠されている。任務中の彼は、その宝石のような瞳に一切の感情を宿さない。
『……ターゲット、路地の奥から接近中。……ミルズさん、聞こえる?』
サングラスの縁に仕込まれた超小型スピーカーから、フェイの声が届く。
3階の工房では、彼女が琥珀色の瞳を爛々と輝かせ、モニターの群れと対峙しているはずだ。
『同期、88%。電信のノイズがひどいけど我慢して』
サングラスの縁に仕込まれた超小型スピーカーから、フェイの張りのある声が届く。
3階の工房で、彼女はポニーテールを揺らしながら、複数のモニターを操作しているはずだ。
「了解だ、フェイ。……相手の武装は?」
『……えーっと、熱源感知……あ、腰のところに、オートマチックの拳銃一丁。……歩幅、重心移動、東国特有のホルスター位置。プロファイリング一致したよ、ミルズさん』
ミルズはフッと笑い、右手に持った黒い木製の杖を軽く回した。
時計店の店主が持つにはいささか古風だが、26歳の彼が持つには、洗練された品格がある。
路地の奥から、東国のエージェント――レインコートを着た男が、周囲を警戒しながら歩いてきた。
ミルズと目が合う。男は躊躇なく、懐から銃を抜き放った。
「その服……。ミルズ時計店の店主が、なぜこんな時間に――」
男の言葉が途切れるより早く、懐から銃が引き抜かれた。
だが、その瞬間、ミルズのサングラスには、フェイが解析した「敵の射線」が鮮烈な赤色で投射されていた。
『人差し指、力んだ! 3、2、1……今!』
――バァァァン!!
銃声と同時に、ミルズは既に弾道から身を逸らしていた。火花が石畳を散らし、彼は最短距離で男の懐へと肉薄する。
「……ッ、この……!」
男が二弾目を撃とうとスライドを引く。そのコンマ数秒の隙を、ミルズは見逃さない。仕込み杖の柄を強く握り込んだ。
――カチャッ。
杖の中から、薄く、けれど強靭な刃が、滑るように現れる。
ミルズはその刃を、男の喉元ではなく、装填されようとした弾丸の排莢口へ、時計の部品を嵌め込むような精密さで叩き込んだ。
――ガキィィィィン!!
金属音が響き、男の銃がジャム(排莢不良)を起こす。
「……何ッ!?」
「寝ていろ…」
ミルズは仕込み杖の刃を収め、動揺する男の鳩尾に、杖の柄を叩き込んだ。
男が崩れ落ちる。ミルズは最低限の力で彼を気絶させ、銃を奪い取った。
「……フェイ、排除完了だ。回収班へ信号を。この男の口から、東国の潜伏先を吐かせる」
「了解。『掃除屋』には連絡済み。三分後に裏口から回収されるよ。……今日も決まったね、ミルズさん!」
「…サポート、ありがとう。この後は早く家に帰るよ。」
ミルズは気絶した男を闇の路地へと置き去りにし、自身もまた、石畳の霧の中へと溶けていった。
東国の片隅にある、歪で、けれど完璧なバディによる、ある夜の小さな――けれど、どこか虚しい勝利だった。
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東国の街角に佇む、古びた時計店。
深夜、東国の憲兵による夜間パトロールを、慣れた足取りで石畳の死角へと避ける。
ミルズは古びた時計店の裏口に辿り着くと、特定の「リズム」で扉を叩いた。
重い木扉が数ミリだけ開き、ガスの灯りとともにシチューの芳醇な匂いが漏れ出す。
1階のフロアには、壁一面に古い柱時計が並び、ガラスの陳列棚が静まり返った空気の中で鋭く光っている。その奥、ドアのない仕切りを抜けた先には、精密ドライバーやルーペが整然と並ぶ修理用の作業テーブルがあった。
そのすぐ脇にある階段の踊り場から、フェイがひょこっと顔をのぞかせた。
「おかえりなさい、ミルズさん。今日もお疲れ様でした。あったかいシチュー作ったよ!」
手すりから実を乗り出すようにして、ポニーテールを跳ねさせる。赤と白の縞々模様の長袖にオレンジのズボン、そしてピンクのエプロンをつけた姿で、嬉しそうにお玉を掲げている。
「フェイ、デザートにアップルパイを買ってきたよ」
「わー!ありがとうございます!なら食後に出しますね」
フェイは鉄心入りのブーツを重量感たっぷりにならして階段を駆け下りてくると、ミルズから紙袋を両手で丁寧に預かった。
2人は連れ立って階段を上がり、2階の住居スペースへと向かう。
上がってすぐの場所にあるキッチン兼ダイニングテーブルには、豊かな湯気をたてるシチューの皿が置かれていた。
このフロアを境に、右側がミルズの部屋、左側がフェイの部屋。
そしてダイニングの片隅にある階段の先に彼女の城である作業用スペースが広がっている。
ミルズが椅子に座り、スプーンを手に取る。
向かいの席では、フェイが自分のシチューには手をつけず、両手を膝の上でぎゅっと握りしめて、そわそわとこちらの様子をうかがっていた。
おいしいと言ってもらえるのを今か今かとまつその姿は、まるで尻尾をふる子犬のように落ち着かない。
「………今日もおいしいよ、フェイのシチュー」
一口食べたミルズがそう告げると、彼女の表情がパッと明るくなった。
「居候させてもらっている身だしね。食事も洗濯も頑張るよ。もちろん発明品の開発もサポートもね!」
「あのターゲットにつけていた発信機も役に立っていたな、……少し、サイズが気になるが」
ミルズが含みのある言い方をすると、フェイは「待っていました」とばかりに身を乗り出した。
「ホクロ型追跡装置ね、薄さは0.2㎜と張り付けやすい設計なんだけど、回路の関係でどうしても2㎝の直径が必要なんだよね……」
フェイは腕を組み、うーんとうなりながら考え込む。眉間にしわをよせ、空いた手で宙に回路図を描くように指を動かしているが、今の彼女の技術をもってしても、この「巨大なホクロ」の小型化は難航しているようだった。
「今は食事にしよう。フェイも食べて」
「……うん。もっと改善できないか、食べながら考えてみるね。いただきまーす。」
ミルズに促され、フェイもようやく手を合わせてスプーンを手にした。
温かな湯気の向こう側で、少女は早くも次の発明への野心を瞳に宿している。
「……それで、ミルズさん。今日のあの男、何か言ってた?」
フェイがスプーンを止め、上目遣いで問いかけてきた。
明るく振る舞ってはいるが、その琥珀色の瞳の奥には、祈るような、縋るような色が混ざっている。
「……いや。ただの末端の掃除屋だ。フェリクスの『ふ』の字も出なかったよ」
ミルズは努めて淡々と答えた。期待させて、裏切られる。その繰り返しがどれほど少女の心を削るかを知っているからだ。
「……そっか! ま、そんなに簡単に見つかったら、お兄ちゃんの『英雄』としての名が廃るもんね」
フェイは無理に笑い、冷めかけたシチューを勢いよく口に運んだ。
だが、その指先がわずかに震えているのを、ミルズの鋭い観察眼は見逃さない。
「……すまない、フェイ。俺の力が及ばないばかりに」
「謝らないでよ。私だって、この三年間、一秒だって諦めたことはないんだから。……次は、私がもっとすごい発明品を作る。そしたら、絶対……」
少女は言葉を飲み込み、力強く頷いた。
東国の深い闇の中、止まったままの「兄の行方」を探す針は、今夜も虚しく空を刻んでいる。
時計店の静かな秒針の音だけが、二人の焦燥を嘲笑うように響いていた。




