あらすじの巣(こんとらくと・きりんぐ)
雲の底が抜けたような大雨が降っていた。
まだ午後三時なのに、あたりは夜のように暗かった。
雨水は低地を湖に変える。涙色のクーペは山道を上っていた。
フロントガラスは波型に流れ落ちる水で塞がれ、ワイパーはあってないようなものだった。
道から外れて真っ逆さまに落ちるのはごめんなので、殺し屋は何とか水の流れのなかに地形を見出そうと前のめりになって運転していた。ほとんどハンドルに覆いかぶさっているようだった。
現在地は分からないから、地図は役に立たない。
だが、一度も曲がっていないことを考えると、殺し屋はいま三〇八号線を走っているに違いない。
ところが、この道路は町につながっていない。山を登って峠を越えて、ふもとに降りるまで、人工物は一切ない。
天気が良くて、季節も良ければ、そういう道を走るのも悪くないが、豪雨に加えて、耳元で鉄板をぶっ叩いたような音をさせる稲妻がついてくれば、
「こんなクソッタレな道はないよ、もう」
――と、なる。
殺し屋はショルダーホルスターに七・六二ミリのオートマティックを差し、尻ポケットにはまだ封筒から出してもいない札束が人殺しのお駄賃としてねじ込まれている。後部座席には青空に黒雲が湧き出したときにトランクから取り出した黄色いレインコートが畳んで置いてある。
ただ、この雨はゴムが水を吸いそうなほど激しく降っているから、あまり役には立たないだろう。
とはいえ、もし殺し屋が溺れ死んだら、レインコートの存在は殺し屋がこの大災害に立ち向かおうとして死んだことを証明してくれる。もし、第一発見者がホルスターの銃にビビらず、尻ポケットを調べたら、札束はそいつのものだ。札束の顔はいつだって勇者に微笑む。
「あれ?」
フロントガラスを塞ぎ続ける雨の緞帳の向こうに明かりが見えた。近づくと、電気の明かりらしいことが分かる。
もっと目を凝らすと、駐車場に何台か自動車が止まっていて、INNのネオンサインが見えた。
三〇八号線の道端には山を下りるまで人工物はないはずだから、気づかないうちにどこかの横道に入ったのだ。
これで殺し屋は完全に迷ったことになる。いま、何号線を走っているのか、さっぱり分からない。
「もう、いい。たぶん、大丈夫」
何が大丈夫か分からないまま、殺し屋はレインコートを着込むと、ほとんど千里眼的能力を使って駐車場に無事、車を入れて、3、2、1、GO!とカウントを取ると、ドアを開け、叩き潰すような雨のなかをよろめいて走り、宿屋のドアに肩からぶつかった。
そこは天井の高いバーだった。古い山小屋をそのまま転用したらしく、古めかしい木の梁が縦横に走っている。カウンターにはふたり組の男が帽子もコートも取らずに座っていて、石でつくった大きな暖炉のそばでは老夫婦が肘掛椅子に沈み込んで、ああ、ほう、と小さな声で話している。
殺し屋は強い毛のマットの上で体を犬みたいにふるわせて、水を跳ね散らすと、レインコートを脱いで腕にかけ、カウンターに座った。
「なんか、くいっとやれるもの」
店主はゲジゲジした太い眉をひそめた。殺し屋はショートヘアの少女か、長髪の少年に見えたからだ。殺し屋はそんな懸念もどこ吹く風で煙草をつけ、紙幣を一枚置いて、指で叩いた。店主はウィスキーをショットグラスに入れて、殺し屋の前に置いた。
くいっとやると、体が内側から熱くなるのを感じる。
気持ちに余裕ができた。
もう一杯と言おうとしたが、店主がいない。
首を左に向けると、カウンターにいるふたり組――帽子もコートもとらない連中のところにいた。ふたり組はコメディ映画みたいに片方が太っていて大きく、もう片方が小柄で痩せていた。
「そうだな」と、デブ。「今日、ここで人がひとり殺されるんだよ」
「で?」と、店主。
「それで探偵が捜査をする」
「私立探偵なんていないぞ」
「別にライセンスを持ってる必要はない。こいつは浮気女の尻を追いかけるような仕事とは違う。殺人事件だぞ」
「誰かが探偵役をするわけだ」と、チビ。
「そうよ」
「探偵役を決める前に誰が死ぬのか決めないといかんのじゃないか?」
「おれはやだぜ」と、チビ。
「誰を死なせるのでも構わんが、絨毯の上はやめてくれよな」
「首を絞められて死ぬから血は出ない」
そのかわりにクソと小便をもらす。殺し屋は経験から知っていた。
「クソと小便をもらすじゃないか!」と、店主。
同業者かな?
「もらさない。もらさないって書く」
「で、誰が死ぬんだ?」
そう、チビがたずねると、三人は数秒黙ってから、殺し屋のほうを見た。
「よーし。被害者役は決まったな」
「犯人が決まってない」
三人は数秒黙ってから、殺し屋のほうを見た。
「犯人と被害者が同一人物ってのは斬新だよな」
「叙述トリックってやつだ。よく知らんが」
「じゃあ、いよいよ探偵役を決めるか」
三人は数秒黙ってから、殺し屋のほうを見た。
「犯人と被害者と探偵が同一人物な推理小説なんてきいたことがあるか? こいつはもう傑作だぜ。バカ売れ間違いなし。そうしたら、二度とヒヨコ豆の営業なんてしねえからな」
このまま、変な役を着せられるのは面白くない。殺し屋はカウンターを離れ、暖炉のほうへ身を寄せた。暖炉に向いた肘掛椅子には生き埋めにされるみたいに老夫婦がはまり込んでいた。
「小説を考えた」夫のほうが言った。
「どんな?」
「ひどく退屈な話だ。本当に退屈だ」
「退屈かどうかは教えてもらわないと分かりませんよ」
「じゃあ、話すが主人公は年老いた大学教授だ」
「あなたのお話?」
「かもしれん。主人公は全てに飽き飽きし、絶望していると言ってもいい。実際、生活から何も望めないと思っているんだから、絶望のなかでも最もたちの悪い絶望だ」
「それで?」
「毎日、大学に行っては研究室で、プレパラートがつくるのがうまいだけの助手や酒ばっかり飲んでいてろくに講義に出ていない落第生の相手をさせられる。娘はつまらない男と駆け落ち同然で結婚し、本物の娘のように育て、後見していた少女は女優を夢見て、その夢破れ、目につくもの何でもかんでも俗物扱いする。でも、主人公だけは別だ。少女は何かが起きることを望み、主人公は何かが起きることを望む。生活が一変する、慈悲に似たしっぺ返し。だが、それは起きず、少女は去っていく」
「まあ、あなたにいま起きていることそのものじゃないですか。それでどうなるの?」
「それで話はおしまいだ」
「誰か自殺したりしないの?」
「しないよ」
「本当に退屈ね。それでわたしはどこに出てくるのかしら」
老人はあくびをして言った。
「お前は死んでしまっているんだよ」
本当に退屈だったので、殺し屋は他に身を寄せる場所を探した。
見まわしてみると、壁の隅に登山着姿の少年と少女がランプひとつを挟んで、トランプをしている。近くには座り心地の良さそうな安楽椅子があるので、そこにまんまと座り込んだ。
遠くから見ていたときは分からなかったが、ふたりのあいだにはラシャを敷いた小机があり、それぞれの側にはホットココアが湯気を立てていて、手元にはチップの代わりに使っているらしい、輪ゴムや兵隊人形、銅の粒といった細々としたものが転がっていた。
「むかしむかし、ある学校に」と、少女が話し出した。「生徒会がありました。会長、副会長、書記、会計、庶務の五人で構成されていましたが、ある日突然、会長は自分以外の生徒会役員がみな狂っていることに気づきました。それは生徒会が人類を代表した宇宙探検に出た直後のことで、宇宙船のなかで彼女は生徒会のなかで唯一の狂っていない人類であることに絶望しました。狂った生徒会役員たちを止めるため、会長は宇宙船をわざと隕石にぶつけました。宇宙船は爆発し、生徒会役員たちは流れ星となって燃え尽きましたとさ。おしまい」
少年は言った。「狂ってるのはその会長じゃないか?」
「狂ってない」
「これ、フィクション?」
「ノンフィクション」
「会長はどうして地球に戻そうとしなかったんだ?」
「地球はもう生き物が絶滅してるから。言ったでしょ。生徒会は人類を代表して宇宙探検に出た、って。もう人間が彼女たちしかいなかったら、どんなに狂っていても、生徒会役員は人類を代表できるわよね?」
「きいていい? なんで、絶滅したの?」
「作者がそう書いたから。だから、お話の世界のなかで生き物は死滅するの」
「これ、ノンフィクションだって言ってたよな?」
「フィクションの世界のなかでは、起きることはみんなノンフィクション。違う?」
「それが通るなら、ペガサスが出てくる話もノンフィクションになる」
「バカね。ペガサスなんているわけないでしょ? でも、生き物が絶滅して、狂った人類が宇宙に飛んでいくのはこれから実際に起こることよ」
「何年後?」
「わたしとあなたのどちらも生きていないくらい先の話」
殺し屋は立ち上がって、カウンターに戻った。どうも、推理小説の役柄を全部押しつけられるほうが楽なようだ。
スツールに座り、紙幣を取り出して、二枚置いた。ダブルのウィスキーをちびちびなめた。
他の客たちは創造の力を持っている。だが、どれもひどい話だ。
殺し屋には創造の力はない。だが、尻ポケットに札束が入っている。
つまり、そういうことだ。
雨は降り続けている。
絶対に止むことはないだろう……