偽りの正直者 下
いつも通りの朝だった。春風に吹かれながら、磯の香りを嗅ぎ、列車へと乗り込む。今日は十時半からの講義だ。ギリギリ間に合うだろう。
窓際の座席で一つ欠伸をし、転寝を始める。その微睡みが、突然の激痛によって打ち破られた。
「った……!」
心臓の鼓動がおかしい。脈打つたびに、左胸が悲鳴を上げる。堪らず両手で左胸を押さえ付け、呻き声を上げた。
乗客たちが集まってくるのが、霞む視界の中でも分かる。助けを求めたいのに、声がきちんと出てくれない。
由衣、ごめん。出迎えは出来ないかもしれない。遠のく意識の中で、脳裏に彼女の笑顔が揺らいだ。
完全に暗転すると、その笑顔も掻き消えた。
「あのさぁ」
暗闇の中で声だけが聞こえる。持ち主は小さな子供のようだ。
「どれだけ嘘吐こうとしてるの」
怒っているようで、呆れているようで。表情が分からない為、どちらとも言えない。
「嘘吐きは長生き出来ないよ?」
「それ、どういう意味?」
「どういうも何も、君が陥ってるこの状況だよ。巻き戻る前の時間だって、君の寿命の一部なんだ。ゆうに百歳は越えてるだろうね」
「は?」
突然の宣告に言葉を失ってしまった。こいつは何を言っているのだろう。
「百歳? そんな馬鹿な話が――」
「ある訳ないって? 逆戻り現象を体験してる君が言う?」
何も言い返す事が出来ない。悔しくて、唇を噛み締める。
「残り僅かな余生を楽しんでね」
「待て! 俺はどうしたら……!」
「恨むんなら僕じゃなくて、そんな運命を決め付けた神様を恨んでよね」
小さな笑い声と共に、世界に色が戻っていく。眩む程の光に導かれながら瞼を開けていった。
「蒼汰……!」
白い天井に響く彼女の声――何故、此処に由衣が居るのだろう。訝りながら首を傾げると、泣き腫らしたまま椅子に座る彼女の姿があった。
「どうして此処に居るか分かる?」
「確か、胸が痛くなって……」
「そうだよ。もう、心配させないでよぉ」
十分泣いたであろう筈なのに、更に涙を重ねる。そのまま両手で顔を覆ってしまった。
大学の顔見知りは、姿を見せていないらしい。薄情だな、と思いながらも、由衣と二人きりになれて良かったとも思う。
「由衣、俺は……」
どうやら長くは無いらしい。信じられない夢の話なのに、現実味を帯びている。
俺は散々嘘を吐いてきた。逆戻りする時間が楽しくて、何度も嘘を吐いた。由衣に良いところを見せたくて、嘘で塗り固めてみたりもした。そのどれもが無かった事になったと思っていた。それなのに、どうしてこんな事に。
口が裂けても、あの夢の話は伝えられない。
時間が巻き戻るのを覚悟で口にした。
「俺は大丈夫だよ」
言った瞬間、眩暈がした。時が秒で巻き戻っていく。やはり、駄目だった。
成す術はない。
「俺は……何?」
「もう……」
軽く首を横に振る。
「なんで……! こんな時くらい、嘘吐いてくれたって良いのに……!」
泣き崩れる彼女に、申し訳なさだけが残った。どうか、俺なんか忘れて、素敵な人と出逢って。最初で最後の、彼女への切実な願いだ。
俺に残された時間はたった三日間だった。病室でベッドに横たわり、由衣と楽しく会話をする。その間、彼女が心の底から笑ってくれた事は無いだろう。常に焦げ茶の瞳は哀愁を漂わせていた。
潮風が香る街で、こんな不遇な男が必死に生きていた事を頭の片隅にでも置いておいて欲しい。せめて、由衣だけでも。死の色濃い強烈な眠気の中で、彼女の手を握り締める。
「ありがとう。蒼汰の正直な所、大好きだよ」
そう思ってくれていて良かった。意識が途切れる前に、そっと彼女に微笑んでみせた。