辺境伯子息と小さなお姫様①
本編よりもずっと前、アレクシスが幼い頃の話
アレクシス・フェルマーは、ゲルタ王国リーデルシュタイン辺境伯家の一人息子として誕生した。
辺境伯夫人だった母はアレクシスが物心付くよりも前に亡くなってしまったが、彼は厳しさとひょうきんさを兼ねた父と、優しい使用人たちに愛されて育った。
彼は名家の子息なので、生まれてすぐに乳母に預けられた。
乳母となったのは、当時リーデルシュタイン騎士団部隊長だったヨナタン・キルシュの妻である、エリーザベト・キルシュ。彼女はアレクシス誕生の一ヶ月ほど前に男児を産んでおり、健康で乳の出もよかったため乳母に抜擢されたそうだ。
そういうことで、アレクシスはヨナタンとエリーザベトの息子であるリヒャルトを乳兄弟として育った。
アレクシスは幼少期から体格に恵まれていて、同い年のリヒャルトと並んでベビーベッドに寝ている姿を見た大人たちは、「二歳くらいは差がありそうだな」と言っていたとか。
二人は仲よく育ち、一緒に運動をしたり遊んだりした。
アレクシスの記憶の中にある幼少期の自分はいつも、リヒャルトと一緒だったように思う。
だが、アレクシスたちが三歳の頃。
ひとつの変化が起きた。
「リヒャルト、いもうとにはいつあえるんだ!」
「もうすぐだよ」
椅子に座ったアレクシスがそわそわしながら言うと、隣で大人しく座っていたリヒャルトが冷静に答えた。この頃から既に、二人の性格の差が如実に表れていたようである。
先日、アレクシスはある連絡を受け取った。それによるとどうやら、キルシュ家に待望の第二子が生まれたとのことだった。
とはいえ三歳のアレクシスには難しいことは分からないのでとりあえず、「リヒャルトに妹が生まれた」ということを聞き、「リヒャルトのいもうと」に会える日を楽しみにしていたのだ。
乳母として愛情を注いでくれたエリーザベトにはここしばらく会えなくて、寂しく思っていた。そのエリーザベトが、赤ん坊を連れて城に来てくれるのだ。
だからアレクシスはいつもなら嫌がる朝の仕度時も大人しく使用人に身を任せ、朝食で嫌いなものが出ても文句を言わずに食べた。
周りの大人からすると、大人しくするのはよしとして嫌いなものを食べる理由はよく分からなかったが、皆にとっても都合がいいのでそっとしておいた。
さて、仕度を終えたアレクシスはリヒャルトと一緒に、応接間で待機していた。
「なあ、リヒャルト。いもうとって、どんなかたちをしているんだ?」
「たぶん、にんげんのかたちをしているとおもう」
「いもうと、ということはおんなのこだよな。ということは、おおきくなってもちいさいままなのか」
「それなりにはおおきくなるとおもう」
そんな話をしていると、ドアがノックされた。
使用人が開けたその先にいたのは、籐編みの大きな籠を抱えたエリーザベト。
久しぶりに乳母の姿を見られてアレクシスは嬉しくて駆け出しそうになるが、それよりも早くリヒャルトの方が、「ははうえ!」と駆けていった。
アレクシスにとっての乳母であるエリーザベトは、リヒャルトからすると実母だ。
本当は自分もエリーザベトに抱きつきたいが、今はリヒャルトに譲ってやるべきだ、と幼いながらに理解して、アレクシスはむんっと我慢することにした。
「しばらく会えなくてごめんなさい、リヒャルト。……アレクシス様も、お元気そうで何よりです」
「おれは、いつもげんきだ。エリーザベトこそ、げんきそうでよかった。ひさしぶり」
本当はもっと色々なことを言いたかったが我慢して、きちんと挨拶を返した。
エリーザベトは微笑むと、抱えていた籠をとんとテーブルに置いた。
アレクシスとリヒャルトはすぐにそれに駆け寄り、中を覗き込む。
「この子が娘のリーゼよ。リヒャルトはお兄ちゃんになったわね」
「うん。このこが、ぼくのいもうとなんだね。アレク、どう?」
アレクシスよりも大人しくて落ち着いているリヒャルトは、冷静に妹を観察しているようだが……対するアレクシスは、はて、と首を傾げた。
籠の中には毛布が敷き詰められ、そこに白い服を着たよく分からない生物が転がっていた。
一応人間らしい形はしているが、顔は赤くてなんだか頬が腫れぼったい。髪も薄くて、くちゃっとした目鼻口をしている。
エリーザベトからの手紙には、「とっても可愛い娘が生まれた」とあったようだが……申し訳ないが今のアレクシスには、この生物が「可愛い」とは到底思えなかった。
だが、そんなことを正直に口にしてはならないと分かっていたので、リヒャルトに尋ねられたアレクシスはかなり悩んだ末に、口を開いた。
「……あかくて、かわいいな」
「ふふ、ありがとうございます、アレクシス様。成長すると、もっと人間らしい見た目になりますよ」
どうやら乳母には心の声が筒抜けだったようだ。
気まずくなったアレクシスはふと、リヒャルトが真剣な顔で妹の頬に触れていることに気づいた。ぷに、ぷに、とリヒャルトの指先が頬の肉に沈んでいて……とても柔らかそうだ。
「エリーザベト。おれも、さわってみたい」
「ええ、どうぞ。ほっぺやおでこのあたりなら、触りやすいですよ」
「……わかった」
アレクシスは、おそるおそる手を伸ばした。
アレクシスはまだ三歳だが、リヒャルトと比べて自分は力が強い方だと自覚しているし、「ものに触れるときには気を付けろ」と父からも厳しく言われている。
だから、エリーザベトの許可を取ったとしても、この未確認生命物体に触るのが少し怖かった。まさか握り潰すことはないだろうが、痛い思いをさせないだろうか……と。
そのため、アレクシスは手を伸ばしたのはいいが、そこで動きを止めてしまった。
どうしようか、と赤ん坊の胸の辺りで手をそわそわとさせていると。
きゅ、と小さな手がアレクシスの人差し指を掴んだ。
「あっ……」
「あら、早速気に入られたのかもしれませんね」
「……ぼくもっ!」
エリーザベトが笑い、リヒャルトも負けじと妹の空いている方の手を突くと、赤ん坊は素直に兄の親指も握った。
兄としてのプライドが保てたからか隣でリヒャルトがほっと息をついているようだが、アレクシスは自分の手元に意識を奪われていた。
おもちゃのような小さな、赤い手。
それが、自分の人差し指をきゅっと握りしめている。
「……リーゼ」
アレクシスは、赤ん坊の名前を唇に載せた。
その瞬間、目の前でうごうごしている赤い物体はアレクシスの中で、「リーゼ」というかけがえのない存在に変わった。