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epis18 : Gabriel dropkick




※前書き


 これは閑話です。


 ラナとレオの物語には特に関係がありません。


 また、1万7千字を超えているので、一気に読もうとすると大変かもしれませんゴメンナサイ。閑話1話に2週間以上かけるバカの所業とご笑納いただければ幸いです。





<絶対時間軸:epis02直後>


「ツグミっ」


 (くう)(ぼう)と浮かぶ光球(こうきゅう)に、魔道士ナガオナオの熱誠(ねっせい)籠もる音吐(おんと)はしかし、祈りのように思慕と切望の響きを帯びていた。


 応えるように、光球はそのあるべき姿を取り戻していく。


 人よりは小さい、けれど猫よりはずっと大きい、四足歩行のフォルム。


 真っ白な、しかし黄金を感じさせる波が、その表面で揺らめく。


 今、ナガオナオへ向いている方、顔らしき部分の鼻先だけが黒く色付いていき、その途中で時折、タレ耳がぴょこんぴょこんと動いた。


 やがて、白の空間にあってさえ光り輝くその姿が、明瞭となる。


 それは一匹の大型犬。


 真っ白で、しかし光り輝く毛並みはところどころ白金(プラチナ)の影も(まと)う。鼻先は黒いが、艶やかなそれは宝石のようでもある。地球の犬種名で()うなら英国(イングリッシュ)ゴールデンレトリバー。だが彼女はそれよりも白く、白銀(はくぎん)のように、白金(はっきん)のように輝いていた。


「ツグミ……」

「……わぅん」


『ナガオナオ、様?』

「んっ……」


 意思が、ナガオナオの中に入ってくる。

 久しく味わっていなかった、自分に、何かが被さる感覚。


 ──ああ、懐かしい──と思う。


 不快は何も感じない。


 自分とツグミは一心同体の存在……それを、彼は当然の感覚として持っている。


『嘘……この匂い、この()()()……』


 だから彼の心を、彼女の喜びが満たした。


「ツグミィ!!」


 だから彼の心で、彼と彼女の喜びが交じり合った。


「わんっ! わんっ! わんっ! わぅんっ! わぅぅぅんっ!!」

「おうっ……」


 体高五十五センチ(55cm)強、体重で二十五キロ(25kg)強の身体が、ナガオナオの胸を物理的に打つ。


「わぅわぅわぅわぅわぅわぅわぅわぅわぅわぅわぅわぅわぅわぅわぅわぅわぅわぅぅぅぅぅぅんっ!!」

「おぐぅ……」


 (くう)より、ナガオナオの胸に移ったその身体は、()()()

 生きていた頃のように、いやそれよりも高い()()でナガオナオの両腕に抱かれながら、後ろ足をバタバタさせ尻尾を振り、彼のその頬に残っていた涙を、唇越しにペロペロと舐めてくる。


 匂いがする。


 獣臭いような、だがナガオナオにはどんな香水よりも愛しい匂い。


『ナガオナオ様ぁ……ナオ様ぁ……』


 ナガオナオの瞳に、光が入る。一瞬、犬の肉球のように下半分が大きく、その上にハイライトが点在する、そんな形になって、それから虹彩が白金(はっきん)に浮き出てくる。


 ──ああ、()える。


 人間の身体を捨ててから、やろうと思えばできた「見る」という行為。


 ツグミがいなくなってから、だがそれをする気には全くなれなかった行為。


 どうしてもツグミを思い出してしまうから……ひとりでするのは好きになれなかった行為。


 その彼の視界に、今は己の姿が見える。


 白金(プラチナ)となった瞳、長い黒髪に少しだけ頬のこけた顔。


 これはツグミの視界、ツグミの「見ているもの」。だからそれは年若い、二十代の頃の自分だった。()うの昔に失った姿で、もはや惰性で()(つづ)けていたそれだった。


 だが──今はその姿で良かった──と彼は思う。


 今、胸の内にいるツグミは、彼らが黄金期を過ごした年若い、元気な頃の姿だ。


 そのツグミに、彼女を失い、老いさらばえた後の姿を、見られなくて良かったと思う。彼女を失ってからの彼は、それはもうみすぼらしく老いていったのだから。


『ナオ様……また会えて……よかったですっ』「わぅぅぅん!」

「私もだ……私も……お前にまた会えて……よかった……」


 思い出が蘇ってくる。


 彼には生まれつき、「観測機」がひとつ足らなかった。


 盲目で生まれ、盲目の世界を生きてきた。その限界を、絶望を、無能を、彼は思い知らされながら育った。本来あるべき能力が無い、そうでない他人と分かり合えない、自分とは違う「特徴」を持った人間は「人ではないのだから人権も無い」とばかりに攻撃してくる者達の標的にされる、それらが前提となって組み上げられた社会に居場所が無い。実際、やれることも少ない。ところによっては、ただの邪魔者でしかない。


 白い杖をついて出かければ時に小突かれる、経路を見失って立ち止まれば罵倒が降ってくる。経路そのものがどうしてか狭く(ふさ)がれていることもある。それは彼の人生、そのもの形象(けいしょう)でもあった。


 反抗はしなかった。


 正しきは弱きを排除する世界。それは当然で仕方無い。人は強くあらねばならず、強くあれぬ者は淘汰(とうた)される。それが必定(ひつじょう)。後ろなど振り返るは暗弱(あんじゃく)愚行(ぐこう)、狂乱の情熱をその身に宿した者だけが前へ進んでいける。


 ある者は恵まれた自分に、ある者は恋した異性に、ある者は正義の御旗(みはた)に、仕事に、酒に、芸術に、賭博に、酔いながら、心という内燃機関をフル稼働させて進んでいる。


 彼らへ、振り返って欲しいとは思わない。(かえり)みてほしいとは思わない。妙なモノを混ぜて心を燃やした者が、時に有害な排煙をこちらへと撒き散らしてくるが、それすらも羨ましいと思う。


 ただ、悲しかった。

 ただ、寂しかった。


 そのように生きられぬ自分が、世界の邪魔者でしかない自分が。


 だからただ、共に歩んでくれる誰かが欲しかった。

 どうしようもない弱さと一緒になって進んでくれる、誰かがほしかった。


 それはナガオナオの心の弱さ、そのもので、それが哀しくて切なかった。


『でもどうして? ここは……どこなのでしょうか?』

「ツグミ……嗚呼ツグミ……話したいことは山ほどあるというのに……言葉が……出てこぬ」


 彼に、寄り添ったのは、「誰か」ではなかった。


 いや、彼にとっては「誰か」以上の存在だった。


 彼が千速(せんぞく)長生(なお)でなくなった人生。千速長生の次の人生。


 ナガオナオの生きた世界。


 そこは地球ではなく、科学でなく魔法の発展した世界であったが、全盲の瞳を治療する魔法など無いという点では、地球と変わらなかった。


 全盲は治せない。ならば彼らを(たす)ける者はいないのか。


 人は無理だ。生涯、不自由を抱えたひとりの人間に寄り添い、援けろというのは、その人間の人生そのものを犠牲にしろというに等しい。親や夫婦であってさえ、やれることに限界はあろう。


 ならば、やはり彼らを援ける者はいないのであろうか。


 否、いないはずがない。


 否、いないわけがない。


 いる。


 犬がいる。


 盲導犬が、いる。


「聞いてくれ、ツグミ、私がそなたを失ってからのことを」

『ナオ、様?』「わぅん?」


 地球において、盲導犬の歴史は、実はさほど古くない。


 伝承の混じらぬ歴史へそれが記されたのは、千速継笑(つぐみ)、千速長生が生きた二十一世紀前半の時代より、せいぜいが百年か二百年前のことだ。


「色んなことがあったんだ、そなたに話したいことが、そなたと語り合いたいことが」

『……はい』「わぅ」


 ナガオナオが生きた世界の、ナガオナオが生きた時代もまた、盲導犬に関しては同様であったが、魔法のある世界であったため、地球に勝っている部分もあった。


「聞いてくれるか? ツグミ」

『はい!』「わんっ!」


 犬の寿命を、ある程度伸ばす魔法が存在したのだ。


 地球において盲導犬は、生後一年前後になるまで、パピーウォーカーというある種の里親の元で育てられることになる。多くはそこで幼少期を、人間に溺愛されて育つ。盲導犬としての訓練は、その後に始まる。


 そうして盲導犬は訓練の後にオーナー、つまり盲導犬ユーザーの(もと)でその任を果たしていくことになるが、地球において盲導犬がその役目を果たせるのは、犬種によっても違うが大体十歳前後までとされている。引退後は同じように引退した犬達と、穏やかに暮らせる施設へ引き取られ、そこで穏やかな余生を過ごす。


 つまり一匹の盲導犬が、人間ひとりの生涯の伴侶となるには、寿命が足らないのだ。


 ところが、ナガオナオの世界においてこの稼動時間……あるいは可動時間は……三倍以上あった。それどころか、ツグミは更にその倍以上もナガオナオへ寄り添った盲導犬だった。


 これは、ナガオナオ自身に魔法の才能があり、犬の寿命を延ばす魔法へ適正があったことに()るものだ。


 ナガオナオは才能と適正がある魔法を毎日、ツグミに使い続けた。


 いつも(そば)にいる主人より毎日、欠くことなくその想いを受け取り、過ごしたツグミは、ナガオナオの世界においても通常ありえないような長生きをすることになった。


 ツグミが盲導犬としての役割を果たせなくなったのは、彼女が生を受けてより七十年以上の時が過ぎてからのことだ。その時にはもう、普通には歩けなかったし、目も曇ってほとんど見えない状態だった。ナガオナオも、もうすぐ九十になろうかという年齢だった。


 だが、そうなってもナガオナオはツグミを手放そうとはしなかった。


 引退後の盲導犬が穏やかな余生を過ごす施設……それはナガオナオの世界にも同様に存在している。


 だがナガオナオはそこへツグミを送ることなく、ずっと自分の手元においた。


 ナガオナオは……その時点でもう、大魔道士ナガオナオだったからだ。


 彼は言った。


 自分がここまで成長できたのは、ツグミのおかげだと。


 彼は誇った。


 ツグミの余生を、もっとも充実したモノにできるのは他でもない自分自身だと。


 その時点で、ナガオナオとツグミの間には、心や信頼といったものとは別に、確かな繋がりとして結ばれているモノがあった。


 魂の(インターノード)連結(ドッキング)魔法(マジック)、「スピリットリンク」。


 それは、ナガオナオの世界において、盲導犬ユーザーに魔法の才能があった時だけ結べる、特殊な魔法だった。元々は人間間(にんげんかん)における心話(しんわ)、伝心魔法の技術だが、ナガオナオの世界では、盲導犬とそのユーザーの「視界を結ぶ」ことにも転用されていた。


 その魔法は。


 犬の視界、それと盲導犬ユーザーの視界をリンクする。


 すると全盲の人間にも、世界が「見える」ようになる。


 色の情報こそ犬のそれ(モノクロではないが、いくつかの色情報は得られない)だが、全く「見」えないのと、(不完全でも)物の形などをハッキリ「見」ることができるのとでは、なにもかもに雲泥の差がある。


 そうして彼にとって「見」える全ては、彼女の視界を通してのモノとなった。


 だが、これはあくまで「ナガオナオの魔法」だった。ナガオナオの都合で彼の魂をツグミへ接続し、その視神経を共有する……そういう魔法。


 ならば……と思った。


 同じ魔法を、瞳が濁り、「見」えなくなってしまったツグミが使えるようになれば、魔法で「観る」ことができるようになった自分の視界を、彼女も利用できるのではないかと。


 七十年を超える歴史で、それなりの意思疎通が可能になっていたナガオナオとツグミは、まるで幼子のように毎日毎日、その「遊び」を繰り返した。


 初めの内は、それは確かに「遊び」だった。


 日々弱り、衰えていくツグミと、もっと多くの時間を過ごしたい、もっともっと密接に繋がっていたい。だからこれまでを共に過ごしきたソファの上で、絨毯の上で、ベッドの上で、暖炉の前で、庭で、水辺で、出来るかどうかもわからない「遊び」を繰り返す。それだけ。


 だが。


 七十年、培ってきた絆が奇蹟を呼んだのか。


 それとも、それは当然の帰結だったのか。


 いつものように「スピリットリンク」を、動くことも困難となったツグミへと使い、同じようにしておくれと、言葉ではない言語で、彼女に伝えたナガオナオの耳……否、心へ。


『ナオ……様?……』


 ツグミの声が届いた。


 ナガオナオの世界においても、盲導犬が「スピリットリンク」を使えるようになったことなど、前例が無かった。


 だからナガオナオとツグミは、世界で初めての体験をした。


 だから老犬となったツグミに開花した能力も、初めてのことだらけだった。


『ツグミ?』

『はい……これ……は?』


 そうして完全な意思疎通が可能となり、こころなしか知能も上昇したツグミと、ナガオナオは沢山沢山、それはもう一日中言葉を交わした。今までの思い出を、想いを、相思相愛のふたりは全て言葉にして確認しあった。


 それでわかったことがある。


 ツグミは、ナガオナオの記憶、能力を一部利用することができるようだった。


 言葉が話せるようになったのも、知能が上昇したのも、ナガオナオの知識(エピステーメー)を利用してのものと思われる。ツグミはナガオナオの人生にずっと寄り添っていた。記憶の多くは共有したものだった。それの、人間側からの「認識」を、つまりナガオナオの人生経験の何割かを、ツグミは手に入れたようだった。


 これがナガオナオの探究心に火をつけた。ふたりは更に言葉を交わし、ディスカッションを深めていった。


 それからは魔法のように楽しかった。


 二十代の頃は、(かたわ)らに(はべ)るツグミの体温を感じながら、毎日魔法の修行に明け暮れていた。その情熱、思い出すだけで胸が熱くなる黄金期……九十代にしてナガオナオはそれを取り戻していた。


 乞われるまま、自分の全てをツグミへと与えた。


 ふたり、ねっころがってツグミの可能性を試した。


 笑った。笑いながら隣同士眠った。朝、(そば)にある顔へ微笑みが湧いてくるのを、抑えきれなかった。


 それはもう……だからやはり「遊び」だったのかもしれない。


 老境に入っていたふたりが思い出した童心。目の前の、最高の遊び相手と毎日同じようなことをして過ごす、それだけの毎日、それだけで楽しい日々。(わらべ)と違うのは、その一方がもう、自分の足では動けない老犬であるというだけだ。


 楽しかった。


 本当に楽しかった。


 そうしてツグミは、究極の「スピリットリンク」、否、彼女だけのオリジナル魔法(ユニークスキル)を修めることとなった。


 人間の魂へリンクし、その知識(エピステーメー)を取り出したり、保存したり、誰かへ能力(スキル)として付与したりする魔法。


 その名は……彼らの世界の固有名詞が付けられたため、日本語や英語で記すのは困難だ。ただ、それは彼らの世界の神話に登場する「巫女」の名を冠したものではある。真っ白な繭の中で眠る幼い少女、己を包む繭から糸を紡ぎ、それを人に与え、その運命とする「巫女」。繭はあるいは彼女の髪の毛であるともいわれている。


 近いのは、ギリシア神話における運命の三姉妹(モイライ)、その長女(クローソ)次女(ラケシス)であろうか。三女(アトロポス)の役割までは担っていない。そこから名付けるなら「ふたりのモイラ(バイモイラ)」などとなるのであろうが、魔法の名前としてそれは収まりが悪い。


 結局、普通名詞としての「巫女」で表すのが一番適当であるとも言える。


 北欧神話からそうした意味の名詞を探せばヴォルヴァ、あるいはスパーコナ、あるいはフィヨルクンニ()となろうか。よって以後、ここではそれをヴォルヴァと記す。


 ヴォルヴァは、人間の魂へリンクし、その知識(エピステーメー)能力(スキル)を(ある程度)自由に扱う魔法だった。


 魔法のある世界でありながらもその時代、既に近代化を果たしていたナガオナオの世界では、明らかに禁呪指定を受けそうな魔法だった。人権、プライバシーの問題、その他諸々の厄介事が山盛りテンコ盛りな魔法であるからだ。


 副作用もある。ヴォルヴァによって扱える人の知識、能力を彼らは「エピス」と呼んだが、この扱いは、少し間違えると人の精神、生命に悪影響を与えることがわかった。「エピス」は下手に扱うと変質し、悪性腫瘍のようなモノへと変わり果てるからだ。この悪性腫瘍を、彼らは「エピスデブリ」と呼んだ。「エピスデブリ」は簡単に人を壊し、殺す、恐ろしいモノであった。


 ひとしきり、ヴォルヴァの検証と実証が済んで、ふたりはこの魔法を、誰にも報せぬ、誰にも教えぬ、誰にも伝えぬモノとすることを決めた。検証には幽河鉄道(ゆうがてつどう)を使ったので、()()()不幸な被験者、犠牲者こそ出なかったものの、意図せぬ形で人が壊れていく姿は、ひとりそれを観たナガオナオの脳裏に「今この時も」焼きついている。それだけはツグミに共有させたくなかった。


 悲劇を回避しようとし、運命を切り替えれば別の悲劇が生まれる。そのことをナガオナオは十分に知っていた……そのつもりだった。


 自分の関与しないところで何万何億が死ぬのはいい、だが自分が関わったひとりが死ぬのは大問題……人間の感情とはそういうものだ。だから安易には幽河鉄道(ゆうがてつどう)の運命切り替え機能を使わなかったのだし、使用の際には十分に注意をしていた……そのつもりだった。ツグミにそれを観せなかったのだって、そのことが解っていたからかもしれない。ツグミに悪意はない。ただ自分の要請に従っただけだ。その無垢を(けが)したくはなかった。だからそれは自分が墓場まで持っていくと決めた。


 そうして「子供の遊び」は終わった。


 無邪気で楽しい「遊びの時間」は終わった。


 やがてツグミに運命の時が訪れる。


 身体が動かなくなる。


 目が、その光の全てを失う。


 もう、食べられない。もう、水も飲めない。


 衰える、失われていく、ナガオナオの(そば)で、ツグミの命が。


 盲導犬としてナガオナオの人生に寄り添い続けた英国(イングリッシュ)ゴールデンレトリバー、ツグミ。


 その享年は、七十七歳。通常の犬の寿命からすれば五倍以上。大型犬に限れば六倍以上の時を生き、死んだ。


 ナガオナオの、それだけは生まれてより何も変わらない漆黒の瞳、そこより降る土砂降りの雨の中で、彼女は逝った。


 死しても彼の(そば)にいたいと望みながら。






『そのようなことが……』「わぅぅぅん……」


 そうして今、ここにツグミがいる。


 元気だった頃の姿で。光り輝く姿で。おそらくは二十歳前後の自分の(そば)にいた頃の……だからまだ年齢ヒトケタの頃の姿だ。


『でも、えっと、あのぉ……千速(せんぞく)継笑(つぐみ)様……でしたか? ナオ様の前世で、妹だったという……どうして彼女が、私と同じ名前なのでしょうか?』

「それは、ナガオナオの名の由来に関係する話となるな」


 ナガオナオは、簡単に言えば孤児だった。彼とツグミが生きた世界において、孤児の名はその者が十八歳の時までに、自分で決めることになっている。仮名は与えられるが、それは施設名を家名(ファミリーネーム)とし、適当な数字(ナンバー)をファーストネームとした味気ないモノに過ぎない。日本語で(たと)えるなら「寺子屋(てらこや)一二三(ひふみ)」であるとか、「悲田院(ひだいん)五十六(いそろく)」であるとか、そういった類の名前だ。


「私には魔法の才能があった。それも、時空間、因果律に干渉する魔法の才能がな。だから私は、自分の名を決める際に、それを利用することにした」

『はい、そのことは伺っています。確か、ご自身の前世の姿が、(おぼろ)げながら見えた……とか』

「そう、名前もわかった。私は前世、ナオと呼ばれていた。その“漢字”は長生きを意味する“長生”だった。これは姓にするとナガオと読む。私はそれを重ね、ナガオナオとした」

「わふっ」


 その頃は、自分の世界由来の名など持ちたくは無かったからな……とナガオナオは苦笑いをしつつ、ツグミのもふもふな首筋を撫でた。


「ツグミの名も同様だ。当時は、妹であるとは知れなかったが、自分と親しくしていた女性の名であることだけはわかった。だからその名をそなたに与えた」

『ナオ様……』

「その妹が、今……というと語弊があるが、放っておけば長年、大量のエピスデブリに(さいな)まれ、不幸な転生(てんしょう)の地獄へと落ちる瀬戸際にいる。なぁ、ツグミ」

「わう?」

「私の、前世の妹に対する愛情は、そなたに対するそれの、百分の一程度だ」


 だが……と、ナガオナオは笑う。


「そなたに対するそれの、百分の一もある」

「わ、わぅぅぅん?」

「愛情は数値には出来ぬ。だが私のそなたに対する想いは、それが百分の一だったとしても、我が身をかけて救いたいと想う、それ程のモノなのだよ」

『は、は、は、恥ずかしいですナガオナオ様!!』「きゃ、きゃぅぅぅーんっ!!」


 ナガオナオの腕の中で、じたばたとツグミが暴れ、その後ろ足は彼のお腹をぺしぺしと蹴っていた。だがその身を、ナガオナオは放さない……なんかもう著しくバカップルな構図だが、彼らは大真面目だ。


 ──ツグミが自分の足で歩けなくなってからは、よくこうした。


 ツグミの身体を抱き上げたまま、その温かさに、柔らかさに、懐かしさに微笑む。


 ツグミもまた彼の腕の中でその温度に、匂いに、確かさに満ち足りていた。


 だが……そうとしてばかりはいられない。


「そろそろ、この場所を出ようか。そなたの死後、私がそなたと再びこうして過ごす、ただそれだけのために開発した技術、幽河鉄道の改造と改良、今その全てをそなたに見せよう」

『え、あの、ナガオナオ様?』「わぅーん?」











「これが、私?」


 ()()()()()()で、()()()()()()が呟いた。


 ツグミの目の前には、その上背よりも高い、大きな三面鏡が置いてある。

 幽河鉄道も、今は停車中なのでその像がブレることはない。

 それへ、ツグミは少し前傾姿勢で、変化した自分の姿をまじまじと見ている。


 白い肌のほっそりとした身体に豊かな胸部、普通ならば男性の劣情を誘うであろうそれは、しかしその首から上の要素が、印象を完全に上書きする。


 輝くような白金(はっきん)の瞳。


 雑味のないシュッとした鼻筋。


 自然な薄桃色の唇。


 この世のモノとは思えぬまでに整ったその容貌(ようぼう)は、全裸となってさえ嫌らしさを微塵も感じさせない。むしろその神々しさに欲望も(ひる)み、(おのの)いてしまうような、ある種清冽(せいれつ)にして凄烈(せいれつ)な迫力を伴う、それはもはや威圧的なまでの天衣無縫(てんいむほう)だった。


「いつか、魔道士ナガオナオが終わる時、そなたをとびっきり美しく、幸せな一生を送る女性へと転生させてやろうと思っていた」

「わぅ?」


 そのために用意していた姿がそれだ……ナガオナオはそう言って虚空へと微笑む……今は「観る」ことを停止しているため、ツグミの居場所をなんとなくでしか(はか)れない。


「だが服までは用意してやれぬでな、どのようなものを着たい?」

「なんだか……落ち着かないです。ナガオナオ様に愛していただいた、私の毛並みが……」


 白銀(はくぎん)の、豊かな毛量の髪を自分でもふもふっと撫で、当惑した表情をツグミは浮かべる。


「あと、ナオ様のツグミである証の首輪もないです……」


 細い、白く美しい肌の首に指をあて、更に不安そうな表情をツグミは浮かべる。


「そ、そうか? 首輪は犬の姿の時から既に無かったが……」

「その時はまだ、感激と喜びで胸がいっぱい……でしたから」

「む、むぅ……ならば……」


 ナガオナオが空間に腕を振り、なにかを操作する。


「わ」

「どうだ?……おおっ……」


 もういいだろうと、ナガオナオは停止していた「観る」を再開する。

 戻ってきた視界に、観えたのは。


「美しい……」

「わ、わぅん?」


 純白の()()()()()()()()()に身を包むツグミの姿だった。そこかしこにスパンコールが光るオフショルダーのプリンセスライン。デコルテはハートカットで首には白いチョーカー。長大なスカートの裾は過剰なまでに床へ広がっていて、その中心でツグミが、どうしていいかわからずに手をあたふたとさせていた。


「んんっ……なんだか変な気分ですっ。キラキラしてて嬉しいのですが、足元がとっても動き難いですっ」


 両手を、オバケがうらめしやーってするような形で掲げたまま、身体を(よじ)って全身のあちこちを()()()()()()ツグミ。なんだかちょっと……というかギャップでだいぶ……残念な美少女感が漂う。


「そ、そうか?」

「私はナオ様のツグミなのですから、もう少し働き易い姿の方がいいですっ」

「ん、うーむ」


 そうしてドレスっぽい衣装へこだわるナガオナオと、動き易さにこだわるツグミとの間で、すったもんだがあった()()……第三者から見ればイチャツキでしかないやりとりがあった末に。


「こ、これでどうだ」

「わ、ぅーん……わかりました、ではこれで」


 ツグミの身を包む衣は、フリルたっぷりな真っ白のエプロンドレスとなった。

 それが閉鎖空間であるところの幽河鉄道、その中だからこそ許される格好なのであって、そこら辺を普通に歩いていたらとても奇異で浮きまくりの装束であるなど、ふたりは気付かない。ここら辺にそうした常識を(わきま)えたものはいない。内心デレッデレのナガオナオと、御主人様が嬉しそうで自分も嬉しいその忠犬しかいない。


「犬の姿のままでは、いけなかったのですか?」

「幽河鉄道の操作にはその方が都合がいいのだ。残念だが、そなたが死者であることに変わりはない。死者の魂はすぐに結節点(ノード)を失って四散してしまう。肉体の代わりに、別の何かでその四散を防がなければならない。それを、この幽河鉄道によって成す」

「え?」


 魔道士ナガオナオのユニークスキル、幽河鉄道は端切れの寄せ集め(パッチワーク)だ。当人にも理解できない様々な技術、理屈、理論がそこには詰まっている。だがそれは逆を言えば、ナガオナオはパッチワークを生み出すことにもまた、長けていたということだ。


 端切(はぎ)れを寄せ集め、ひとつの秩序ある模様を生み出す……ナガオナオにはその才能があった。完全には理解しきれない様々な技術、理屈、理論を次々と破綻なく継ぎ足していく才能。


 生身の肉体を捨て、この次元へ至った後に学んだ「異世界転生ゲーム」の手法も継ぎ足されている。

 今のツグミの姿を生み出した「容姿チート」のノウハウもその一部だが、ここでの本命は、死者の魂を一時的に留める技術にある。


 いわゆる神様転生、高次元の存在よりチートなり加護なりを受け取って転生するパターンの()()()()()()、当然ながら神様を演じる者は、死者の魂と接触する必要がある。それも、意思確認を行えるほどに明瞭な意識を、一時的であれ任意の座標に固定する必要がある。


 だから「異世界転生ゲーム」の行使者には、人間の魂をそのように扱う技術がある。


 それは、ナガオナオがツグミの魂を保管していた技術とは、また別のロジックだ。


 魔法理論でいえば、それは空間支配系魔法に近い。空間の一部を支配し、一時的にそれを肉体の代替品「魂の座」とする魔法……のようなもの。当然ながらそれには空間支配系魔法特有の制限もある。ツグミの魂を保管していた技術には……魔道士ナガオナオが存在している限り……効果時間の制限は無いが、空間支配系魔法にはそれがある。


 空間支配系魔法は、言ってしまえば花見の場所取りのようなものだ。その権利は本当に一瞬しか主張できない。


 もし、効果時間の制限がないのであれば、魔道士ナガオナオはそれを知った時点でツグミを復活させていただろう。


 だが。


 ナガオナオのユニークスキル幽河鉄道は、それこそが時空間に干渉する魔法だ。


 であるなら、時間制限がある魂の固定技術、時空間移動ができる幽河鉄道……これを組み合わせると、どういうことになるのか?


 幽河鉄道、それ自体を「魂の座」肉体の代替品とする。

 それには制限()()がある。だが、流体断層(ポタモクレヴァス)のレールを始まりは終わりに、終わりは始りに繋ぎ、円環で閉じる(ループ構造にする)。すると、相対時間軸においては時が流れるが、絶対時間軸においては時の流れない状態が生まれる。


 空間支配系魔法の制限時間は、絶対時間軸における世界そのものの抵抗であるとも言える。花見の場所取りにおけるブルーシートは、桜の木にとって有害であるとされているが、空間支配系魔法も世界にとっては有害、もしくは異常事態の類であるのだろう。ゆえに、世界はそれへ抵抗し、正常な状態へと戻ろうとする。それを宇宙項、ラムダと呼ぶべきか、そうでないのかはともかくとしてもだ。


 幽河鉄道が生み出すループ構造は、これを無効化できる。


 幽河鉄道を肉体の代替品とした魂は、いつまでもループする時空間上の、その座標に留まり続けることができる。


 いつまでも世界は春のまま、永遠に花の咲く姿を……あるいは花の散る姿を……見続ける事ができる。一瞬を永遠とすることができる。


 だが、これには別の問題が出てくる。


 生身の肉体を捨てたナガオナオが暮らす、高次元空間においても「時」は「観測不能」だ。言い換えると、その次元においても「時」は上位にあるということであり、幽河鉄道という例外を除いては、それを俯瞰して見ることが出来ない。そして幽河鉄道は手放せば再現不可能、複製できないスキルだった。


 桜は春の一瞬にしか咲かない。花見は春にしか出来ぬ。「時」の下位にいる限り、この制限は解けない。つまり、幽河鉄道をツグミへ預けてしまったナガオナオと、それを預かったツグミは、離れ離れになってしまう。それはナガオナオが、これまでどうしても採れなかった選択だ。


 ならば自分も幽河鉄道の一部となれば……魔道士ナガオナオは、肉体は滅んでいるが死者ではない。魂は高次元的な別の座に収まっている。それは彼が大魔道士だからこそ成せた変換、あるいは相転移だが、これは言ってしまえば上位変換(アップコンバート)だ。幽河鉄道の一部となるには魂を、幽河鉄道が扱える形に下位変換(ダウンコンバート)し直さなければならない。


 死者の魂は、高次元の存在にしてみればオモチャだ。制限があるとはいえ自由に扱えるし、実際に、青髪の悪魔がそれを自由気ままに扱い、楽しんでいるところも観ている。継笑の来世の世界においては、あの者のオモチャが最期、四万人以上の人間を殺していた。悪魔のオモチャになるというのは、そういうことだ。


 自分は現状、その青髪の悪魔に付きまとわれている。


 その状態で「オモチャにされるかもしれない」形態へ自分を下位変換(ダウンコンバート)するというのは、酷く危険な行為であるように思えた。


 ──自分ひとりならいい。だがツグミを、悪魔のオモチャになどさせてなるものか。


 だからこれも無理だ。自分は自分で、この次元に留まり続ける必要がある……このことはツグミには言えないな……と彼は思った。


「つまり、その……青髪の悪魔さん……に? 追跡(トレース)される可能性があるから、私はナオ様と一緒にいられないのですか?」


 ひと通り、()()であれば『よくわからないけどわかったにゃー』と思考を放棄する類の説明を聞かされたツグミは、難しい話をすっ飛ばして、個人的(個犬的?)に問題となる部分へ、すぐさま反応を示した。


然様(さよう)。継笑が厄介なことになっている、その解決をそなたへと頼みたい。幽河鉄道、その内部構造は人の手で扱うよう設計されてる。そなたにはその身体で継笑に()い、かつての我が妹の魂を救ってほしいのだ」


 魂の救済、それはツグミの十八番(おはこ)だ。なにせ魂の一部を自由に操作できる稀有な魔法使いなのだから。


「ナガオナオ様のご命令とあらば、(いな)はないのですが……」

「うん?」


 それに、これは実験も兼ねている。


 時空間に、なんらかの形で干渉できるだろう青髪の悪魔が、()()()()()()()……という実験だ。


 なにせツグミには最初、青髪の悪魔が「異世界転生ゲーム」のコマとした少年、無敵の少年(レオポルド)と「運命を共にした」継笑(ラナ)の、その運命を変えてもらうのだから。


「でも、せっかくまた出会えたのに……寂しいです」

「む、むぅ」


 苦渋の決断をしたナガオナオの胸元へ、ツグミがその鼻先を擦り付けてくる。隠し事を抱える身だからか、それとも美少女となったツグミの、犬のような()()いに脳がバグるのか、ナガオナオの胸中がドキリと跳ねる。


「ゎう? 鼓動が、速く? 匂いの感じも少し……違い、ます?」

「あー、今のそなたは人間なのだからな、嗅覚が犬の時よりも劣ってしまうのは仕方無い」

「んー、でもこれはやっぱりナオ様の匂いです……」

「こ、こら、鼻先を顔に近づけるでない」


 無邪気に、純白の衣に身を包んだ少女が、その可愛らしい鼻先をナガオナオの顔へと近づけてくる。中身は盲導犬(ツグミ)だから他意はないのであろうが、それはもう少しでキスをしてしまうほどの距離だった。


「んぅっ?……いけないのですか?」

「おうっ!?」


 と思えば、ナガオナオの頬を、綺麗なピンク色の舌先が撫でていく。

 思えば、気分が落ち込んでいる時、ツグミはよくこうしてナガオナオの頬を舐めてくれた。

 彼女にとっては、ある種の愛情行動なのだろう。彼女にとっては。


「い、いけないというか、そ、その姿で犬の時のように振る舞うのは、色々と問題があるというか……」

「ゎぅん? 私はナガオナオ様の愛犬、ツグミですよ?」

「それはそうなのだが……むぅ……」


 ──もしかすると、これはマズイか?


 遅ればせながら、ナガオナオの心中へ、妙な罪悪感とでもいうか、自分がやったことへ多少の疑問、懐疑の念が降りてくる。ずっと人間と一緒に暮らしてきたのだから、人間の振る舞いもある程度理解してくれていると思っていた。


 しかし自分は男性で、ずっと独身を通してきた。つまりツグミは、人間の女性の所作(しょさ)をほとんど知らないということになる。このまま、無知のまま、無垢のまま、送り出してしまっていいものだろうか。


 ──いや、しかしな、ツグミが相手をするのは妹の継笑だ。


 ──妹だ、弟ではない。


 ──継笑にそっちの気は無かったはずだが……。


 ──いやいや、だが、これはなんというか……ノーマルな女性であっても魅了してしまう類の美貌……なのではないか?


 大魔道士ナガオナオは、久方ぶりに俗っぽいことで悩む。

 彼は、男女の機微に関しては詳しくない。自覚もある。

 その自分に、男女の機微どころか女女の機微、妹と美少女の機微などわかろう筈もない……ゆえにナガオナオは早々、それへ見切りを付ける。


「すまないツグミ。幽河鉄道を犬の姿でも操縦できるよう、多少手を加えるので、最初は犬の姿でツグミに応対してくれないか」

「わぅ?……私も、慣れた姿の方が落ち着きますが……ナガオナオ様」


 こてんと、小首を傾げナガオナオを見上げるツグミ。


「ん」


 これも、犬の姿でもよくしていた仕草だ。

 犬が小首を傾げるのは、周囲を警戒したりして集中力が高まっていることの証だったりするが、ツグミの場合のそれは、どうすれば自分が主人に、つまりナガオナオに役立てるかを悩んでる時にする、クセのようなモノだった。


 ──そのように悩まずとも、そなたはもはやそこにいてくれるだけで、我が幸せの源泉なのだが。


「ご命令は、承りました。ナガオナオ様の前世の妹様、千速継笑様に幸せになっていただく、そこへ否はありません。ですがお願いが……」


 おずおずと、まるで後ろめたそうに俯き、声を小さくするツグミへ、ナガオナオは。


「なんだ、何でも言っておくれっ」


 生前にも滅多になかったツグミからの「お願い」に、むしろ高ぶった気持ちで前のめりになる。


 だが。


「ナガオナオ様の匂いのする、何かをいただけませんか?」

「む……」


 聞いた瞬間、可愛いことを言ってくれる……と思うのと同時に、難しいな……とも思う。


 今ふたりが、匂い、温度などを感じることができるのは、ナガオナオがそのように魔法を展開しているからだ。これも空間支配系魔法に近いが、そもそも幽河鉄道はその全てをナガオナオが支配している。支配下にあるモノだから、そのようにも扱える。


 幽河鉄道の操縦者をツグミにすることはできる。だがそうなった時、五感の全てを再現するフィールドをツグミが展開できるのかというと……難しい気がする。


 視覚(ひかり)聴覚(おと)に関しては問題ないだろう。それらふたつは幽河鉄道の補助を受けられる。幽河鉄道は本来、過去と未来を()()する魔法だからだ。

 だが嗅覚、味覚、触覚は操縦者が、それを感じることが出来るようにフィールドを展開しなければならない。


「ダメ……ですか?」


 難しい顔になった主人を見、ツグミが不安そうな顔になる。


「ダメではない、ダメなはずがない。ただ……」

「ただ?」

「……いや。わかった、そなたにはこれをやろう」


 だが、ナガオナオはツグミに甘かった。愛娘に無垢なお願いをされた父親のように甘かった。ハニートーストにカスタードクリームとバナナを乗っけてその全面をシュガーパウダーで真っ白にして食べるくらいには甘かった。


「これは?」


 ナガオナオが空間より取り出し、継笑へと差し出したそれは、薔薇のように赤い、ゆったりとしたローブだ。


「我が魔法を込めたローブ、私が三十代の頃に使っていたものだが、覚えていないか?」

「え?……形は確かに、見覚えがありますが、こんな色ではなかったような?……というか、なんですか? この色は」

「ああ……犬の視覚では赤を判別できないのだ、私もまだ“観る”ことができず、そなたの視界のみを頼りに仕立てたものだからな、後に“観れる”ようになってから驚いたものだ。こんな派手なものだったのかと」


 この赤いローブは、ナガオナオが十年近く着用し続けたものだ。ツグミと幸せに過ごした時期の思い出も詰まっている。だからこそ彼はそれをツグミの死後、魔法的に仕立て直し、ナガオナオの魔法の触媒のひとつとしてこれまで利用してきた。今ではナガオナオの重要な装備品(アイテム)のひとつとなっている。


 現状、幽河鉄道に五感の全てが再現されているのも、これあってのものだ。


 失うのは、それなりに痛手となる。


 が。


「派手だが、今のそなたには似合うかもしれぬな」

「わぁ」


 手ずから、ナガオナオはツグミへその真っ赤なローブをかけた。ツグミにはとにかく甘いナガオナオだ。スイカに塩をかけた後ついでに砂糖もかけて更にその上を糖蜜でドッバドバにしたくらいはツグミに甘々のナガオナオだ。


 ツグミは真っ白なエプロンドレスに、だぼだぼの薔薇色なローブという、奇怪(きっかい)な格好になったが、それでも彼女の美貌は、それをまるで、そうあつらえたかのようなまとまりのある着こなしにしてみせた。容姿が整っているとバカップルも絵になるものである。素人が真似してはいけない。


「それには時空系の魔法を強化するバフ効果がある、そなた自身は時空系の魔法を扱えぬだろうが、幽河鉄道の操縦には役立てられよう」


 ナガオナオはアイテムの性能と使い方を説明する……が。


「ナオ様! 懐かしい匂いがします! ナオ様が机にかじりついて研究に明け暮れていた頃の! それを(かたわ)らで見続けていた頃の! あの頃を思い出します!」


 それを、聞いていたのか、いないのか。


「む、むぅ、そなたが喜んでくれるのであれば重畳(ちょうじょう)


 くるんくるんと、犬が主人の前ではしゃぐ姿、そのままに、ツグミはナガオナオの目の前で何度も何度もターンをしてみせる。魔法のバフ効果云々はどうでもいいようで、襟元へしきりに鼻先を近づけ、すんすんとその匂いを嗅いでいた。


「大事にします! 絶対に汚しません! 大切にしますから!」

「い、いや、それには魔法的に処理を施してある。三次元的な劣化は起きないから、安心して使い倒してくれてよい」

「ダメです! これはナオ様の一部! ぞんざいに扱っては棒に当たります!」

「……バチが、な?」

「でもでも! 抱いて眠って、涎でべとべとになってしまったらナガオナオ様の匂いが!」

「……そういう心配かっ!?」

「ソファで眠る時に! 毛布代わりにしていたらいつか変な風によじれて破いてしまうかも!?」

「どうして毎日ソファで寝る前提なのだ!? 寝台車に広いベッドがあるからそこで寝てくれ! そしてそれを毛布として使うのはさすがに想定してないぞ!? 三次元的な劣化は起きぬとは言ったが!……ってツッコミどころが多いっ!?」


 頼む、ローブとして大事に使ってくれ……と懇願するナガオナオへ、ツグミは。


「……はい。わかり……ました」


 しぶしぶといった表情で頷くのだった。


 ……その鼻先は、相変わらず薔薇色のローブへと押し付けられていたが。












 そうしてツグミは、再び犬の姿。


 白金(プラチナ)のようなふわふわの毛並み、ぺとっとしたタレ耳、目元と鼻先だけは黒い。


 今はその背中に、真っ赤な布が括りつけられている。


『それでは、ナガオナオ様、行って参ります』

「世話をかける」


 白い空間に停車した幽河鉄道の(そば)で、ふたりは感動の再会の、その名残を惜しむかのようにお互いを見つめ合っていた。本当に悲しい別れは、過去に済ませている。だから今は穏やかな気持ちだった。


「結局、その姿で行くのか?」

『はい。これがナガオナオ様に愛していただいた、私のありのままの姿ですから』

「む、むぅ」


 愛されて育ち、愛されながら生涯、その任を果たし続けた盲導犬、ツグミ。


 孤児として育ち、生まれながらの障害、それに打ちのめされながらも大成した魔道士、ナガオナオ。


「長い旅路になるかもしれない。絶対時間はループし続けるが、相対時間はそなたの身に容赦なく降り積もる」

『それを伺っての、覚悟はとうに出来てます』

「うむ……」


 ふたりは魔法使いとその生涯の伴侶であり、生まれも育ちも生き物としての種別さえも、なにもかもが違う存在でありながら、その心は固く繋がり、親愛と信頼で結びついていた。


「我の相対時間軸も、そなたと幽河鉄道に同期するのだからな、そなたと同じ時間分、私もそなたと別れ離れの時を過ごす……いや」

『はい。なるべく早く、ナガオナオ様の元へ帰れるよう、精進いたします』


 だからナガオナオも幸せな一生を送れた。


「すまない、詮無きことを言った。こたびの件は私のワガママだ。たとえどのような事態になろうともそなたには責任がない」

『いいえ、私を想ってのお言葉、嬉しく思います』


 その運命を、ツグミを与えてくれた世界を、ナガオナオは愛している。


「ツグミ……そなたを愛している」

『私もです。ナオ様』


 ならば運命を、世界を、この世の全てを憎悪する魂……そうしたモノへと成り果ててしまった継笑を、自分は救わなければならない。それが自分の使命だとも思った。


 自分とツグミで、それを成す。それは生前、ずっとそうしてきたことだし、これからもそうであってほしいと思っている形象だ。ひとりでは辛い世界も、ふたりならそうじゃない。


「いつかまた本当に、そなたと生きれる技術を私は開発する。あるいはこれもその一助となるかもしれん」

『え? それはどういう……』


 かつて少年が(ボーイ)犬と出会った(ミーツドッグ)


 それからふたりは、ずっと一緒だった。


「私は魔道士ナガオナオ、限界を、絶望を、無能を知りながらもそれへ挑む魔法使いだ。……そうだな、たとえばそなたが、人の姿で過ごすことに慣れれば、また違う道を拓くことも可能となるやもしれぬ」

「わぉん!?」


 ふたりで、生きて死んだ。


 そうしてから、肉体を失ったふたりはふたたび相見(あいまみ)えた。


 だから、いつかまた共に生きよう。


「それでは、な。我が妹を頼む。達者で暮らせよ」

『はい。ナガオナオ様も』


 その一歩を、ふたりはまたここに記す。



















『それにしても……』


 ツグミは、犬の姿でとっことっこ、一匹だけ(ひとりきり)になってしまった幽河鉄道の中を散歩し(歩き回り)ながら、今回与えられたミッションについて思いを巡らせる。


『“親しき者の死に何もできなかった”』


 幽河鉄道の力を使い、千速継笑を観測した。


『“世界に愛されなかった者を愛したい”……ですか』


 それで判明したその個性、特性、人格に深く根ざしたふたつのエピスデブリ。


 一類のエピスデブリ。


『……これはまた、厄介なエピスデブリを抱えていますね、千速継笑様』


 ふさふさのタレ耳が左右に揺れる。


『ふたつとも、最悪の部類に属するエピスデブリ……に私は思えるのですが……それが鋏挿摘出(キレート)も出来ないとなると……』


 ツグミは、もふもふの毛を波立たせながらとっことっこ幽河鉄道を巡回し、そうしながらもかなりの困難が予想される未来を想い、(おも)(わずら)って、その首を何度も何度も傾げるのであった。




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