Exogenesis Symphony Part I
気が付けば、世界はまた震えていた。
全ての景色が高速で後ろへ、後ろへと流れていく。
背と鼓膜を、ガタンゴトンと定期的な振動が刺激する。
情景は不定形で。
体感は循環する景観に瞬間、五感を万能感へと連関し、転換し、けれど壮観な一体感は、寸閑で。
訳無く、分けなく。
石棺のような。
自分という、輪郭の自覚が、やがて戻ってくる。
深くから知覚に捕獲され不覚、またも不自由な人格へと鹵獲されていく。
だからこの私は、いまだこの世界に繋ぎ止められている。
……私って?
私は。
えっと、だから……。
「お目覚めに、なられましたか? 千速継笑様」
そう、千速、継笑。
「ん……」
継ぐ笑みと書いて継笑。
それが自分の名前だったはずで。
でも好きになれなかった名前で。
巻き添えのように、笑うことに罪悪感を覚えてきた、この石棺の識別名で。
……そうだっけ?
世界を、高速で走る列車が流れていく。
ごうと重々しく。
ゴトンゴトンと軽やかに。
その色は黒。石炭のように無骨な黒。
重厚な鉄のようには、拒絶感もなく。
かといって玩具のそれのようには、プラスティックであるとも見えずに。
漆のような艶は無い、ただひたすらに無骨な黒が、しかしそこに在るという圧倒的な存在感でもって、自らが生み出した風と共に、悠々と走っていて。
また、都庁のようなモノが見えた気がする。
自由の女神のようなモノが見えた気がする。
アンコールワットが、富士山が、凱旋門が、ウェストミンスター宮殿のビックベンが、通天閣が、エッフェル塔が、ナスカの地上絵が、万里の長城が、サン・ピエトロ大聖堂が、コルコバードのキリスト像が、長崎の平和祈念像が、サグラダ・ファミリアが、タージ・マハルが、金閣寺が、マチュピチュが、通っていた高校が、自分の家が、見えては消え、消えては次が現れまた消えて。
ああ、戻ってきたんだなと認識をする。
世界は流れていく。
過去を流し、時を流して、今という檻へ、その合流を急ぐかのように。
「……ツグミ?」
「はい、おかえりなさい。旅はいかがでしたか?」
私は。
そこで漸く、直前のことを、思い出す。
私の現実を思い出す。
そう。
だから私は。
千速継笑は忘れ物を取りに帰る……その途中だったはずで。
忘れ物……それってなんだっけ?……それは確か……すごく重要なものだ。私という人間が存在するために、絶対に必要なもので……それを取って、またすぐどこかへ、私がいるべき場所へ戻らなければ。
……どこへ?
……違う、私は戻るのではなく、進むためここにいるはずだ。
ラナンキュロアは死んだ。
ラナンキュロアはツグミによる転生を拒否していた。
だからラナンキュロアという人間はそこで終わりになった。
そうして千速継笑は帰ってきた。
またも悲劇に終わってしまった千速継笑の人生を、やり直すために。
ラナンキュロアはレオを愛していた。
どうしようもないくらいに、彼を愛していた。
その彼女が、どんな心境でまた人生をやり直し始めたというのか。
それを私は知らない。それを私はもう覚えていない。もうなにもかもがわからない。
Why done it? ラナンキュロアは、何を考えていたのでしょうか?
ミステリーにおいてなぜやったのか?は、一段地位の低い、扱いの少ない、重視されないモノ。
そして恋愛モノにおいても、実はそこ、Why love it? については一見扱いが雑だったりもする。それはそうだ、人が人を好きになることに理屈なんてないし、他の人には理解出来ないような理由で人を好きになることなんて、いくらでもあるのだから。リアルに描くと、結構雑に見えてしまうのが恋というものなのだ。
けれど物語においては感情移入が非常に重要になってくる。ヒロインが人を好きになるその気持ちに感情移入出来ないというのは、多くの層からの期待と信頼を裏切る行為となってしまう。
だからその部分はカリカチュアに誇張された、類型的なモノになっていることが多い。
ラナとレオの事情にしても一見、そのパターンのひとつにも見える。古今東西、自分のピンチを救ってくれた人を愛すというのは、使い古されてなお万人から酷使される玄関マットのようなパターンだ。
でも、そこには微妙に飲み込みづらい部分がある。というか、ラナはどうも「ならず者に乱暴されそうになったところを救われた」という、それこそ恋に落ちるべき状況下では、まだ恋をしていなかった。お風呂に入れて身体を洗ったりして、襲ってくれても構わないという状況を作り出してはいたが、もし、それを本当にそうされていたら……彼女は一生、レオを好きになったりはしなかったのではないだろうか。
レオもそうだ。レオは最初、ラナを変な女性としか思っていなかった。それが変わるきっかけこそ玄関マット……もとい、自分のピンチ(コンラディンに組み敷かれたアレだ)を救われるという使い古されたパターンだが、その部分のレオの心情は正直、あまりこちらへは伝わってこなかった。あのレオから恋したことを察しろというのはあまりにもハイコンテクスト……というよりは単なる演出ミスだ。そういうのは「我、高尚なる物語ですぞ」という顔をした、紀●國屋に積まれていそうなハードカバーの本の中だけでやってほしい。又吉●樹も唸るような美麗な文で。日本人はリアルで思いやりと察しの文化に疲れているのだ。物語の中でまでそんなものは見たくない。少なくともエンタメ作品においては。
ラナは結局、リストカットごっこを止められ、自分を愛していると告げられることで、レオを愛するようになる。自分の最悪の部分を見られ、けれど愛してるよとまっすぐ告げられたことでコロッといってしまったパターンだ。これもその形だけなら充分にカリカチュアで、類型的だけれども、ちょっと捻りすぎだ。まずヒロインがリストカットで遊ぶという、その時点でエンタメじゃない。ある意味、それは嫌らしいほどに生臭いのだ。遭遇の可能性がリアルで充分にある地雷女なのだ、リスカ女なんて。リアルでうんざりしているものに、フィクションで出会いたくないというのは、エンタメを愛する層の共通認識だろう。ほらアレだ、リアルに妹がいるお兄ちゃんは妹モノを好きにならないというアレだ。
だから結局、娯楽映画を見るように、漫画を読むように、ネット小説を読むようにそれを味わった私は、最後までラナに感情移入という、ある種の信頼を寄せることはできなかった。この子に感情移入していれば気持ち良くなれるんだとはとても思えなかった。
ラナがレオを愛していた気持ち、それを、それも私は、結局理解しきれていない。
まぁだけど、それも、それはそうだ。
私とラナンキュロアでは大きな部分が異なる。私は悪質な痴漢をされ、攫われて殺されたという記憶が無いし、その先にある感情の全てには、だから共感し得ぬモノがある。し得ぬというか、したくない。遭遇の可能性がリアルで充分にある地獄だから、そんなものに感情移入は、したくない。ジュベミューワの最期を想像する以上に、したくない。
それに……。
「旅、旅ね、これは旅、だったのか」
それは多分ずっと昔のことなのだ。ツグミが百年以上の時を数えるくらいには。
「一枚も写真を撮ってないし、お土産も買い忘れちゃったけど」
今の私には理解出来ない。もう理解出来ない。レオを、人をあそこまで好きになれるということが。
だから私はもうラナンキュロアではない。違う。
「心を過去へと飛ばす旅、そのように表現しても、間違いではないでしょう」
ラナンキュロアで失敗した千速継笑が、どうしてまた転生を再開したのか。
私が今、ここにいるその理由を、私は知らない、彼女の、ラナンキュロアの心を理解出来ない。『世界が滅びるその時まで、ずっと、この魂はレオを愛してい』たのではなかったのか。
私はもう、千速継笑からも、ラナンキュロアからも、遠くに来てしまったのだ。
私はもう、取り返しのつかない地点に来てしまっている。
なにか重要なことが、既に取り返しつかなくなってしまっている。
だから先へ、進まなければならないのだが。
「過去、過去か……。感想を言えば、割と最悪。なによ、“斬殺ですね、斧で斬られました”……って。あれ、斧って言えるの? ミジュワの身体の一部じゃない」
私は、しかし体感ではまだ五分も前ではない、ラナンキュロアの死の瞬間について思い出す。
ミジュワの身体の中から出てきた青い、何もかもが真っ青なノアステリアに、ラナンキュロアは背中を斬られ、死んだ。何かしらのフィルターがかかっていたのか、観客である私はその痛みを感じなかったが、それはラナンキュロアに感情移入していなかった私でさえも、心破られるような光景だった。
「それを言ったら普通の斧も、鉄で作った道具、ですよ? 斧というのは形状を表す言葉であって、素材を表す言葉ではありません、銀の斧、金の斧ならその通りですが」
「屁理屈ぅ~」
真っ赤なローブでなく、フリルいっぱいのケッタイな、けれど可愛らしいメイド服のようなそれを着たツグミは、相変わらずの美少女っぷりをふんだんに振りまきながら、それを直視したくない私の顔を、向こうからは無遠慮に覗き込んでくる。
ツグミ、ツグミか……。
「なら、あれは青の斧、ってところ?……ここは?」
私は、そこで漸く周囲をぐるんと見回す。
前に目覚めた寝台車……ではない。もっと豪華……というか、ちゃんとした寝室だ。
ラナンキュロアの再上演に入る前は、食堂車にいたはずだが……ツグミが私をここへ運んだのだろうか?
私はクィーンサイズの、天蓋付きのベッドに寝かされていたようだ。ただ、こちらも、たっぷりのフリルなレースのカーテンが深く下りているから、その向こうは、それに透ける範囲でしか見えない。
ツグミはカーテンの内側にいる。私の真横でベッドの上に腰を下ろしている。スカートの内側で足を組んでいるようだが、いわゆる体育座りではなく、それを横に倒したような形にしているらしく、スカートは斜めへ広がっていた。クィーンサイズのベッドならではの、スペースの贅沢な使い方だなと思う。少し、身体を捻って後ろ足だけだらんと横にした犬の姿(お姉さん座りって言うんだっけ?)も連想した。
「ここは幽河鉄道の心臓部。その機関室です」
「ここが?」
意外……という声が思わず洩れてしまう。
形式としてはアールデコ調、全体的にコントラストが強い、落ち着いた印象といったところだろうか。部屋全体が四角ではなく円形をしているようで、それにはあまり日常感を感じられないが、部屋全体はそこまで華美というわけでもない。広さは……直径で十メートルも無い、八メートル強といったところだろうか。
床と壁の下の方だけが濃い灰色と黒になっている。それ以外は白のレース越しに見てるからよくわからないが、全体が大体に白っぽく見える。天蓋に遮られ、これも確かとは言えないが、天井も全てが真っ白のようだ。
ベッドの脇の壁には、光沢あるマホガニー(っぽい質感)のチェストが置かれている。所々に見える金具は白銀か白金か、そのような輝きを放っている。天板の上にはレースのクロスが敷かれていて、その上に白金の輝きを放つ三叉の燭台と……ええと……エンゼルランプの、ピンクがかった黄色い花をつけている鉢がひとつ、飾ってあった。
それなりに落ち着いていてそれなりに華美。ここは、そのような部屋だった。
少なくとも機関室と聞いて、想像できるような部屋でないことだけは確かだ。
「……どこに、機関があるの?」
「あそこに」
そう、ツグミが指差した先には机のようなものがあった。
それも質感はマホガニーっぽいが、確かなことはわからない。学長室、校長室においてあるような重厚なものではなく、大学で教授、准教授クラスが書類やら何やらをうず高く積み上げていそうな、実用的なものだ。もっとも、そこにあるものは綺麗に磨かれ、片付けられているが。
「あれはナガオナオ様が大学で、教鞭を執られていた時期にお使いになられていたデスクです。魔法的な加工が施されていて、操縦者の意志を読み取り、それを翻訳して幽河鉄道へ伝える役割を担っています」
「それは操縦桿、車でいう所のハンドルであって、機関とは違うんじゃ?」
「いいえ。お忘れですか? 魔法は魂よりいずるモノ。幽河鉄道は操縦者の意思そのものを動力として動く、機構なのです」
それもそうか。
けど、ナガオナオ様、ね……。
「……ラナンキュロアは、運命に納得して死んだ。ツグミへ、お兄ちゃんの元に帰ってと言って死んだ」
帰らなかったの? と私はツグミに問いかける。
ツグミはそこにいる。幽河鉄道の、今もその操縦者としてそこにいる。
なぜそこにいる?
「千速継笑様の魂を導くこと。それがナガオナオ様より承った、私の使命ですから」
「ナガオナオ様より、ね。私は導いてほしいと言ってないし、ラナンキュロアは最後にはそれを拒絶して死んだはずだけど」
『私はあなたによる転生を拒絶する。記憶のない私がまた来世かどこかで悲劇に陥ろうとも、それは仕方のないことだから、それが私に科せられた罰というなら受け入れる』
「関係、ありません。千速継笑様とナガオナオ様の求むるモノ、それが相反するというなら、私が採り、取って執るのはナガオナオ様のそれです」
「……だから私を強制的に転生、させ続けるの? 私が望まなくても?」
私は悲劇を何度も何度も何度も何度も、繰り返しているらしい。
それは何だ? 救いなのか? そんなモノが救済なのか? ツグミはそれが本当に正しいと思っているのか? 正しいと思い、私にそれを強要し続けているのか?
本当にそれは、それが本当に、千速長生の求むるモノなのか?
「強制、ですか? 千速継笑様は転生を望まれませんか?」
「私には転生を、していた頃の記憶がないからね。最初の千速継笑はあまりにも酷い終わり方をしたみたいだから、そこで人生のやり直しを望んだというだけなら納得も出来る。でも、ラナンキュロアは人生のやり直しを望んでいなかった。あのレオが生き続けることを何よりも優先した。私にはラナンキュロアが、最後に何を考えていたのかはわからないけど、話の流れ的には、自分が転生を諦めることでミジュワにレオを救わせる、そういうことを主張していたんだと思う」
私が見せられた「ラナンキュロアの人生」には、ラナンキュロアの心の声が入っている部分と、そうでない部分とがあった。時々、映画におけるナレーション、小説における地の文、等による、心情の描写が消えてしまうことがあった。特に最後の、彼女がレオを愛していると独白するパート、あそこではその少し前から、完全に地の文が消えてしまっていた。
もっとも、そういうことは、それまでにも度々あった。だから、そういうモノとして受け止めてはいた。まぁ突然、<System log>とか出てくることもあったしね。
でも、だから彼女があの時何を考え、ああいう発言をしていたのかは、私にはわからない。
「ただそれが、ラナンキュロアの転生を諦めること、に限定してのことだったというなら、一応話は通じる。ラナンキュロアという少女は、そうしたレトリックで人を騙すくらいのことはしたはずだから」
「そうでしょうか?」
「でも、ここにひとつ問題がある。転生を拒否するという言葉の最後に、ラナンキュロアはこんなことも言っている」
『ツグミ、だからあなたはお兄ちゃんの元へと帰って』
私はツグミの、まぁまぁ豊かな胸の辺りを見つめながら問いかける。
「どうして、お兄ちゃんの元に帰らなかったの?」
ラナンキュロアが、死んだ後どうなったのか。
私はそれを知らない。
けど、転生を拒絶というのが、ラナンキュロアのやり直しは諦めるけど、千速継笑の転生自体は続けるという意味なら、そこにお兄ちゃんの元へ帰ってというセリフが付け足されるはずもない。
となると、これはミジュワへのハッタリということになる。そう口にすることで「ツグミがお兄ちゃんの下へ帰る」というのをミジュワへ示唆していたということになる。
ミジュワは、「ツグミがお兄ちゃんの下へ帰」ってほしかったのだろう。それは私にもなんとなく理解できる。そもそも、ツグミを四十周以上もかけて完璧にコピーしたのは何故だ。その努力が成果を発揮するのは、ツグミをよく知る人物に対してだけなんじゃないか? ならばミジュワの目的はナガオナオにあったということになる。
そうであるならミジュワの目的は、「ラナンキュロアのやり直しを止めること」にあったわけではない。「千速継笑のやり直しを止めること」にあったはずだ。換言するとそれは「ツグミによる千速継笑のやり直しを止めること」になる。
ラナンキュロアのやり直しを止めること、イコール千速継笑のやり直しを止めることではない……というレトリックでミジュワを騙したのなら、それは酷い裏切りだ。
騙されたと理解したミジュワは、ではどうしたか。
「……ね、ツグミ」
「はい」
「あれ、またやってくれない?」
私は枕元の、カーテンの向こうにある白金の燭台を指差して言う。
そこには黄色っぽい、独特な色をした蜜蝋の蝋燭が刺さっている。
「あれ、ですか?」
『ある程度の記憶であれば一応、持って逆行することは可能なのですが……それは実感を、まるで伴わないモノとなります』
『喩えるなら夢です。そうして持ち越す記憶は、五感の刺激を伴わないただの情報に過ぎません。つまり、ご本人の感覚からすれば実体のない、不安定であやふやな記憶ということになります』
ツグミはかつて食堂車で、記憶を引き継いでの転生について、そのようなことを語りながら、マッチもライターも使わず、テーブルの上にあった蝋燭に炎を灯した。
それは、その時は全くタネのわからない手品のように思えた。
けれど今はなんとなく、それが何であるかは理解できている。
『あれは、ナガオナオ様の世界においては高位の魔法使い様が、これから言うことは嘘ではない、ということを示すために行う軽い誓約のようなものでした。嘘を吐けば炎が消える、色が変わるといった変化が起きるというモノです』
『この誓約はあくまでも軽い、冗談のようなものでもありました』
あれは、つまり制約魔法だったのだろう。
それはいい。魔法使いの信義の示し方などどうでもいい。
問題はその先にある。
「よくわかりませんが……では」
レースのカーテンがめくられ、チェストの上の燭台を手に取ったツグミは、何の気なしに、といった軽い調子で、黄色い蝋燭のそのひとつにぽぅと火を灯した。
「どうせなら全部」
「くぅん?……よくわかりませんが、はい」
そうして私は、三本の蝋燭に全て火が灯った状態の燭台をツグミから受け取る。
「これも、あなたが嘘をつくと、炎が消えたり、色が変わったりするの?」
「ああ……いいえ。それは制約魔法ではありませんから。ここは私の空間です。幽河鉄道の設備へは、私が自由にその機能のオンオフを切り替えられるのです」
「便利ね」
「はい。何か私にご質問が? 制約魔法による証明が必要なら、その様に致しますが」
「ここでその証明ができるとは思えないけど?」
ここはツグミの空間なのだろう。ここで何をされたところで、何の証明にもならない。
「そう、ですね。信じてもらうというのは、難しいことです。それはこの空間に限ったことでもありませんが」
でも、ひとつだけ可能な証明がある。
この場合は、それがある。
「ね、ツグミ」
「え?」
「間違いだったらごめんね」
私は一言、謝ってからその証明を実践した。
「……え?」
蝋燭を、その炎の灯っているまさにその部分を、三叉の槍でも突き刺すように、ツグミの顔面へと突き出す。
それはもう、形のいいあごの部分へ、完全に赤い炎がくっつくかのような勢いだった。
「……何の、おつもりですか? 千速継笑様」
けれどツグミに動じた様子はない。
証明、終了だ。
「やっぱり……」
私は、ツグミの顔の下に、火が着いたままの燭台を置いたまま……まぁ、それがツグミの身体を焼かないというのは、一度見たことだし……と思いながら続ける。
「私はね、恐怖症こそ、トラウマこそ、ある意味では最も信じられることだと思っている。恐怖症はね、トラウマはね、理性とか人格とか、知性とか根性とか、そういうものではどうしようも無いことなの。どんなに無害と知っていることでも、それは理性を突き破ってくる」
「……」
そのことは、男性恐怖症でない私にも理解できる。
「ツグミ風に言うと、“炎が怖い”という三類のエピスデブリ、だっけ?」
ラナンキュロアのレオに対する想いへ、私が共感できた一番大きな部分はそれだ。
私の魂にも、千速長生を失った悲しみが、哀しみが、ある種の絶望が横たわっている。最初、ラナンキュロアにとってのレオは、千速長生の代わりだったのだろう。言い方も外聞も悪いが、それは間違いない。どこでそれが変わったのか、それはラナにしかわからないことだ。私にはわからない。身長を追い越された時か、肉体関係を結んだその時か、それに千速長生が与えてくれなかった悦びを得た時か。
それを知るのはラナであって、私ではない。
けど、千速長生を失ったトラウマ、それこそがレオを特別視したその理由であるのは間違いのない。それは、もう少し簡単な言い方をすれば、ラナの魂はレオを、どうしても放っておけなかったということでもある。スラム街で育ち、清潔とは言えない臭いを漂わせ、七人を殺したばかりのレオを、ラナは家につれて帰り、風呂に入れてやり、綺麗にしてやらずにはいられなかったのだ。
その気持ちだけは、私にも理解できる。共感も感情移入も。
千速長生をまた失うという恐怖に、ラナンキュロアは耐えられなかった。それは、コンラディンがそうであったように、だ。
「恐怖は理性を突き破る。人の行動はそれに支配されている」
『暖炉のように、安全域が確保されていれば平気なのですが……炎……炎の揺らめきが自分のすぐ近くにあるというのは本当にダメで、ヘパイトス派の方が戯れで私の全身を幻影の炎で包んだ時などは……ナガオナオ様の盲導犬であることも忘れ逃げ惑い、醜態を晒してしまいました』
「炎が苦手なら、それが無害な炎であってもやっぱり怖くて当然、それが恐怖というものなの」
「……」
三叉の燭台をツグミの、白銀の髪へ近づける。
燃えない。髪が燃え、嫌な匂いがしてくるなんてことは起きない。
それは異常な光景だけれども、まったく動じていないツグミの方がもっと異常だ。
「ねぇ、ツグミ。いいえ……ねぇ、あなた」
「……」
「あなたはいったい誰なの? ツグミの人間形態と全く同じ姿をしていて、けれどあの薔薇色のローブは纏っていなくて……ねぇ?」
けれどその答えは明らかだ。
消去法を使うまでも無い。
最初から該当者はひとりだ。
これがツグミではないというなら、ツグミを完全にコピーできる存在がいるというなら、それはたったひとりしかいないではないか。
その名前をもう、私は知っている。
「ミジュワ。あなたはミジュワなんでしょう? あなたはラナンキュロアに騙された。高次元の存在とやらにとって、悪魔にとって契約の不履行が、裏切りがどれくらい罪深いことなのかは知らないけど、それは百年以上もその魂を苦しめ続けるような、終わりない悲劇の転生に叩き落さずにはいられないような、それほどのことなの?」
そう。
転生後に、あんなにもツグミが介入できるのなら、ラナンキュロアで失敗したとて、そこから何十回と同じような失敗を、繰り返すはずがないではないか。それはさすがに無理がある。魂に悲劇癖がついた? どんな無理矢理なレトリックよ。
本物のツグミがどうなったのかは知らない。
でも、これがミジュワだとするなら、確かなことがひとつある。
幽河鉄道は、彼女に奪われてしまったのだ。
そうして私はそれに捕らえられている。捕らえられたまま、百年、何百年という時を、悲劇を繰り返している。
悪魔を裏切った代償を、その罰を受けている。
「何とか言いなさいよ。このやりとりも、これが最初だったの? 初回のあれを再上演……なんだっけ? 畢生の壱齣だっけ? それをすれば、私は今と同じように気付いたんじゃない?」
あなたがツグミではなく、ミジュワであることに。
……もしかすれば、それに気付いてほしくて、わざわざ私にこれを見せたのかもしれない。自分がどんな罪を犯したからこんな地獄へ落ちたのか、知らしめるために。
「ふふ。そう、ですね」
そうじゃないのか、と強く問い詰めると、ツグミは、慈愛の微笑みを浮かべたまま、相変わらずその美貌を直視出来ない私を優しく……ミジュワだと思えば気持ち悪く……見つめてくる。
「自分がどんな罪を犯したからこんな地獄へ落ちたのか、知らしめるために、というのはいい表現です。まさにそれこそを、私はあなたに知ってもらいたいのです」
「……やっぱり」
無理をしてツグミ……否、ミジュワの顔を見れば、やはり恐怖と同じように理性の何もかもを突き破ってくる、あたたかで優しげな美貌がそこにある。
けれどそれは奪ったものなのだ。その微笑みをツグミから奪い、ツグミに成り代わったモノの悪魔の微笑みなのだ、それは。
「そうですね、あなたの罪は百年、数百年の贖罪程度では贖うことのできないものです。あなたは、数千もの人間を何度も殺戮するという罪を犯しました。これは私が犬の身でも、看過できない罪です」
「……は? 何を言っているの? 数千もの人間を何度も殺戮? それをしたのはあなたでしょ!? 犬の身? ここにきてまだツグミを騙る気!?」
この期に及んでまだ、ワケのわからないことを繰り返す美少女へ、私はとうとう語気を荒げる。ここは彼女の檻の中なのに。けれど、意味のないことだと知っても、私はそうせざるを得なかった。
純白の美少女はどこまでも落ち着いている。私の追及など、突き出されたままの炎が如くに、何も怖くなどないのだというかのように。
「いいえ。ですがそうですね、私はツグミではありません。少なくとも、ラナンキュロアの前に現れたツグミとは、完全に別個体です。それはご想像の通りです」
「だったら!!」
なら、だとしたらツグミへ化けられる存在なんて、ひとりしかいないじゃない!
……だが、そこで私へ、特大の爆弾が投げつけられる。
「そしてあなたも千速継笑様、ではありません」
「……え?」
それは、私にだけ有害な、特大の、恐ろしいまでの破壊力を持った爆発物だった。
私という存在がバラバラに四散してしまうような。
「いいえ……これは語弊のある言い方ですね。あなたは千速継笑様……でもありますが、純然たる千速継笑様ではありません。お忘れですか? あなたは転生の四回目より千速継笑様の人生を何度かやり直しました。あなたはその時に千速継笑様、と呼ぶに相応しい存在……にはなったのです」
「転、生の……四回目?……五回目からじゃなかった?」
ラナンキュロアで一回目、美姫パターンとやらでお姫様になったっぽいのが二回目、エロフ、もといエルフに生まれ変わり五十数年を生きたというのが三回目、お兄ちゃんと同じ十三歳で病死したというのが四回目、で。
「いいえ、四回目であっていますよ? 純然たる千速継笑様は、転生を一度しか行っていないのですから。純然たる千速継笑様は、ラナンキュロアの人生に満足して亡くなられるのです。人生を全うし、大往生するのです」
「じゃ、じゃあ私は……私はなんなの!?」
するとツグミは……いいや、正体不明の純白の少女は、優しげな態度、声、笑みを少しも変化させること無く言葉を続けた。
「千速継笑様の、今では完全なるコピー、と言っていいのかもしれませんね」
私はそれをまた直視してしまい、そのあまりの可愛らしさに心が奪われてしまう。
だから続く言葉は、私の中を上滑りするかのように流れていくのだった。
「そろそろ正しい自己紹介とご挨拶を、しましょうか。こんにちは、また会いましたね。私はマイラ。あなたと契約をして、永劫なる時を生きる存在となった元、ロレーヌ商会の番犬にして愛犬です。ラナンキュロア様のご母堂様、パヴローヴァ様よりラナンキュロア様をお預かりし、十数年を共に生きたピレネー犬です。ええ、私は確かに犬の身ですよ? 英国ゴールデンレトリバー、ツグミではありませんが。そしてあなたは」
「鶫です」




