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純文学ジャンル

河童

作者: X

 「俺、河童なんだよね」

 緑色の肌に口には嘴があり、手足には水かきがあった。そして頭頂部にはてらてらと濡れて光っている円形の皿がついていた。河童である。紛うことなき河童であった。

 

 彼が「俺、河童なんだよね」と言わなければ僕の方のから「あなた、もしかして河童なんじゃなんじゃないですか?」と声をかけていただろう。

 季節は夏。都会の茹だるような暑さを避けるため、そして離れて暮らす家族に会うため、僕は父さんと一緒に岩手県に来ていた。僕にとっては小学校最後の夏休みだ。その最後の夏休みに河童に出会った。

 

 「俺、河童やめたいんだよね」

 黙っている僕を無視して、河童は言葉を続ける。 

 「あの……河童ってやめれるんですか?」

 なんとか言葉を絞り出した僕をじろりと見て河童が笑った。

 「お前ずいぶん冷静だな、普通俺みたいな河童が居たら叫びながら逃げると思うんだけどなぁ」

 

 確かに僕が普通の精神状態なら叫びながら逃げ出していたかもしれない。だけど今の僕にはとてもそんな元気はなかった。

 傷ついた心をいくらか慰めるために近くの小川を眺めに来たことでまさか河童に出会うなんて思わなかったが、しかし小川を眺めても河童に出会ってさえも僕の心はみずみずしい動きを取り戻さなかった。

 

 「お前、元気ないな。怪我でもしてるのか? 河童の秘薬の膏薬いるか? なんにでも効くぞ?」

 河童が僕に近づき、心配そうにジロジロと僕の体に怪我がないか見る。ぷんと生臭い香りが臭ってきた。

 「いえ、大丈夫です。怪我なんてしてません」

 僕が一歩下がり、腕を振って元気だと示すと河童は「そうか」と呟いた。

 

 そうか、じゃあさようならと言ってくれることを期待したが「で、だな」と話を続け始めたので僕はかるい失望を感じた。河童はこっちのことなんてお構いなしだ。河童は身勝手だ。

 「で、なんでやめたいかというとだな。俺、キモくないか?」

 

 唐突な自虐の言葉に僕は驚く。まず河童に美醜に感覚があるのに驚き、さらにその美的感覚では自らを醜いものだと認識していることに驚いた。

 

 「キモくないですよ」

 

 嘘である。河童は十分キモかった。確かにイラストなどで見るデフォルメされた河童は可愛らしいが、いざ目の前に生の実態として現れた河童はキモかった。肌は緑だし、嘴あるし、手足には水かきあるし頭には皿載せてるし、生臭いし、あとなんだかデカい。身長百五十センチの僕とほとんど変わらないか少し小さいくらいの背丈がある。

 

 「嘘つくなよ。そんな引き攣った顔で言われても嬉しかねぇよ。あのな、お前心にもないこと言うんじゃねぇぞ? 心にもないこと言うとな顔が歪むんだよ。お前どろぼうの顔見たことあるか? あいつら顔が歪んでるだろ? あいつらはさ、心にもないことを……つまり嘘だな、嘘ばっかりついてるから顔が歪んでいっていつしか戻らなくなっていわゆる悪人面になっていったんだな。あいつらだってガキンチョのときは顔は歪んでなかったはずだ。嘘つきはどろぼうの始まりって言うけどよ顔まで変わるんだぜ嘘なんてついてもいいことねぇよ」

 

 よくわからないことを滔々と河童は語っているが何気なく河童が言った「心にもないことを言うな」という言葉がずんと僕の心に響いた。

 

 「ねぇ、心にもないこと言われたらわかるの?」

 思わず砕けた口調で僕がそう尋ねると河童を腕を組んで自信満々に「そりゃ河童にだって人間にだって分かる」と断言した。

 「嘘を言うとバレるし、自分の顔も歪む。いいことなしだ」と河童は頭の上の皿をピチャピチャと触る。

 

 「ごめんなさい、河童さん。河童さんはキモいです」

 意を決して僕がそう告げると河童は頭の上の皿が落ちるんじゃないかというくらい仰け反って目をぐわっと開いた。

 

 「それは、お前、言い過ぎだろ……。そりゃ、俺は嘘はつくなって言ったけど別に真実をありのまま言えって言ったわけじゃないだろ。あのな、程度ってもんがあるだろうが、な? そりゃ俺はキモいよ? わかってるよ? でもそれをストレートに言われちゃ俺だって心があるわけだから傷つくわけよ、わかるだろ? だからこういうときは確かに僕達とは姿が違いますけどそのお皿は格好良いですねとか水かきあると泳ぐとき便利そうですね、とかそういうふうに言うもんなんだよ」

 

 また猛然と河童が喋り始めた。そして僕は気付き始める。この河童、すごく面倒くさい。 

 

 「はぁ……」と僕がため息か相槌か分からないような声を出すと河童は「そんなことはまぁいいかと」呟いた。えっいいんですか? と思う間もなく河童はどこからか出した拳大の石を僕に手渡してきた。あまりにも自然にも手渡してくるものだから思わず僕は受け取りしげしげと石を見つめて「これは?」と僕が尋ねると河童はこれから飯でも食べに行こうかという気軽さで「割れ」と言った。

 

 「わ、割る? な、なにを割るんですか?」

 「決まってんだろ。俺の皿を割るんだよ」

 河童は砂利が敷き詰められた河原にあぐらをかいて座り込み、腕を組んで目を閉じた。

 

 「さぁ! やってくれ!」

 「嫌ですよ! なんで僕が! というか河童って皿割ったら死ぬんじゃないですか?」

 僕の悲鳴にも似た声が小川に響いた。なんで僕が河童の皿なんて割らなきゃいけないんだ。

 

 「河童の皿が割れたら、河童がどうなるか、それは分からない。ただ俺は河童をやめたいんだ。河童が河童たる所以って言えばそりゃあお前……皿だろ? だから割るんだ」

 めちゃくちゃだ。なにを言ってるのか分からない。なんで僕は河童と喋っているんだ。なんとなく受け入れていたこの状況がそらおそろしくなってきた。

 

 「自分で割ったらいいじゃないですか?」

 さっき河童にお前冷静だな、と言われてたが僕は先ほどまで全然冷静じゃなかった。傷ついてやさぐれてどうにでもなれと自暴自棄になっていたのだろう。だから河童が現れてもなんとなくこうやって喋り続けていた。

 

 だが、今は違う。石を手渡され皿を割れと言われた途端怖くなりここから逃げ出したいと思った。ぱっと顔に冷水をかけられたように醒めた気分になっていた。

 石を地面に置いて、じゃあ僕はこれで、と思い切って河童に背を向けて歩き出そうとすると「待て待て、待ってくれ」と切実な河童の声が後ろから聞こえたかと思うと河童が目の前に居た。

 

 「えっ……?」と口から言葉が溢れる

 えっ……? 回り込まれた? 

 「いや、もう帰らなきゃいけないんで」ともう一度踵を返して今度は走ろうと右足に力をこめた瞬間、「自分で皿割るの怖いじゃねぇか。だから誰かにやってもらいたくてよ、そこにお前が来たってわけ」

 

 またもや河童が目の前に居た。

 速い、この河童めちゃくちゃに素早い。そういえば河童って相撲が好きだったはずだ。相撲で鍛えた下半身からその瞬発力が生まれるのか? 

 

 僕は一度国技館でお父さんに連れられて相撲を見に行ったことを思い出した。それまで僕の相撲のイメージは太った男の人がよいしょっとといった感じ組み合い押し合い倒し合うものだと思っていたが実際はスピード感溢れ、肉が弾ける音と衝撃が僕の全身をおそい、非常に恐ろしかった。

 

 ふと視線を落とし河童の足を見るとムキムキと筋肉が隆起し緑色の肌を押し上げていることが分かる。五十メートルを九秒台で走る僕の鈍足加減ではとても逃げ切れないだろう。

 

 逃げられない、とわかると逆にふと落ち着いてきた。逃げられないんだったら仕方ない。なるようになれと思い始めてきた。ただ皿を割るのだけは勘弁だ。

 

 「あの、お皿を割っても河童はやめられないと思います」僕は河童に対して話し始めた。

 「だってそうでしょう。僕が髪を切ったって爪を切ったって僕が僕であることは変わらないし変えられない。どうしようもないことなんだと思います」僕は話しながらジクジクと胸が痛むものを感じた。

 「だったらどうすればいいんだ? こんな皿や嘴や水かきを持ったまま生きていくしかないのか? きゅうりだって実は嫌いなのに」

 

 河童は打ちひしがれたようにうなだれ、自分の水かきのついた手を僕の目の前で広げる。

 「生きていくしかないんだと思います。お皿や嘴や水かきを持ったまま、でもきゅうりはこれから好きになればいいじゃないですか」

 河童は納得してないような難しい顔をして、むすっと黙り込んだ。

 

 「健ちゃーん! 健ちゃーん!」と僕を呼ぶ声が聞こえてきた。ふと声のした方を見るとまだだいぶ離れてはいるところに女の人が立っていた。遠目でもよくわかる。姉さんだ。

 「姉さんだ」と口にも出して言った。探しにきてくれたのかと半分嬉しくもあり、今はちょっと会いたくないなと半分顔を合わせるのが嫌でもあった。

 

 「お前の姉ちゃんなのか? 美人だな」と河童は目が良いようで少し目を細めて姉さんを見ている。河童の美的感覚では姉さんは美人に分類されるらしい。

 

 「でもお前の姉にしてはずいぶん年上みたいだなぁ」

 姉さんと僕は十歳も離れている。暮らしているところも別々だ。僕は東京、姉さんは岩手、年に数回しか姉さんには会えない。だから僕は今回の岩手旅行本当に楽しみにしていたのに……。

 ずっと黙っている僕の横顔を河童が覗き込んでいる。視線を感じる。

 

 「好きなのか?」河童が僕に聞いてきた。

 「好きじゃないよ、姉さんなんて」ぶっきらぼうに答えると河童は笑って「顔が歪んでるぞ」と言った。

 「結婚するんだ」僕が言うと「お前がか?」と明らかにわかっているくせに河童は言った。

 そんな河童を無視して僕は続ける。

 「さっき姉さんに言われたんだ。この冬に結婚するってそれを聞いたらなんだか目の前が真っ暗になってでも口では僕はおめでとうって言ったんだよ。……そしたらなんだか父さんも姉さんもすごいびっくりした顔をして驚いてたんだよね。なんだかいたたまれなくなって家を飛び出してきて君に出会ったってわけ」


  僕はすっかり敬語を使うことも忘れていた。

 「ふーん」と河童は聞いていたが、今度は口を大きく開けて笑うと「俺は河童をやめたいがお前は弟をやめたいんだな、そんなに姉さんのこと好きなのか?」

 先程と同じ質問を河童は繰り返した。僕の答えは変わらない。

 

 「好きじゃないよ」

 「だから、歪んでるって」

 ふと気が付くと姉さんが目の前に立っていた。いつの間にか河童は消えていた。

 「健ちゃんごめんね、こっちに来たばっかなのにいきなり変な報告しちゃって」

 「いやそんなことないよ……僕の方こそごめん」

 

 姉さんを目の前にするときゅっと胸が傷んだ。カリカリと皮膚の裏側から爪を立てられひっかかれているような痛みが走る。

 「相手はどんな人なの?」僕が尋ねると姉さんは気遣うように目を伏せて「会社の人なんだ、とっても良い人。健ちゃんもきっと好きになるよ。家族になるんだしね」

 ならないよ、と心で答える。河童だってきゅうりが嫌いなのに僕がそいつのこと好きになんてなるわけないないよ。さっき河童にはきゅうりはこれから好きになればいいなんて無責任なことを言ったけど、僕にはとても無理そうだ。

 

 「姉さん……おめでとう」

 なんとか言葉を絞り出した。嘘だ。顔が歪まないように歯を食いしばる。

 「うん、ありがとう。健ちゃんお家に帰ろ? お父さんも待ってるよ」

 すっと手を出してくる姉に背を向けて「すぐ戻るから先に帰ってて」と僕が言うと姉さん数秒逡巡したあとに「うん、わかった」と言い、離れていく姉さんの足音が聞こえた。 

 

 「くそっ! くそっ! くそっ!」

 河童が河原に膝をついて右手に持った大きな石で頭についている皿を叩き割ろうとしている。皿は割れるどころか傷一つもつかない。

 

 「割れねぇんだ! 割れねぇんだ! 割れねぇんだ!」と悪態をつきながら涙を流す河童に僕は声をかけた。

 「ねぇ、さっき言ってた秘薬の膏薬ちょうだい」

 河童は皿を割る作業をやめて僕を見たあとすぐ目を逸した。

 「あーあれは……心の傷には効かないんだ」

 そう答えると河童はまた石で頭の皿を割る作業に戻った。

 

 

 

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