epis50 : NightmaRe:STYX HELIX
<はじまりの千速継笑視点>
肉の苦痛は消え去った。
だけど、いまだ消えぬ幻の痛みがピリピリと、身体中のあちこちを痛めつけてきていて、熱を失った幻の身体からはだけど何か臭いが、幻であろう腐水のような臭いが、つんと立ち昇ってきている……そんな感覚がある。
死んでさえ汚い、おぞましく穢れた自分。
「くぅん」
だから、そんな私に対峙する、目の前の可愛らしい「それ」は、唾棄したくなるほどに疎ましく思えて仕方無かった。
「お兄ちゃんが偉大なる魔法使い? どういうこと?」
「ナオ様は……」
それは、美しい毛並みの犬だった。
英国ゴールデンレトリバー。
全身が白銀のように、白金のように柔く光る、新雪のように白く穢れなき犬。
顔付きはひどく理知的で、その黒い瞳は理性的で、全体としてノーブルな雰囲気を放っていて、それなのに垂れ耳には愛嬌があって。
「ナオ様は……ふふっ」
犬なのに、喋るその声も、ハチミツとバターをたっぷり乗せたふわふわのホットケーキのように甘く、しっとりとしている。
「前世、千速継笑様のお兄様であられたナオ様は、第二類魔法構造学の進化と進歩を、おひとりで百年は早めたとも謳われた、魔法学界の偉大なる革命児だったのですよ?」
もっとも、その言っている内容は、ヘドロのように穢れた私には全く理解できなかったけれども。
「え?……は?……えぇ?……第二類、魔法構造学?」
「ナオ様と私が生を受けた惑星では、世界の在り様を探求する魔法学の進歩が、空子の“魔法学的発見”へと繋がりました。後にナオ様はこれを、地球における原子の“科学的発見”に、似ていたのではないかと語っていました。我々は、原子を発見する前にダークマターや重力子、マヨラナフェルミオンを“発見”してしまったようなものだ……とも」
「……なんの、話?」
「地球においては、人の身における“観測者の限界”を、観察者効果、不確定性原理などと表現するのだと伺っています。私達の世界においては、魔法がこの限界を突破したのです。量子力学の世界においては、通常の物理法則は通用しませんが、これはつまり、そこにおいては、人が五感で“観測できない何か”が強く影響しているということです。五感にしか頼れないのであれば、量子より先、”その先の世界”の“観測”は、光によって浮かびあがるそのモノの正しい形ではなく、その影を追うことにのみ終始せざるを得なくなります。それは、人の手がキツネやカニに見えたりする世界、正方形が六角形に見えたりもする世界です」
「だからなんの話よぉ!?」
「ですが、五感で“観測できない”のであれば、人が五感を超えた“観測器”を具えればいい……そうは、思いませんか?……これが電子顕微鏡なり、スーパーカミオカンデなりによって”その先の世界”を知ろうとした地球と、ナオ様と私達の惑星との、違いでした。ナオ様は“見ること”の代替として“観ること”ができるようになりました。これは魔法的に取得した周辺の“世界の情報”を、脳へ直接送り、その像を頭の中に浮かび上がらせるという技術です。“人体の観測器拡張計画”を推進しようとしたイデア派の“発明”した、魔法の技術です……これは、ナガオナオ様が辿った、道筋の話なのですよ、千速継笑様」
「だったらもっと私が理解できるように喋ってよ!!」
犬は、時折困ったように軽く首を傾げる。
それはどこか、この汚れた自分を莫迦にされているみたいで、酷く私の癇に障る仕草だった。
「では……原子の“科学的発見”は、地球において原子爆弾、水素爆弾等の“核兵器の発明”に繋がり、それが長きに渡る冷戦の時代を生み出したのだと伺っています。空子、そして準空子の“魔法学的発見”は、ナオ様の世界においても同様に作用したのです。魔法は、ナオ様のその時代に、人類そのものを一瞬にして滅ぼせる、その領域に達してしまったのです」
「……は」
「その先においては、地球における核技術と同様に、魔法もまた国家および国連機構による監視、監督を受けるようになり、厳重に管理されるモノとなりました。そこにおいて個人の魔法使いは、もはや悪でしかなかったのです。ナガオナオ様は偉大なる魔法使いであり、国家の、世界の超重要機密を知る、魔法工学者でもありました。地球においても、ある程度科学に詳しくなれば爆弾を、工学に詳しくなれば銃器を、兵器を造れるようになるでしょう? “技術”とは、その気になれば、それはいくらでも人を不幸にし、殺してしまえるモノなのです」
「……ははっ……なにしてんのよ、お兄ちゃん」
「魔法を使えない、大多数の人々にとってそれは、いくらその恩恵に与り、豊かな生活を謳歌していようとも、不気味で、よくわからないナニカで、遠ざけてしまいたくて、関わりたくない、つまりは“悪”と何も変わらないナニカなのです。ナガオナオ様が、偉大なる魔法使いが、どういったものかを考えるのであれば……そうですね、地球におけるノーベル、ノイマン、フェルミといった、功罪ともに著しい科学者、数学者、物理学者等を想像すればよろしいのではないかと」
ダイナマイトを発明して巨万の富を築き、その罪滅ぼしにノーベル賞を設立したノーベル、ね……それはもう、なんかもう、凄すぎてまるでピンとこない。きてくれやしない。
本当にもう、なにもかもが私を莫迦にしているみたいだ。
お兄ちゃんがそんな風に生きたというなら、地球に生き残って、だけどあまりにもみすぼらしく死んでしまった私はなんだというのか。
「……だったら」
「千速継笑様?」
「私に力をくれるって言ったよね!? だったら! あたしにその“人類そのものを一瞬にして滅ぼせる”って魔法!? 頂戴!! あたしは滅ぼしたい! 滅ぼしたいよ!! 人類なんて!! あんな……あんな醜くて莫迦で、その莫迦さ加減をこれっぽっちも恥じてなくて! 人の不幸は蜜の味で! その蜜に集るアリみたいに矮小で猥雑で! 尊厳なんかなくて! そんな幻想は嘲笑うだけのモノでしかなくて! 嘲笑われる方は際限なく堕ちていくしかなくて! そんなのが! あんなにも多く現れるのが人類なら! そんなのは滅べ! 滅んでしまってよぉ!!」
私の心は、どこまでも醜く濁っている。
辛苦に朦朧とする意識の中、汚濁に埋もれて息すらもできなかったその記憶が、罅割れた心の裡に飛び飛びのまま、バラバラの状態で無秩序に、砕け散ったガラスの破片のように、転がっている。
鋭利な切り口をそのままに、今もあたしへと向けながら。
「……できません、核兵器のようなエピスなど、私は持っていないのですから。それに……私は、千速継笑様を幸せにするために、ここへ遣わされたのです。ですから、千速継笑様に、不幸せになるような未来は、選んでほしくありません」
美しい犬は、だから、私にとって、どこまでも憎たらしい存在だった。
「なんでよ! どうしてよ! なんでなのよ!?」
「きゃうっ!?」
だから蹴る。
せめて切り口が自分自身へと向かないように。
「きゃうんっ……きゃぅーん……」
蹴って蹴って、蹴りまくる。
醜く砕け散った自分の前に、整い、完璧に秩序だった美しさが、可愛らしさがそこにあることがどうしても許せなくて。
「気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪いっ!」
毛皮越しに、蠢く肉の感触がある。
人間のモノよりも細い骨が、軋んでいる音がする。
悪夢のように生々しいその存在感は、私を不快にして、あたしに吐き気を催させる。
アバラが浮き、長い毛の生えたその腹を見せ、犬はこちらを悲しそうな目で見ている。
そこに、痛みに耐える苦悶の表情はない。
そのことに、無性に腹が立つ。
わかっている。
「なんでよ! なんでなのよ! どうしてなのよ!」
今は私が蹴っているのだから、加害者は私だ。
そのはずだ。
もうあの檻には、戻りたくない。
どこまでもどこまでも傷付けられ、逃げられず、奪われ、汚され、泣くことを、叫ぶことを、屈服することを、媚びることを、嘲笑われることを、そんな何者へも何物にも如何な良い影響をも与えぬ苦痛に耐えることを、無為の時間に囚われることを、無意味に、無価値に強要されて、この世全ての穢れを延々と押し付けられる……あの檻には。
「きゃぅっ」
だから蹴る。
穢れた肉の世界から解放された今、そこへはもう戻りたくないから蹴る。
そこに因果関係などない。
もう、理路整然とした理屈など、あるわけがない。
私の中にあった秩序「的なモノ」は、もう全部壊れている。
バラバラのピースでしかないのだから、無関係なピースが隣り合い、結びつくこともあるだろう。それが罅割れてしまった世界の特質、それこそが壊れてしまった世界の属性、プロパティ。
Aの隣がBではない世界。
一足す一が二ではない世界。
長い苦痛の先が破壊衝動に繋がっている世界。
可愛らしい犬を見れば、その内蔵を引きずり出してやりたいと思う世界。
あたしが壊れて欲しいと熱烈に願う世界。
自覚する。
私はもう、本当に芯から罅割れ、壊れてしまっている。
だから。
「消えてよ! 全部全部消えてよ!」
蹴るしかない。そんな風にしか、もういられない。
「どうして消えてくれないのよ! どうして壊れないのよ!!」
だけどもう、肉の世界はとっくに終わっていて。
この世界はやはり理不尽で。
私が壊れたようには、目の前の小さな身体は壊れない。
白銀の、白金の身体は壊れてくれない。
本当に、この犬はどこまでもあたしを莫迦にしている。
「壊れてよ! 血を流してよ! 傷付いてよ!!」
そのことが、まるで自分だけが特別、苦しまなければいけない存在だったとでも告げられているかのようで、理不尽で、不公平で、最期には被害者意識に染まらなければ息をすることもできなかった人生が、本当に無価値であったと思い知らされるかのようで。
「きゃうっ」
ただ、反応のない肉を、もう一度だけ蹴る。
「ううっ……ううう……」
どこまで行っても、私は無意味で無価値だった。
加害者となってさえ、何も壊せない、何も傷付けられない。
「……くぅん?」
疲れた。
「なんでよ……なんでなのよ……」
こんなのは徒労だ。
何の意味もない。
私という人間に意味がないのだから、私がすることには何の意味もないのだ。
「くぅん……」
蹴ることをやめても、犬はまだあたしに腹を見せている。
だけど。
「……ビッチの天使様はビッチってこと? 皮肉が利いてていいじゃない」
それに、臭いは感じられない。
この無抵抗な犬は、牝犬だ。
「……あ」
そのことにより、私の中で何かがひっくり返る。
「あああぁぁぁ……」
無抵抗の存在へ、私は今何をしていた?
無抵抗に、その白い腹を見せ、暴虐を、残虐を、苛虐を、加虐を、悪逆を、蛮行を……受け入れ。
世界でもっとも醜悪な何かに身を委ねる存在へ、あたしは。
「いやあああぁぁぁ!!」
あの男達と同じことをしていた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁん!!」
Aの隣がBではない私。
一足す一が二ではないあたし。
破壊衝動の先は、悶え苦しむしかない猛烈な罪悪感へと繋がっていた。
「こんなのは違う! 違うよぉぉぉ……」
滅茶苦茶だ。
こんなのはもう、なにもかもが滅茶苦茶だ。
「大丈夫ですか?」
何事も無かったかのように、犬はお腹を見せた状態からくるんと回転する。
そうしてから、前足を曲げたままお尻を上げ、もっさもっさと尻尾を振った。
「エピスデブリの状態から、千速継笑様が酷い状況にあることは承知しておりました。一類の
エピスデブリが十八個、二類が五十七個、三類に至ってはもはや数え切れません。お辛かったことでしょう、苦しかったことでしょう。全てが終わった今も、魂がその状態では、理性あるそのことがまるで拷問のようにも感じられることでしょう」
「なんでよ……なんでなのよ……どうしてなのよ……あなたは何なのよ……」
「ですが、このままで転生された場合、おそらくは長く生きれないか、大悪人となるか、知らず、悲劇を再生産するだけの人生となるか、そうした可能性が、非常に高くなってしまいます。これは記憶を失っての転生であっても同様です。魂に傷が付いている、魂が汚染されていることに、変わりはないのですから」
「記憶を失っての転生であっても……記憶を失っても?……」
本当に何事も無かったかのようなその様子に、涙も勢いを失くしてしまう。
罪悪感はある。蹴った感触は、幻であるはずのこの身体に、足に、残っている。
「はい。エピスデブリは魂そのものに刻まれた傷、記憶を失っても、その影響は残ります」
「魂……」
だけど、あたしのその狂態を、あまりにも無視し、スルーし、見なかったことにしてマイペースで話を続ける目の前の白い犬に、私の感情は、波打つのを少しづつやめていった。
「魂とは、平たくいってしまえば情報誘導体の群体です。知性体の知性と理性と個性は、それがどう結びつくかによって変化します。どう結びつくかについては、人間であれば親がどのような人間であったかであるとか、教育がどのようなものであったかといった、いわゆる成育史に大きな影響を受けますが、魂そのものにも傾向が無いわけではないのです。傷だらけの魂は、そうでないものよりも、あらゆることに辛さを多く、過剰に感じてしまうようです。汚染された魂は、そうでないものよりも自分自身に価値を感じにくく、喜びに鈍感で、幸せを得られにくくなるようです。千速継笑様の魂の状態は……ありていに言って最悪に近い状態です。これでは、よほどのことがない限りは、悪循環から抜け出せなくなります」
「魂の傷、汚れって……宗教みたいな話じゃない。なに? 壺でも買えって言うの? い、今のあたしは、ろ、六文銭すら持っていないみたいだけど」
もはや、あまりにも理解できない話に、どこか狂的な可笑しささえ感じてしまう。
本当にこの私を救ってくれるなら、全財産をはたいてでも神に祈りたい。
だけどそんな奇跡は起きない。
祈り、懇願して、あらゆるモノへ泣いて縋って、その全てが無意味のまま死んでしまった私という人間には、もはや何の奇跡も起きない。起きたとしても手遅れだ。
「イワシの頭も信心から、でしたか? それがいい結果をもたらすこともあるのでしょうが……多くの場合、それは無意味であり、それどころかより悪い結果をもたらすことが多いというのも、千速継笑様にはご理解いただけるかと存じます」
「そう、ね、存じていますよ、おりますよ」
――お世話になっております。天界の神です。
――このたびは当方を信仰いただき、真に有り難う御座いました。
――今回の救済依頼についてですが、慎重に検討した結果、ご希望に添いかねることとなりました。大変恐縮ですが、どうかご理解頂けるよう宜しくお願い致します
――これまでの懸命なる献身に、改めて御礼を申し上げますと共に、今後もより一層、当方へのご祈祷に励まれることをお祈り申し上げる次第です。
……どうせ神様なんて、祈りなんて、そのようなモノでしかない。
他に何も方法が無い時、それくらいしかやれることがなくて、どうしようもないから祈る。
苦しい時の神頼み。
それは希望ではない、おそらくは絶望ですらない。
それは、心と身体が他に何もできない状態の時、全く無意味に現れる幻で。
つまりは、悪夢のようなモノだから。
「なら、犬の天使様は、どう私を救ってくれるっていうの?」
この夢も、だからきっと祈りのように無意味なのだ。
心はもう水泡のように頼りなくて。
理性はもう重石に抱いて海の底で。
身体は朦朧とする視界に倒れ込み。
存在の全てが粘性の不快に齧られて混濁し混迷し迷走し停滞し彷徨って。
どこへも行くアテが無くまだ自分がここにいるという責め苦にぐにょり顔を顰めながら泣いて、叫び、哭いて。
「こんなもう、救いようのないアタシを! どう私を救ってくれるっていうの!?」
袋小路の隘路で叫びながら瞳を閉じてただ想うは死か救い□流れ出る涙はでもただ醜いだけで□美しい物語のようにはそれは何も変えられない□望んだのは何だったのか遡及追求迷宮号泣□たぶん生きたくて□でも苦しいから殺してほしいと願っていた□それは矛盾しない絶望と希望の合わせ鏡□どんなに叫んでも捻られて血を流し□ケダモノの愚行にほらまた掴まれる□囚われる堕とされる□殺したい殺せ殺してしまえ□苦爪楽髪その爪で傷つけて殺せ□この身は硬直苦渋は膨張□ああ殺したい殺してしまいたい□懐抱せし希望はどこまでも悪意と蛮行に褫奪され□恥辱で血塗られて□だけど復讐の時は無く□殺意はその機を逸して奥へ奥へと沈殿□嗚呼殺したい殺したいだから死ね□だけど汚水に浸食されてそれも窒息□圧搾され圧迫されてまたぺちゃんこ□果ては諦観に変質して玄室に鎮座する□もう終わりたい終わらせて□どうかこの苦しみに終末を□でも届かないどうしても届かない□どんなにどのようにどれほどどれだけ祈っても願っても□醜い涙を□汚れきった涙を□恒河沙を全て汚染するほどに流しても届かない□救えない掬えない救われることもない疲労困憊の魂魄は□息苦しく生き苦しく□見苦しくも呪言を吐いては跳ね返り□ただ被害者意識と自己嫌悪だけが舳艫相銜んで□胸郭を錯綜して串刺しの刑□痛いというよりは苦しい□息苦しい□死ぬほどの苦しみに死ぬこともできずのたうち回り□存在の意味は腐食して舫なく帰り着くべき場所も見失って□だからもう死にたい□死ねばいい□この苦しみにどうか終末を□それでもそんな終わりは嫌でやっぱりまだ生きたくて□だけどもうおそらく先は長くなくて□生き残っても自分にはもう醜い汚濁しかなくて□苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて。
苦しんで死んで。
罅割れ、バラバラに壊れてしまって。
どうしたいのか、壊したいのか、救われたいのか、殺したいのか、残留する痛苦を全て消したいのか、それとも見える全てのものに消えてもらいたいのか。
なにもかもわからなくて。
あたしにはもう、そんな分裂した混沌しか、残っていない。
「それは、私の魔法、ヴォルヴァと、幽河鉄道の合わせ技となるのですが……」
<ラナ視点>
「ラナンキュロア様……申し訳ありません、私、ジュベミューワ様を……ジュベ様を、壊してしまいました」
「……何をしたのよ?」
「ラナ!?」
「レオ、この犬はモンスターでも、切り捨てるべき敵でもないの。味方かどうかは知らないけど、とりあえず私は、コイツの話を聞きたい」
「知り合い……なの?」
怪訝そうな顔のレオに、大丈夫だからと頷き、私は顎をしゃくって輝く犬へ、テーブルに乗るよう促した。
察しがいいのか、犬はすぐにぴょんと跳ぶ。
「ひさし、ぶりね、ツグミ」
「はい、お久しぶりです、ラナンキュロア様」
「ラナンキュロア様、ね」
私はそう、私も昔はツグミだった。だけどその意識は、完全にもう薄れてしまっている。
私はもう、千速継笑様と呼ばれても、それを自分のこととは、思えないのかもしれない。
完全に、消えたわけじゃない。今もレオ以外の男性は怖いし、臭いのは嫌いだ。
お兄ちゃんのことを思うと、自分は何もできなかったという想いと、黙って逝ったことへの腹立たしさと、心にぽっかりと空いた穴を自覚させられるけど。
だけど私はもうラナンキュロアだ。レオが優しく、時に意地悪に、時に嬉しそうに、時にイタズラに、時になんでもないことのようにラナと呼ぶ、私だ。
「本当に、私のこと、ずっと見守っていたんだ?」
「ずっと、というと語弊があるのかもしれませんね、私自身が見守っていられたのは、マイラへ魂の連結魔法、スピリットリンクを使っていた時間だけです。それでさえ幽河鉄道のフィルターによって、中断されてしまったこともありました」
「マイラへ魂の連結魔法……だって?」
マイラへ魔法を使われたと聞いたレオの顔が、険しくなる。
「マイラに何をした!?」
「落ち着いてください、レオ様。レオ・フィベサッファ・コーニャソーハ様」
「フィベサ……なんだって?」
「……ちょっと待って、コーニャソーハって……王国の伯爵家のひとつじゃない」
伯爵家というか、辺境伯だけど。領地が西の同盟国と国境を面していて、血筋的には尚武の気風で知られる王国きっての武闘派……だったような。
「はい、レオ様は、当代のコーニャソーハ伯爵が大番役で王都に駐留していた際、不夜城の女性と結ばれ、産ませた子供です」
「……伯爵家の、私生児」
思わず、レオの、その顔を見てしまう。
「……なに?」
そっかぁ、それでこのビジュアルかぁ。
貴族が、おそらくは容姿優れた娼婦を孕ませ、産ませたわけか。
どっちに似たのかは知らないけど……確かにね、ずっとノーブルな雰囲気の美形だなぁと思っていましたよ、ええ。
「なんでもない。まぁ、レオの出自がなんだとかは、もうどうでもいいけど……」
「まぁ……僕も今更そこは、どうでもいいけど」
今更、私達に貴種流離譚であるとか、醜いアヒルの子であるとか、そういう物語が始まるはずもない。レオは自分を捨てた親への執着が薄い。気にならないかと聞いてみたこともあるが、それへの答えは「どうでもいいかな」だった。そんなことよりラナとのこれからが大事だとも。
「今はそれよりも、マイラのことだ」
この辺りは、親への複雑な気持ちを捨てられない私とは違って、男の子だなぁと思った部分ではある。もっとも、そこに性差は、もしかしたら無いのかもしれないけど。私がマリマーネのことをいえないくらい、ドライではなくウェットな人間だってだけで。
「レオ・フィベサッファ・コーニャソーハ様、確かに私は、マイラを利用していました」
「ん……」
「ですがそれは、マイラとの契約でもあったのです。ご覧の通り、私も犬の身、犬の気持ちは、人が人の気持ちを理解できる程度にはわかります。けして一方的に騙し、利用したわけではないのです」
「マイラと、契約ぅ?」
犬の世界にも、商取引とかあるのですか?
「はい。私は、御主人様より犬の寿命を延ばす魔法を授かっております。これにより、マイラの肉体年齢は通常であれば十六歳のところ、まだ五歳か六歳程度のコンディションです。長生きはマイラの望みでしたし、私が奪ってしまう分の時間を与えられるのですから、これに越したことはありませんでした。それと……」
「マイラって私と同じ年齢だったんだ……って、え、何? まだあるの?」
「はい。陽の波動というエピスも与えてあります」
「陽の波動ぅ? オーラってこと?」
そういえばいつだったか、アイツなんか人に好かれるようなヤバイ波動でも出しているの? と思ったこともあったような、なかったような。
「簡単に言えば、エピスデブリの逆の作用を持つエピスです。エピスデブリは存在するだけで魂を傷付け、汚染しますが、陽の波動は存在するだけで魂を癒し、清めてくれます。実際に、肉体的な意味でもこのエピスは、持っているだけでかなり健康になれます。また、これは本人だけでなく周辺の魂にも影響を及ぼすので、マイラ本人の幸せのみならず、その近くで生きる全ての人に恩恵があります」
ですから、鋏挿摘出しきれないエピスデブリを持つラナンキュロア様の、その傍にあるのならばそれは、一石二鳥の効果が期待されたのですが……云々。
うーむ……。
「マイラが妙に人に好かれるのも、そのせい?」
「そうですね。私がマイラに与えられたのは、ナガオナオ様が得た原典のそれよりも、遥かに効果が薄いモノですから、犬が嫌いという人を無理矢理好きにさせるような効果はありません。ですが、元々犬が嫌いではなく、むしろ好きという相手にならば、普通よりも少し好かれる程度の効果は期待できます。人は闇を怖れるもの、温かな光の波動を感じれば、それへ好感を抱くというのは生物としての本能ですから」
「……じゃあ、夜行性の生き物には嫌われたりも?」
「そうですね。ノミやダニ、病原菌なども光を嫌いますから、それらへの抵抗も増します」
……もしかして、マイラのことがあまり好きでない私って、夜行性の生き物だったのかな?
……ノミやダニ、菌とかと一緒って思うと……なんだか不愉快な気がしないでもないけど。
「ナガオナオ様が得た原典のそれを持っていた女性は、人の身でありながらもナガオナオ様より長生きをされたようですよ。幽河鉄道を使い、観測したところ、数百歳を超えてもなお若々しい姿のままで、子や孫に囲まれ幸せそうにしていたとのことです。ナガオナオ様も、あの人は、どれだけ長生きが好きなんだと笑っていました」
それは、つまり。
「それ自体にも、長生き効果があるってことね?」
「はい。マイラは取引を持ちかけた私へ、長く、元気に生きたいという希望を告げました。私はそれを叶え、マイラの健康寿命を三倍から四倍に延ばし、その代わりにマイラの視界と、時に肉体そのものの操作を、借り受ける契約を交わしたのです」
「肉体そのものの操作、だって?」
「はい。ラナンキュロア様がレオ様と出会ってからは、二割近くの時間、私がマイラでした」
「な……」
レオが絶句する。
レオはマイラを気に入っていた。
人へのそれとはまた違うチャンネルで、マイラのことを愛していたんだとも思う。
そうして愛したマイラの二割が、目の前のこの犬だったというのだから、その衝撃は、その心的動揺には、計り知れないものがあろう。
「なるほどね。道理で、犬にしては人間みたいな反応が多すぎると思っていたんだ」
ただ、私は自分でもビックリするほどそれに驚いていなかった。
なにかしらの不快も、特には感じない。
「……マイラの二割が、お前?」
「寝ている時間を別にすれば、半分くらいが私でした」
「そういえば犬って一日を半分以上、寝て過ごしているもんね……」
「混乱してきた……いや、それでも半分のマイラはマイラだから……そうだ、本物のマイラはどこだ? お前よりもでっかい、あのマイラはどこへ?」
「そう、それにぶっそうなこと、言ってたよね? ジュベ様を壊してしまったとか、どうとかって」
これは凶悪な力を持った犬畜生だけど、それはあたしの嫌悪感が、劣等感が、僻みが、嫉妬が、そう感じさせているというだけのことだ。
お兄ちゃんを愛し、お兄ちゃんに愛された盲導犬なのだから、行いが悪になることはあっても基本的には善性の存在であるはずだ。その信頼は、私という人間に今も残されている。
お兄ちゃんは普通の人だった。
聖人君子みたいに、簡単に自己犠牲を差し出すような、そんな人間ではなかった。
ワガママで堪え性が無かった小さい頃の千速継笑に眉を顰め、悪態をつきながらも、最後には諸々を妹へ譲ってくれるような、そんなお兄ちゃんだったんだ。
特撮ヒーローよりも、少年マンガの主人公よりも、理科や科学、数学の話が大好きで、ゲームが好きで、ゼ●ダが好きで、マ●オが好きで、ス●ブラは……私とやるのはあまり好きじゃなかったみたいだけど……それはちょっと小憎らしいほどに頭がいいだけの……時折図書館で禁帯出指定のニュー●ン最新号を好んで読んだり、難しい本を借りてきたりもする……ただの小学生だった。
この犬を私へ遣わせたのだって、きっと何か、お兄ちゃん自身の都合が含まれている。かつての妹を見捨てられないという感情的な都合もあるのだろうけど……でも、それ以外もきっとある。
それは、それでいい。
その、それがいい。
あたしが失って、嘆いたのは、お兄ちゃんのその「普通」だ。
千速継笑は「普通」を失った。両親も「普通」ではなくなってしまった。少なくとも千速継笑にとっては。
頭が良かった兄に、期待していた両親はそれを千速継笑にも求めた。
千速継笑に、千速長生であることを求めた。
千速継笑は中学受験をし、それに失敗し、公立の中学へ入った。
すると、友達を持つことを禁止された。
公立の小、中学というのは大部分が頭の悪い人間の集まりだから、そんなところで友達を作ったら人間の質が落ちてしまう、だから友達を作るのは一流の高校に入ってからだと言われた。
言われるだけじゃなく、行動にも移された。
スマホを監視され、同じ学校の人間と思われる相手には電話をかけられ、メッセージを送られ、ウチの娘は一流の高校に入って一流の人生を送る人間だから貴様らみたいなクズと付き合ってる暇はねーんだよと、そういう内容のことを婉曲な表現で伝えられた。
頭のおかしい親を持つ子供。
千速継笑の中学における立ち位置は、扱いは、つまりそういうものだった。
それこそ、付き合ってる暇はねークズだ、危険物だ。
千速継笑も、それを受け入れた。
元々、人付き合いは好きじゃなかった。ワガママで甘ったれで、自分の意に沿わぬことはなかなか譲ろうとしない、頑なな人間だった。
それが、甘えさせてくれた存在を失えばどうなるか。
それが、甘えを許してくれる環境を失えばどうなるか。
拒絶だ。
世界との関わりを、自ら拒絶して閉ざす。
親の期待とは別のベクトルで、千速継笑は自ら、人付き合いを断ってしまった。
その断絶が、絶望が、千速継笑をこれも親の期待通り勉強の虫とさせ、一流といわれる高校への進学を果たすことになるのだが、しかしそうして入った高校で、次は一流の大学だぞと言われ、そして漸く許されたはずの友達作りにも失敗して……中学時代を千速継笑のように送った人間に、もう友達など作れるはずがなくて……千速継笑は人生を、完全に悲観してしまった。
自分にはもう、何も無いのだと思った。
普通に、少ないながらも数人の友達と友誼を築き、いい恋も、悪い恋も少しだけ経験して大人になって、お互い、幸せになれそうな相手と結婚する。
そういう「普通」。
それは、お兄ちゃんが病死したその時に、失われてしまったのだと思った。
……三年前。
コンラディン叔父さんの手紙を読んだ時、私の中の何かが動いた。
ああ、この人は「普通」なんだと思った。
それなりに色々あったはずの人生で、だけど「普通」からは外れることは無く人脈を広げ、拡げて……友誼を交わした相手のことは、できる限り守ろうとする。
それは、できる限りでいい。
その、できる限りがいい。
それこそが、千速継笑が失い、私もまた、いまだ持っていない「普通」なのだから。
だから助けなければいけないと思った。
リスクをとってでも、やれることは「できる限り」しなければいけないと思った。
私は「普通」には生きれない。
性格も、性嗜好も、何を幸せと感じるのかということも、何に喜びを覚えるのかということも、何に悦びを覚えるのかということも、もはや「普通」ではない。
異常なものに惹かれ、異常な方へと向かい、異常の中で、結局は異常な幸せに溺れたがる。
そのことを卑下するつもりはない。それが自分なんだから、仕方無いとも思う。
でも、だけど、それでも、「普通」に生きれることを尊いとも、羨ましいとも思うのだ。
そういう生き方を選べることを、妬ましいとさえ思う。
私は、マリマーネのことがどうしても好きになれなかった。
普通に生きれるのに、普通の幸せだって得られるのに、そういう環境に生まれたのに、望めばそのように生きられるはずなのに、それを嘲笑うかのように、それが無価値であるかのように扱い、悪夢かもしれない夢に向かって邁進していた。
私が失って、私が私である限りはもはや取り戻せないモノを、自ら捨てようとしていた。
莫迦だと思った。
なんでコイツは、こんなにも莫迦なんだろうかと思った。
でも……だからこそ私はマリマーネを見捨てられなかった。
助けていい存在であるかを、男性恐怖症を押してまで調査し、確認して、その心を執拗に観察し考察して、そして実際に助けた。危険を押して、冒してでも助けた。
その人生を、莫迦莫迦しい終わりには、したくなかったから。
お兄ちゃんが私を助けるというのも、それくらいでいい。
それくらいがいい。
無償の愛なんて、美しいけれど私には不要だ。
それを信じられる心というのは、それを心地良いと思える個性は、多分親に無条件で愛された人にしか備わらない。
この人生でも、前世でも、そのような半生を送らなかった私には、あたしには、そんなものは備わっていない。
愛されることは、苦手だ。
それよりも愛したい。レオを幸せにしたい。レオにレオらしく生きてもらいたい。いつかレオの子供を産んで育てたい。それを知らない私にできるかどうかはわからないけどでも私達の子供に無償の愛を注いでみたい。そうして老いていきたい。
そういう「普通」の真似事をしながら。
でも子供達が「普通」に育ち、幸せになって。
ああ、「普通」でないふたりがママゴトみたいに編み出した幻想も、生み出した奇妙な模様も、だけどいつかは本当になるんだなって、なったんだなって、そういう風に思いながら死んでいきたい。
私が望む全ては、もうそれだけだ。
だから。
「手短に、今の状況を説明します。まずマイラですが、灼熱のフリード様に囚われてしまったユーフォミー様、ナッシュ様を救うべく、行動を開始してしまいました。そしてジュベミューワ様ですが……不安定な状態を無理矢理固定化し、会話を試みたのですが、ジュベミューワ様のエピスデブリ、二類のそれである“もはや自分は誰にも愛されない存在”が活性化して、こちらから差し伸べた手は全て払い除けられてしまいました。これは……現在のラナンキュロア様もお持ちのエピスデブリで、ラナンキュロア様がしかし、それを持ちながらも“普通”に生活していらっしゃったことから、私はあまり危険視をしていなかったのですが……申し訳ありません、活性化した場合は、あんなにも破壊衝動を撒き散らすものだったのですね……どうにも手の施しようがなく……自力で固定化の“指”を破壊されてしまい……」
私はまた、決断を迫られている。
「ジュベミューワ様の心は、壊れてしまいました。目覚めたジュベミューワ様は灼熱のフリード様を魔法で焼き、現在、ノアステリア様を性的に甚振りながら、ユーフォミー様、ナッシュ様の目覚めを待っている状態です」
「な、に、そ、れ」
どうすべきか。
「マイラは犬の身でコンラディン様へ助力嘆願をし、叶えられればコンラディン様と一緒に、叶えられなければ単身でユーフォミー様、ナッシュ様の救助へ向かう予定です」
このまま、全てを見なかったことにして南の大陸へと渡るか。
「ラナンキュロア様……私がここで状況に介入したのは、この時間軸における“マイラの死”を回避するためでした。それを放置することは、マイラとの契約にも悖る行為でした。ですが……過度に介入してしまった結果、状況が混沌化して私にも未来が見えない状態となってしまいました……申し訳ありません……ですが」
それとも、この胸で今、どうしようもなく燃え盛っている「助けたい」という想いに、私に残された望みの全てを打ち捨てでも、「賭ける」か。
「ですが、未来が見れなくともわかります。今の状況は、結局は……」
「……マイラが危ない!?」
かなりの混乱の中、ここでその地頭の良さを発揮して、一足飛びに結論へと辿り着いたレオを見て、私は決断する。




