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女性が屋敷の中に引っ込むとすぐに、初老の男性が姿を現した。
どこか気品に溢れ、猛々しい男性は見た目は初老の域に差し掛かって入るが、オーラはまだまだ現役のように思える。
穏やかな表情をしてはいるが、隙のない身のこなしに、鋭い視線は、明らかに百戦錬磨の強者だ。
「あ、あなた様はっ……。……いえ、怪我が酷いようだ。すぐに医者を手配する。メアリー、部屋を一つ彼女に用意してくれないか?」
そんな初老の男性は私の姿を見るなり目を大きく見開いた。けれど、すぐに冷静になってメアリーと呼ばれた侍女と思わしき女性に部屋の手配を依頼した。
「はい。旦那様。今すぐに。」
メアリーさんはそう言ってすぐにまた屋敷の中に戻る。
「……その怪我では歩くのも大変でしょう。私が御身に触ることをご容赦くださいますか?」
「えっ……、あ、あのっ……。……ひゃあっ!」
言うが早いか、旦那様と呼ばれた初老の男性は私の身体を軽々しく持ち上げた。
所謂お姫様抱っこである。
そのまま屋敷の中に連れられ、メアリーさんが用意してくれた部屋のベッドに寝かせてくれた。
「すまない。君の怪我の状態では歩くのが大変だと思ってな。身体に触れたことは許してほしい。」
「い、いえ……。あ、あの、ありがとうございます。」
進撃に謝られれば許すしかなく頷く。
というか、相手は善意で私のことを気遣ってくれただけだ。
このような何者かもわからない私を手当てしてくれるような優しい人だ。
許す許さない以前のことに他ならない。
「オキニスもよくやった。怪我人をみつけてくるとは大した猫だ。」
旦那様はそう言ってにこやかに笑うと、オキニスと呼ばれた黒猫の頭をそっと撫でた。
オキニスの金色の瞳がすぅっと細くなり、しっぽをゆらゆらとゆっくり左右に振った。その姿はまるで褒められて喜んでいるように見えた。
間もなくして医者がやってくるとテキパキと私の怪我の処置をしていった。
「右足はポッキリ折れてますね。よくここまで歩いてこられた。日頃よく鍛えておられたのでしょう。切り傷も多く出血も酷い。ここまでたどり着いたのが奇跡だよ。もう少し遅かったら君は命を落としていたことだろう。どうか、君をここに連れてきたオキニスに感謝を。」
医者はそう言って、私の頭を撫でた。
なんだか少しだけ温かい気持ちになれた。
それにしても、私は自分が思っていたよりも重症だったらしい。
痛くて動かせないと思っていた右足はどうやら折れていたようだ。
普通の女性だったら気絶していてもおかしくない痛みだと言われてしまった。
「まあ、ゆっくりここで静養していくといい。オキニスも君のことを甚く気に入っているようだ。」
オキニスはいつの間にか私の寝ているベッドに上り、私の身体に抱き着くように眠っている。
本当に可愛らしい猫だ。
「オキニスはとても人懐っこいのですね。」
「ああ。そうだな。私も初めてオキニスに会ったときは驚いたよ。少しすすけていたがな、洗ってみれば綺麗になった。それに人間の言葉がわかるのか、とてもおりこうさんなんだよ。」
「ええ。そのようですね。」
「君に会えたのもオキニスに会えたのもきっと何かの縁だろう。君が望むならここにいつまでだっていて構わない。だからゆっくりと傷を癒すと言い。」
「ありがとうございます。見ず知らずの私なんかにこんなに良くしてくださって……。」
「いや……なに。縁は大切にしなければならないからな。ああ、名乗るのを忘れていたな。私はロイドだ。ロイド・ユルーリット。このユルーリット辺境地の領主をしている。隣にいるのはメアリーだ。この屋敷の侍女頭だよ。」
「メアリーと申します。」
「ご丁寧にありがとうございます。私は……申し訳ありません。私は自分のことをなにも覚えていないのです。名前も、どこに住んでいて何をしていたのかも……。」
ロイド様は領主とは思えぬほど丁寧に自己紹介をしてくれた。メアリーさんも優し気な笑みを浮かべてこちらを見ている。
そんな二人に安心して自分も自己紹介をしようとするが、やはりどうしても自分のことを思い出すことができない。
「なに、気にすることはない。誰にだって、忘れていたい記憶はあるものだ。ゆっくり休んで思い出したくなったら思い出せばいい。ここでは誰も君を傷つけることはないだろう。」
優しい言葉をかけてくれるロイド辺境伯だが、私はわずかながらにロイド辺境伯の言葉に引っかかるものを感じた。
彼は、私が過去を忘れたがっているから名前も知らないふりをしていると思っているのだろうか。
それは、なぜ……?
もしかして、ロイド辺境伯は私のことを知っているのだろうか。
アルファポリスにて先行公開しています。