epis01 : Worldend slaughterer
──臭いだけが、どれほど重ねても慣れなかった。
血も悲鳴も、怨嗟も断末魔も、いつしか慣れていた。
百を超えた辺りから、もうどれだけ殺したか覚えていない。
心の表面だけが、こんなはずではなかったという呪言で固まっている。
その中はがらんどう、もう何も感じない。
倒壊寸前の朽木のように、からっぽだ。
「貴様……どうしてそこまで殺せる……どうして……」
「……知るか」
「ぐぎっ!?……」
何度も聞き、既に飽いた問いをまた、殺す。
「……ふん」
命をまたひとつ、潰したことで、手に握る片刃の剣は、もはや赤と茶と灰の混沌へと染まっていた。
──臭いだけが、どれほど重ねても慣れず、嫌いだった。
死の臭い。
──だがそれは、既に俺の全身をも覆っている。
もう、手遅れだ。
──俺は、この臭いにまみれて死ぬ。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も、見てきた終焉。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も、この手で創りだしてきた終焉。
それがこの身に訪れるのも、そう遠くはない。
それに、何の感慨もない。
ただ死臭が、たまらなくイヤというだけだ。
絶望は既に、彼の後方、遥か彼方にある。
物心付く前にはもう殺していた。
絶望に辿り着く前にはもう殺していた。
それで得たモノもあった。
そして喪った者もあった。
殺して殺して殺して殺して殺して殺して、その意味がわかった時には手遅れだった。
殺して殺して殺して殺して殺して殺して、進むしかない人生だった。
だから殺して殺して殺して殺して殺して殺してきた。
そんな人生も、もはや終わりが近い。
だから終わる世界を眺めた。
濃厚な死の臭いがした。
夕暮れに染まる大地に。
その地平に。
千は越すであろう死体が。
死骸が。
亡骸が。
乱雑に散らばっている。
無造作に転がっている。
それが、彼の生み出してきた風景。
それが、極悪人が生み出し続けてきた風景。
それはもう、あまりにも莫迦莫迦しい数字。
万の軍勢をも殺す単身の刃が、既に二万を超え、殺している。
心を取り戻し、異常と知ったそれは、しかし彼の生きた現実でもあった。
かつて英雄と呼ばれ、然る後に悪人となり、やがて極悪人となった彼、レオポルド……レオ。その年齢は、彼が殺してきた数字よりも更に莫迦莫迦しい。
後の世に、享年が十四であったと記される極悪人レオポルド。
十四歳……とされていた少年に、ふたつの国が、協同して五万を超す兵を差し向けた。
たったひとり、彼のためだけに動員されたその数字は、この時既にその半分が死滅してしまっている。それは、お伽噺として三歳の子供に読み聞かせても、すぐに嘘と断じられることだろう。
だが彼は殺した。
万を、万を殺した。
殺して殺して殺して殺して殺して殺して、そんなこと、本当はしたくなかったのに、殺して殺して殺して殺して殺して殺した。
仕方なかった。
──だって俺は悪くないのだから。
──だって俺は正義の果てにここにいるのだから。
──その筈なのだから、間違ったことなどはしていない。
──ならばおかしかったのは何か。
──ならばおかしくなったのは何か。
──世界だ。
──世界がおかしかった。
──世界がおかしくなっていった。
──世界が狂っていた。
──世界が間違っていた。
──この世界が悪だった。
だから襲ってくる世界を、ただただ殺す。
そんな風に、頭蓋の裡を真っ黒にして、殺して殺して殺して殺して殺して殺した。
その限界が、もはや近い。
尽きかけているのは体力ではなく。
気力でもない。
強いて言えば、運命。
彼の運命が、限界を迎えようとしている。
──だって仕方がなかった。
彼にしても、五万の兵は辛かった。
普通、戦争などというモノは、どちらかがどちらかを数割も削れば終わるものだ。
通常の戦争は、ある種の外交手段に過ぎないのだから。
そこに狂気がなければ、どちらかが壊滅するまで終わらないというモノではない。
だがここには狂気があった。
彼という特異点に対する、根源的恐怖という狂気があった。
どうしてたったひとりを殺せないのか。
どうして華奢な少年ひとりを殺せないのか。
どうしてあらゆる常識を無視して彼は殺し続けられるのか。
理解できないモノへの恐怖が、そこにあった。
それが極悪人の運命を磨耗させ、命運を削っていった。
彼は間違いなく、その本質が特異点であった。
彼本人でさえ知らぬ、彼の強さの理由は、彼がより上位の世界に片足を突っ込んでいたという、ただそれだけのことに過ぎない。
それは、いわばノートへ「目の前の十人を殺す」と書けば、その通り、彼の目の前の十人が死ぬといった現象に近い。
彼は望む結果を……魔法ですらない……まったく異次元の理屈によって成すことができる……そうした異能の存在であった。
だが、それを理解し、知る者はいない。
彼本人でさえ、知らぬ。
ただ剣を持ち、対象に殺意を向ければ相手は死ぬ。
彼にとって殺人とはそういうモノで、だから殺して殺して殺して殺して殺して殺しても、殺して殺して殺して殺して殺して殺しつくしても、自分が殺人者であるという実感を持てなかった。
それは、いわば人が、靴の裏につぶれたアリを見つけたとしても大した感慨など持てぬのと同じように、彼にとって殺人は、日常に起こり得る「ちょっとした嫌なこと」……それ以上のモノではなく。
「重装隊! ファランクス陣形! 八方より取り囲め!! 悪魔を押し潰すのだ!!」
「人のこと、悪魔、悪魔って……俺に喧嘩を売ってきたのは、お前達だろう……」
気が付けば、彼はタワーシールドを構えた全身鎧の群れ、およそ三百に取り囲まれている。
二十から三十の群れが団子状に固まり、その塊の数、十二。
対峙する彼は血塗れの革鎧に、冑すら付けていない。
だが飛んでくる矢が彼に当たることはない。それが彼の運命だったからだ。
剣も槍も斧も棍棒も彼を傷付けることはない。それが彼の運命だったからだ。
莫迦莫迦しいことに、それが彼の運命だったからだ。
しかしそんな彼の命運も、もはや尽きようとしている。
──あと、どれだけもつか。
濃厚な死臭を纏い、彼は片刃の剣を握る。
ラナの形見といってもいい、大切な剣だ。
これほどまでに汚され、穢されてしまったことに単純な怒りを覚える。
だが怒りはいい。
もう膝をつきたいという地獄からの呼び声を、掻き消してくれるからだ。
だから確信する。
次の一撃は、殺せる。
三百の重装備に囲まれながら、赤黒く汚れた顔を少し拭って、彼は凄惨に笑った。
──ああ。
──まだ。
──願える。
ほら。
──さあ。
──死ねよ。
「一斉突撃ぃぃぃぃぃ!!」
「うおおおおおおおおおおおおお!!」
「行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行けぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
怒号。
地鳴り。
金属の鎧がガンガンキンキンと鳴る音。その重なりが生み出す、雷鳴がごとき轟音。
叫ぶ声、咆哮、喚き声、雄叫び、怒鳴り声、絶叫。
世界が、彼に牙を突きたてんと襲い掛かる。
だが。
白刃が煌いた。
曲線が、描かれた。
それは達人が見ればあまりにも無駄、無意味な軌道。
そも、襲いかかる三百の全ては、金属の鎧を身に纏っている。
片刃の剣より、むしろ斧やフレイル、モーニングスターなどが有効な重装備だ。
どうすれば十四歳の少年が手に持つ、さほど大きくも長くも無い剣が、分厚い金属の向こうにある益荒男どもの肉体を傷付けられるというのか。
だが、意味がわからないことに、少年がデタラメに動いたかのように見える軌跡の、その線上には、身を折って倒れていく偉丈夫達の姿があった。
「ま、またかっ!? どういうことなんだ!!」
突撃を命じた大隊長らしき者が、絶望的な声を上げる。
「がっ!?」
が、その首もまた一瞬で空へ飛ぶ。
断面より、噴水のように血が噴き上がる。
最期に思ったことは、何故?
号令を発した時、自分は少年から随分と離れた所にいた。大股で走っても三十歩はかかる距離であった。その間には、何層かのファランクス部隊が連なり、盾となっていたはずだ。
だがその刃は、この首を斬った。
意味がわからないと、空を飛ぶ首は想い、果てた。
極悪人は魔法使いではない。
彼の残した何百何千という死体を調べても、そこにあるのは普通の刀傷であり、その意味においての不審は、何も無いという。
だからおかしいのだ。
高速で動いているのは確かだが、時を止めているわけではない。猫の吐く毛玉のように複雑な曲線が集まった、デタラメで意味のわからない軌道だが、そこにも特には不審が無い。
だが極悪人は、彼の視界に入るモノ全てを斬ってしまう。
それがこの一年以上、悪人が残してきた結果であり、この戦場において全ての者が目撃してきた現実だった。
常識を斬る剣……誰かがそれをそう、評した。
世界そのものを壊す剣……誰もがそれを、そう怖れた。
悪魔が遣わした使徒であるとも、悪魔そのものであるとも囁かれた。
極悪人が、自分を追い詰めた世界に、そうして怒りを糧にして何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も、百単位の人間を殺し、殺し、殺し、殺して殺して殺して、五万だった軍隊の桁が、ひとつ減った頃。
ラクダの背を折る最後のひと藁が、ようやっと極悪人の命運を削りきった。
「どうした!?」
「前線の者! 報告せよ! 極悪人レオはどうした!?」
「うぅ……わぁ……うわあああぁぁぁん……」
少年は泣いていた。
「あぁ……ああっ!……あああぁんっ……」
四万を超すアリを踏み潰してしまったことに、泣いていた。
こんなはずじゃなかったと己の運命を呪っていた。
生まれてくるんじゃなかったと思った。
──こんな風に死臭まみれで生きるのであれば、ラナの胸の中で死んでしまいたかった。
自分の本当の願いは、望みはそれだけだったんだと、大虐殺の果てに思った。
──もうイヤだった。
──自分は正義だったのに。
──間違いなく正しいのは自分だったのに。
それをいかな手段を以ってしても殺そうとする世界がイヤだった。
そうされれば、殺すしかない自分がイヤだった。
だから少年は最期に思った。
「ぐすっ……もぅ……殺すのはイヤだ」
その、瞬間。
怒りも、悪を憎む気持ちも、生き残ろうという気力も、なにもかもが死臭に包まれ、見えなくなった瞬間。
「討ち取った! 討ち取ったぞぉ!!」
「極悪人レオポルド、その首、我らが正義の御旗の元! 討ち取ったりぃぃぃ!!」
「うおおおぉぉぉ!!」
極悪人の人生は、終わった。