epis23 : fast love -reimei-
<ラナ視点>
「ああ、良いにぉぉいぃぃぃ」
「わっ!? くすぐったぁ!!」
水色の絨毯に白い浴槽。
いつもの浴室。
だけど今日はそこに、もうひとつの特徴が加えられている。
ネロリをベースに、ローズヒップやらなにやらが配合された、そんな感じっぽい香油の匂いが充満しているのだ。
「いい匂いといえばいい匂いだけど、これ、大丈夫かな? 虫とか寄ってこない?」
ネロリってのは、柑橘類である橙の花から抽出した精油のこと。どこかの国では橙武者などともいわれ、あまり良いイメージのない橙だけど、精油としては高級品で、この香油も一瓶で金貨二枚と銀貨六十枚もした。
「どういう意味の虫を想定してるのかは知らないけど、むしろ今は虫を寄せようとしてるわけだしな~」
「うん?」
そんなわけで。
剣が完成するまで、一週間ほどお時間を戴きます、と言われてしまったので、またもしばらくのひきこもり生活です。
そんな中、いくつか、レオにはいくつか試してもらったことがありました。
試したこと、其の壱。
レオが棍棒のような、打撃武器を扱ったらどうなるのか?
金属製の棍棒なら、レオが最初に死体漁り……もとい、鹵獲していた物がありました。ここでの生活費は、その全部が家と私の懐から出ていたので、捌きに行く必要もなく、そのままになっていたモノです。
それを剣のように構えてもらい、適当な木の廃材を立て、それを破壊してとお願いしてみました。
ところがところがところざわ。
『……身体が、動かない』
とのこと。
別に、金縛りにかかったであるとか、時に死と同じ扱いになる麻痺攻撃を喰らったであるとか、そういう話ではないみたいだけど、いつもの『勝手に身体が動いて斬りたいと思った物が斬れている』現象は起きないとのこと。
試したこと、其の弐。
例えば、包丁も片刃の刃物ではあります。ならばその刃を逆にして持ってモノを斬ろうとしたらどうなるのか?……包丁の背はメートル法で二~三ミリ程度。刃とは比べ物にならない厚さです。
メイスでは無事難を逃れた適当な木の廃材さんに、再びのご登場を願いまして、さて。
『普通に斬れた……』
なんとレオは、それでも普通にスパーンと斬ってしまいました。憐れ、適当な木の廃材さん。南無阿弥陀仏。異界の神聖なる祝詞でご冥福を祈りいたします。祝詞か? これ。
試したこと、其の参。
鉈も片刃です。しかし包丁よりも刀身が分厚く、メートル法で十五ミリくらいです。これを逆に構えたらどうなるのでしょうか?
二代目、適当な木の廃材さんの出番です。嫌といっても受け付けません。誇れ、そなたはこのためにこの世に生まれてきたのだ。
『ん……』
すると、包丁の時と同じように、レオの弧を描いてモノを斬る、あの独特のモーションが発動しました。
ですが、それはさすがにというべきか、コーンという音がして木材は切れず、弾き飛ばされ、飛んだ先で壁にボガンとぶつかって転がりました。期待通りの結果です。壁は後で修復が必要なほど凹んでましたし、廃材の打撃面も同様の状態でしたが、レオの斬撃は、斬るという結果を伴わずとも発動し、止まるということがわかりました。
となると、耐久性重視で刀身を厚く(八~九ミリ程度に)してもらった逆刃刀であっても、同じことが起こる気がします。
まぁ、起きなかったらレオには鉈で戦ってもらうハメになりますが。
ともあれ、レオの無敵が、絶対に斬るという攻撃でなかったことはなによりの収穫です。
多大なる犠牲(廃材二本と壁の一画)を払ってでも、試した甲斐があったというモノですね、うん。
「ま、剣を発注する前に試せよって話なんだけどね」
「なにか言った?」
いーえ。
あの時は、勝負師とか商人の娘の血が疼いてしまったので、そっちの方にまでは頭が回らなかったぜ。
「でもそうか、ここまでレオが可愛くなっちゃうと、本来のターゲット以外の虫の心配もしないといけないのか」
浴槽の水面へ顔を向けるレオは、今も美少女の顔をしている。
夢の世界における神話のひとつ、ギリシア神話には、ナルシスト、水仙の語源となったナルキッソスなる美少年が登場する。彼は、(美の女神の呪いか何かだったかもしれないが)水面に映る自分の姿が好きで、いつもそればかり見ていたという。
そのことから、自分の姿形を愛す人物をナルシスト、水面に向かって花を咲かせる水仙を学名でナルキサスというのだが……今、レオの浸かる浴槽の水面は泡だらけで、そこに人の姿は映らないし、顔も美少年というよりはやっぱり美少女だ。
水仙の花は、花びらの先が少し鋭角で、シャープな印象がある。葉や茎の直線的なフォルムも相まって、確かにそれは「少女」というよりかは「少年」的な美しさに見えるのかもしれない。
今のレオは、細いその身体こそ少年らしいモノだけど、顔は水仙というよりかは、同じ水辺に咲く花でも花菖蒲や杜若などに印象が近いかもしれない。ビビッドカラーを入れた化粧をしているからかもしれないけど。
「ね、レオ」
「うん?……わっ」
そんなレオの顔を、両手で自分の方へと向かせる。
泡まみれの浴槽に、少しだけ筋肉が付き始めた平らな胸の肢体が浸かり、そこからクールな美少女の顔が小首を傾げ、不思議そうにこちらを見ている。
そこに、「嫌な臭い」は感じない。もう、汗の匂いにも感じなくなった。
思っていたが、レオはきっとまだ、その……来てないのだ、二次性徴が。
男性のそれが、いつ来るのかについてはよくわからない。夢の世界においても、現実においても、私がそれを知る機会は無かった。
ただ、十一歳が彼の正しい年齢なのだとしたら、それはそうなんだろうなぁという納得もある。レオは栄養状態も良くなかったはずだ。本当は十二や三であったとしても、「まだ」の可能性はある。
あたしはそれに安心してる。安堵もしている。だけど私は同時に、どこか酷く背徳的な、深く退廃的な、心の奥底の部分で、それを残念にも思っている。
自分がレオとそうなりたいか……というと微妙なところだが、そうなった場合、自分がどう変わるのか、それとも変わらないのか、きっと恐怖から上手くできないであろう私を、レオがどう扱うのか。
レオはどう変わるのか、それとも変わらないのか。
それを知りたいと思う気持ちは、確かにある。あった。
「顔、メイク、落とそうか?」
「ん」
今は。
「何度か来店してやり方は教わったし、フェイスケア用品もほらバッチシ」
レオがどう変わろうとも、変わらなくても、私はそれを尊重したいと思っている。
「片刃の剣はともかく、その投資は本当に必要だったのかなぁ」
「必要必要、間違いなく必需品だったよ」
「嘘くさぁ」
お貴族様ならば。
拾ってきた子供など、自分の思うように扱って当然なのだろう。
私のこれも、常識に照らし合わせれば、随分と悪趣味なモノであるように思う。自覚もしている。
「というかメイク落とし? くらいなら自分でやるから」
「そう? じゃあこれポイントリムーバー。こっちはロレーヌ商会で作ってるコットンと綿棒。それでまずはアイメイクを落として」
「んんっ!?」
夢の世界の、悲劇に見舞われる前のあたし。
彼女は多分、レオのような子供が、好きだった。
彼女の、それとわかる初恋というか、淡いそれではなく肉体関係までをも妄想する類の片想いは、高校一年の時、映画館で見たリバイバル上映の映画に出ていたブ●ピなる俳優……の演じていた、歳を経るごとに若返っていくという数奇な運命を背負った人物だった。
その人物が、ティーンエイジャーの姿まで若返ったその形象に、彼女は恋をした。
「いいっ、たい、目ガァァァ」
「わ、レオ大丈夫!?」
そして、どうやらこの若返っていく少年という設定が、彼女の心の奥底へ深く、深く刻まれると書いて深刻な感じに、刺さってしまったらしい。
彼女には若くして死んだ実の兄がいた。どうやらそれに、彼女の心は妙な形に歪まされてしまっていたらしい。ここの分析は、あたしへも痛みが返ってくるナニカなのでしたくはないけれど、それとそれは、多分無関係ではない。
そうでなければ、彼女の悪徳は、悪趣味は、理解できない。
彼女は母親のお下がりであるノートパソコンに、とても人には見せられないような、その映画の二次創作小説を書いた。
映画では省略されてしまった、ハイティーンの少年がロゥティーンの少年へと戻り、更に二次性徴期以前まで遡って男性機能のない男の子に戻っていく、その部分を妄想逞しくして描いた。
「はい、じゃあ次、これクレンジングね、レオの肌に合うよう調合してあるはずだけど、まずは腕に出して様子を確かめてみてね。大丈夫そうならしばらく人肌で暖めてから伸ばしていくの」
「う、うん」
いずれ、必ず失われてしまう、少年を溺愛する小説を書き上げた。
結果、彼女は十代の後半でもう、とても人には言えないような性癖を抱えてしまう。
彼女の趣味である映画に関してさえ、──マチ●ダが男の子だったらなぁ──とか、──異端●鳥にこんなことを感じる私は異端──とか、──ハリ●はちょっと違うんだよなぁ──とかとかとか、明らかに他人とは違う……どころか、かなりぶっ飛んだことを感じていたりもする。
それを、彼女が「これを知られたらあたしは死ぬ」と思いつつ、日々を生きていたことからも、夢の世界においてその性癖は、悪趣味なんて言葉では済まされないほどの悪徳、罪悪だったのだろう。
「そう、最初におでこから~。指を肌に滑らせるように、ぬ~るぬる~」
「……ぬ~るぬるー」
「なんで死んだ魚の目になってるの?」
この世界においても、子供をそういう風に扱うことは悪趣味、悪徳であるとされている。
けど、罪悪というわけではない。
実際に、今の私と同じ十三歳で妊娠する子も珍しくない。普通というほどには多くないが、聞いて驚くほどの珍事というわけでもない。お貴族様の世界となると、ユーマ王国の何代か前の王様は計算上、十歳の子を妊娠(十一歳で出産)させていたりもする。これは公式に残る記録で間違いなくそうなっている。でも、だからといってユーマ王国の王族を悪徳の一族、悪趣味な一族と罵る者はいない。
だからというわけでもないが、まぁ、だから……お貴族様の世界では、拾ってきた子供など、自分の思うように扱って普通で、当然で。
なにをしても罪に問われることはなく。
悪徳を積むことへ、罪悪感を覚えぬ者であれば、それはもう好き勝手、悪趣味をするものだ。だからお貴族様でない私達へは、それに近づくなという教訓が言い含められている。
「なぜかはわからないけど、なにか大事なものを失った気がする……」
「やーね。女の子だったら当たり前にすることなのに」
「女の子じゃないから」
「うん、化粧を落としたらやっぱり男の子の顔だね」
「……化粧をしていても、僕は男だからね?」
けど、今のあたしが、レオを好き勝手したいかというと……微妙なところだ。
裸のレオを前にしても、二次創作小説でセキララにエガいたアレヤコレヤを実践したくはならない。
それは、彼女の人生が、育てた夢想の男性像を、徹底的に破壊され尽くすような最期を迎えたからなのかもしれないし、レオがこの私を、信頼してくれている今という時間が、凄くかけがえの無いモノだからなのかもしれない。
私はレオが、そういうことをしたいのであれば……最初からずっと……それは受け入れるつもりでいた。
それは愛というには打算的で、望みというには後ろ向きで、欲望というには忌避感を抑えるのに必死なナニカだったけど、あたしの中に、その覚悟があったことだけは確かだ。
けどレオの側に、その時期がまだ来ていないというなら、その覚悟も先送りだ。
そのことだけは、心の表面……理性的な部分でも、やはり残念に思っている。
せっかく、覚悟していたのにな……って。
「ん? ラナ、どうしたの? 僕の顔をじっと見つめて」
だからやっぱり、心は複雑だと思う。
「……綺麗な顔だなって思って」
「化粧を落としたのに?」
思えば人は、自分自身の心も身体も、永遠に自分のモノとはできないのかもしれない。
「綺麗は、女性的な美しさだけに謂う言葉じゃないもん」
「そういうものなんだ?」
だって身体はすぐに傷付くし、病気にもなる。そんなの、嫌なのに。
「うん……そういう……モノ」
だって心もはすぐに傷付くし、病気にもなる。そんなの、辛いのに。
どうにもならない世界、最小のそれは、自分自身だ。
「なら、ラナも、綺麗だよ」
「……ぇ」
「女性的な美しさ、ってのが何かはよくわからないけど、僕はラナの顔が好き。なら、ラナは綺麗だ」
そういうもので、いいんでしょ……って、レオはイタズラっぽく笑う。
なんて無邪気に……私の心を……私にも自由に扱えない心を……上手に繰るのだろうか。
ネロリの匂いは、もう慣れてしまったのかあまり強くは感じない。
けど何かに、何かの匂いに私の頭はクラッとなる。
「……ねぇレオ」
「なに?」
「レオは私の護衛、私とレオは雇用関係……レオの認識は、今もそういう感じ?」
「……どうかな。でも、僕の心はともかく、契約的な何かがあるとするなら、それはそうなんじゃないかなって思う」
「契約が無かったら、私達は対等?」
「契約があっても、対等は対等なんじゃない? ラナは僕の衣食住を保証する、僕はラナの保障を保証する」
それは対等ではない。命を懸ける仕事の報酬が衣食住の保証だけだなんて、あまりにも不平等だ。
でも、契約なんて突き詰めれば全てが不平等だ。それが成立するのはそこに合意が存在するからで、合意とはつまり譲り合いだ。そこには一方的に譲らせる合意もある。私達の契約は、どちらがどちらに、どれだけのモノを譲らせているのだろうか?
それは、この先もずっと、許されていくモノなのだろうか?
「レオ」
「なに?」
「キスしていい?」
「え?」
言って、胸に恐怖に近い何かが現れたのを自覚する。
それは、私の世界にあるナニカではあるけれど、私には制御できない何かだ。
「わからないの、自分がレオを、本当はどう思っているのか」
私の世界の王様は、私だ。
心と身体はその国民、つまりは民衆だ。
だけど、王様が民衆の全てを掌握できるとは限らない。
圧政を続ければいつか反逆され、立場は逆転して王は王でなくなる。
恐怖心は民衆からの警告だ。あるいは傾国でもある。
国に刻まれてきた歴史が民衆を不安にさせ、私という王様へ傾国の警告を突きつけている。
このままでは、世界は壊れるのだと。
世界を壊したい……あたしはそう思っていたはずなのに。
「レオのことは、好き。私はそう思っている。思っているけど、わからない。このままでいいのか、こうしてていいのか」
私は男の人が怖い。
今のレオは男の子で怖くない……怖くなくなったけど、でもいつかレオも男の人になる。
その私がレオを好きでいていいのかと、今の私は怖れている。
「……僕は、言ったよね? ラナがどうしたいだとか、ラナがどんな悩みを持っているだとか、そんなのはどうでもいいんだって」
「……うん」
その言葉は、少し寂しいと思った。けど、気楽にもなった。
だからまだレオと一緒にいられるんだって、嬉しくもなった。
「それに、こうも言ったよね? 僕はラナが悪でもいい。極悪人でもいいって。それが法で罰せられることでも、構うもんかって。僕達に、普通どうだとか、常識ではどうだとか、そういうのは関係ないんだ」
「……うん」
それはどこまでも正しくない私には、救いの言葉だった。
「僕にラナのことはわからない。今でも思ってるよ、ラナは変な人だって。それを、僕はわかりたい、知りたい、理解したいとも思うけど、本当に重要なのはそこじゃないと思っている」
「……どういう、こと?」
「だって、好きでもない相手に、踏み込まれたくはないんでしょ?」
「……っ」
「もしかしたら、そういう強引なのが好きな女の人もいるのかもしれないけど、ラナは違う。それくらいは僕にもわかる。ラナを知っていいのは、ラナがそれを許した相手だけだ」
レオの言葉は優しい。どうしてそんなにもと思うほど、優しい。
それを、嬉しいと思う反面、いっそ何かを斬る時みたいに、誰か殺す時みたいに、バッサリとやってくれればいいのにとも思う。
私は私自身を信じていない。
私自身が出す答えは間違いかもしれない。
きっとそうだ。
よく、迷ったら心のままにとか、身体が求める方へとか、そんな風に言う人がいる。私にそんなことを言ってくれた人はいないけど、どこかの誰かがどこかでそんな言葉を垂れ流している。
けど、私は私の、自分自身の心も身体も、信じられないのだ。
私はただ傾国に怯えるだけの裸の王様だ。
「でも……それがわからないから」
何を信じればいいかわからないから、どうしていいかもわからない。
「キスをしたら、それがわかるの?」
「……え?」
それは、ゆっくりとだった。
本当に、ゆっくりと、レオは、私の顎先に人差し指を当て、私という王様の顔を上向きにする。その角度はゆるやかで、たとえ、私の頭に王冠が載っていたとしても、けしてそれがズレ落ちたりすることはなかっただろう。
「僕は、変わらない。僕はラナを護る。ラナがそれを許してくれる間は」
「う……」
怖い。この先にあるモノが怖いと、心が叫んでいる。
脳裏に、汚らわしい諸々の記憶が蘇る。
夢の世界の、その終わりの、あたしの世界が破壊しつくされた、無限の地獄みたいだったあの光景、その情景。
この肉に宿る呪いが、私に牙を向いている。
「……震えてるじゃない」
痛ましいモノでも見たかのように、レオが目を細め、呟く。
「あ……」
言葉が出てこない。
あたしの口は、あの時、男達が望む音以外、一声すらも許されなかったから。
けど。
「無理、しないで、僕はラナを護るためにいるんだ。傷付けたいわけじゃない。たとえ傷付くことを、ラナが望んでいるのだとしても、ラナを傷付けるラナを止めるのも、僕がすべきことだと思うから」
それならば。
「……違うの」
それを言えたのは、私だったのだろうか? あたしだったのだろうか?
「怖いけど、嫌じゃないから……違う」
「……どういうこと?」
たぶん違う。私の心も身体も、あたしの心の身体も、どれも違う。
「怖いよ。怖いに決まってるじゃない!……私はレオが好き。好きな人と初めてのキスをするの。この身体で、生まれて初めて好きな人とキスをしたいと思ったの! 怖いに決まってるじゃない!!」
これは気持ちだ。
レオを好きという気持ちが、私にこれを言わせている。
「……それだけじゃないように思えるけど」
それは酷く弱々しい何かだった。何も縋るモノの無い孤立無援の何かだった。
だったら私は、それを、私だけは肯定しなければならない。
「そんなことはもうどうだっていいの!」
どれほど愚かしく、みっともなくなろうとも。
もし、それを心と呼ぶのならば、その心の名はきっと……いや、そんなことすらも、もうどうだっていい。
「どうだっていいって……ラナは自分が何を言ってるかわかってる?」
「うっさい! 怖いけど、でも嫌じゃないって……女の子が覚悟決めてるんだから! 男を見せなさいよ!!」
「……ふーん?」
と、そこでレオが、「そういうことを言うんだ?」と、少し酷薄な表情を見せた。
私は、真っ白になった頭で──あ、その顔いい──と思った。
だからやっぱり、私の心は狂っていると思った。
そんな、普通ならネガティブな意味しかないモノを、美しいと思ってしまうのだからと。
「女の子の格好をさせておいて、今度はそんなことを言うんだ?」
「うっ」
それを言われると痛い。
怯む私に、レオの、私の顎先を掴む指の力は強くなり。
「いいよ、じゃあ僕が決める。ラナ、もう嫌と言っても逃がさない」
もっともっと、美しいと思える顔で、言い切る。
「えっ!?」
だけど言葉の割に、レオの動作はやはりゆっくり、とてもゆっくりと進む。
だから私は、目を、見開いたままレオの顔が近付いてくるのを見ていた。
「ラナ……僕は」
何も考えず、ただ、見ていた。
レオが目を瞑り、鼻が当たらぬよう少し首を傾げる……その瞬間を見ていた。
見て、何かを判断するとか、見て、それをどう考えるとか、そういう、「観察」的な意味の「観る」……そんなモノではけしてなくて、ただ光が、視神経を通り、脳内へ情報として達して、それが結ぶ像の、そのありのままの姿を見ていた。
あれほど煩かった恐怖心ですら、今は沈黙していた。
「僕はラナが好きだよ」
「んっ!?」
そのまま、ふわりと、唇と唇が重なる。
頭の、理性とかなんかそんな名前の、心とはまた別にありそうな意識の表面が──ああ、唇にしてくれるんだ──って、莫迦なことを考えていた。
──ま、でもそうだよね、キスって男女が合意の上でするなら、唇と唇だよね。ここでおでことか頬っぺたにしてきたら、それはそれでお笑い種だったかもしれないけど……そこは可愛くないんだね、レオ。
そんな、どうしようもなく莫迦なことを考える意識の表面は冷静だ。冷静のつもりだ。けど、どこかから「どこがよ?」とあたしがツッコんでくる。わけがわからない。
「んんぅ!?」
だからもう、心がもう、身体がもう、民衆がもう、一斉蜂起寸前になっている。
心臓が、早鐘というよりかは除夜の鐘でも打つような感じで、バッキュンバッキュンと重々しく鼓動を刻んでる……それは、なんか情緒がなくて嫌だと思う。そこはせめてリンゴーンと鳴る鐘の音にしてほしいと思う。やっぱり私の身体は不自由だ。どうしようもなく不自由だ。
全身が熱い。顔が熱い、耳が熱い、足の先が、手の先が熱い。どこにあるかもわからない心は沸騰寸前だ。しゅーしゅーと、気化した想いはどこから出て行くのだろうか?
『もう嫌と言っても逃がさない』
逃げられない。その熱はどこへも逃げていかない。私の中を熱湯のまま巡回して、私の嫌いな私を焼き焦がしていくかのようだった。
だけどその無限のような一瞬は、簡単に終わってしまう。
「……ごめん」
私はいつの間にか、目を瞑っていた。
だから言われるまで気が付かなかった。
「……え?」
それが、あふれていたことに。「想いがあふれるならそこしかないじゃない」ってあたしが言ってる、その部分の決壊に。
「意地悪を、しちゃった」
レオの指が、私の目の下を拭う。
「けど、逃げなかったね。なら、その涙は、どっち?」
いつの間にか離れていた顔が、もう酷薄でもなんでもなく、ただただ美しいその顔が、問い掛けてくる。
「……え」
私は泣いていた。嫌じゃなかったのに泣いていた。
レオを好きなのに、好きなレオに好きと言われて泣いていた。
やっぱり、私という裸の王様は、心も身体も自由には出来ないらしい。
「どっちって……」
嫌だから泣いたのか、嬉しいから泣いたのか、どっちなのか……ってこと?
そんなの、私自身わからないけど、でも決まっている。
レオに、応えるのならば。
「僕はラナを知りたい、わかって、理解したい。それを許してくれるの? くれないの?」
「……っ」
ああそうだ。私の、わかりきった答えなんてどうだっていい。
レオに、レオにとって重要なのは私の、私自身の合意だ。
合意とはだから譲り合いで、私はたった今、沢山のものをレオに譲ってもらった気がする。イタダイテしまった気がする。本当に応えなければいけないのは、それに対してだ。
「レオ」
「なに?」
「私、もう一度レオとキスがしたい。今度は私からキスがしたい。嫌?」
だから私は応え、答えた。私自身の全てを伝えた。今の、本当に心も身体もあたしも想う、私自身の総意を、その意思を、気持ちの全てを伝えた。
「それが、答えなんだ?」
「うん。それが私の答え。そこから何を知るのも、わかるのも、理解するのも、レオに任せるよ」
言い切ってから、何も後悔してないことに気付く。
だから心の片隅で、恋心が笑う。
私を信じて良かったと笑っていた。
「……意地悪なんだね」
「うん、だからおあいこ」
「なるほど」
そうして、レオはしばし考える。
鋭い視線が、時折こちらをチラリと見ながら、私の気持ちを探るように舐めつけていく。それは私を試すような眼差しではあったけれど、私はレオにそうされることを許したのだ。今更それを、嫌とは言えない。
……もう、そんなこと、心も言ってなかったけれど。
「じゃあ、ほらどうぞ」
ややあって、レオはならばと、こちらへ、誘うように手を広げた。
「え?」
「ラナからキスがしたいんでしょ? どうぞご自由に、ラナに任せるよ。撃っていいのは、撃たれる覚悟がある者だけだ……だっけ? 僕は出来ているよ、覚悟。ラナはどうなの?」
「うぐっ!?」
うわー、そうきたか。コンチクショウ。
「……意地悪」
でもおかしい。
「うん、おあいこ」
「ぷっ」
おかしくておかしくて、今度は何か違うものが口からあふれた。
その音はなんだかとっても滑稽で。
ああそれは、とてもとてもおかしなことだと思った。
だから。
「あはは」「あはははは」
だからふたりは、そうして、ひとしきり笑い、大笑いして、それから二回目と……あと数回のキスを交し合った。
どれも唇と唇でする、子供みたいな、子供同士のキスだったけれど、たぶんそれが今の私達の……本当は正しくない……でも私達に最適化された最高の合意の在り方だったんだと思う。
「あれ、マイラだ」
「げ」
いつの間にか、温かかった湯は冷めていた。それに気付かないくらいの時間だった。
このままではレオが風邪をひいてしまうからと、私は慌ててレオをお風呂から上げることにした。
泡だらけのお湯(もうほとんど水だったけど)を下水へと流し、腰にバスタオルを巻いたレオの髪を別のタオルで拭いていると、浴室へのっそのっそと歩きながら入ってくる大きな身体が見えた。
「うー。コイツ、これまでは自分からこの浴室へ来るなんてこと、しなかったのに」
「そうなんだ? なんだお前、この匂いが好きなのか?」
「わぅ?」
「ネロリの?……犬ってそういう生き物だっけ?」
マイラはレオを最初に見たとき、尋常じゃない吠え方をした。スラム街の臭いが不快だったのだろう。人間の数千倍とも言われる嗅覚の犬には、とにかく排除すべき対象であると思えたのかもしれない。そうなら、仕方の無いことではあったんだろうと思う。
けど、丁重にお招きした客人へ、そのような対応をされた私も不快だったから、マイラはしばらく私やレオからは隔離してもらっていた。
裏門の辺りに首輪で繋いでもらい、こちらへは来させないようにしていた。
裏門は使用人達も出入りする場所だから、むしろ(マイラと触れ合う機会が増えた使用人達からは)喜ばれていたくらいだったし、レオがいる間はそのままでいいかなと思っていたけど……ここにきて私は、その考えを改めた。
「それにしても、今日ももふもふだな~、おまえは」
「くぅん」
マイラに触れているとレオは、なんだか優しい顔をするのだ。
「わ、頬っぺた舐めるなって。こっちはまだ裸なんだってば、毛がつくからじゃれるなっての」
「なっ!?」
別段、その鋭い目が、マイラの耳みたいにくてっと垂れ下がったりはしないものの、普段はその全身から立ち上っている険しさというか、緊張感というか、寄らば斬るとでもいいたげな張り詰めたものは、マイラと触れ合っているその間だけ、薄まる。
水仙でも花菖蒲でも杜若でもなく、その時だけは印象が華やかなジャーマンアイリスになるというか。
「マイラ~、あなたは抜け毛が凄いんだから、ステイ!」
「……きゅぅん」
「あはは」
その顔は、嫌いじゃない。
「でも、いつ見てもぶっとい前足だな、おまえ。ほらお手」
「わぅ」
「わ!?」
「浴槽に足をかけないでー!」
私は人を殺すレオを見て、それを自分の特別と思った人間だ。
だから険しいレオは、好きだ。時に美しいとすら思う。
けど、そうしてマイラと戯れるレオも、嫌いではない。
「それにしてもお前はでっかいな~。一瞬浴槽がひっくり返るかと思った。水が入ってないと、案外軽いんだね、これ」
「体重、レオよりもあるもんね、下手したら私とレオふたり分よりも重……」
「わうっ!」「きゃっ!?」
「ん、怒ったのか? お前。よーしよし~」
「きゃうぅぅぅん」
「びっくりしたー……体重、重いって言われて怒るの? 犬が?」
私では与えられてないものを、マイラがレオに与えているのだと思うと、それはなんだか少し、嫉妬したくもなる。けど、私は私に足りないものが沢山あることを知っている。
それにマイラは、犬だ。私とは与えられるものが違う。それはもう確認し合った。今更それへ嫉妬するのは、さすがにみっともない。
だからまぁ、今のマイラへは、さほど悪感情はないのだけど。
「じゃ、ここへ着替え、置いておくから……ほら、マイラもこっちにくる」
「くぅん?」
本当に、全然それはないのだけど。
「うん。マイラ、またな」
「わぅん……」
ないったらないのだけど……折角洗ったレオに、ベタベタと涎をくっつけるのだけは、やめてよね? それじゃ、ディープな方のキスみたいじゃない。
「ほら、くーるーのー」
「わぅぅぅん~……」
だからこれは嫉妬じゃなくて、衛生管理上の問題だからね?
ホントだよ?
「きゅぅぅぅん~……」
「ええい、可愛い声で鳴くんじゃないっ」「きゃうん!?」
「なんで怒ってるの? ラナ」
知らない。




