epis14 : [Blue] Forever Blue
<ラナ視点>
気分が腐っていく。
停滞は、ねっとりとした膜だ。
ナマモノの気持ち悪い臭いが、自分という存在を常に覆っているかのような。
その中にいると、自分の中身が、血が、内臓が、どんどんと腐っていくような恐怖に襲われる。
──覚悟は、いつだって必要だった。
八歳からの五年間を、ずっとその臭いと一緒に育ってきたあたしは、だからずっと覚悟が持てなかった人間だ。
──何か、どこかで、その停滞に、罅を入れなければいけなかったのに。
だから白く光る刃を見た。
私には未来がない。
この世界に私が求める幸せはない。
そもそも自分が何を求めているのかもわからない。
それを知りたくて賭けた。
無学が浅薄な未来予想図に賭けて、もう負けた。
レオは冒険者にはならない。本人が今はまだなりたくないと言った。
それを聞いて私は……そう……とだけ答えた。敗因はわかりきっている。深堀りに意味はない。
私のひとりよがりが、当然のように運命から拒絶されたという、それはそれだけの話だ。
──もう、色々面倒。
そっと手首に、それを当てる。
──別に死ぬ気なんて無い。
そんな莫迦みたいなこと、しない。
ただ、そこに流れてる血に、冷や汗をかかせてあげたいだけ。
──死ぬのは、いつでも死ねる。
ぐっと手首を曲げる。血管が黒っぽく浮かび上がる。
汚い色だと思った。
どうして私はこんなにも汚いのだろうかと思った。
──あたしなんて、死ねばいいのに。
つるんとした、まだ何の傷もない手首が憎たらしい。
だって知ってるから。
身体に傷を創るというのは、身体を汚すことと同義で、汚れを祓いたいのに汚れてしまうなんて莫迦の莫迦らしすぎる上塗りで。
その後のことが、色々と面倒すぎて。
厄介で、煩わしくて。
何度刃を肌に当てても、それを引く気にはなれない。
ただ、刃を肌へ当てたその瞬間に、その冷たさに、この身体が震えるその感覚が、時にたまらなく欲しくなるという、それだけの話。
だけど思う。
私は、この汚い肉に、騙されているんじゃないだろうかと。
この肉が生きるために、子孫という名の分身体を残すために、私という魂がそこへ囚われているんじゃないかと。
希望を飴に、辛苦を鞭にして。
ねぇ、肉。
怖いよね?
これを引けば、あたしは終わるかもしれない。
怖いよね?
怖いって言って欲しい。
もしそうなら、私はあなたとも上手くやれると思うんだ。
いつもより、ほんの少しだけ強く、私はナイフを、手首の薄皮に押し当て。
「ラナ」
「っ!?」
強い力で、ナイフを持っている方の手首を押さえられる。
細身の、どこにそんなに力があったのだろうかというほどの締め付け。
「んくっ……」
敢え無くナイフは、カランという音を立てて床に転がった。
「レオ、どうして」
「お使い? ラナに貰ったお金を使用人の人に全部渡したら、喜んですっ飛んで行ったよ。奮発しすぎだったんじゃない?」
レオは転がったナイフへ更に蹴りを入れる。それはカラカラと音を鳴らしながら、無音で水色の絨毯の上も通り、浴室の隅の方へと転がって行ってしまった。
「僕の仕事は、ラナの護衛だったはずだしね。久しぶりにその役目を果たせたけど」
「っ……ちがっ……ちがうの! これは!」
違う違う違う。
私に死ぬ気なんかなかった。
なかったの。なかったはずなの。
ただ私は、あたしに危機感を持ってもらいたかった……だけで。
──それってつまり、どういうことなんだっけ?
「違うとか違わないとか、どうでもいいよ」
「……え?」
レオは、ふてくされた子供のような顔で、ナイフが飛んでいった方を見ていた。
今は湯の張られていない浴槽が、その視線を少しだけ遮っている。
「僕はラナに恩がある。ラナは僕に恩があるというけど、そんなのはどうでもいい。だからまだ死んでもらっちゃ困るんだ。何もやれていないからね、僕の恩返しは」
「なに、それ……」
何を言っているのだ、レオは。
レオは私の命を助けてくれた。命をだ。叔父さんの価値観に従えば、それは至上のモノであり、最も優先すべきモノであり、最も重視すべきモノであるはずだ。
命より価値のあるモノなんてない。
だから命の恩人というのは、他のどんな恩よりも重く、価値があるはずで。
レオは、私から顔を背けたまま、だけど意識は完全に私の方へ向いているとわかる立ち姿で、なにかを決意したかのように厳しい顔で言った。
「ラナは毎日のように僕を洗いたがるけど、それ、我慢してやっているよね?」
「え」
「一回なら誤魔化されたかもしれない。けど、なにせもう三ヶ月だ。何十回と繰り返されれば、さすがの僕でも気付くよ。ラナは、男が、男性が怖いんだろう?」
「っ……」
「確信したのは、僕がヒュドラを倒した日。ラナがラナの叔父さんと一緒だった日に、やっとだっただけどね」
レオはしかし、やはり私へ視線を向けないまま、更に続ける。
「男が怖い。でも、ラナはそう遠くない未来に、誰かどこかの男性と結婚する。だから僕で慣れようとしたんだろう? 僕はまだ、ラナの叔父さんのようには、男らしくない。背だってまだ、ラナより低いくらいだからね」
まだ髭の剃り痕もないつるんとした顎、膨らみのない肩、喉仏のない細く長い首。顔貌こそ鋭い目に通った鼻筋、キッと結ばれた唇と、とても少年らしいシャープなものだったけれど、その全部が、まだ「男」を感じるには早くて。
恐怖を感じることは、稀だった。
「ちが……ちがう……ちがうの……」
──何も違わない。
──だからいっそ、「汚らしい自分」ごと、レオに●されてしまえばいいとすら思っていた。
──そうなれば漸く、永遠に穢れ続ける人生にも意味があるんだって思える気がしてたから。
そうじゃない。そうじゃないんだってば。
私は「賭けをしていただけ」で、巻き込んでしまったレオにも筋は通すつもりだった。
──嘘つき。
私はレオを尊重していた。尊重しなければいけないと思っていた。その意思に、その意志に、私はどうあれ従う気でいたのだから。
──嘘つき。
だってレオは。私にとってレオは。
「私はレオを、レオを綺麗だと思ったから……」
そう、レオは、だからレオは。
──汚い私とは違って、綺麗だと思ったから、その運命に相乗りしたかっただけでしょう?
──その運命に、未来があると信じたかったんだ。
「よくわからないけど、あんな偏執的に洗っておいて、それは言い訳としてどうなの?」
「っ……」
「いいんだよ、別に。僕はここで衣食住を世話してもらってる食客だ。やれないことはあるけど、やれることならする。それに、年上の女の人に洗われるなんて、本当はお金を払ってやってもらうものなんじゃないの?」
「えっ!?」
「……なにその、食べているご飯を取り上げられた時の犬みたいな、予想以上に裏切られました感が出てる声」
「え、いやだってその……レオがそういうの、知ってるとは思わ、なくて……」
「???……だって本当は使用人がすることなんでしょ? この家の使用人、大体が年上の女の人じゃない」
「自爆っ!?」
リスカの未遂現場を見られるよりも恥ずかしい勘違いがががっ。
「それにね、護衛としての役目を、久しぶりに果たせたって言ったけど、それは僕だけの手柄じゃない。犬のおかげだよ」
「え?」
「あの犬、なんて名前だっけ? 真っ白で大きな、僕が最初に会った時、結構な勢いで吠えてきたアイツ」
「マイラ?」
「マイラっていうんだ。アイツが、お使いに行こうとした僕の服を噛んでね、しきりにラナの部屋の方へ僕を向けようとしたんだ」
「マイラが……」
マイラは大人しい犬だ。本当は番犬として飼われているピレネー犬だから、それではダメなのだけど、どうしてか妙な愛嬌がある犬で、今では使用人達の愛玩動物みたいな扱いになっている。私にはあまり慣れず、懐かず……というか何もしてないのに、私の姿を見るとどこか怯えたそぶりも見せる。夢の中のあたしみたいなことは、するつもりがないのに。
「元々、護衛の僕に、誰でもいいお使いを頼んできた時点で、変とは思っていたからね。それならこのお使いは、誰かに頼むかってなったんだ」
それで、こっそり戻ってみれば、私が刃物を手首に当てている現場を発見したってわけか。
「ラナは、どうしていいかわからないことを運否天賦で、賭けで決めようとするところがあるよね。僕が戻ってくるかどうかも賭けだった?」
「それは……」
違う、とは言えない。
改めて考えてみれば、護衛に誰でもいいお使いを頼むというのは、凄く怪しい行為だ。
不審に思われても仕方無いそれを、しかも私は今回、初めて頼んだ。
その初めてで、あたしはリスカごっこをして遊んでいた。
自分でも良くわからない。
だけど、それは見方を変えれば、凄い「かまってちゃん」だ。
レオの側から見れば、そういうことになるだろう。
言い訳をするには、私の中に確信が足りない。
──私は何を、どうしたかったんだろう?
「僕はラナが本当に死にたいんだったら、止めない。ラナの命はラナの自由であるべきだと思うから」
「ぇ……」
でも……本気なんかじゃないんだろう?……床を睨みつける、鋭い目が雄弁にそれを語っていた。
「う……」
羞恥に顔が、身体が熱くなる。
あたしの醜さがレオに見られた。
それが本当に死にたくなるほど、恥ずかしい。
けれど、レオはそれに激しく頭を振り、「そうじゃないんだっ」と吐き捨てるように言う。
「どうでもいいんだ、ラナがどうしたいだとか、ラナがどんな悩みを持っているだとか、そういうのは」
「……え?」
「僕はラナの護衛だから。ラナを守るためにいる。ラナが自分の名誉を守るために殺してほしいというなら、そうしてあげてもいい。僕は生まれつき、人を殺す方が得意な人間なんだ。それでいいんだったら、僕も楽だからね。でも、本当は死ぬ気なんてないんだろう? だったら僕はラナを護るさ。護衛なんだから」
「見捨て……ないの?」
酷く怯えた声が、自分の喉から絞り出た。
「……はぁ?」
するとレオは目を背けたまま語気を荒げる。
もしかしてと……そこで思う。
──レオが、私を見ようとしないのは……男が怖い私を、怖がらせたくないから?
「どうしてさ? この関係において、見捨てるのはラナの方じゃない? 雇用主はラナ、僕はよくて食客なんだろう? 僕がラナを見捨てたらどうなるか、ラナは知ってる?……スラム街に逆戻りさ。僕に頼る人はない、行き場がないんだ。僕を、いっぱしの人間として扱ってくれるのは、この世ではラナだけだよ。僕はラナから離れたらまた人間でないなにかに戻るんだ。それを嫌とは思わないけど、ラナは僕が、本当にそれを望んでいると思う?」
自分より背の低い少年が、横幅だってまだ私と同じくらいの男の子が、私よりも暗い目をして何かを吐露する。その様子を、私は不思議な感覚で見ていた。
私は孤独だった。
私はひとりっきりで、この世界に醜く存在しているんだと思った。
その殻が……なにかでコツコツとノックされている気がする。
そのなにかは、ああ。
やはり世界に受け入れてもらえなかった、世界から見捨てられた同族の手だ。その小さな握り拳だ。
「僕はラナを護るよ。それを、ラナが許してくれるなら」
その手を、震える男の子の腕を、私は見る。
まだ細い、華奢と表現してさえ間違いではない、一部は骨ばった腕。
どこに人を殺す力が宿っているのか、全くわからない腕だった。
「レオ……」
レオは、子供だ。
そう、叔父さんとは違う。
そうか、叔父さんとは違うんだ。
既に自分の生き方を定めた大人ではない。
レオも、自分がどうやって生きていったらいいか、わかっていないんだ。
あたしと同じなんだ。
それは多分、世界の常識からしたら「弱さ」以外の何物でもないのだろうけど。
「私はレオに、謝らなくちゃいけないことがある」
「なに?」
「うん、レオの推測は半分あってる。私はレオで男性に慣れようとしていたかもしれない。というより……それを含めて、自分がどうなるかの賭けだったんだと思う」
「半分か。まだまだってことだね」
「レオは、色々とボーダーな男の子だったから、色々な可能性が考えられたの」
善か悪かもわからない。
家に上げたら、悪さをする可能性だってあった。お金を奪って逃げるなんてのはまだ普通で、ママもあたしもマイラもみんな、殺して去っていく可能性だってあった。
二次性徴が来ているのか……男性としての欲望に目覚めているのかどうかすらもわからなかった。
あたしを●すでも、ママを●すでも、そういう可能性は十分にあった。
そして私が、そんなレオを受け入れられるか、それとも受け入れられないのか、それすらも未知数だった。
「私は、レオと触れ合うことで変わりたかったんだと思う」
「触れ合うことで、変わる?……」
「私はあたしが嫌いだから、その今が変わるなら、どうなってもいいとすら思っていたのかもしれない。だからそれを、運否天賦に賭けた」
少なくとも、昨日までの私は、レオを男性として好きという状態ではなかった。
──なら、今は?
ただ、「特別」であることだけはわかっていたから、それに運命を賭けてもいいと思っていただけだ。
人生が悲劇へと向かうのであれば、せめてそれくらいの選択はしたかったから。
──ねぇ、あたしを無視しないで。ねぇ……今は?
「なるほど、なら、僕は何をしたとしても、ラナの手の平の上だったってことだね」
死んでもいい、●されてもいい、奪われてもいい。
元々、未来のない私には、そのどれもが大差ないものだった。
「なら、僕はもう選んだよ。次はラナが選ぶ番だ」
──答えて。
「……え?」
なお、ラナはリスカを、ごっこであり遊んでいただけと考えていますが、レオをマイラが引き止めなかった場合、彼女はこの段階で左手首に大きな消えぬ傷を負っていました。
そうした境界で起きる事故もあるので、物語で描かれる危険な行為は、遊びであっても、現実では絶対に真似しないで下さい。