epis35 : a cygnet / slasher [wish for slasher]
激動の一日が終わった。
レオが男の首を斬り飛ばしてから先のことは、もうふわふわした記憶の向こうに溶けてしまっている。
それくらい現実感がない。
なにももう、なにもかももう、本当のことであるとは思いたくない。
「……気持ち悪い」
私は裸で、浴槽に浸かっている。お湯はぬるめ。冷めてしまったのか、最初から長く浸るつもりでその温度にしたのか、それももう思い出せない。心地良いと言える温度ではない。だけどもう一度暖かくしたいとも、出てすぐに身体を拭きたいとも思えない。だからといって自分がどうしたいのか……どうしたいというのか……それもわからない。
ただ、このまま消えてしまいたいと、そんなことだけはぼんやりと思った。人魚姫のように、泡になれたらいいと思う。でもそのイメージは綺麗過ぎて、汚れた自分には相応しくないとも思った。だからもう、ただもう霧のように、煙のように、消えてしまいたい。
今日着ていた服……例の真っ赤な服は、処分することにした。
切り裂かれてしまったし、血塗れだったし、それに……逃亡の際、あまりにも酷い臭いが着いてしまったからだ。
「……ぅぇ」
その臭いは思い出せる。ハッキリと思い出せる。なぜか今日あったことの中で、それが一番、記憶に残っている気さえしている。
文字通り、王都のあらゆる汚物を掻き集めたかのような、暗渠化された下水道、その暗い、ものすごい臭いのするトンネルの中を通り、私達は自分の家に戻ってきた。
レオは、街中で盗みをする際、よくそこを逃走経路として使っていたらしい。だからなのかその道には詳しかった、暗路の隘路に明るかった。水の流れを見ただけで東西南北……暗い地下にありながらも方角がハッキリとわかるようだった。なんでも、王都の下水はみな、西に向かって流れている……だからわかるのだとか。王都の西といえば大河の流れる方向だ。標高の低い方でもある。だからまぁ……いや詳しくは知らないが……そういう理由なのだろうなと思った。
真っ当な人間は勿論、ゴロツキやヤクザ者であってもそんなことには詳しくないだろう。スラム街出身で、極限を生きてきたレオだからこその脱出方法だった。
……突然、西洋式でいうならゼロ階、日本式でいうなら一階へと上がり、その排水溝周辺の床を「斬り」だしたのには驚いたけど。
「わぅん……」
浴槽の傍らに侍るマイラが、元気の無い声をあげている。
最近は、レオとじゃれあっている姿を見ることが多かったのに、この夜に限ってはなぜか私の傍を離れようとしない。
マイラは、下水には入らなかった。レオが後で家で落ち合おうと言って裏口から逃がした。そして誰に連れられるでもなく、こうして家で待っていた。
ここで顔を合わせた瞬間、下水を通り、凄い臭いだったふたりに、泣きそうな顔になっていたのが妙に印象に残っている。
マイラは、血の臭いには吠えない。
だって、最初にレオと顔をあわせた時、吠えたのはレオにだけだった。血の臭いがするというなら、(七人の)死体の処理に手を貸した私からも、そういう匂いはしたはずだ。
だけどマイラは、私には吠えなかった。
どんな温厚な犬であっても、ジューシーな骨髄を含む骨を齧らせれば我を忘れるという。そして骨髄とは、造血組織の集合体だ。だから犬は、本来は血の臭いに興奮するイキモノ……のはずで……でも、マイラはそうではない。前からそうではなかった。骨を与えられ、かじかじしてるマイラのそれを、意地悪でひょいと取り上げてみても、きょとんとした顔になるだけで吠えたり呻ったりはしない。そんな、弟妹のオモチャを取り上げる姉がごとき非道にも、全く動じない大型犬だったのだ、マイラは。
だけどマイラはレオに吠えた。
王都の、キレイな部分において生まれ、育ったマイラには、血の臭いよりも汚臭の方が、刺激が強かったとでもいうのだろうか。
最初はもう、とにかく吠え、レオを敵視して。
だけど今日は、世界の終わりでも見たかのような悲しげな表情をしていた。
それはもう、心が麻痺し、何も考えられず、ただようやっとあの臭い所から開放されたことに安心しかかっていた私の心へ、恥と罪悪感という概念を思い出させてくれたほどには……珍妙な表情だった。
「ねぇ……だというのに、私の側から離れようとしないのはなぜ?」
「わぅん?」
マイラの声と表情に、自分達の惨状を思い出した私は、とにかくはまず、お風呂に入りたくなった。その惨状を、そのままで使用人に目撃されしてまうというのも、それはそれで面倒になりそうなことだったし。
けど、ひとりだけ先にそうするのも……レオに悪い気がして、なんだかもう、どうでもよくなっていた私は「一緒に……入ろうか?」と呟いた。なんていうかもう、自分の裸をレオに見られるのも、自分がレオの裸を見てしまうのも、どうだっていいことのように思えたからだ。それで何が起きようとも構わない……そんな投げやりな気持ちも……どこかにはあった。
それを、強烈に止めたのもマイラだった。
どういうわけか、臭い臭いがするはずのふたりの間に割って入り、私だけを浴室の方へ押しやろうとした。
単純な事実として、マイラは重い。物理的に重い。私ひとりの腕力ではどうやっても動かすことができないくらいに。レオも、その排除を手伝ってはくれなかった。
本当にもう、色々で疲れていた私は、それでなんだか反抗する気も萎えて、レオが勧めるままに浴室へひとりで入った……割り込んできたマイラを押し戻すこともせずに。
そうしてから扉を閉め、上水からほんの少しだけ暖めた水をそのまま浴槽へと注いで、溜まるまでにズタボロの服を脱いで、身体を拭きもせず、そのままぬるま湯に浸かった。
日本の公衆浴場だったらマナー違反もいいところだ。
レオは……今、どうしているだろうか。
この家に浴室は……みっつあるが、あとのふたつはママが使っているものと使用人達が使っているものだ。どちらも今まで、それらをレオが使ったことはない。
そもそも私の浴室は、もともとは倉庫だったものを後から改装したモノだ。ママが……ある時から私の姿を見ると挙動不審に……キョドってしまう人になってしまったので、ふたりの生活スペースを分けるべくパパへ直談判をして、自分の部屋の側にわざわざ拵えてもらったモノなのだ。清掃等も自分でやっているので、ここへは使用人も近付かない。
ここへは……というか使用人には、切り分けてもらった生活スペースの、ママ用じゃない方の私の生活スペース、それ自体にあまり近付かないようしてもらっている。そういうお願いをしたし、なぜかパパの意向(面倒な娘に関わりたくなかった?)もあったようで、それはすんなりと受け入れられている。
そういう環境だからこそ、私は使用人達に煩く言われることもなく、レオを家に連れ込めたのだし、今日だって使用人達にはあの惨状を見られることなく自室へと、自分用の生活スペースへと帰ってこれた。
だとしたら今更、この浴室以外をレオに使ってもらうわけにもいかない。
だからレオは、私の部屋で私がお風呂からあがるのを待っているはずだ。
なら、早く出なくちゃ……とも思うが、どうにも身体が動かない。
完全に気力が尽きている。
湯船に浸かってから、もう二十から三十分は経っているのではないだろうか。ぬるま湯へ、半身浴ならぬ全身浴を長時間って……健康的にはどうだっけ……とも、……頭の片隅で思うが……だからといって身体が動くわけじゃない。
お湯は汚れている。
ざぶざぶと洗った、私の身体から出た汚れで汚くなっている。
臭いも、意識して嗅げば……まだする。
レオが入る前に、お湯を張り替えなくちゃ……とも思う。
私は、いつもレオを洗う時、自分を清潔にしてから……そうしていた。
自分が汚いままレオを綺麗にすると言うのも、何か違うと思ったから。
だけど今は、私の身体にも、まだ臭いが残っている気がする。
汚物の、汚い、穢れた臭い。
それを意識すると……もう遊びなどではけしてない……希死願望が襲ってくるから……何も考えたくないけど……でも、汚れたままの私がレオを洗うというのは……やっぱり何かが……違う気がする。
だから……今日はレオに、ひとりでお風呂に入ってもらうつもりだ。
もう「ずっとそういうものとして」レオに習慣づけられてしまった……私がレオを洗うという行為を……今更変えるのは……どうしてか自分でもよくわからないけど……寂しい気がする……でも……それでふたりのなにかが変わってしまったとしても、もうしょうがないのだと思った……いや違うな、思っていない……考えるのも嫌だから、諦めただけだ。見過ごしただけだ。今はもう、寂しいという感情を意識してしまうこと自体、億劫だった。
ああ……もうイヤになるくらい頭の中の、思考が重い。
「……ねぇ、いつまでそこにいるの?」
「わぅ?」
でも……だからもう出なくちゃと……心の欠片が囁いている。
健康以前に、このまま身体が冷えてしまったら病気になってしまいそうだった。
「心配しなくても、死なないわよ……特に、このまま湯船に身を沈めて溺死なんてね……さすがにこの無気力状態でも、それはゴメンだわ」
「くぅん?」
「っ……」
どうしてかこの時、マイラの、裸の私を見るその視線は、とても「犬らしい」モノであるように思えた……上手く言えないけれど、最近のマイラは、こちらの言葉を理解しているんじゃないかと思わせるような……そんな反応と挙動をすることが多かった。それが、そうした「人間っぽさ」が、今は何も感じられない。欠片ほども感じられない。……いやマイラはまごう事なき犬なのだから、それはそれで正しいのだけれど……上手く言えないが……違和感がある。
マイラの、違和感のある無垢な瞳へ……「私は犬に何を言っているのだ」という、今更のような羞恥の感情が湧き出てきて、それはすぐに発火して燃えた。炎は心を……心の腐った部分を焼き、いまだ血を流す心の傷へ、ピリピリとした痛みを与えてくる。
「そうよ……死なないわよ……死んでたまるか……私はまだ何もしてない……何もやっていないのに……」
自分でも、何を言っているかわからない言葉が、胸の奥から溢れてくる。
それは炭酸に立つ泡のように頼りないモノだったけれど、舌にのせれば刺激ともなる、その源泉でもあった。
「死なない……まだ死ねない……せめてこの賭けがどこへ辿り着くか、見届けるまでは」
それらはまるで、死者へと放る餞のように虚無へと吸い込まれていったけれど、だけど……あるいはそれと同じように……けして意味のない言葉でもなかった。
すこし、ほんの少しだけ身体に活力が戻る。
「レオと話さなくちゃ……色々と……相談を、しなくちゃ……」
意味もなく汚水へと落ち、溶けていく自分の涙を拭って。
汚れた泡の向こうにある、望んでもいないのに大人になりつつある、凹凸のはっきりしてきた水中の全裸に一瞥をくれて。
「くぅん」
「わかってる、今出るから」
私はようやっと、湯船から冷えた自分の身体を取り出すことに、成功した。
「温かくしてね」
『うん』『わぅん』
暖まらなかった身体で、ドアの向こうへと指示を飛ばす。
今までは私が全部準備していたお風呂だが、その手順を、レオも見て覚えていたようだ。細かい指示を出さずとも、どんどんと準備されていく様子が伝わってくる。(バスローブを着た)私がやろうとしたら、自分でやるからと言われ、浴室を追い出された。
私の浴室は、上水からの水を釜にため、それを燃料で加熱してから浴槽へと流し入れるという、王都では割と一般的なシステムだ。燃料の種類が、薪か炭か木屑を圧縮したペレットになるか、それともお貴族様向けのよくわからないモノ(燃焼石……魔法的に生成された人工の石炭?……と呼ばれる物がある。石炭と違って匂いも煙もでないけど)になるか、それくらいの違いはあるけれど、流れとしては大体変わらない。家は、ママも私も使用人もペレット派だ。燃焼石を除けば一番高いが、その分匂いや煙などが少なく、平民のお金持ちの家では大体これを使っている……らしい。
『ペレットを追加する時は一気に入れすぎない、だったよね』
「うん……意外とそれ、よく燃えるから、注意してね」
『うん、わかってる』『わぉん』
レオは、やっぱり地頭が良い方だと思う。物覚えもいいし、(推定)十一歳にしては随分と物事を論理的に考える方だと思う。火を扱わせることに若干の不安もあったが、問題は何もないようだった。それに、何かあればマイラが騒ぎ出すだろう。
……ってかなんでアイツ、ドアの向こうにいるのよ。
『わぉん?』
やがて準備が出来たようで、レオはすぐに浴槽へ身を沈めたようだ。入る前に身体を洗った様子はない。だからそれは、日本の公衆浴場でやったらマナー違反もいいところだけど、ここは日本ではなく、夢の世界基準でいうなら入浴は西欧式だ。浴槽に身を沈めてから身体を洗う方式だ。一応、事前に身体は念入りに拭っている。それで大きめのタオルがふたりで四本分、駄目になったけど。
「温度は、どう?」
『丁度いいよ、温かい』
「そう……よかった……」
レオが落ち着いた頃を見計らい、私は重い口を開く。
「レオ……どうしてあの人を殺したの?」
『うん?』
「あの人……黒いカツラをつけていた……赤い髪の、左耳に欠けがあった男の人」
『僕は人殺しだからね、それが一番手っ取り早い手段だと思えばそうするだけだよ』
「嘘」
『嘘じゃないよ、もういいじゃないか、そのことは。それよりこれからどうするのか、その方を話さない? もちろん、ラナが僕を怖いというなら、もう側に置いておきたくないと言うなら、それはそれで構わないけれど』
「……」
なんとなく、レオの口ぶりに感じるものがある。
ここで……私がレオを怖いと言い……もう側に置いていたくないと追い出したら……レオはだけど……ひとりでこの事件の解決を図るのではないだろうか?
それくらい、なにか妙な「決意」を感じさせる語気の強さだった。
わかってる。
レオがあの男を殺したのは、自分の手を汚す……汚したことにすることで、私が◆▼■▲●★■▼◆▲●■★■●▼★●◆▲■▼◆■▲●★▲●■★■▼★●▲■▼◆▼★■▲●★▲■▼▲■◆●■★■▼★●▲■▼◆▲●■★▲●◆■▲★■▼■★●▲★■◆▼……私の心を、護ってくれているのだろう。
レオは、どうしてか私のことを好きでいてくれているらしい。それは私が、前にレオを助けたからで、レオを人間として扱ったかららしい。
それは嬉しい……その事実には胸が温かくなるけれど……レオのそれは、なんだか純粋すぎて怖くなる。
私は汚れた人間だ。
今ではもう、本当に汚れてしまったと思う。
その私に、レオの純粋な想いを受け取る資格はない。受け取ってしまってはいけない気がする。受け取ってしまったら、何かが崩壊してしまうような気さえする。
レオには幸せになってもらいたい。
でも、私「が」レオに……何をできるというのだろうか?
今日も……レオにその手を汚させてしまった。
キレイにしたいと思う人がいて、だけど自分の手が何を触ってもそれを汚してしまうモノだとしたら……もう、どうすればいいのだろうか?
どこかの神話の王様は、よっぱらいの神様(だっけ?)に呪われ、触れるもの全てを黄金にしてしまうようになってしまったという。それで食べるものさえも黄金にしてしまい、飢えに苦しんだという。あたしは……その話を読んだあたしは……思ったものだ、王様なら、召使に食べさせてもらえばいいだけじゃないの?……と。
だけどわかる。そんな異能を宿してしまったらもう、誰と関わるのも辛くなる。ちょっと触れただけで、触れた相手が黄金の象へと変わってしまうだなんて、恐怖以外の何者でもない。人と接することにも臆病になってしまうだろう。王様を苛んだ飢えとは、肉体的なモノだけに留まらないのかもしれない。
だからやっぱり……そう……私も、呪われた人間なのかもしれない。
生まれてきた、ただそれだけのことでママを不幸にしたように……触れるもの全てを不幸にしてしまう……私はそういう存在なのかもしれない。
だとしたら、私はどうやって「幸せ」を食べればいいのだろう。
王様なら家来に命令して、そうさせればいい。
だけど私は王様ではない。女王様でもない。お姫様でもないし、お嬢様……では一応あるけれど、その言葉からイメージできるような人間でないことは明らかだ。
なにより、今の私は、自分が「幸せ」を食べたいわけじゃない。
そんなモノはもうとっくに諦めている。私にそんな……権利も資格も……心の受け皿も……ない。
自分は幸せになれない。それはそれでいい。
もうそれはそれで構わない。
人は幸せでなくとも生きていける。
ママがまだ息をしていて、食事もし、入浴もして、表面上は穏やかに暮らしているように、幸せは、人が生きていくのに必須というモノでもない。
それより、本当に怖いのは。
自分が誰も……幸せにできない人間であると……思い知らされることで。
そのことは……本当に……。
怖くて……。
『ラナ?』
「ぇ……あ」
思考が沈み、気持ちが沈み、沈みに沈んで深海まで沈降していたことにまた、レオの声で気付く。
ダメだ……本当にもう……心が重い。
『……本当に大丈夫?』
「ん……」
なにも。
『聞いてる? ラナ』
「……」
ああ本当になにも。
『ラナ?』
考えたくない。
「ラナ」
「え?」
真っ黒な思考に、心がワープして出でたその先に……気が付けばレオが立っている。
浴室のドアを開け、裸のまま、滴る雫を拭いもせずに、そこにいる。
「っ……」
とっさに目を逸らすと、犬らしい目でこちらを見るマイラの姿が見えた。
そこに、人らしい感情のようなものは、相変わらずない。
小首を傾げ、感情の読み取り難い目でこちらを見ている。
だからもう、どうでもよくなって、レオへと視線を戻す。
化粧の落ちた、少年らしいシャープな印象の顔。
もう女の子には見えない。
当然だ。
いつもはちゃんと遠慮して、見ることの無かった下のその部分までも、今は見えてしまっている。
お腹からすとんと落ちる子供の、少年の、直線的な腰のライン。
その中央には……いやソレの何がどうであるかなどと、私が評するのはやめよう。
ただ……嫌悪感は無いなとだけ思った。
意外なほどに、驚きも、衝撃もない。
ああ、レオの全裸だ……と思うだけだ。レオ本人にも、自分自身の内側にも、性的な情感は何も生まれてこない。なにも感じていない。
私が思ったのは。
胸の裡に発生した……あるいは発情した想いは……ただひとつで。
「お願いがあるの、レオ」
「……なに?」
鋭い目があたしを射抜く。
「私の身体の、どこの、どんな部分でもいいから、きつく噛んでくれないかな?……血が出るくらいに深く、痛く……傷が残っても……構わないから」
「……ラナは、そんなことがされたいの? それは何かの儀式?」
多分、男の子百人を集めたら九十九人まではドン引きするだろう私の、その要求を、レオは即座に否とは言わず、こちらの真意を読み取ろうとでもしているのか、座り込んだまま、自分を見上げる私の目を、厳しい目で見下ろしてきている。
「だめ?」
私はぬっと立ち上がって、おもむろにバスローブを脱ぎ、それを床へと落とす。
レオのものとは違う、もう曲線を描いてしまっている腰のラインが、露になる。
「だめというか、意味がわからない。ラナの考えていることがわからない」
「私も、わからないよ」
もう理解したくもない。
ただ、レオに傷付けられるなら、美しくもレオそのものではない、あの斬撃によってではなく……レオの刃ではなく歯でそうしてほしかった。
「どこの、どんな部分でもいいって言われても……」
レオの視線が、私の肉体の表面を這っていく、撫でていく。
本来であれば、レオに向けられてさえ、おそらくは嫌悪感を抑えられなかったであろうその視線を、だけど今の私は、何も感じていない。恥ずかしいとさえ思っていない。身体を醜いと、肉体を汚いと蔑まれるのであれば、それはむしろ心地良いとさえ思えたかもしれない。
「オススメは、ここかな」
ママ譲りの、そこだけは結構、将来的には「上物」になるんじゃないかなって膨らみを、だけど今はまだ特筆すべきほどでもない、その程度のそこを……手で押さえる。
「普段誰かに見せる部分じゃないし、柔らかいから噛むのも簡単」
「……ラナってやっぱり、頭がちょっとおかしいね」
「うん。否定はしない」
レオが見ている。
「あ、別に普段誰かに見られる場所であっても、レオがそうしたいならそうしていいよ。そのつもりで、どこでもいいって言ったんだし」
私を見ている。
「でも勘違いしないでよね、私、別に痛いのが好きってわけじゃないんだから……そういう変態さんじゃないから……って、これってなんかひと昔前の、むしろひとひとひとひと昔前くらいのツンデレのセリフみたいだな。しかも結構マニアックな」
鋭くて冷たい目で私を観ている。
「ねぇレオ、私多分、前世の記憶があるんだ。そこで私はね、男の人に、酷いことをされたの。だから私はもう、キズモノみたいなもので、今更もうその傷がいくつ増えたところで変わらなくて」
その目がもし、刃となって私を切り刻んでくれるのなら。
「ううん違うな、レオはそんな男達とは違う。なにもかもが違う。レオが付けてくれるなら、その傷はたぶん特別なものになるから、だから」
それは、どれだけ幸せなことなのだろうかと思った。
「引いた? やっぱりドン引いちゃった? でも……このどうしようもなく狂った私は、多分私が一生付き合っていかなきゃいけない“あたし”なの……私はこの狂気と一生、上手くやっていかなくちゃならないの。騙したり、なだめたり、すかしたりしながら、でも一生離れられないの」
「生まれるって、牢獄に囚われるみたいって思わない?」
「どうしようもない世界という牢獄に、何十年、長ければ百と少しの年月、囚われる」
「幸せは、大体の人にとってはほんのごく僅かで」
「辛いこととか、悲しいこととか、痛いこととか、苦しいことと、ずっと上手く付き合っていかなくちゃいけない」
「時には事故とか病気とか、理不尽とか暴力とか、どうしようもなく受けてしまった被害とか、どうしようもなく与えてしまった加害とか、そういうものに振り回されながら」
「溺れながら、ほんの少しの喜びを、金魚鉢の出目金みたいにパクパク、水面に求めて」
「悲しいよね」
「どうして生きているんだろうって……そう思う」
「いっそひっくり返ってしまえって思う」
「濁った水に囚われた出目金はガチャンて、金魚鉢ごと割れてしまったらいいと思う」
「レオは思わない?……思っていてほしいとは思わないけど……でもだけど、レオは私のこの気持ち、わかるんじゃないかなって思うんだ」
「だってずっと思ってた」
「レオは、私にどこか似ている」
「世界への不審も、自分への不信も」
「自己肯定感なんかまるでないくせに、自分のやりたいことしかやらない、ワガママなところとか」
「どうしようもない世界とは付き合っていられないって、そこから距離を置いて」
「俯瞰してるつもりで、ただ孤独なだけで」
「だから寂しくて」
「どうしようもなく寂しくて」
「ほんのちょっとの優しさに、ころっと転がっちゃうんだ」
「ねぇレオ」
「こんな世界、壊したいって思わない?」
「この世界を、壊したいとは思わない?」
「この牢獄を、壊したいとは思わない?」
「もう、ここには誰もいないの」
「全部全部壊れてしまったから」
「その中には私自身が壊したものもあるけど」
「でも、それだからこの牢獄は抜け出すことができなくて」
「もう誰かに壊してもらうしか、なくて、だから」
「あ……っ」
「そこを噛むんだ……レオ」
途中にある「★●▲◆▼■」で構成された部分は、解読できないようになっています。
次話においては同じ様式で(なんとなくは)解読できる文章が表れますが、そこにおける解読法は当episの当該部分には適用できないようになっています。
当小説の3話には以下のような暗号が使われています。
α:101>>VIIIVXIIXIIXV
β:101>>VIIIVIIIIIIIV IIXIXIVIII?
γ:101>>IIIIIIIIIIV...............
この、「α」は解読「不可能ではない」暗号です。
次のように復号します。
VIIIVXIIXIIXV → VIII V XII XII XV → 「8」「5」「12」「12」「15」
アルファベットのAを1(番目)、Bを2(番目)とした時、Eは5、Hは8となります。
ABCDEFGH……
つまり「8」「5」「12」「12」「15」は「Hello」です。
ただ、これにはローマ数字をどこで切るかについての確定要素が欠けています。例えば「VIII」を「V」「I」「I」「I」とするなら、これは8ではなく5111であるためEAAAとなり、意味がわからなくなります。「V」「I」「II」ならEAB、「VI」「II」ならFB、「VII」「I」ならGAです。「VIIIV」で考えると、末尾の「IV」を4と見るか15と見るかでも話は変わってきます。よってこの解読には、元が何であれば自然か、という推測が必要となります。逆を言えばそれが可能な範囲でなら、解読は不可能ではないものとなっているということです。
ところが、「β」においてはもう一段階の、「γ」においては二段階の暗号化がなされているため、この解読が不可能となっています。
例えば「β」の「VIIIVIIIIIIIV IIXIXIVIII?」は、前半部分が「α」の原文である「Hello」と全く同じものです。何が違うかというと、「85121215」を「8」「5」「12」「12」「15」とするのではなく、「8」「5」「1」「2」「1」「2」「1」「5」としてから暗号化している点です。更に細かく切っているということです。
同様に後半部分の「IIXIXIVIII」は「1」「9」「9」「1」「8」、元は「19」「9」「18」で「sir」となります。
よって「β」のここでの意味は、「こんにちは、御主人様?(いかがされましたか?)」といった感じの英文となります。
ここにおいては「二桁の数字を一桁の数字の連なりとみなす」というルールさえ解れば、「X」つまり「10」が使えない(そのためこの形式ではJとTが使えないか、またはそれに対応する特例が必要となる)ため、「IIXIX」の部分が「199」であると確定できる(IとSだけは例外的に物凄くわかりやすい)ようになっています。ですが、これはこの形式におけるごくごく僅かな例であって、他の部分を確定する材料はかなり限られます。これにより「β」は、これに限定するなら解読は不可能ではないが、同じ形式によって作られたほとんどの暗号が解読不能である……というものとなっています。
更なる「γ」の「IIIIIIIIIIV...............」は、「2」「3」「1」「2」「1」「4」、「23」「1」「2」「14」となって「Wabu」となりますが、「γ」の原文は「わぅん……」であり、つまりは「walun」、もしくは「waxun」です。
ここではこの「xu」「lu」の部分を、「U」ではなく「2」としています。ここに特別な意味は無く、単に「ぅ」が「う」より少し小さいというだけでこうしています。つまり「21→III」を少しだけ小さくして「II」ということですね……ええ、わかるか、そんなのって感じですね、いやホント雲丹。
某なく頃にシリーズ風に詳細を書き出せば、「ルールα:アルファベットは数字へと変換された後にローマ数字で表される」、「ルールβ:二桁の数字は一桁として扱われる場合がある」、「ルールγ:特殊な文字には特殊な変換が適用される場合もある」、といったところでしょうか。
「γ」はこうした理由から解読「不可能な」暗号となっています。
次話となるepis36に現れる暗号は、ルールこそこれらとは異なりますが、解読不可能ではないという意味においては「α」形式(ただし一部に「β」形式が混じる)であり、推測によって解読できるようになっています。ですが、当episの当該部分においては「γ」形式であるため、解読は完全に不可能となっています。作者も原文を破棄したので、数週間後にはもはや暗号を作った当人でさえも解読不能となります。
まぁ……これは人間の心には誰も、本人でさえも理解できない、理解したくない領域があるのだということの表現……だということにしておいてください。某リ●ロのエキ●ナさんみたく、自分の複雑な心境を、入り組んだ性癖を、全て言語化して、なろう史とラノベ史とアニメ史に残るレベルの長台詞にしてしまえる人間なんて滅多にいねぇんだよぉ……っていう。いやまぁあれは人間じゃなくて魔女だけど。




