過去を乗り越えて⑦
私が武器を手にしたことに驚いた様子の男爵に向かって駆け出し――パン、とその手から仕込み杖をはじき飛ばした。
飛んでいった杖がガン、ゴン、と音を立ててどこかに転がっていく。そして、へたりと座り込んだ男爵の胸に向けて、剣を構えた。
「……だ、男爵たる私に対して、なんということを――!」
「何を言うか。……先にリーゼに刃を向けたのは、そちらだ。リーゼが手加減してくれたことに、感謝するのだな」
その声を聞いて初めて、男爵は声の主に気づいたようだ。
ゆっくりと歩いてきて私の隣に立ったのは、アレクシス様。彼を見上げる男爵の目は見開かれ、ひえ、という小さな声が漏れた。
「話は、聞かせてもらった。……どうやら男爵は、よほど俺や父上のことを邪魔に思っているようだな」
「そ、それは誤解だ! そこの小娘が――」
「そこの小娘、と呼ぶ女性に対して脅しの文句を吹っ掛けたのは、どこの誰だ? ……指示書、だったか。それも、屋敷を探せば見つかりそうだな」
最初は強気に私に責任転嫁しようとしていた男爵だけど、「指示書」と言われた途端、嘘のように大人しくなってうなだれた。
【一度目の人生】でも、アレクシス様が男爵邸から指示書を発見していたそうだから、今もきっと存在しているだろう。
ああいうのは持っておくと不都合になるけれど、いざというときに誰かに罪をなすりつけることもできるから捨てるに捨てられないものなのだ。
すぐに騎士たちが駆けつけてきて、男爵は捕らえられた。彼は最後まで、「あの女が私を嵌めたのだ!」と叫んでいたけれど、誰一人として耳を貸そうとしていなかった。
私はぼんやりと、騎士たちの動きを見ていたけれど……ふいに、右手が軽くなった。
「お疲れ、リーゼ。それから……事情は、分かった」
私から剣を没収したアレクシス様は言って、そっと腕を取ってきた。
「後のことはヨナタンたちに任せて、俺たちは行こう」
「……どこへ、ですか」
「もちろん、俺の部屋へ」
アレクシス様は、真面目に言った。
ここしばらくの私の居住空間になっていたアレクシス様の部屋は既に人払いされていて、アレクシス様は私をソファに座らせるとご自分も隣に腰を下ろした。
「……ここしばらく、考えていたのだ」
「私が言っていたことについて……ですか?」
「ああ。……俺としてはリーゼの言葉を信じたいが、どうにも受け入れがたいものもあった。だが、もしリーゼの言葉が本当ならば、男爵がリーゼを邪魔者扱いして命を狙ってくるかもしれない。そう思ってここしばらく、男爵を監視させていた」
そうしてアレクシス様は使用人から、男爵が書庫の予備の鍵を借りたことを聞いた。
……わざわざ予備を借りるということは、普段主に使われている鍵が誰かの手に渡っているという状況だ。
よってアレクシス様は男爵を尾行して、私が書庫に入ってしばらくした後で男爵も入室したのを確認して、ご自分用の鍵で入って様子を窺っていたようだ。
「先ほどのやり取りから、君と男爵が繋がっていないことの確証が得られた。そして、男爵は君のことを邪魔に思っていることも判明した。……これだけ分かれば、君の言葉を疑う必要もなくなった」
「それじゃあ、男爵は……?」
「俺が聞いた内容をしっかりと報告するし、指示書も見つかればまあ、これからは男爵としては生きていけないだろう。後のことは父上たちが取り仕切るとはいえ、俺も捜査などに出向くことになりそうだ」
「……そう、ですか」
「……それが、一つ。もう一つが……君の言っていた、【一度目の人生】についてだ」
どくん、と心臓が不安を訴える。
でも、同時に手の平を包み込んでくれたアレクシス様の温もりが、不安な気持ちをぬぐい取ってくださる。
「俺は、君が記録していた【一度目の人生】について、信じられなかった。……だがそれは君が嘘つきだとかいうのではなくて、君が語ったかつての俺が、とんでもない人間だったからだ」
「……」
「さっき君も言っていたように、俺は弱い人間だ。……もし、【一度目の人生】のように目の前で父上やヨナタンたちが殺されたら……正気を、失っていただろう」
アレクシス様にとって、あれに書かれていた情報は――信じがたいけれど、「もしかしたら、自分はこうなっていたかもしれない」という点で、悔しいことに納得できるものばかりだったそうだ。
「もし俺がそのようになったら……きっと俺は、君との結婚は望まなかっただろう。初恋の人で、ずっと愛おしく思っていた。……そんな君から父親を奪い、多くの者の血にまみれた、心を壊した俺。そんな人間が、君を幸せにできるはずがない。愛しいからこそ、君の手を離したい――そう思っていたはずだ」
『……リーゼとだけは、結婚したくなかった』
その呟きを【一度目の人生】の私は、背中で聞いていた。
だから……そのときのアレクシス様がどんな表情だったのか、知らなかった。
アレクシス様は……【一度目の人生】のアレクシス様はきっと、あのような状況になってもなお、私を愛してくれていた。
「子どもの頃から好意を寄せていた」というのは事実で――だからこそ、私を拒絶した。
「俺は【一度目の人生】の俺ではないので、正確に代弁するのは難しいが、今の俺でもきっとそうしただろう。……それでも、他に候補がいなくて、辺境伯家の血を絶やすわけにはいかない。……俺はきっととても愚かな男だったのだろう。リーゼを傷つけたくない、と思いながら、乱暴に抱き潰した。……君をこの腕に抱けることに、きっとほの暗い喜びを覚えていたことだろう」
アレクシス様は自嘲するように言う。
……【一度目の人生】の私は懐妊するまで、アレクシス様に抱かれた。
でも、いつもそのお顔を見ることは許されなくて、目隠しをされたり背を向かされたりしていた。
アレクシス様はどんな顔で、私を抱いていたのだろう。
そして……一年経ってやっと私が懐妊したと知り、どんなお気持ちだったんだろう。
「在りもしない【一度目の人生】の俺を説教することはできないし、だからといって『おまえも同じ人間だ』と言われるとぐうの音も出なくなる。……だからこそ、受け入れるのに時間がほしかったんだ。そういうのも俺の一面で――それでもやはり、俺はリーゼと共に生きたいと決意した」
「アレクシス様……」
「リーゼ。【一度目の人生】での俺は、君にひどいことをした。君がそれをずっと背負っているのも分かったし……かといって、俺自身にも暗い面があると自覚している」
私の手を握るアレクシス様が、少しずつ力を込めていく。
「俺は、今度こそリーゼを幸せにしたいし、リーゼに幸せにしてほしいとも思っている。……【一度目の人生】で君を幸せにできなかった分、結婚して君を愛して――いつか、かつての君が産みたいと願った子を、この世に送り出したいと思っている」
「ア、アレクシス様……」
「だから、婚約は解消しない。誰よりも俺の幸せを願ってくれるリーゼを、この手で幸せにしたい。……愛している、リーゼ」
緑色の双眸が、私を見ている。
子どもの頃から大好きだった人が、私に愛を囁いてくれる。
……ずっと、私はこの愛情を求めていた。
幼い頃からも、【一度目の人生】で冷遇されている間も、そしてこの【二度目の人生】でも。
あなたは私の主君で、幼なじみで、初恋の人で――幸せになってほしいと思う、誰よりも大切な人だから。
「……私も、愛しています」
一度は離ればなれになってしまった分、今度こそ一緒に、幸せになりたい。
感想欄開けました。
次話がエピローグです!




