ショートショート 1. 忘れられない匂い
プチッ。
あの音がすると、少しだけ安心した。
メビウス・パープル。
カプセルを潰した瞬間、メンソールの匂いに甘ったるいブルーベリーの香りが混じる。
父はそれを、決まって“終わったあと”にだけ噛んだ。
殴るときは、ふかすだけ。カプセルは潰さない。
だから、ただ冷たいだけの煙が部屋に満ちている間は、私にとって地獄だった。
けれど、それがふいに“甘さ”を帯びると、父は豹変した。
「ごめんな。お前が悪いわけちゃうんやけどな」
そう言って、頭を撫でてきた手のぬくもりに、私はいつも安心を得てしまった。
それが、たまらなく怖かった。
たまに、どこかで誰かがメビウス・パープルを吸っている。
あの紫の香りが漂えば、私は条件反射のように体をこわばらせてしまう。
駅のホームで、コンビニの前で。
甘くて、優しいはずのその香りが、私にとっては“終わったあとの優しさ”でしかなかった。
それはつまり、“暴力の直後”の匂いだった。
逃げられなかった。
だって、どんなに怖くても、あの匂いがしないまま終わるときが一番痛かったから。
父の機嫌が悪い日、タバコを咥えて火をつけたまま、カプセルを潰さずに吸いきったときがあった。
その日は終わりがなかった。
何時間も責められて、謝らされて、泣き疲れて眠ってしまったあとも、あの冷たい煙の匂いが部屋に残っていた。
プチッ。
それが、私にとっての“平和”の音だったなんて、思いたくもなかった。
出会いは、雨の日だった。
傘を忘れて、駅の屋根の下で雨宿りしていた私の横に、男の人が並んだ。
黒い傘から落ちる雫が、私のスニーカーを濡らして、彼は「ごめん」と小さくつぶやいた。
声は静かで、低くて、どこか懐かしかった。
でも私は、顔を見ずに小さくうなずいただけだった。
それだけの、短い出会い。
名前も知らない。何も話していない。
それでも、どうしてだろう。
あの人のそばに立っているとき、胸の奥がざわついた。
初めはそれが、恋の予感だと思っていた。
でも今なら、わかる。
あの人の服や髪に、雨に隠れて、うっすらとパープルの匂いが染みついていたことを——ただの恐怖へのざわめきだったことを。
私は、あの匂いを知っていた。
それから数日後、偶然のように、もう一度彼に会った。
今度は駅の近くの小さな喫茶店。
ひとりで本を読んでいた私の斜め向かいの席に、彼が座っていた。
私たちは前より少しだけ言葉を交わし、少しだけ笑った。
会話の合間に、彼が席を立ち「ちょっと外で」と言って店を出た。
窓越しに見えた彼の横顔と、火を灯したタバコ。
紫色の箱。
私の心が、一瞬だけきつく縮んだ。
——あ、あの匂いだったんだ。
けれどその瞬間、彼がフィルターを軽く噛んで、
プチッ、と音を立てた。
私の知っているあの人と違う。
彼は火をつける前に、甘い香りを選んだ。
ガラス越しにこちらを見て、彼が小さく手を振った。
その仕草は、やっぱり優しかった。
私は少しだけ息を吐いて、手を振り返した。
それでもまだ、胸の奥はざわざわしていた。
けれどそのざわめきは、もうあの日の震えとは少し違っていた。
彼といる時間が、少しずつ私の世界を変えていった。
食卓に並ぶ簡単な朝ごはん。
一緒に観るテレビ。ソファの上でうたた寝をする背中。
どれもありふれていて、特別じゃなくて、けれど、あたたかかった。
彼はいつもタバコに火をつける前に、カプセルを潰した。
プチッという音が鳴るたびに、私は胸の奥が少しだけ解けていく気がした。
「この香り、嫌だったりする?」
初めてそう聞かれたとき、私は黙って首を振った。
本当は、昔は怖かった。けれど、もう違う。
「なんか、君の近くにいると甘くなる気がする」
それを聞いて笑った彼の顔が、匂いよりも優しかった。
そして私たちは、夫婦になった。
あの日あの場所で出会ったとき、雨に隠れていた匂いが、
今は私の毎日に、静かに染み込んでいる。
車内は、静かだった。
ラジオから流れる音楽は、小さくボリュームを落とされて、彼の鼻歌にかき消されそうなくらい。
私は助手席で窓の外をぼんやり眺めて、彼は運転席でタバコに火をつけた。
「今日も、なんかいい匂いするね」
「うん。たぶん、これ」
プチッ。
おなじみの音。いつもの香り。
火をつける前に、彼はカプセルを潰す。
その仕草は、私にとって“安心”そのものだった。
信号が赤に変わって、彼はブレーキを踏む。
指先には紫のタバコ。
カーステレオから流れる緩いジャズ。
何もかもが、当たり前で、何も変わらないと思っていた。
だから、その瞬間まで、私は笑っていた。
信号が青に変わるまで、あと十秒。
私はシートベルトの金具を指先でいじりながら、
彼が吹き出す煙の香りを楽しんでいた。
ブルーベリーの甘さに、かすかに火と煙の匂いが混ざる。
この匂いが嫌じゃないなんて、昔の私からすれば信じられないだろう。
彼は窓の外を見ながら笑っていた。
「なに?」と聞くと、「いや、なんでも」と首を振った。
その瞬間だった。
ごぉん、と世界が軋んだ。
何が起きたのかわからないまま、身体が横に流され、車体が浮いた気がした。
目の前の景色が、ぐるりと裏返った。
ガラスが割れる音。タイヤが滑る音。
頭の奥で誰かが叫んでいる気がしたけれど、それはたぶん、私だった。
気がつくと、車は歩道に突っ込んでいた。
エアバッグが弾け、視界が真っ白に染まっていた。
咳き込んだ喉に、甘い匂いがこびりついていた。
パープル。
焦げたプラスチックの匂いと混ざって、それでもまだ甘く香っていた。
助手席の私には、かすかに彼の顔が見えた。
血の色に濡れたシャツの胸元。タバコはまだ、指に挟まれていた。
動かない。
彼はもう、いなかった。
あとになって知った。
私たちの車に突っ込んできたのは、飲酒運転の乗用車だった。
運転していたのは——
私の父だった。
彼との葬式。私は流れにただ身を任せていた。
花の香りも線香の煙も、何も感じなかった。
感情も、嗅覚も、事故の日に置いてきたようだった。
遺影の中の彼は、笑っていた。
いつもと同じ、くしゃっとした目尻。
それだけで、涙は出なかった。
泣けないことに、ほっとしている自分さえいた。
その時…
プチッ。
あの音が、背後で響いた。
一瞬、空気が変わった。
鼻腔に届いたのは、あまりにもなじみ深い、甘い匂い。
パープル。
私の身体が勝手に反応した。
肩が震え、手が止まった。
まさか。
振り向いた先にいたのは、
黒い喪服をまとった男。
見覚えのある、短く刈られた髪。
厚い指。無表情の横顔。
紫のタバコを咥え、
奥歯で、カプセルを潰したばかりだった。
プチッ。
甘い香りが、焼香の煙と混ざって、こちらに流れてきた。
あれは、私の父だった。
プチッ。
あの音は、毎日のように聞いていた。
甘くて、優しい香りのはずだった。
でも今日のそれは、違った。
いつもの音。
あの人のいつもの匂いだった。
あの人が私を撫でるときの匂い。
一緒に笑ったときの、キスのあとに残った香り。
でも、吸ってるのはあの人じゃない。
今、それを纏っているのは——
私からあの人を奪った男だった。
憎しみとか、悲しみとか、そういうものじゃない。
ただ、私の中にある全ての記憶が、その匂いに染まっていた。
傷も、愛も、絶望も。
プチッと弾けたあの一瞬に、全部が戻ってくる。
もう会えない人の香りが、会いたくもないやつの香りで
忘れたくても、忘れられない。
苦しくて、甘くて、でも、やっぱり苦しい。
それが、私の一生に焼きついた——
忘れられない匂い。
だから、
私が残せたもの。
彼が遺してくれたもの。
その子は、彼にどこか似ていた。
寝起きの顔も、走るときの足音も、笑うときの口元も。
けれど、彼とは違って、私の傍に生きている。
この子が六歳になる頃、私は思った。
この子に、私の一生を伝えよう。
ただの思い出ではない。
ただの愛でもない。
あの部屋の匂いも、雨の日の駅も、
焦げた煙と甘い香りも、
すべてを、包み隠さず、匂いのままに。
ある日、私はそっと、紫の箱を手に取った。
何も言わず、この子前でそれを手に取った。
...プチッ。
彼女にとって全てとは...