偽りの正直者 上
俺は物心がついた頃から嘘が吐けずにいた。
性格的な問題ではない。嘘を吐いてしまうと、不思議な現象が起こるのだ。
「蒼汰、此処にあったチョコ食べた?」
「ううん、食べてなーい」
幼い頃の俺は、夕暮れが進む中で、ゲームをしながら呑気に嘘を吐いた。
すると、ゲームの中で切っていた筈の木が逆再生されるかのように猛スピードで元に戻っていく。勿論、俺は何も操作していない。それも数秒で終わる。切った筈の木は整然と立ち並んでおり、操作キャラは棒立ちをする。
驚いて周りを見回してみると、母が冷蔵庫を開けようとしているところだった。
「蒼汰、此処にあったチョコ食べた?」
先程の声色で、同じ台詞が繰り返される。
「……うん、さっき食べちゃった」
「駄目でしょー? 夜ご飯、食べられなくなるんだから」
「ごめんなさい……」
こうして真実を言えば、巻き戻り現象は繰り返されないのだ。
何故、こんな事が起きるのか、俺にも分からない。周りに聞いたとしても、不審がられるだけだろう。
俺だけ嘘が吐けないなんて、不公平な世界だ。
悲観しながらも、何とか生きてこれたのは幼馴染のお陰だった。彼女だけは、どんな真実を言っても受け入れてくれた。
照れ隠しすら許されない俺に、彼女はにっこりと笑う。
「私も好きだよ、蒼汰」
俺の手を握る小さな手は、成長するにつれてしなやかで柔らかな手へと変わっていった。
高校まで同じ学校に進学し、一緒に通った。好奇の目で見られた事もあったが、彼女がそれを許さなかった。垢抜けて、目鼻立ちも整っている。そんな彼女は心までもが清らかだったのだ。
「どうして由衣は俺と一緒に居てくれるの?」
帰り道で、何気なく彼女に聞いてみた。こんな俺と一緒に居るくらいなら、優しい嘘や冗談の言える男の方が良い筈だ。顔を曇らせると、彼女はきょとんと首を傾げる。
「一緒に居たいから」
「それ、答えになってないよ」
「そんな事言われても、本当の事だからなぁ」
彼女は照れたように笑うと、頬を桜色に染める。
「それより、早く映画観に行こ! 上映時間になっちゃうよ」
「えっ? あっ……」
テコテコと走り出した彼女は、振り返りながら俺を見遣った。その笑顔が本物の桜のように可憐だったので、紅葉が進む中で、今は春なのではないかという錯覚を起こしてしまった。
冬が去り、春が訪れる。
大学の進学と共に、とうとう彼女と離れ離れになってしまった。俺は地元の大学を、彼女は都会の大学を選んだのだ。互いの夢を叶える為には仕方の無い事だった。
今、俺はペンギンの群れの中に居る。
「ほら、おいで。魚あげるから」
イワシの入ったバケツを手に、ペンギンたちの体調管理を怠らない。
「毛並み良し、目の色も良し」
頷きながら、イワシを一匹ずつ投げてやる。
動物は良い。彼らに嘘なんて必要が無い。嘘を吐かなければならない瞬間すら訪れない。気を張らなくても自然に居られる。
俺は孤独を好むようになっていた。嘘も方便とはよく言ったものだ。方便すら使えない俺に、やはり周囲は『気配りが出来ない奴だ』と白い目を向ける。俺だって気配り出来る人間である筈なのに。
あの不思議な現象は今も続いているのだ。
嘘を吐けるのかどうか、何度試したか分からない。その度に時間は巻き戻され、繰り返される。その度に心が折れ、疲弊していった。
正直者は救われるなんて嘘だ。
嘆いても、何も始まらない。溜め息を吐き、ペンギンたちに手を振った。舎を出れば、直ぐに同級生たちと出くわしてしまった。
「蒼汰、今日の夜にでも飯食いに行かねー?」
「うーん、今日は止めとく。疲れたから」
「つまんねー奴」
冷めた笑いを向ける彼らに、一瞥をくべる。
どうせ、俺はつまらない人間だ。自分を嘲笑いながら着替えを済ませ、早々に帰宅した。
スマホに一本の知らせが届いたのは、その日の夜の事だった。差出人は由衣――彼女の名前になっている。慌てて画面を開き、内容を確認した。
『ゴールデンウィークに、そっちに帰るから。ちゃんと出迎えてね』
モノクロだった俺の心に色彩が戻った瞬間だった。また、彼女に会える。俺のありのままの心を受け入れてくれる彼女に。
『待ってる。俺も会いたかったんだ』
返信をすると、直ぐに『やった!』の文字が入ったペンギンのスタンプが送られてきた。俺が今、ペンギンの世話をしているのを知っての事だろう。こんな些細な事が幸せで堪らない。
目頭に込み上げるものを堪え、ベッドの中へと潜り込む。今日は四月二十日、ゴールデンウィークまで、あと九日――。