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epis60 : Psycho Lock


<ラナ視点>


 唐突に降り出した激しい雨は、空が本来の色を取り戻していくにしたがって、次第にその勢いを()くていった。


 やがて帰ってきた空の色は、だけど雨雲に覆われた星の見えない暗いモノで、時が既に夜の領域へ入っていたことを教えてくれた。


 地下シェルターから魔法の空間越しに、街を見れば、いまだ局所的に燃えている建物はあるものの、広範囲を覆っていた地獄の業火のような炎は、その勢いを完全に無くしている。


『……ユーフォミー様の姿は、ありませんね』


 ひとり、罅割れ世界の統括者(フィヨルクンニヴ)の外にいるツグミから、心配そうな、あるいは怪訝そうな声が私に届く。


 夜にあって神秘的な光に照らされるその横顔は、ぼやけた画質の画面越しにも、ムカつくほど綺麗に見えた。


「……なにその、ハ●ポタのル●モスみたいな魔法」


 犬の姿からそんな……自分で言うだけはある……銀髪の超絶美少女となったツグミは、人指(ひとさ)(ゆび)の先に灯した小さな光(炎の形ではなく、小さな円形だ)を頼りに、真っ暗な倉庫の中を探索している。


 体育館五つか六つ分の、大きな倉庫の屋上には白黒の巨人……だったモノの死体、というか残骸が覆い被さっている。ゲームではないから、倒したからといって消えないのは当然だが、燃えながらくず折れていったのに今はもう何の光も発していない。そのせいで倉庫の中はほとんど何の光も届いていなかった。


 けれどそれは、ツグミの探索を妨げるモノとはなっていないようだった。


『これですか? イデア派(アゥレィナ)とは対極にあるマテリア派(コルレィナ)の基礎魔法のひとつ……をナオ様が魔改造したモノです。原理は……』

「また長文解説がきそうだから、今はやめて……なら、マイラはどこに?」


 問いに、ツグミは甘く整ったその顔でくんくんと鼻を鳴らし、少し首を傾げながら「んんぅ?」と心底不思議そうな表情を浮かべた。


『匂いは、残っています。マイラの匂いも、ユーフォミー様の匂いも』

「そこにいたことは間違いないんだ?」


 私が今、マイラを探しているのは、当然ながらレオのためだ。


 ()()ツグミにレオを癒やすことができないというなら、もうひとりの超常的存在(デウスエクスマキナ)にご登場戴き、ご助言を戴きたい。もう解説とか設定暴露はいいから、充分だから、とにかくレオを治してほしい。


『それは間違いないと思います。ですが、コンラディン様やナッシュ様のようには、亡くなられたというわけでもないようです。ユーフォミー様の特殊なお召し物が燃えた痕跡も、残っていませんし……』

「……それは、確か?」


 二周目のツグミが何をしたいのかについては、今以(いまも)って完全に不明だけど、優先順位は()()ツグミと変わらないはずだ。


 つまり、私、ラナンキュロアを悲劇から救おうとして、マイラとの契約(けいやく)遵守(じゅんしゅ)しながら行動を、しているはずなのだ。


『はい。ユーフォミー様のあの特殊な形状の眼鏡、あれには特殊な素材が使われていました。密閉空間で燃えたのなら、数時間から十数時間は匂いが残っているはずです』

「ここにきて、あんまり意味が無さそうだったユーフォミーの眼鏡が活きるのね。いまだに、アレに度が入っていたのかすら知らないけど……」


 私の悲劇は、すなわちレオが死んでしまうこと。


 二周目のツグミは、レオが大ピンチである今のこの状況を知っているのだろうか? 一周目……今のこの状況がこのまま推移すると、この先はどうなっていくのだろうか?


「なら、マイラが……ううん、二周目のツグミがユーフォミーを助けた?」

『そう、かもしれませんが……』

「諸々のことは打っちゃって最優先でユーフォミーを助けたの? なんで?」

『……わかりません』


 今、この段階において、二周目のツグミの行動によって大きく変わってしまった運命は……コンラディン叔父さんの生死だ。叔父さんは、二周目のツグミが助けを求めたからあの倉庫へとやってきていた……そのはずだ。


 コンラディン叔父さんは、ゼロ周目において私を殺したという。


 もしかすれば、この周においても、コンラディン叔父さんが生きていたらマズイことでもあったのだろうか?……だから叔父さんが死ぬような状況に、誘導した?


 そこのところは、本人……本犬(ほんけん)に聞いてみるしかないが、現状、二周目のツグミは、私達から完全に姿をくらましてしまっている。


 ジュベの肉体が、ボユの港全域に散らばっていることを嗅ぎ取ったツグミの「鼻」からも、どうやら意図的に逃れているかように「思える」のだとか。


 何の意味があってそんなことをしているのだろうか?


 燃焼石の爆撃で死んだとも思えないが……。


「ねぇ、ラナ」

「……ん?」


 地下シェルターの、目が慣れていなければ何も見えなかったであろう薄明かりの中、その場から完全に身動きが取れないレオは、その疲れを表に出さぬまま、静かな声で私を呼んだ。


「僕はね、僕のことはもういいから魔法を解いてとか、そんなことを言うつもりはないんだ」

「……今まで言わないでいてくれたこと、感謝してる」

「僕だって命が惜しいし、生き残れるなら生き残りたい」

「うん」


 一緒に生きよう……生きたい。


「でも、ね」


 レオは、そこでふっと寂しそうに笑う。


 その笑みは、どうしてか私の心を深く、(えぐ)る。


「僕とラナの命は、もう等価値ではなくなった。それだけは、心に刻んでいてくれないかな」

「……どう、いうこと?」

「僕は今、ラナが死ねば死ぬ。そういう状態なんだよね?」

「……」

「なら……ラナの命は、僕のそれよりも重い。だったら……ラナは僕の命より、自分の命を大事にしなくちゃね。僕のために生きてくれるのは、それは嬉しいことだけれど、僕のために死ぬことは……僕が許さないからね? その認識と選択を、間違えないで」

「っ……」


 遠回しに、かなり遠回しに、レオは最初に言うつもりはないと言ったことを、おそらくはほぼそのままの意味を込めて私に告げる。


 自己犠牲は許さないと……そう言っているのだ、レオは。


「……それは、卑怯だよ」

「そうだね」

「それは、ズルイよ」

「うん」

「それは、意地悪だよっ……」


 レオはずっと私のことを見てきた。


 三年間、多感な時期をずっと。


 だから私が何を考え、どう動くのかについてもある程度は……というか、かなりの部分は知られてしまっている。


「嫌いになった?」

「……なれるわけないじゃない」

「僕は嫌いになる。ラナが、僕を助けるためにラナの大切な何かを犠牲にするのであれば」

「ぁ……ぅ……」


 私は物事を悲観的に考える人間だ。


 そうして極限まで悲観的になると、なにもかもを投げ出してしまうクセがある。


「……ヒドイよ」

「僕は卑怯でズルイ人間だからね、そういうラナに、一番効果的な杭を打つんだ」


 八歳でひきこったのもそうだし、リストカットの真似事で遊んでいたのもそうだ。


 あるいはレオを、家に連れ込んだのだってそうだ。


 もし今、この段階で、自己犠牲によってレオを助けられる道を示されていたのなら……いや、実は薄氷を踏むようなか細い仮説なら、既にあるのだけど……私は迷わずそれへと進んで行ってしまったことだろう。


 だって当然のこととして、私は即答できるのだから。


 自分の命と引き換えにレオを助けられるのであれば、私は迷わずそれを選ぶと。


「ラナの、色々な物事を考えている時のその顔は、頼もしくもあるけど僕は怖いんだ」

「……え?」

「ラナは僕とは違って、頭で戦う。けど、だからといってラナは軍師でも、戦術家でもないんだ。ラナ、僕は覚えてるよ……ラナが咄嗟の機転で、普通なら絶対に倒すことが出来ないような相手を圧倒してみせた……その結果、ラナの心が壊れかけた……その時のことを」


 頭に、金●一耕助か工藤●作のようなボサボサの髪と、それが剥がれた際に見えた赤毛と奇妙な形の耳が浮かぶ。


「ラナの心は壊れやすい。切った張ったの世界には向いていないんだ。なのにラナは簡単にその世界へ、自分の心を押し進めていってしまう。……ねぇラナ、僕は、今ものすごく疑問に思っていることがあるんだ」

「……なに?」

「二周目のツグミ?……は、本当にラナの味方なの?」

「え」

「おかしいんだよ。あの時、ラナの心が壊れたかけた時、ラナの隣にはマイラがいた。あの時のマイラは、僕に先んじて、僕と一緒にラナの心を救おうとしたんだ。だからマイラ……ツグミも、ラナがそういう人なんだって知ってるんだ。ねぇラナ、だというのに今の状況は、おかしくない?」

「……ん」


 レオの話を聞いて、だけど妙にのんびりと思ったのは、これはもしや人の心を扱ったミステリーなのか、ということだった。


 人の心を扱ったミステリー……つまりは犯人がどうして被害者を殺さなければならなかったのか、動機はなんなのか……そうしたモノを主に扱ったミステリーは、俗に「ホワイダニットもの」と呼ばれている。


 ただ、このなぜやったのか?(ホワイダニット)は、ミステリー全体の中においては基本的に、誰がやったか?(フーダニット)どのようにやったか?(ハウダニット)などに比べ、一段地位の低い、扱いの少ない、重視されないモノであるように思う。


 というか……なぜやったのか?(ホワイダニット)は、他の謎に比べ「素晴らしいもの」にするのが難しいモノのように思う。


 人間の心は多種多様で、それはミステリーの、読者(オーディエンス)の心もそうだ。


 人の、犯罪を犯す心理について、どれほど綿密に、精細な論理を重ねたところで、万人がそれに納得するなんてことはない。「いや私、僕、俺はそんな風に考える人間が現実にいるとは思えない」と言い出す人間は、絶対に出てくる。


 はした金で人を殺す人間は現実にいるのに、それがフィクションに写し取られたというだけで「リアリティがない」と評する読者がいる。子を愛さず、簡単に捨てる、殺してしまう親は現実にいるのに、それが小説になったというだけで「こんなのありえない」と吐き捨てる読者もいる。


 勿論それは、現実(リアル)現実らしさ(リアリティ)は別物であるということなのだろうし、あるいは「そんな要素をフィクションの中でまで味わいたくない」という、人それぞれの価値観における、ある種の好みの問題でもあるともいえる。「リアリティがない」「ありえない」は、時に「そんなものは鑑賞したくない」という、別の本音の上澄みであることがある。


 現実らしさ(リアリティ)など、現実(リアル)に生きる私達が向こうへ、イツワリの世界へ渡るための、(ブリッジ)のようなモノでしかない。現実(リアル)が大地そのものであるとするのならば、現実らしさ(リアリティ)などはその結節点(ノード)でしかない。


 カースト下位の男子(または女子)を構ってくれる(または選んでくれる)カースト上位の女子(または男子)だろうが、追放(または婚約破棄)された自分にはすごく能力(または価値)があったのだという状況だろうが、オタクに優しいギャルだろうが、やおい穴だろうが、その向こうにあるイツワリの大地……あるいは孤島……へと渡りたい人間には、それらは(ブリッジ)として、現実らしさ(リアリティ)として機能する。それが現実(リアル)に重みを残す人間では、渡りきれない程に脆い幻想(ファンタズム)であったとしても。


 けれど殺人を犯すような人の心理などに、そんな「向こう」に、「真っ当な人間なら」、渡りたいとは思わない……のだろう。対岸で傍観者として観測するのさえ、嫌がる人は嫌がる。


 だからそこに、真っ当な現実らしさ(リアリティ)などは、通用しない。


 どれほど堅牢で幅広い、利用者に快適な(ブリッジ)を構築したところで、それが結節点(ノード)としての価値を持たないのであれば、誰もそれを渡ろうとしない。「好みの問題」であるというのは、そういうことだ。


 結局の所、ミステリーもエンターティメントだ。アートであることもあるが、主には作者がオーディエンスへ(きょう)する創作料理に過ぎない。そうである以上、「好みの問題」で評されるのは当然であり必然であって、それを許さないというなら、そもそも作品を(おおやけ)にするべきではない。


 ただ……その当然が、必然が……なぜやったのか?(ホワイダニット)には……論理が破綻していなければほぼ全ての人に「正解」、あるいは(ブリッジ)として機能する誰がやったか?(フーダニット)、実現可能であれば同様のどのようにやったか?(ハウダニット)などとは、全く別のモノとして作用することもまた、事実だ。


 なぜやったのか?(ホワイダニット)には、論理の補強があまり意味を成さない。


 キャラクターの心理というのは、どれだけ論理的に正しかろうが、ターゲット層の心にブッ刺さる何かでなければ、渡りたい(ブリッジ)でなければ、何の意味もない部分であるのだから。


 それはものすごく不確かなもので、「正解」はどこにもなく、鋭く踏み込めば踏み込んだだけ反発も生まれやすいデンジャラスゾーン、あるいは不毛の地、地雷原……そういうものでもある。


 日本において、最も高い経済効果を生んだであろうミステリーのシリーズ作品は、読者が犯人へ感情移入しないよう、動機の部分はわざとあり得ない、同情できない、納得できないものにしていると公言されている。子供の教育に悪いからという意味なのだろうが、これはこれで、殺人を犯すような人の心理に、そんな「向こう」に、渡りたいとは思わない真っ当な人間には、ある種のリアリティとして、それもまた逆説的に魅力的な(ブリッジ)として機能している。殺人を犯すような人間はすべて異常者である、自分達とは何の関わりもない、彼岸(ひがん)の存在である……という、真っ当な人間(であると自認する人達)がそれぞれに信じたい世界へと渡る、(ブリッジ)として。


 もっとも、それは少年誌に連載されていた漫画だから、一般的なミステリー小説の事情とはだいぶ違ってくるのだろうけど、それでもその形式(フォーマット)が広く受け入れられたことは、数字が示すひとつの真実だ。それへふざけんなSHINEといったところで真実はいつもひとつなのである。


 なぜやったのか?(ホワイダニット)は、そのように扱うことこそが、少なくとも地球の、日本のあの時代においては「正解」……少なくとも「正解」の「一例」だったということだ。


 なぜやったのか?(ホワイダニット)の傑作と言われているクリスティのABC殺人事件にしても、私個人の感覚では、あれはフーダニットとハウダニットの要素の方が強いのではないのかという疑問が拭いきれない。


 あれのなぜやったのか?(ホワイダニット)、犯行の動機、その心理に、謎なんか無いと私は思う。ある意味、抵抗しない女性がいたから痴漢した、くらいの……それゆえの悪逆非道があるだけだ。誰にでも理解できるそれを覆うように、どのようにやったか?(ハウダニット)の謎が横たわっているだけだ。そのベールを剥いでさえしまえば、その下には誰がやったか?(フーダニット)なぜやったのか?(ホワイダニット)の答えが、完全に剥き出しのまま転がっている。


 実際、知の世界の英雄(ヘラクレス)、灰色の脳細胞さんも、作中ずっとこだわっていたのは誰がやったか?(フーダニット)の方だったし、そこから、今でいうプロファイリングの手法を使うことで事件の真相へと辿り着いたわけだ。だから犯人の心理そのものは平凡で……いやそれが悪いということでは全然ないのだが……というか、だからこそABC殺人事件は広く傑作として認められているのかもしれないのだが……ある意味、読者が納得しやすいよう、カリカチュアに誇張された類型的なモノに思える。


 ミステリーに限らずとも、カミュの異邦人は、キャラクターの心理が普通の人間には全く理解できないモノだからこその不条理小説(という扱い)なのだろうし、ドストエフスキーの罪と罰も、夏目漱石のこころも、太宰治の人間失格も、三島由●夫の金●寺も、やはりキャラクターの心理を理解できなければ、その印象は不条理小説となってしまうだろう……というか私はなった、どれがとは言わないけれど。


 なぜやったのか?(ホワイダニット)は、真面目に扱えば扱っただけ、そうした危険を孕む。


 (ひと)他人(ひと)の心を理解できない。


 共感した気になって、同調した気になって、理解した気になることはできても、それが真に正しいかを保証してくれるモノなどはどこにもない。


 作者がどれほどの筆を尽くし、なぜやったのか?(ホワイダニット)を、「このキャラクターはこう考え、犯行に及んだのです」と描写したとしても、それが受け入れられるかどうかの判断はオーディエンスの価値観、世界観に委ねられてしまう。私は、僕は、俺は理解できる、理解した気になれる、共感できる、同情できる、いやできない、その気になれない、私は、僕は、俺はこんなのは荒唐無稽だと思う、受け入れられない、その部分はダメだったけどいい部分もあったから十点満点中七点、いやそれを加味しても三点くらいだ。


 それは仕方無い。人の価値観、世界観は、十人十色のモノであるのだから。


 それは人が人である以上、性能の限界と言わざるを得ない領域における、ひとつの真実だ。


 だからこそ多くのエンターティメントでは、キャラクターを単純化し、象徴化し、記号化することで「理解した気になれる」確率を高めているのだろう。オーディエンスを自らどんどんと切り捨てていくなどという、アホらしい愚行を、避けるために。


『どうしました? ラナンキュロア様』


 私もツグミを理解できない。


「……なんでもない」


 今はアチラの魔法の効果がなんとやらで、アチラが動き回っていてもこうして言葉を交わすことができている「この周回の」ツグミのことでさえも、私は「理解した気になれている」だけだ。


 白黒の巨人を撃破した後、一度地下シェルターの近くまで戻り、「ラナンキュロア様がレオ様の声で喋ることがないよう、調整しておきますね」とかなんとかぬかしてから倉庫へ向かった大魔道士様の眷属(けんぞく)のことなど、理解できるはずもない。


 ならばその心から、何かを推し量ろうというのは、なかなかに難しく、大きな危険を孕む行為であるように思える。


「僕はラナの判断を信じる。でも、ラナには、ラナらしく判断してもらいたい」

「……私らしい、判断?」


 そもそも、私もツグミも、それぞれがまさに「不条理小説」の主人公となっていても不思議ではないようなパーソナリティだ。


 私は、前世でもこの世界でも、自己実現を完全に諦めてしまった人間だ。別にそれで、自分が欲の無い控えめな人間であると主張したいわけじゃない。前世の記憶がなかった私は、レオの「成り上がり」に便乗しようと目論んだようだから、私も、私の魂も、そういうのに興味がないわけではないのだろう。


 ただ、今の私は、社会からは追放されつつも、経済的には全く困らないというアンバランスな環境で育ってしまった人間だ。一番近いのはやはり前世におけるひきこもり、(かじ)れる(すね)であるところの親が生きている状態の、それであると思う。


 自己実現をする前に、自己完結が起きてしまっている。私は別に自己実現などしなくとも、他人に認められなくとも、社会からつまはじきにされようとも、人間は生きていけるのだと実感しながら育った人間なのだ。ある意味では恵まれた環境だったとも言える。


 本来であれば自己実現を果たして「大人になる」べきところを、私は甘ったれた子供のまま満たされてしまった。


 この心が、万人に「わかってもらえる」モノであるとは思っていない。


 私自身、声を大にして「わかっている」とは言い切れない。


 私には、自分を追放した社会への復讐、逆襲、反抗の欲求がない。


 そもそも、私が社会から追放……自発的に離れざるを得なかったのは、元を(ただ)せば自身の母親と伯母との、マウント合戦のその結果だ。家族というコミュニティにおいて冷遇されていた伯母が、貴族社会で私のママに復讐をして、逆襲をして、反抗をしてみせた。そうしてその次には、それへの復讐に、逆襲に、私のママが、社交界において伯母よりも優位に立とうと反抗心を燃やしてしまった。


 その結果が、私という存在だ。


 私は、復讐、逆襲、反抗の、平たくいえば「ざまぁ」の終着駅に転がる、忘れ物のような存在だ。


 永久機関ともなれる罅割れ世界の統括者(フィヨルクンニヴ)のそれとは違って、私自身はウロボロスの蛇なんかじゃない。全然違う。自分の尻尾……あるいはへその緒か?……に噛み付いたところでお腹は満たされない。


 私は「真っ当な社会」において自己実現を果たすという「真っ当な人間」には、生まれからなれなかった人間だ。なれないと思ったから諦めた、投げ捨てた。この気持ち、光宙(ぴかちゅう)君とか泡姫(ありえる)ちゃんにはわかりますかね? ABC殺人事件の彼にもわかりますかね? 生まれからもう、ある種の呪いを背負ってしまうことの、重みが。


 そうして、そんなことをしなくともお腹が膨れ、そこそこ快適な生活を送れるという、ある意味においてはふざけた人生を送ってきた人間なのだ、私は。こうして、私が思い出したくもないいくつかの要素をわざと抜かして表現すれば、「楽な人生送ってんな」とも「お前に環境を嘆く資格はない」とも「SHINE」とも思われるような、そのような半生なのではないだろうか、私は。


 いや本当にね? 私に共感してくれる人って、いるんですかね? 大丈夫? これマジで不条理小説になってない?


「ツグミ、に対するラナの態度は、ラナらしくないよ」

「私らしく、ない……」


 そうしてツグミは……そもそもが犬だ。


「ねぇ、ツグミ」

『はーい? うーん、この辺りは鉄が溶けた匂いが濃いですね……』

「今のレオの声って、そっちに届いているの?」

『何がですか?……うーん、でもその割に、人の分泌物(ぶんぴつぶつ)残滓(ざんし)も、濃いような……』


 邪悪であるようには見えないが、人間と同じ価値観を持っているといった感じでもない……いや、こう言い換えよう……真っ当な人間と同じ価値観を持っているとは、思えない。


「聞こえないんだ?」

『レオ様の声でしたら、ええ、かなり聞き取りづらいです。私のこれは、いわゆる心話(テレパシー)に近いモノですから』

「……そっちも、ひとつ制限が外れたらもうなんでもありかい」

『ふぇ?……きゃっ、ぬるっした液体を、踏んでしまいました。血ではないですが……やっぱりこれも、人の分泌物ですね』


 嬉々として、白黒の巨人と肉弾戦を繰り広げた辺りで明確になってきたが、ツグミには、それはそれである種の非人間味を感じる。いやそれで当然なのだけど。


『うーん、ここで何があったのでしょうか』


 何度も言うがツグミは犬だ。お兄ちゃんの盲導犬だ。そういう存在だった亡霊だ。使者であり死者だ。だから真っ当な人間と同じ価値観を持っていろというのは、それこそが人間の傲慢であるともいえる。犬には犬の、盲導犬には盲導犬の、死者には死者の、価値観がある、世界観がある。それは尊重すべきだし、利害さえ衝突しないのであれば、助け合うことも、親しくすることも出来るだろう。


『こっちに、コンラディン様の匂いも、残っていますね』


 ただ……わかり合うことだけは、それらよりずっと難しいことのように思う。


 人間に、犬の気持ちを完全に理解できるような(ブリッジ)などは、なかなかに造れない。猫よりは出来そうな気が……しないでもないが、例えば犬にまつわる結構怖い実話のひとつに、飼い犬は、飼い主が死んだり長時間意識を失ったりすると、その身体を食そうとする場合がある……というものがある。


 飼い主を恨んでいたり、空腹だったりということもなく、良好な関係を築いていた飼い主を、空腹でもないのに食べる犬というのは、実際に数多く報告されている現実(リアル)だ。


 まぁ……これも、フィクションで描いたらリアリティが無いって言われそうな話だ。これに、万人を納得させられるような(ブリッジ)を架けることの出来る創作者はいるだろうか。可愛らしい犬のキャラクターを売りにしていた漫画が、現実(リアル)にあることだからといって、犬が飼い主の死体を貪り食うシーンで終わったらどうなるだろうか。そのあまりの不条理に、理不尽さに……ある種の伝説とはなるのかもしれないが……どうあっても(元々の人気に比例した規模の)炎上は避けられないだろう。元が読者数ヒトケタとかであれば、むしろ炎上狙いでやる価値もあるのだろうが、普通なら絶対に避けるべきやり口だ。


 この一点をとっても、人と犬の間には暗く、深い川が流れていることがわかる。


 私には、ドッグフードをガツガツと食べる犬の気持はわからない。


 私には、ボールなりフライングディスクを投げられたら口でキャッチしたくなる犬の気持もわからない。


 私には、紐付きの状態でも散歩は嬉しいのだという犬の気持ちもわからない。


 私には、街中でおしっこをしたくなる犬の気持ちもわからない。


 まぁ、わかる人もいるんだろうし、そもそも最後のは縄張り行動なのだから、縄張りの拡張に熱心な人……映画館で座席の肘掛けを両方我が物顔で使ってる人とか……には、共感できて当たり前のものだろうとは思うけれど、本日、自分の縄張りが荒らされた瞬間に他国へ逃亡しようとした私には、わかるものでもないとも思っている。


 だから。


 私がツグミへと架けている(ブリッジ)、それは間違いなく「お兄ちゃん」だ。


 それでしかない。


 あのお兄ちゃんに愛されたというなら、あのお兄ちゃんを愛したというなら、お兄ちゃんが私へ寄越(よこ)したというなら、それが邪悪なモノであるはずがないという確信が、私にはある。


 その(ブリッジ)は、少なくともここまでにおいては、石橋のような堅牢さで維持されてきている。確かに、今はコチラの盗撮機能が追いきれず、「うーん、燃焼石の着弾痕、そのすぐ側に槍が床を削った痕がありますね。コンラディン様は、ここで燃焼石に身体を撃ち抜かれたのかもしれません」とかなんとか言っていることだけが聞こえるツグミに対しては、若干のサイコパス味を感じなくもないけれど、だからといってそこに私を騙そうだとか、私を害そうだとか、そうした悪意は微塵も感じられない。


 二周目のツグミも、同じ人格……犬格であるのならば、それが突然に私へ牙を向くという状況は、何も想像できない。


「ねぇツグミ」

『はい? いかがされましたか?』

「二周目のツグミは、ちゃんとツグミだったんだよね?」

『はい?』

「今マイラに入ってるほうのツグミ。偽物だったという可能性は?」

『まさか。魂、情報(データ)誘導体(デリバティブ)の色、形、それが形成する固有結節点(ユニークノード)、その全てが私と同一のモノでしたよ?』

「……解説はもう聞きたくないんだけど、それはどれくらい信頼できる判断材料なの?」

『そうですね……指紋、耳紋(じもん)声紋(せいもん)が全て一致したくらいには、それは同じ存在であると言い切れますよ』

「……」


 その辺って、一卵性の双子であれば一致するモノじゃなかったっけ? いや微妙に違うんだっけ……ホワイダニットの次は双子の入れ替わり問題か、ミステリー談義が続くな。


「ツグミって犬だったんだよね? 犬に双子三つ子は珍しくないって聞くけど、自分によく似た兄弟……姉妹か……に心当たりは?」

『ああ、はい、犬は確かに多産ですが、一卵性の双子、三つ子等は稀なんですよ?』

「そうなの?」

『はい、私が生まれ育った惑星ではそうでしたし、地球でもそうであったと、ナガオナオ様の知識にありました』


 あー、そういえば……犬の一卵性の双子が初めて「発見」されたのは、二十一世紀に入ってからだったんだよ、すごくない?……とかなんとか、そういう雑学をお兄ちゃんに聞いたような記憶が、うっすらと。


「じゃあ、指紋……肉球紋?……耳紋、声紋が完全に一致する犬は、そう多くはないと」

『と、思います。……ラナンキュロア様が懸念されていることは、私も少し思ったことです。ですが……それを肯定できる材料が何も見つかりません』

「……自分でも疑ったんだ?」


 あれは、自分の偽者なんじゃないかって。


『はい……どうしてもその……採った行動が、私には理解できませんでしたから』

「それって、すごく偽者であることを“肯定できる材料”だと思うんだけど……」

『ですが、目的が違えば、採る行動が違ってくるのも当然のこと。私とは違う目的があるのだと、飲み込んではいたのですが……』

「今でも、違和感が拭えない?」

『……』


 あ、黙っちゃった。


 ……そういえば。


 私は、ずっと心に引っかかっていた、少し前にツグミと交わした会話を思い出す。


『魔法は?』

『使えません。ナガオナオ様のアーティファクトを利用してさえ、ここにこうして現界しているだけで精一杯です。無防備な心……眠っている人の心の中に入って会話をするくらいなら可能ですが……ジュベミューワ様のように、既に無意識の本能レベルで私を拒絶してしまっている場合には、それも無理です』


 何が、心に引っかかるんだろうとずっと考えていた。


『ナガオナオ様のアーティファクトを利用してさえ』


 これはいい。「ここにこうして現界しているだけで精一杯」だったのが、さっきは漫画みたいな大魔法を連発していたけれど、アーティファクト……あの赤いローブが直接装備できる、できないはツグミにとって大きかったのだろう。


『無防備な心……眠っている人の心の中に入って会話をするくらいなら可能ですが』


 ツグミはそれを、ジュベミューワに試みたのだという。そうしてジュベミューワを「壊してしまいました」のだと言った。


 確かにここには……それより前の発言と矛盾するところがある。


『ジュベミューワ様の心は、壊れてしまいました。目覚めたジュベミューワ様は灼熱のフリード様を魔法で焼き、現在、ノアステリア様を性的に甚振(いたぶ)りながら、ユーフォミー様、ナッシュ様の目覚めを待っている状態です』


 船室で、身体を輝かせていたツグミが言っていたことだ。


『ユーフォミー様、ナッシュ様の()()()()()()()()()()()です』


『無防備な心……眠っている人の心の中に入って会話をするくらいなら可能』


 ユーフォミーやナッシュさんが「眠っている」のならば、その「心の中に入って会話」して、何かしらの策を授ける……まではいかなくとも、なにかしらの情報収集くらいならできる……なのにツグミはそれをしてない……どうして?


 が、その段階のツグミは、ジュベミューワに同様のことをして失敗した直後だったということになる。単独で同じことをして事態を悪化させるよりは、私達へ助けを求めることを優先したとしてもおかしくはない。


 だからここにも、「ツグミの心理」という点においては特に問題がない。


『既に無意識の本能レベルで私を拒絶してしまっている場合には、それも無理です』


 なら……ここか?


 でも、ここにも別に問題は、無いような……。


「……あれ?」


 いや待て、そうだ、この会話は、今のマイラが、二周目のツグミであることがハッキリする前に……というか直前に交わしていたものだ。


 だからその時には気付かなかった、その違和感が浮かび上がる。


「なら、どうして二周目のツグミは、既にジュベミューワの心が壊れたその後の時点に戻ってきたの?」

「……なにか思いついたの? ラナ」


『無防備な心……眠っている人の心の中に入って会話をするくらいなら可能』

『既に無意識の本能レベルで私を拒絶してしまっている場合には、それも無理』


 もし私が、今のこの状況を、自由に時を遡ってやり直すことができるとするならば、そのリスポーン地点は灼熱のフリード達と出会う前に設定するだろう。そこからじゃないと、この大惨事は覆せない気がする。


 そしてそれは、ジュベミューワの心が壊れる前でもある。


『いかがされましたか? ラナンキュロア様』


 このツグミは、ジュベミューワの心が壊れやすいということを知らずに運命を変えようとした。その結果、ジュベミューワの心を壊して……それがレオの……この大ピンチ……へと繋がってしまっている。


 なぜそれをやり直そうとしない?


 なぜ最善と思われるその道を選ばない?


「二周目のツグミは……レオがこうなることを……望んでいた?」

「え?」


 ぽつり、呟き……ゾッとする。


 二周目のツグミが敵か味方か……その答えが……出たような気がしたからだ。


 それは私の心を、どうしてか酷く不安にさせる仮説だった。


 それは私の心の、どこか禁忌へと触れるものでもあった。


「ねぇ、ツグミ……二周目のツグミが初めてあなたの前に姿を現したのは、いつ?」

『え?……』


 位置修正が上手くいき、罅割れ世界の統括者(フィヨルクンニヴ)の大画面に再び映ったツグミの顔は、美少女がポカンと口を開けてあさっての方向を見ているという、なかなかにレアなものだった。


 そういえばレオは、あれだけ綺麗な、美しい、可愛らしい、美少女を見ても、その感想の類を特に何も言っていない。簡単な感嘆の声すらあげていない。……()(ふち)(ひん)しているのだから、それどころではないのだろうけど……もしかしたら私に何か気を使っているのかもしれない。……いいや、そんなこと、今考えることでは、ない。


『私が、ジュベミューワ様に拒絶されて……一旦(いったん)幽河鉄道(ゆうがてつどう)に戻った時です。その時にはもう、二周目の……私?……は、マイラの身体に入っていました』


 やっぱり。


 再び私は、ツグミとの会話を(さかのぼ)る。


『ですが逆行可能な地点は、ある程度以上、ラナンキュロア様の意識が希薄だった時間に限られます。頭を打って昏倒しているなどの時があれば最も良いのですが……直近であれば……およそ四年前ですね。引き籠って、不規則な生活の中、十時間ほど夢も見ずに爆睡していたその日の、その地点であれば戻れます』


 この制限は、あくまで「私を起点とした逆行の制限」だ。


 なるほど、幽河鉄道(ゆうがてつどう)は現在(というのが時空間のどのような状態を表しているのか、私にはわからないが)、私専用の機構(システム)になっているのかもしれない。


 しかし二周目のツグミがいる以上、その操縦士であるツグミにも出来るのだ、時の逆行は。因果干渉率がどうとかの制限はあるようだが、できることに変わりはない。


 それなのに、どうしてやり直しが、ジュベミューワの心が壊れたその直後、そこからなんだ。


Why (ホワイ)done it?(ダニット)。二周目のツグミは何を考えていたのでしょうか?」

「ん……どうしたの? ラナ」

「ミステリーにおいてなぜやったのか?(ホワイダニット)は、一段地位の低い、扱いの少ない、重視されないモノ……だから多くのミステリーでは、誰がやったか?(フーダニット)が破られた後の、犯人自身に吐露(とろ)してもらう手法を採っている」


 平成の二時間ドラマなら、海の見える崖の上で、お涙頂戴の、お約束の場面だ。


「ねぇツグミ、二周目のツグミを捕まえたいんだけど、協力してくれる?」

『……それは』


 (ひと)他人(ひと)の心を理解できない。


 だから読者(オーディエンス)を理解、できた気にさせるため、ミステリーはそのような手法を多用する。犯人が自白したのなら、作者がそう提示したのなら、それが真実なのだろうと納得してもらうために。


「探知魔法とかないの? 今朝までは、そんな魔法があったらやだなぁって考えていたけど、今はそれが凄く欲しい気分」


 現実(リアル)においては、自白を額面通りに信じることほど危険なものはない。色々な意味で。


『ですが、レオ様がそこから動けない以上、ラナンキュロア様も動けないのでは?』

「ああ、それは……」


 問題ない、が……それを()()ツグミへ教えてしまって良いのか、という疑念が私に湧く。二周目のツグミは敵「であるような気がする」……ならこのツグミも……と考えてしまったからだ。


『どう、されましたか?』


 これは……賭けか。


 またしても、賭けなければいけないのか、私は。


 これは実験も実証もしていない罅割れ世界の統括者(フィヨルクンニヴ)最大の禁忌。私の脳内と、それを話したレオの頭の中だけにある仮説だ。


 仮説だけど、要素要素の実験と実証は終わっている。「1+1=2」と同じくらいには、間違いようのない計算結果が得られると、私は思っている。


 それは、世界を壊す、壊すことのできる計算式だ。


 ならばこそ私はそれを禁忌とした。


 私はレオのいる世界を壊したくなかった。だからそれを禁忌とした。


 けど、この状況なら、私はいつでもそのカードを切れる。私は、世界なんかよりもレオの方が大事だからだ。今、この状況でそれを切っていないのは、それが直接的には、レオの生存に結びつかないからだ。それはそうだろう、世界を壊しかねない計算結果が、どう人を救うというのか。


 いわゆる「ゼロ周目」において、沖を漂っていたという私達。その状況も、このカードでは打破できない。救助救出救命において使える計算結果ではないのだ、これは。


 だけど今、私達がこの場から移動可能になるという結果は生む。多少……天動説と地動説くらいには因果の逆転した結論だが、得られる結果はその通りだ。


 それは簡単な話だ。


 重力の通過を遮断すれば、罅割れ世界の統括者(フィヨルクンニヴ)内に無重力状態を生むのが容易(たやす)いように。私にお兄ちゃんくらいの理系知識があったならば、中性子だかプラズマだかを操作して、罅割れ世界の統括者(フィヨルクンニヴ)内に原子炉なり核融合炉なりを再現することも容易だっただろうになぁ……というくらい、簡単に。


 そもそも、自転し公転する惑星の上にあって、空間支配系魔法はなぜ最初に発動させたその場所だけを「支配」し続けるのか。大地は動いている、この星は動いている。それが止まって見えるのは、私達がその上に立って生活をしているからだ。偉大なる先人達が、敢えて(あげつら)わなかった問題だ。


 高速で回転する機構(システム)に組み込まれている者は、自分自身が高速で動かされているということにも気付かない。相対的に動いて見える星々こそが動いてるのだと錯覚をして、その一生を重力に縛られながら生きていく。真実へと渡る(ブリッジ)にも、見て見ないフリをして。そういう社会が、地球にもあった。お兄ちゃんがよく言っていたことだ、僕達は止まっていても、動いているのだと。


 罅割れ世界の統括者(フィヨルクンニヴ)で切り取った空間、それもまた、一見その場で止まっているように見えるとしても、宇宙的に見れば当然のごとく「移動し続けている」……そう考えるのが妥当だ。落下するリンゴを見たニュートンのように、それに気付き、パラダイムシフトを起こせるなら、世界を滅ぼせるというその仮説の意味も、私達がこの場から動くことが可能になるというその理由も、簡単に見えてくる。


 科学が、旧来の世界を壊してきたように。


 進歩が、世界を動かしてきたように。


 物理法則そのものへ首輪をつけ、飼うかのような罅割れ世界の統括者(フィヨルクンニヴ)は、その生殺与奪(せいさつよだつ)(けん)を常に握っているともいえるのだ。


「けど……それは……二周目のツグミを発見してから考えればいい。ねぇツグミ、この……心話(テレパシー)、だっけ? これはどれくらい離れても平気なの?」


 だから、私はここではまだ「賭けない」ことを選んだ。


 ツグミ単体で二周目のツグミを探してもらい、連れてきてもらう。とりあえずはそれで行ってもらうことを、私は選ぶ。


『物理法則が完全に異なる空間に隔てられなければ、平気ですよ』

「……それは罅割れ世界の統括者(フィヨルクンニヴ)で、この会話を遮断することも可能って意味?」

『え? ああ、ええ、そうですね……この惑星は、所々に天然の流体断層(ポタモクレヴァス)が存在する環境なので、それに邪魔される可能性はありますが……ここから王都リグラエルくらいの距離でしたら、問題ないと思います』


 それなら。


「なら、ツグミには気が向かないことかもしれないけど、ひとつやってもらいたいことがあるんだけど」

『はい。どういったことでしょうか?』


『無防備な心……眠っている人の心の中に入って会話をするくらいなら可能』


 大は小を兼ねる。犬のツグミにそれができたというなら、お兄ちゃんのアーティファクトを装備してパワーアップした美少女のツグミに、それができないわけもないだろう。今までは燃焼石の大爆発が目の前に迫っていたり、ジュベが現れたり、レオが……それどころではなかったが……今この段階においては、それは試みるに足る手段だ。


「ユーフォミーってまだ気を失ってる状態? だったら、その心に、心の中にアクセスしてみてほしいんだけど」

『……』

「黙らない。気が向かないならちゃんとそう言って」

『いえ……その……』

「なに?」




『いえ、その……実はその手段は、何度か試みているのですが……』




「……え?」




『アクセスが(ことごと)くキャンセルされています……おそらく、ラナンキュロア様が言われるところの二周目の私が、私と、同じ色と形の可動子指(dactyl)不動母指(pollex)を使い、ユーフォミー様の魂をガッチリとホールドしているため、できないんだと思います』




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