Exogenesis Symphony Part II
「鶫です」
「ツグミお姉さまっ」
「え!?」
唐突に、背後から聞こえたその声に、振り返って見たその姿に、私は目を見開かされる。
「はい。お姉さまではありませんがツグミですよ」
白い、フリルいっぱいなメイド服を着たツグミ……マイラ?……がぺたんと座るベッドの上とは逆方向、私から見て後方右側。
そこに、赤い、薔薇色のローブを着たツグミ……そっちこそ本物のツグミ??……が、レースのカーテンの向こう側に、悠然と立っていた。
と、次の瞬間、白い……マイラ? は立ち上がり、ベッドの上をぴょんと跳ねた。そしてそのまま、カーテンを抜けて飛び出し、赤い……ツグミ?? に抱きつく。
「お姉さまぁ」
勢い、赤いツグミごとくるんと回って、見えたその横顔は、輝くような笑顔だった。
「はいその唇ストップ。ハウスです」
「う~」
この世にふたつと無いような麗しの顔貌をマイラ? は、しかしそこへ現にふたつと存在してるツグミ? のそれへと近づけ……呆気に取られる私を他所に……迷惑そうに、掌で押し返されている。
なんだこれ、なんなんだこれ。
「私の唇を奪って良いのは、ナオ様だけです」
ふたりの白銀の髪は、その色も髪質も、お手入れ具合までもが完全に同じで、マイラ? がツグミ? に抱きつき、顔を近づけたことで重なった部分は、どこにその境界があるのかもわからなかった。
「うー、ふたりだけ、ずーる~い~」
でも、よくよく見ればふたりには違いが、少しだけある。
「大体、どうして私がお姉さまなのですか。あなたの方が背は高いのに」
純白のマイラ? は、背中を曲げ薔薇色のツグミ? に抱きついているが、見た感じその顔の高さが同じだ。ということは若干ながら、マイラ……の方が、背は高いのだ。
「私の人間性を育ててくれたのは、お姉さまじゃないですかぁ」
それに、なんていうか、頭の方では呆然と……なんだこの双子な美少女姉妹の百合シチュ……とか阿呆なことを考えている私の、心の方の反応が、ふたつの顔の、どちらへ注目するかでかなり違っているのだ。
私の心は、薔薇色なローブのツグミ(なの?)を見ても、ああ、可愛いなぁ、美少女だなぁとしか思わない。というか、その可愛らしさに、どこかイラッとムカッとくるものが混じる気さえする。
けれど、純白のマイラ(なの? 本当に?)の方へは……それとは全然違うものを感じるのだ。
ありていに言って、私はその白金の美貌を直視出来ない。それほどにこの心は、彼女の可愛らしさに魅せられている。見ているだけで心が温かくなり、赤面してしまい、そのことに動転し、動揺しながらも猛烈に引き込まれている。
あ。
……もしかして、これ。
『はい。陽の波動というエピスも与えてあります』
『陽の波動ぅ? オーラってこと?』
私がツグミ……でなくマイラへ魅了されたのって、そのせい!?
『そうですね。私がマイラに与えられたのは、ナガオナオ様が得た原典のそれよりも、遥かに効果が薄いモノですから、犬が嫌いという人を無理矢理好きにさせるような効果はありません。ですが、元々犬が嫌いではなく、むしろ好きという相手にならば、普通よりも少し好かれる程度の効果は期待できます。人は闇を怖れるもの、温かな光の波動を感じれば、それへ好感を抱くというのは生物としての本能ですから』
そうだ……思い返してみれば、ラナンキュロアは美少女な人間形態となったツグミを見ても、そこまで心惹かれた風ではなかった気がする。むしろその美貌へ、レオがコロッと行ってしまわないか心配をしていたくらいだ。
ラナンキュロアにはレオという恋人がいた、遭遇したのが非情な非常事態の真っ最中だった……その二点を差し引いてさえ、ラナンキュロアがツグミに向ける目は、私からすれば冷静……あるいは冷徹過ぎるモノに思えた。ツグミ……マイラの美貌に、気が動転するほどに心奪われた私からすれば、だが。
私……私?
ほぼ同じ姿形をしているツグミとマイラが、しかし別の存在であるというなら、過去には同じく千速継笑と呼ばれていたはずのラナンキュロアと、私も……。
「あの……」
「ほら、鶫が説明を求めていますよ」
鶫……私はミジュワ?
思わず、顔をペタペタと触ってしまう。そういえば私は、幽河鉄道で目覚めてから、自分の顔を確認しただろうか? 目の下に★と、三日月形の青い黒子は、無いだろうか?
え。
そうしてみて気付く。
私、明確に利き腕がある。普通に右利きだ。ラナンキュロアは両利きだった。けれど私の左手は、右手のようには動かない。
それは、何を証明するものでもないけれど。
「大丈夫ですよ、あなたは千速継笑様のお姿をされています。というより、あなたはもう千速継笑様です」
何度もそう呼んだでしょう? と笑うマイラ……は、まだまだまだ、どこまでも純粋に無垢で、邪気の無い優しい微笑みを私に向けている。
でも。
今は、それが恐ろしくてたまらない。
だって私が、私が本当に千速継笑でなく、鶫なのだとしたら。
『そうですね、あなたの罪は百年、数百年の贖罪程度では贖うことのできないものです』
私は、とんでもない罪人なのだから。
『あなたは、数千もの人間を何度も殺戮するという罪を犯しました。これは私が犬の身でも、看過できない罪です』
そういえば……ラナンキュロアの物語の、最後の方に、なぜかボユの港の大災害における四人の被害者のエピソードが挟み込まれていた。アンネリース、ビンセンバッハ、セルディス、ディアナ。
あれは……なら、私に罪を自覚させるため……その為に挟み込まれたエピソード?
「千速継笑様、あなたは千速継笑様です。ですがそれはラナンキュロアに生まれ変わった千速継笑様とイコールであるという話ではありません。幽河鉄道は流体断層の路線の中から、変更可能な分岐器を探し出し、それを切り替える魔法です……可能性の線路は、高次元的に複雑な分岐をしているのです。新しい線路が通れば廃線となる路線も確かにあります。しかしそれは必ずしも起こるとは限らないことなのです。準空子の世界は在るとも、無いともいえる世界ですが、こと魂の世界において、それは現実に影響を及ぼすナニカではあるのです。失われた過去に、人がいつまでも縛られてしまうように」
「ツグミお姉さま、その辺りのことは……」
「ええ、この辺りは未だその全ては解明されていない、世界の構造の話です。私が語っていることはナガオナオ様の仮説に過ぎません。どうして人は、既に失われた過去に、失われた命に、今の自分を変えられ、枉げられてしまうのでしょうか? 準空子の世界に囚われてしまうのでしょうか? どうして千速継笑様の記憶、経験、体験を与えられ続けた魂は、やがて限りなく千速継笑様に近付いていくのでしょうか? それは、ナガオナオ様ですら解明できていないことなのです。生命がそのような挙動を見せるというのは、当たり前に思えることかもしれませんが、それを科学で、魔法科学で解明しようとすると、これは証明に非常な困難が伴う難問となるのです。今では当たり前となった地動説が、当たり前になるまでには多くの人の努力と献身、そして犠牲を要したように」
ラナンキュロアも千速継笑も、人の痛みがわからない人間ではなかった。
「大丈夫ですか? 千速継笑様。ツグミお姉さまは、話し始めると止まらないナガオナオ様の悪い部分までをもリスペクトしていますから……」
「マイラぁ?」
人の痛みがわかるからこそ、そんなものとはあまり関わりたくないと思う、普通の人間だった。
「ん、んんっ……ともあれ、純然たる千速継笑様は、既に幽河鉄道を降りているのです。そうしてラナンキュロアという人生の線路を終着駅に向かい、自分自身の足で歩きだしたのです」
だから私にもわかる。千速継笑の完璧なコピーになったという私にもわかる。
「鶫という新しい乗客が乗ったところで、古い乗客の軌跡が消えて無くなるなんてことはないのです。幽河鉄道は可能性のために可能性を潰す、そのような魔法ではないのです」
半身を失ったアンネリースの悲しみが理解できる。
凌遅刑が如く長時間身体を焼かれながら死んだビンセンバッハの苦しみを理解できる。
色々あった人生の最後が、あんな風になってしまったセルディスの哀切が理解できる。
ディアナは……ディアナはどうしてあの四人のひとりに選ばれたのだろうか?……私に罪を自覚させるためというなら、彼女は余計ではないか?
「つまるところ、あなたは千速継笑様ではありますが、ラナンキュロア……ラナ様ではないのです。むしろあの世界においてはラナ様と敵対した、鶫なのです」
……ともあれ、私は彼ら彼女らのような悲劇を、その数百倍の数、何回も(自ら行ったのは四十六周の内のいくつかなのだろうが、ラナンキュロアも幽河鉄道によるやり直しをしていたから、正確な数はわからない)生み出したことになる。
やり直したからといって、無かったことになるわけではないこの世界の中で。
机の上にあるリンゴを取り除けたからといって、机の上にリンゴがあった事実までは消せない、この残酷な世界で、私はそれを一度ならず行ったのだ。
「そんな……そんなのって……」
……ナガオナオはこの事実と、どう向き合ったんだ。
「う……」
……千速継笑の身体が、吐き気を催している。
過去の自分がしでかした、今の自分が覚えていない罪に眩暈がする。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
「混乱を、しているようですね」
「ご自身を思い出された時は、いつもこうですよ?」
「え……」
聞き捨てならない声が、マイラから漏れてくる。
「じゃっ……じゃあやっぱり……このやりとりはこれが最初……ではないのね?」
「ツグミお姉さまが、ここにいらっしゃる状態でこうなるのは初めて、ですよ?」
「ええ、次にラナンキュロアを再上演する際には、呼んでくださいと、私がマイラにお願いをしていたのです。そろそろ、だと思いましたから」
わけがわからない。
わけがわからなすぎて気持ち悪い。
どういうことなの。私はなんなの。私はここで百年以上、何をされているの?
「鶫。ナガオナオ様より伝言があります。“其の方が魂の下位変換を望むに至ったならば、此の方はその儀、いつなりとも執り行う準備がある”……以上です」
「魂の、下位変換?」
なんだ、それはいったい何の話だ?
「ツグミお姉さま、その前に、このミジュワへは、最初から説明をした方が、いいのではないでしょうか?」
「ひっ……」
そうして気が付けば、いつの間にか私は広いベッドの上で、右にツグミ、左にマイラがいて、ふたりに挟まれ迫られているという、謎の状態にされていた。ふたりが前傾でベッドに手をつき、四つん這いに近い状態でにじり寄ってくるという、とんでもない状況だ。
もっとも、右からのツグミは、まぁいい。物凄い美少女だが、私の性自認は女だ。美少女にベッドの上で迫られたからといって……動揺くらいはするが……理性を完全に揺さぶられ、混乱するまでには至らない。
問題は左からのマイラだ。右からのそれと、まったく同じ顔なのに、その美貌に迫られると私の理性はぐわんぐわんと揺れ、混乱の極みに達していく。まるでそこに心を飲み込むブラックホールがあるかのようだ。愛らしい圧に、心が潰されるほどの超重力。
「あ、あ、あ……」
「ミジュワ……ほしいでしょ?」
「え?……」
最早、気のせいなどではけしてない、梔子と金木犀が交じり合ったかのような、その白金の煌きのような、滑らかで力強い、トロトロの匂いを感じる。その芳香が私の脳髄を焼いている……焼かれているのは、あるいは私の魂、なのかもしれない。
「ほしいでしょ? 説明」
「え、あ、ええ……」
眩しい光景の、眩暈がするような芳しさに、しどろもどろになる私を、煌く白金の瞳が四つ、見つめている。私はその内のふたつが怖い、たまらなく怖い。
「簡単に言えば」
双子が、舞台の上で踊りながらそうするように。
「あなたは生みの親である悪魔……青髪の悪魔からも捨てられてしまったのです」
迫ってくるふたりの美少女は、交互にセリフを繋げていく。
「その非は、あなたにはありません。あなたは私のコピーとして、私自身をも騙す境地まで至っていました。ですが、私は騙せても、ナオ様を騙すには至らなかったのです」
少し背の低い、純粋に可愛らしい少女は、けれど私を少し突き放すように喋り。
「青髪の悪魔は、人間というものを甘く見ていたのです」
少し背の高い、私の脳内にカルメラ焼きのような混沌を膨らませる少女は、どこまでも優しく私へ囁きかけてきた。
「あるいは人間の、愛の力を、ですね。どれだけ形を、上辺だけを真似ても、そのようなモノでは騙せない愛が、この世にはあるのです。姿形が変わっても、魂が同じならそれをその人と認識できる愛があるように、その逆もまた」
「そうして青髪の悪魔は、あなたを罵倒し見捨て、ナガオナオ様へ、もっと直接的な力の行使をすることで事態の解決を図ろうとしたのだそうです……そう、ツグミお姉さまより伺っています」
「それも、甘く見られたものです。ナオ様は魔法戦においてもエキスパートなのですよ? 伊達に、大魔道士と呼ばれていたわけではないのです。多少……結構……かなり……魔力の量、使える魔法の手数で劣っていたとしても、そんなものは関係ありません。長年の経験と、それより出ずる勝負勘が全てを覆しました。まるで、赤子の手を捻るかのようでしたよ?」
「そうして青髪の悪魔は退治され、めでたしめでたし。ナガオナオ様の準空子による拘束結界に囚われたという話です」
「それは“移動”に類する運動エネルギーを全てゼロにする結界です。自発的な移動は、あらゆる意味でできなくなります。三次元的な移動も、時空間上の移動も、生命の位相の移相的移動も、なにもかもです」
「そうしてまな板の上の鯉となった青髪の悪魔は、最終的に、ツグミお姉さまがその存在を乗っ取ることで上書きされ、消滅しました。これは路線を分岐器によって変更したという、ある意味ではぬるい施術などとはワケが違います。高次元的存在の、ある地点から先の可能性の全てを、高次元的に上書きしたのです。青髪の悪魔はもう、この世のどこにも存在しません。その魂の座はツグミお姉さまのモノとなりました。彼女は、もうあらゆる意味で、世界へ何の影響も与えることができません」
……は?
……え?……は?
「ここにいる私は、青髪の悪魔の高次元的な身体、魂の座を乗っ取って存在しているのですよ、鶫。青髪の悪魔は、幽河鉄道の乗っ取りを狙っていました。その在り様は、ですから幽河鉄道を乗っ取れるよう、調整されていたのです。鶫、それはあなたの帰還によって、より顕著なものとなりました。ならば、幽河鉄道と一体化していた私とも親和性が高い。それはつまり、その気になればこちらからの乗っ取りも可能な、そのような在り様だったのです」
「ツグミお姉さまは、青髪の悪魔の魂の座を奪取することで、魂を上位変換することが出来たという……お、は、な、し」
「ひゃっ!?」
白銀の髪が、左耳と左の頬を撫でていく。それほどの距離へ近付いていたマイラに、私は思わず悲鳴をあげてしまう。左耳に彼女の暖かな声がぽわんと残る。その温度がくすぐったくて、思わず身も捩ってしまう。
けれど。
「私の大事なお方を奪おうとしていた悪魔に、私がかける情けなどはありません」
「ひっ!?」
それを、右からの掌が、頬に触れて抑える。
「使者であり死者であったツグミお姉さまは、そうしてナガオナオ様と同じ次元に存在する、高次元的存在となったのです。流石はお姉さま、です」
「ですが、青髪の悪魔には、感謝しているのですよ? 私は漸く、ナガオナオ様と永遠の時を過ごせる存在になれたのですから」
柔らかで非力そうな小さい掌は、けれど私の震えに、完全な不動性でもって応えた。
「あなたへも、です。ん……」
「あっ!?」
そうしてぺろんと、私の左の頬をマイラの舌が舐めていく。右の頬を抑えられていた私は、それを避けることもできなかった。
脳が、蒸発するほど熱を帯びる。
膨らんでいたカルメラ焼きが濃い飴色に焦げていき、ピキピキと罅割れる。
体温なんて、この身体には無いはずなのに、全身が熱い。
「そうして青髪の悪魔との戦いに勝った私と、ナオ様は、残る鶫……あなたを、どうするか決めかねていました。どうしたらいいかわからず、とりあえずあなたの在り様を調べた私達は、そこに……鶫に、マイラとの契約の糸が残っていることに気付いたのです」
そうして再び、忘我の中で気が付けば、私は、ふたつの美しい白銀、白金の輝きに包まれている。
ふたりの柔らかい身体に包まれ、囚われている。
「鶫とマイラ……つまり私との契約、それは、ツグミお姉さまとの契約に割り込む権利を得る代わりに、ツグミお姉さまのそれよりも多くの健康寿命、健やかで幸せな一生を私に与える、というものでした」
左の頬と右半身には特に柔らかなものが、むにゅむにゅと当たっている。
大きさは大体同じだけど弾力は左の方が強い……そう感じられるのは、私の思い込みかなにかだろうか?
「それはとても曖昧な契約でした。どうとも解釈ができるような。ミジュワは、マイラをその曖昧さで騙したのでしょう。ラナ様を幸せにするための契約に割り込むのだから、その目的もやはりラナ様の幸せであると」
「その頃はまだ、私に確かなる知性などは無かったので……申し訳ありません」
そういえば……ここで千速継笑(が、いかにも始めそう)な四方山話を一席ぶつと……「狩」という字は「けものへん」に「守」と書く。
「ですがこの契約は、その糸は残っているものの、その結びつく先のふたつはその時点で既に失われていました。まず、ツグミお姉さまは魂を上位変換したことで、存在としては違うものへ昇華されてしまいましたし」
なぜ、「狩」が「守」なのか。
「そして千速継笑様の魂はその時点で、ラナンキュロアとしての人生をまっとうし、本人が納得する形で大往生するという未来が確定していました。これは私が自身の上位変換以降に、パワーアップした幽河鉄道で観測した事実です。その路線はその時点で、確かなる実存となっていました」
まず、部首である「けものへん」、これは実は犬のことだ。犬という字が変化して「けものへん」、「狩」とか「猫」とか「狸」とか「狗」とか、「獲」とか「猥」とか「狂」とか「犯」とか「獄」とかの、向かって左の部首となったわけだ。
「この、不完全となった契約によって、私、マイラの存在は奇妙な形で宙ぶらりんとなってしまいました。そのまま放置すると何が起こるかわからない……ミジュワが再発生し増殖したり、その果てに青髪の悪魔が復活したり、どこかの星域が丸ごと消滅したり……そうした可能性もあったらしいのです」
ネコ派の人は猫という字を憤慨していい。犬と苗でなぜ猫なのかと。
「一方、マイラには私との契約も残っていました。というより、それに割り込まれていました。この糸を放置すれば、私にも悪影響があると予測できました。それで私とナオ様は、仕方無しにマイラを、ボユの港の大災害直後の時点から拾い上げ、上位変換する前の私と、同じ状態にしたのです」
でもイヌ派の人も「狂」とかに憤慨していい。なぜ犬の王が狂うなのか、狂犬病とか意味被ってんじゃねぇかとか。
「はい。今の幽河鉄道に同化しているのは私、マイラです。ツグミお姉さまの名代として、私はツグミお姉さまの代理として幽河鉄道を動かしているのです。それゆえに、私自身が使えるわけではない魔法の詠唱などは、ツグミお姉さまの名を唱えさせてもらっています。ツグミお姉さまの外見を頂いているのも、同じ理由です」
ともあれ、それはそれだけ犬が、日本人にとってはもっとも身近な「けもの」だったということの、表れなのかもしれない。
「そうして、その状態で、マイラが操縦する幽河鉄道による、鶫のやり直しが始まったのです」
そうして、「守」は。
「ですが当然、ミジュワとしてのやり直しをさせるわけにはいきません」
これが「狩」の字に含まれている理由は……まぁ諸説あるが……俗に、最も主流な説を採れば、それは「守」の意味が、そもそも「囲んで逃がさないようにする」からである……となるらしい。
「それに、幽河鉄道は千速継笑様専用に調整されたままでした」
つまり、「狩」は、「犬」が「(獲物を)囲んで逃がさないようにしている」状態を表した漢字、ということになる。
「あなたにはまず、編集されたラナンキュロアの記憶が移植されました」
つまり、今の、この状態だ。
もっとも、犬は犬でも人に化けている犬だが。純白と薔薇色の装束を纏った、女子中学生と女子高生の中間くらいな年頃の、等しく天使みたいに麗しい顔貌の、白銀、白金の美少女だけれども。
「それは再上演でご覧頂きました通りに、あなた、ミジュワによって背中を青の斧で割られる、その時までの記憶です」
私は今、彼女らに狩られている。
「そうしてラナンキュロアとして人生を終えた……と思い込んだあなたの、果て無き転生の旅が始まります」
柔らかなものに囲まれ、しかし全く身体は動かせず、脳を馥郁たる芳香に焼かれ、逃げることも出来ず、優しげな声に両耳を犯されている。
「最初は美しい姫に……これって、とてもヤケクソな感じがしませんか?」
「次はエルフに……これはとっても、人間不信になった感じがしますね」
「三回目も同じです。エルフの次は精霊族でした。より、人間味の薄い種族への転生、でしたからね。正直、私としては、この辺りでボユの港を焼き払われたなどの憤慨、恨み、私怨はかなり薄まってしまいました。二回目が長かった上に、そこでオリジナルの千速継笑様よりも悲惨な性暴力に曝され、消えぬ二類のエピスデブリも定着してしまいましたし」
――終わりのない地獄と終わりがある地獄。耐えがたき状況からの解放は、陵辱者が飽きることだけ。それならまだ、終わりがある方が……早く、飽きてほしい。そうすればきっと死という終わりが――。
……私は、イクラ丼を賞味する前に味わった例の感覚を思い出す。
そういえば……男性恐怖症のラナンキュロアは、そんな扱いに曝され、果たして数十年という期間を生き延びることが出来ただろうか?
生き延びれたはずがない。彼女ならすぐに、自らの命を絶ってしまったことだろう。
だが私ならどうだ? ラナンキュロアでも、ジュベミューワでもないミジュワなら?
……あまり、それは深く考えたくない。
「なお、この転生は、青髪の悪魔によって観測されていたようです」
「青髪の悪魔は、どうも転生の儀へ関わるという一点において、時空間に干渉する能力を持っていたようです」
「もしかすれば、彼女は転生という事象の歪みから生まれた悪魔だったのかもしれません」
「もっとも、彼女はそれを、どうやら千速継笑の転生、その続きであると勘違いしてしまったようですが」
「これは、もしかすれば、だからこそ幽河鉄道を奪取したいと願う彼女の、高次元的存在としての、不完全さの顕れ……だったのかもしれません」
囁く声に、忘我の彫像と化した私の存在が浸食され、侵食されていく。
「それからの流れは、今回の再上演の前に、私がご説明した通りです」
「三回目で別人への転生に限界を感じたあなたは、千速継笑という別人を自分自身と信じて、逆行転生によるそのやり直しを試みられるようになります」
「そうして、純然たる千速継笑様とは違う、コピーされた千速継笑様が完成していきました。その結果が今のあなた、元ミジュワである継笑、鶫です」
「途中、何度かラナンキュロア様の再上演によって、ご自身がミジュワであるということを思い出されたとのことですが、しかし母であり創造主である青髪の悪魔は既にこの世にはいない。その魂の座は、既にこの私のモノとなっている。その事実に絶望したあなたは、他にやることもなく、幽河鉄道によるやり直しを続けました。何度も記憶を失い、また思い出しては忘れるということを繰り返しながら」
ちなみに、私が幽河鉄道にいない時、転生しての生を歩んでいるその時、ツグミはここへちょいちょい訪れては、事態の進捗状況を確認していたという。
「……なんでよ」
ふたりの犬に、絡みつかれたまま私は、けれどそれでも腑に落ちない事柄を、噛み切れない疑問を、ポトンと口の外へ吐き出し、落とす。
「なんでよ、どうして私にそんなことを続けさせたの? マイラとの契約があったから? ならどうしてマイラはそんな……こんな非生産的なことに百年も、数百年も付き合っていたの?」
右から、「非生産的、ですか?」と囁き、問われる。
「そうじゃない……私を、そんな風に転生の玩具にして、あなた達に何の得があるの? 復讐? ボユの港で大災害を起こし、沢山の悲劇を生んだ私への拷問なの? これは」
左から、「拷問、ですか?」と囁き、問われる。その空気の震えには、耳たぶを噛まれたかのような幻痛が伴っていた。
「そうじゃない!! あなた達は言わせたいんじゃないの!? 私に! ごめんなさいもう許してください謝りますから後悔していますからどうかもう許して、助けてって!」
気が付けばふとももの上にも、左右から掌を載せられていた私は、声を荒げても身体を全く動かせないでいた。ふたりを振り払うことは、できるはずなのにできなかった。
それはまるで、ラナンキュロアが振り払いたくても出来ない、自分ひとりでは振り払えなかったトラウマと、罪悪感のようだと思った。
「鶫、あなたの創造主、あるいは母である青髪の悪魔は、私にその魂の座を奪われ、消滅しました。ですが、私達は、その気になれば彼女をただの人間、ただの動物、ただの虫けらに転生させることもできたのですよ?」
「つまり、ツグミお姉さま達は青髪の悪魔を、上書きによって消去しましたが、元の人格……というか、その高次元的な魂を、下位変換することでまた別の魂の座に移すことも、出来たのです」
「そんな面倒なこと、彼女にしたいとは思いませんでしたが」
……面倒な女は彼女にしたくない、みたいな言い方をするな。
これは気のせいなんかじゃない。ツグミは、マイラよりも若干私に……青髪の悪魔サイドの人間に……当たりがきつい。当然だろうけど。
「ですが、鶫、あなたにはそれをしても良い。あなたは、望むなら人間に生まれ変わらせても良い。ツグミお姉さまとナガオナオ様は、そう言っているのです」
「え……」
「なぜ、あなたを捕らえ、何百年もの間あなたを転生させていたか。なぜマイラはそれに付き合わなければいけなかったか。それについても、問題となるのはあなたがマイラとの間に交わした契約でした。あなたは、その気になれば私達に、私とナガオナオ様に、ラナンキュロアである千速継笑様の人生に割り込むことができるのです。マイラとの繋がりがあるのですから。なので、隔離するにはマイラをも巻き込む必要があったのです」
「私はツグミお姉さまに二択を迫られました。つまり、ツグミお姉さまが青髪の悪魔を乗っ取ったように、私があなたを上書きして自身の上位変換をするか、それともあなたに付き合ってその監視役、あるいは看守となるか、その二択です」
「ど、どうして自身の上位変換? それを選ばなかったのよ!?」
「私を騙し、ボユの港を焼いたあなたを、無限の牢獄で苛むため……ふふ、冗談です。そんな理由ではありません。それは私の動機の、初めの二割程度でしかありません」
二割はあるんかいっ。
初め?……今は違うってこと?
「マイラはこう私へ訴えました。自分も、転生がしたいと」
「……え?」
「千速継笑様のラナンキュロアは、既にその路線が確定しました。いえ、それも後より変更は可能なのですが、私達はそれをしたいとは思いません」
「自分らしく生き、最後には満足して死ぬというのであれば、自分がどうこういえる話ではない……ナガオナオ様もそう、言ってくださっているのですよね?」
「ええ。純然たる千速継笑様の魂は、それで救われることでしょう」
と。
「ですが私にも、見たい世界があるのです。千速継笑様ではないラナンキュロア様の、また別の物語が」
そこで漸く、左からの圧が和らぐ。
「あ……」
「わぉん!」
いったい何が……と思って左を向けば、そこで柔らかなベッドに沈んでいるその身体は、ラナンキュロアの再上演で名バイプレイヤーとなっていたマイラ……ピレネー犬、マイラのものになっていた。
「いやでもこれはこれで別の圧が凄いな!?」
「……くぅん」
デカイ。
やはりマイラはドデカイ。立ち上がれば身長も、体重もきっと私より大きく重いだろう。
そしてその姿になってさえ、そこからは見ていると心温まる、好感というカルメラ焼きが心の中で膨らんでいく、そのような反応を私にもたらすナニカ……カルメラ焼きなら重曹だけど……だから陽の波動?……が、ビンビンと放出されていた。
まぁ美少女の姿ではない分、それへ向かう私自身の好感の質はだいぶ変わっているが。
「私は、レオ様が無剣を使えない世界で、ラナンキュロア様が千速継笑様ではない世界で、そのお母様、パヴローヴァ様……の、お姉さまに生まれ変わりたいのです」
「……は?」
え、それって確か……クソみたいな名前と性格のアレにイジメられて、けれどめげずに伯爵家の跡取り息子を捕まえ、ざまぁしたその道のプロ……なんじゃ。
「私は、生まれてからの半年くらいはただ純粋に幸せでした。優しい人に、優しく育てていただけたからです。人間というのはなんて素晴らしいんだろう、人間は、なんて愛しい存在なんだろうと心に刻まれるほどに」
「それは、私もそうなのですが。私のそれは、半年ではなく、訓練期間も含めれば二年近くありました。だから、その傾向は、より強いとさえ言えるのかもしれません」
そうしてまたも気が付けば、右からの圧も、その質を大きく変えていた。
ツグミもまた生まれたままの姿、英国ゴールデンレトリバーの白い姿に変わっていた。
私は、いつのまにか白い巨犬二匹に挟まれていた。
もふもふの、牢獄。
「生後半年の私の、新しい御主人様となったパヴローヴァ様は不思議な人でした。勝ち気で明るく、既にラナンキュロア様をご出産されていた割には振る舞いも子供らしく、可愛らしくて、子犬だった私のことも大層可愛がってくださいました。ですが時折激しく、癇癪を起こして暴れる、そのような方でもあったのです」
「不思議、ではないでしょう。彼女のそれまでの人生を考えれば、それは当然の結果です」
白い巨体から、優しい、麗しい美少女ボイスが流れ出てくるというのも、よくよく考えればおかしな話だ。でも、私はもう、よくよく考えることは出来なくなっていたので、特に違和感も無く思えた。
なんかもうよくわかんない。わんこ可愛い。
「ええ、今ならそれがわかります。ですが犬の身であった私にはそれがとても不思議でした。ある事件が起きるまでは、パヴローヴァ様は、もしかしたらふたりいらっしゃるのではないかと思っていたくらいです」
ある、事件?
「私とラナンキュロア様が二歳の時、パヴローヴァ様のお姉様にご子息様が生まれ、それによって心破れたパヴローヴァ様が、“どうしてアンタは男じゃなかったのよ!!”と叫び、ラナンキュロア様を床に投げつけるという事件です」
「ああ……」
それは、ラナンキュロアの回想に出てきたな。
ラナンキュロアがラナンキュロアになった、ひとつの象徴的な事件だ。
「私は、そこでパヴローヴァ様の心に、癒し難い傷があることを初めて知りました。パヴローヴァ様は傷付いていたのです。生まれてからずっと、それとわからぬ形で傷付けられてきたのです」
まぁ、ゲリヴェルガの体液なんて、お身体とオツムに悪そうだし……。
「そうして彼女は、マイラを蹴るようになりました」
「お姉さま、それは……」
「いいえ、これは言わせてください。彼女は確かに傷付けられた可哀想な子供だったかもしれません。ですが、その傷を、痛みを、更に弱い相手に押し付けるというのは最低の行為です。彼女は毎日のようにマイラを蹴り、蹴りまくって自分の憂さ晴らしに利用したのです」
「お姉さま、その時、私は二歳だったのですよ? 犬は一年もすれば成犬です。特に私は身体の大きさも体重も、パヴローヴァ様よりずっと大きくなっていたのですよ? それに、私がお姉さまと契約してからは、そのようなこと、お姉さまがさせなかったじゃないですか」
「当然です。正直、ラナンキュロア様を見守るというのは後付けの理由です。私は、あなたを救いたくて、あなたと契約をしたのですから」
……今なんと?
いや、私がラナンキュロアじゃなかったというなら、それは関係ない話だけど。
「それについてはお姉さま、私は、後悔しているのです。私は、もう少しパヴローヴァ様の憂さ晴らしに付き合い、付き合うことで寄り添えなかったのだろうかと、悔やんでいるのです」
なんか巨大なピレネー犬が、DV夫を庇うダメ女みたいなことを言っている。
「ですからその類の奉仕は、ほとんど絶対報われない献身であると……」
なんかピレネー犬よりは小さい大型犬が、妹を諭す姉みたいなことを言っている。
「ほとんどが付くなら、絶対ではありません」
なんか巨大なピレネー犬が、今度は言語学者みたいなことを言っている。
「……それは、もうだいぶ前に議論を尽くしたでしょう。そこまでラナンキュロア様のお母様、パヴローヴァ様を救いたいのであれば、あなたがその周辺の誰かに生まれ変わり、彼女を導きなさいと」
「ああ……それがざまぁのプロへの転生」
「なんです? ざまぁのプロって」
いやなんだろう。二十一世紀前半の、地球の特定の界隈の人にしか通じない表現、かな。
「だからあなたは……マイラは、ラナンキュロアの伯母に生まれ変わりたいのね?」
「はい。パヴローヴァ様との敵対ルートを回避して、彼女を幸せへと導きたいのです。わかっています、だからといってそれが、不幸になってしまったパヴローヴァ様を救うということには結びつかないということも。でも」
それが私の見たい世界なんです……と力むピレネー犬へ、私は頭に浮かんだ「そのまんまなら幸せな伯母さんの人生が……」という言葉を、口に出すことをやめた。まあいいさ、そういう世界があっても。世界は高次元的に分岐してるらしいから、幸せな伯母さんの路線が消えるわけでもないのだろう。
「なるほど。レオはどうするの、とか気になる点はいくつかあるけれど、まぁその辺も上手くやるんだろうなって思う」
レオを救うこと、それ自体は難しいことじゃない。スラム街に捨てられた直後に拾って、貴族官僚の家の財力でなんとかすればいい。辺境伯、コーニャソーハ家と関わらないようにすれば、まぁ上手くやれるのだろう。
けど。
「でもそれに、私はどう関わってくるの?」
その話に鶫の無限悲劇、転生はどう関わってくるのか。
私が、マイラとの間に交わした契約が問題? 私は、その気になればマイラ、ツグミ、ナガオナオ、ラナンキュロアである千速継笑の人生に割り込むことができる?
だから隔離する必要がある?
どういうこっちゃ。
私はそんなことをしたいとは思っていない。そんなの、私が千速継笑の完全なコピーになった時点で、したいと思うワケがない。
「あなたをそうすること、その境地に至らせること、それ自体が、あなたの転生させた、その理由のひとつです」
「……は?」
「覚えていませんか? 私が記憶を失くし目覚めた千速継笑様へ、強く勧めたのがなんであったか」
え、あ……それは……。
「逆行転生……」
「純然たる千速継笑様の表現を借りれば、なぜやったのか?で考えてください。私があなたへ、逆行転生を勧める理由はなんでしょうか?」
それ、は……。
「より、千速継笑のコピーとして完成する……から?」
「ええ。私からもひとつ、純然たる千速継笑様の表現を借りてお話しましょう。過去へ飛び、歴史を変えてやり直す能力、それへの対抗手段はみっつです。そして、そのひとつは、相手の能力そのものを無効化させるというモノです。これは、相手にやり直しを諦めさせるパターンや、相手を直接的に殺すなどして能力を使えなくするパターンも含みます」
「ツグミお姉さまは最後の、あなたを殺す、消滅させるパターン……私があなたの魂の座を乗っ取るという方法を推奨されました」
「でも、あなた達はそれを、選ばなかった……」
「はい。そこで三択です。あなたは、五人兄弟の誰に生まれ変わりたいですか? 長女である伯母様は私です。次女であるパヴローヴァ様はダメです。長男第二子ゲリヴェルガ、次男第四子リゥダルフ、三男第五子コンラディン。この三人から選んでください」
「……はぁ?」
え、待って、話がだいぶ飛んだんですけど。あの、私、性自認は女性って言ったよね? それ、全部男じゃない。どれも一難七難四十八難ありそうな。いや後ろのは七癖四十八癖だけど。艱難辛苦の七転八倒だけど。自分でももう何を言っているかわからないけれど。
「多数決の話です。五人の中で、多数決で勝つには、何人必要ですか?」
「……へ?」
「長女、次女が結託するとそれでふたり。では多数決で勝つには、あと何人が必要?」
そりゃあ、五人の中で多数決で勝つには、三人必要なわけだから。
「私が見たい世界を民主的に実現する為には、もうひとり、私と一緒に転生してくれる人が必要なのです」
……はい?
「えっ!? そんなことのために私! 百年とか何百年とかって単位で悲劇を繰り返していたの!?」
「いえ、先程も述べた通り、二割はボユの港を焼いたあなたへの、嫌がらせです。私も、レオ様と同じように、あの街は気に入っていたのですよ?」
「残り八割は!?」
「四割は、後顧の憂いを断つためです。先程述べた通り、あなたを千速継笑様のコピーとして完成させるためです。あなたに、ミジュワとしての自覚がある内は、自分の背中を任せることなど、出来ないじゃないですか」
「背中を任されることは確定なの!?」
というか残り四割は!?
「それが、ただいま述べてきた味方が欲しい、という理由です。……どうして私なの? というお顔をされていますね。ですからそれが、いまだ私とあなたとの間に残る、契約なのです。あなたは私に、多くの健康寿命と幸せを与える、という契約をしました。駄目ですよ? 何かを与える、何かを提供するという契約書には、ちゃんとその量も具体的に書かなければ。この“量”は、ツグミお姉さまが与えられるものよりも多く、と決められていました。ですがツグミお姉さまがナガオナオ様と同じ次元に立った今、それはもはや無限ともいえる“量”です。私は正当な権利をもってあなたに要求します。私を幸せにしろと。私とパヴローヴァ様とラナンキュロア様とレオ様を幸せにしろと」
「そん、な……」
莫迦な話が……。
「悪魔、その類の存在がなぜ契約を重視するか、わかりますか? それはその契約が、魂に刻まれるものだからです。悪魔といえどもその知性の源は、何かしらの座に宿った情報誘導体です。そこに刻まれた契約には縛られてしまうのです」
「私達の側から見た時、この契約は、あなたがツグミお姉さまやナガオナオ様に干渉できるという縛りを持っていました。ですが今、あなたが千速継笑様のコピーとなった今、私達は歓迎の意をもってあなたにこう言いましょう。どうぞ、干渉してください。私のやり直しに、ええ、どうぞ付き合ってください」
絶句する。
「ついでです、その世界のジュベミューワ、あなたのいわば母体となったあの少女も救ってあげますよ? また、あなたのような存在が生まれても困りますし。ノアステリアはどうしますか? あなたに、任せますが」
なんだこの悪夢は。
延々と続く悲劇の転生、その先にあったのはただ一匹の犬の、実現したい人生のその介助役となること。
いや……しかしこれは……ツグミやマイラのような人間……存在には、まったく悪夢ではないことなのだ。マイラは、これを全くの善意で言っている。そうでなければあんなにも笑顔が優しいはずがない。そうでなければこんなにも私の心が、その声に安らぐはずがない。彼女達はそういう人間……存在なのだ。わかりやすい方のツグミは、ナガオナオの盲導犬として、その人生の介助役として一生を全うしたのだから。その人生を幸せいっぱいに過ごしたのだから。
「私はツグミお姉さまに十年以上、身体を預けていました。その間、ついでのようにナガオナオ様への敬愛を刷り込まれています。だから私も、ツグミお姉さまと同じですよ? 愛しい誰かの一生に、ずっと寄り添って生きるというのは、とても素晴らしいことであるとは思いませんか?」
私も、ツグミお姉さまがナガオナオ様へそうしたように、パヴローヴァ様に寄り添って生きてみたいのです……云々。
怖い。怖すぎる、なんだそれは、何かの宗教か、他人に尽くすことこそが幸せって、気持ち悪い宗教か。もう女が男に尽くすだけの時代じゃないんだぞ……あ、彼女達は犬か。
犬だったら、誰かに尽くす生き様が幸せというのも、わからなくは無……じゃなくて!?
「す、好きな人に尽くすならそれは幸せな人生かもしれないけど、私はっ……ゎぅ!?」
けれど、気が付けば私はまた……いつの間にか再び人型に……純白の少女となっていたマイラに、それはもう、また唐突に唇を奪われている。それは、あまりにもサラッとしていて自然な動作だった。これは、彼女に健康寿命と幸せを与えなければいけないという契約のせいなのだろうか? 私の魂は、あまりにもあんまりなそのキスを、だけどそうされることが当然であると納得している。理性を突き破る受容が私の身体を縛っている。
「んー!?」
それでまた、私にはなにもかもが分からなくなる。忘我のカルメラ焼きがぼんぼんと膨らんでは爆発し、消えていく。後にはもう何も残っていない、甘い香りだけが漂っている。
心地良い。何もかも忘れ、彼女に身を委ねることが、これ以上ないほど心地良く思えた。
私の理性は、甘い匂いに全てが溶けてしまったのだろうか?
「陽の波動は、あなたには効果覿面ですね。安心してください、悪いようにはしません。ゲリヴェルガ様になるなら、あのありあまる歪んだ性欲、受け止めてあげてもよろしいのですよ?」
「莫っ!……ぁむ!?」
入ってくる舌に、でも、これ犬の……と理性のようなものが叫ぶが、しかしそんなものはやはりすぐにカルメラ焼きとなって一瞬で消えていく。
「……私も身の危険を感じるので、どうかお願いします、マイラの欲求を、欲望を、どうか受け止めてあげてください」
「んー、んふぅ!? んむっ!? んんー!?」
「大丈夫です、ゲリヴェルガ様の歪んだそれより、マイラのそれはずぅ~っとストレートですよ? 私も同じだからわかります。わかるから、それとは是非、距離を置いておきたいのですが」
だからマイラのそれが、私の方へ向かないようにおねがいしますね……とツグミが言うのも、私がその意味を理解する前に、口腔を蹂躙するマイラの舌が全て持っていってしまう。
「んふー! んー!!」
もう心地良いのか、気持ち良いのか、自分のその感覚が何であるかさえ、わからない。
わかるのは自分の全身がぐんにょりともう、溶けてしまっていることだけだ。
抵抗するとか、彼女を押しのけるとか、そういう選択肢は、一応理性に顔を覗かせているものの、選べない選択肢のように、そこに注目してみても何の手応えもない。
だから私はただマイラの舌を、元気なわんこのようなその愛情表現を、無抵抗で受け入れるしかなかった。
「……私も、ナガオナオ様には愛情深い方、と言われていたのですが……うーん、マイラのこれはなんなのでしょう。私よりももっと積極的な……愛で人を支配する類の……うぅん、とっても危険、です。剣呑剣呑、です」
だから叫んだ。もう、どうしようもなくて叫んだ。
もう、そうするしかなかった。
私は甘い拷問に膝を折り、クィーンサイズのベッドの上に頽れ、人を意味する「にんべん」に「犬」と書く「伏」した状態となりながらも、自らの敗北を声高に掲げた。
「いやっ! だからするから! しますから! お姉さまの下僕でも舎弟でも奴隷でもなりますから! だからもうやめてぇぇぇぇぇぇぇ!! 私はお姉さまの忠実なる犬にございますぅぅぅぅぅぅぅ」
「……可愛い、鶫」
「……いいのでしょうか、こんな終わりで。千速継笑様にまつわる事件の解決が、こんな形で。まぁ、ミジュワの転生先がゲリヴェルガ様という選択肢はこちらで潰しておきましょうか。悲劇を潰す代わりに、また別の悲劇が生まれてしまいそうです。それは今更ですが、やれることはするべきでしょう。……というか、出産後に幸せ太りしてしまったとはいえ、陽の波動を、伯爵家の玉の輿に乗れるほどに可愛い女の子が持って生まれるのって、大丈夫なのでしょうか。……伯爵家の上となると、侯爵家、王家……傾城……傾国……別の意味で国堕とし……うーんこれも危険な香りしかしません。もう少し観測が必要でしょうか……」
……それで、コンラディンとリゥダルフの、どっちにしたかって?
もうどうでもいいでしょ、そんなの。
私は屈服したのだ。よくよく思い返してみれば、ふたりの話には、私に関して、綺麗に避けていたひとつ事実があった。それは、ふたりが私の「無力化」に百年、数百年の時を費やしたという事実の、その先にある動かし難い事実だ。
私は多分、いまだ巻き戻し魔法をはじめとした、数々の強力な魔法を使えるのだ。思い出しさえすれば。魔法は魂よりいずるもの、私がミジュワであるなら、それを使えないワケがない。
彼女達が恐れていたのは、それをもって自分達に楯突かれることだったのだろう。
でも、私はそれを、もう悪行に利用したいとは思わない。思えない。
ツグミとマイラの、ふたりによってそう調教されてしまった。
私の性自認が女であるように、私の倫理観も、千速継笑のそれで上書きされてしまったのだ。ラナンキュロアは人殺しとなったが、私はその過程における彼女の葛藤を知っている。簡単に悪に走れるような少女では無かったのだ、彼女は。
今の私は、自分が悪となることに抵抗を覚える。
だからもう、無表情で虐殺なんかは行えない。
私はふたりに、そうされてしまった。調教され調伏されてしまった。わぉん。
この辺、彼女ら自身、人に調教され「けもの」から「犬」になった存在「らしい」やり口だと思う。そのようなことを、後ろめたさなど無く出来るのだ、彼女達は。
でも、だから彼女らに抱く不満もない。それを向けるべきは、この世界の構造を編み出したより上位の創造主かナニカだ。もしかしたら、今頃「青髪の悪魔も出オチキャラになってしまった……すまない」とか考えているかもしれない、阿呆な創造主にだ。
まぁいい、もういい、なんでも構わない。
どうせミジュワにやりたいことなんかない。自分を生んでくれた青髪の悪魔がこの世に既にいないというなら、私に残る繋がりはもうマイラとツグミ、そのふたりにしかない。
今はその繋がりに縋り、生きるしかないのだ。
「さ、いきますよ、鶫」
生きよう、今はマイラお姉さまの犬として。わぅ~ん。
「はい、お姉さま」
あ。
追加情報をひとつだけ転がしておくと、コンラディンとリゥダルフのどちらかを、三女に置き換えることも可能とのことでしたよ。さっすがお姉さま。わんわん。




