二度目の人生を共に①
温かい、優しい匂いがする。
これは……リーデルシュタイン城で使われている、石けんの匂い。
それから、厨房で使用人たちが食事を作っている匂い。
まだ、体はだるい。
でも、もう起きないと――
「……え?」
私は、目を開いた。
前方に広がっているのは、白っぽい色の天井。子どもの頃から見慣れている、リーデルシュタイン城内にある私の部屋の天井だ。
がばっと身を起こして――私はまず、自分の胸から左腰にかけての肌に手を沿わせた。
雨の中、アレクシス様にばっさり斬られたはずのその部分は、滑らかだ。
急いで寝間着を脱ぎ捨てて裸の胸元をじっくり見たけれど、傷痕の一つすら残っていない。
……どういうこと?
……いや、ちょっと待って。
アレクシス様の子を妊娠した私は、とっくに成長期は終えていたけれどちょっとだけ胸が膨らんできていたし、下腹もぽっこりとしていた。
それなのに、今の自分は――元々スマートとは言えないけれどお腹に赤ちゃんがいるとは思えない体型で、胸の膨らみも控えめだ。
「……えっ?」
ぺたぺたと自分の顔に触れて……髪の長さの異変に気づく。
妊娠してから私は医者の勧めを受けて、長かった髪を肩までの長さに切ってもらったはずだ。
それなのに、今の私の髪は背中までの長さだ。
……これは、どういうこと……?
ひとまず、さっき脱ぎ捨てたばかりの寝間着を着た。
……今気づいたけれどこの寝間着、結婚の際に捨ててしまったものだ。胸元のネコの刺繍が特徴的だから、忘れるはずもない。
「……何、どういうこと……?」
私は……アレクシス様に斬られた私は運ばれてなんとか一命を取り留めて、かつての自室に寝かされていた――わけじゃないの?
ふらふらしながら壁に手を突いてベッドから降りた私は、壁際に置いていた鏡に気づいた。この鏡も、割れてしまったから少し前に捨てたはず――
鏡に映る私は、長い茶色の髪に、大きなオレンジ色の目を持っている。
騎士の娘として護身用の剣術は教わっていたから、貴族の令嬢のように肌が白いわけではないけれど、「健康的できれいな肌だ」と皆に褒められている。
私は……私はもうちょっと、不健康な顔をしていたはず。
妊娠してからつわりのひどい時期があって、顔にブツブツができたりしたんだけど……今の私は間違いなく、若返っている。
鏡に映っているのは、二十歳の私ではなくて……十八歳くらいの頃の、私。
……十八歳、くらい?
「……い、今の季節は……!?」
さっと振り返り、カーテンを閉めている窓辺に向かう。
妊娠してからは、こんなばたばたした動きをする機会もなかったというのに、今の体はすごく軽い。
カーテンを開けると――外には、鮮やかな秋色の世界が広がっていた。まだ朝の早い時間帯だからか、朝日を浴びてリーデルシュタイン城の庭が淡い色に染まっている。
今の季節は、秋。私がアレクシス様に斬られたのは、初夏だった。
……もしかして。
どくん、どくん、と早鐘を打つ胸元を押さえながら、私は部屋から出た。
そこはすぐ廊下で、ちょうど下働きの少女が洗濯籠を抱えて前方を通ったところだった。
――彼女は確か、私たちが結婚してしばらくして仕事を辞めて、家族で引っ越したはずだ。
「……あっ、リーゼ様。おはようございます」
彼女は私に気づくと、ぴょこんとお下げを揺らしてお辞儀をした。
その姿は――私が最後に彼女を見たときの姿と、ほとんど変わっていない。
「ええ、おはよう。……今日も朝早いのね、マリー」
「滅相もございません! これがあたしの仕事ですので!」
マリーが元気よく答えてくれたので、私の胸の中のモヤモヤは少しだけ晴れた――けれど、確かめなければならないことがある。
「いつもありがとう。……ええと、あなたが来てから何年になるのかしら?」
「え? えっと……あたしが十二歳のときからなので、二年ですね!」
マリーの返事を聞き、私は急いで彼女の情報を頭の中でまとめる。
マリーは……確か、私より四歳年下だと言っていた。
それじゃあ……?
「そうね。今年は聖歴六百七十四年だものね」
「はい。……あ、そろそろ行かないと。では失礼します、リーゼ様」
「ええ。お仕事頑張ってね」
元気いっぱいなマリーを見送り、私は部屋に戻って……へなへなと、その場に頽れてしまった。
マリーは少々おっちょこちょいなところがあるけれど、嘘はつかないし物覚えもいい子だ。
「……今は、聖歴六百七十四年……」
信じられない。
信じられないけれど、マリーが嘘をつくわけがないし、現に今の私の身にも変化が起きている。
私がアレクシス様に斬られたのは、聖歴六百七十六年の初夏。
でもマリーとの会話で、「今」が聖歴六百七十四年であると判明した。
私は……過去に戻っている?
ということは――
「……今年の冬に、辺境伯様たちが亡くなる……?」
どくん、と心臓が痛いほど脈打つ。
そう、そうだ。全ての始まりであるあの襲撃事件が起きたのが、聖歴六百七十四年の冬。窓の外を見る限り、今の季節は秋真っ盛り。
私は……あの悲劇の年の秋に、戻っている?
あの悲劇も、アレクシス様の豹変も、結婚も妊娠も起きるよりも前に……私は戻っているというの……?
「……痛い」
念のために頬を抓ったけれど、普通に痛い。それに夢のように、足元がふわふわしていたり頭の中がぼんやりしていたりするわけでもない。
これは、現実だ。