過去を乗り越えて⑥
アレクシス様から逃げ回ることばかり考えていた私は、うっかりしていた。
今、この城には私にとっての最大の敵が滞在しているというのに。
「……おや、このような場所で……奇遇なことだな」
経理の仕事をしていて、資料を取ってくるよう経理長に言われた。だから書庫に行って目当ての資料を探していたら、世界で一番会いたくない人間がやってきた。
……念のために内側から鍵は掛けていたけれど、男爵は手元に鍵束をちらつかせながらやって来た。
予備の鍵束をわざわざ借りて、押し入ってきたということか。何が奇遇だ!
書架の間で固まる私のもとにやってきたデュルファー男爵は、痩せた顔に不気味な笑みを浮かべていた。
「なるほど、それがおまえの本当の仕事着か。あのメイド服よりも色気がなくて、残念なことだ」
「……お戯れはおよしくだ――」
「おまえ、私の何を知っている?」
冷たく問われて、私は抱えていた本をバサバサと落としてしまった。
貴重な本を落としてしまったけれど、拾うこともできない。しゃがめば、いざというときに逃げることが不可能になってしまうから。
せめて落とした本をこれ以上傷つけないようにと本棚の端に移動しながら、私は苦い唾を呑み込んだ。
「……どういうことでしょうか? 私は騎士の娘で、男爵様のことは何も――」
「昨年の襲撃事件を防いだのは、おまえだろう? ……なぜ、あの廃屋の存在に気づいた?」
「……ぐ、偶然です」
「ほう、偶然と? ……だが一人だけ逃げてきた盗賊が、言っていたぞ? 廃屋を襲撃されるよりも前に、若い女が真っ直ぐあの森を歩いているのを見た、と。そのときは万が一にも迷い込んだだけの一般人を殺してはならぬから見逃したようだが――おまえは最初から、あそこに基地があると分かって、やって来たのではないか?」
それは……その言葉は、「【二度目の人生】でも、男爵が黒幕である」ということの証左となった。
でも私も追いつめられている以上、この情報をアレクシス様のもとに持っていくことはできない。
「……そんなの、偶然です」
「しらを切るつもりか? ……おまえは、騎士団長の娘で、おまえの兄がアレクシスの乳兄弟らしいな。さてはアレクシスに命じられ、私の屋敷に潜り込んだのだろう。でなければ、あの指示書通りに動いていた者たちを捕らえることなどできない!」
追いつめられて怯える心の片隅で――そう捉えられたのか、と納得した。
男爵は、私が【一度目の人生】を経験しているとは思っていない。
だから、私がアレクシス様に命じられて男爵邸を探り、そこで指示書を発見して襲撃事件を防いだ――と考えている。
確かに、そう捉えられるのが自然な流れだろう。……でも。
「違います。アレクシス様は、関係ありません」
「黙れ! ……おまえと婚約した頃から、アレクシスは露骨に私たちを避けるようになった! オリヴァーまで、よほどのことがない限りリーデルシュタイン城に来るなと言ってきた! さてはおまえたちが仕組んだのだろう!」
「っ……違います! アレクシス様に命じられたのではありません! それに……今あなたは、認めたようなものでしょう! あなたが、辺境伯様やアレクシス様の命を――辺境伯位を狙っているって!」
「ああ、そうだとも! 私には、リーデルシュタイン辺境伯になる資格がある! あんな平和ボケしたオリヴァーや頭の中まで筋肉でできているアレクシスよりよほど、ふさわしい人間であるのだからな!」
男爵は私との距離を詰めながら言うけれど……ふ、ふざけるな!
リーデルシュタイン領が平和なのは、いつも辺境伯様が領民のことを考えているからで、アレクシス様は体を鍛えながらも内政に携わり、領内の安全維持に努めてらっしゃる。
それなのに……お二人のことを何も知らないのに、勝手なことを……!
「お戯れを。……辺境伯様とアレクシス様を罵倒する言葉は、許せません!」
「小娘ごときが、私に説教を噛ますというのか!」
シュン――と、鋭い風が私の頬を掠めた。
右の頬をかすめるぎりぎりの位置できらめくのは、細い針のようなもの。
男爵はいつの間にか杖を手にしていて、その先端から飛び出す銀色の刃を私に向けていた。
これは……仕込み杖か――!
「……何のつもりですか。リーデルシュタイン城内で死人を出すつもりですか」
「まさか。このままおまえが大人しくしていれば、少なくとも死者は出さずに済むだろう」
一旦は仕込み杖を引っ込めたものの、今度はそれを私の喉に向けた男爵は、せせら笑った。
「はっ、女だてらに剣を握るということだが、剣を持たなければただの小娘だな」
「……私に何を求めているのですか」
「簡単だ。……おまえがいると、アレクシスたちが動かしにくくなる。誰にも何も言わず、この城から消え失せろ」
「……お断りします」
「そう言うだろうと思った。……だが、私の言葉とたかが騎士の娘の言葉。食い違ったとして、オリヴァーやアレクシスがどちらの言い分を信じるというのか?」
「……」
当然男爵の言葉だ、と言わせたいんだろうけれど……そうはいかない。
アレクシス様は、私の【一度目の人生】について知っている。
それを信じることはなくても……私と男爵が別の主張をすれば、その違和感には気づいてくださるはず。
あの記録を見られたというのは、私にとっては大失敗だったけれど……男爵の本性を見抜く、という点ではアレクシス様をお助けできるかもしれない。
そう思った私はつい、表情を緩めてしまっていたようだ。
男爵はぎりっと目尻を吊り上げると、手近なところに積んでいた本を掴んで投げつけてきた。
……まさかそんな幼稚な行動を取るとは思っていなかったけれど、飛んできた本はなんとか回避できた。
「……あなたが何を言っても、無駄です。もし、アレクシス様が私を切り捨てたとしても……リーデルシュタイン領は、あなたのものにはなりません!」
「戯言を! おまえが消えれば、あの気丈なアレクシスは沈み込むに決まっている! ……おまえはアレクシスのことを頑強な男だと思っているようだが、そうではない。あれは、大切なものがなくなれば一瞬で心を病むほど、弱い人間なのだ!」
男爵は勝ち誇ったように言うけれど……そんなの、今さらな情報だ。
「……知ってる」
「何?」
「アレクシス様は、お優しいあまり他人に情を掛けすぎてしまうところがある。そういう弱い面もあって、私たちでお守りしなければならない人。……そんなの分かっているし、それでも私はアレクシス様を尊敬している!」
……それは、アレクシス様の婚約者として一緒に過ごすようになってから、分かってきたこと。
【一度目の人生】含めた過去の私は、アレクシス様に憧れて、格好よくて素敵な貴公子だと思っていた。
その気持ち自体は、今でも変わらない。
でも、それだけじゃない。
アレクシス様だってショックなことがあると落ち込むし、困ったり戸惑ったりすることもある。
きっと、だけれど。
【一度目の人生】でアレクシス様が私に冷たかったのも……私を傷つけまいとしたからではないか。
妊娠を告げたときに、寂しそうにしていたのも……間違えて私を斬った後で、抱き寄せてくれたのも……ご自分のことに苦しみ悩んでいたからではないか。
今のアレクシス様が「ずっとリーゼのことが好きだった」と言ってくれるのに、【一度目の人生】では「リーゼとだけは、結婚したくなかった」とおっしゃっていたのも、きっと――
私の言葉を聞いた男爵が顔を歪め、仕込み杖を振り上げてきた。
「このっ……! やはりおまえを、ここで叩ききってやる――!」
細い銀の刃が私に迫ってきたので、ぎりぎりで身をかわす。
どう見ても戦闘に慣れているとは思えない男爵の攻撃をかわすのは、さほど苦ではない。書架と書架の間もあるから、逃げ場もある。
でも今の私は動きにくいドレス姿だし、武器がない。
せめて、模擬剣でもいいから武器があれば。
この書架の間でも、私は戦えるのに――!
「リーゼ!」
声が、聞こえた。
振り返った先、書架の向こうに立つ人が、私に何かを投げて寄越した。
きれいに回転しながら飛んでくるのは――細身の剣。
私はそれを空中でキャッチして鞘から抜き払い、男爵に向き直った。
――これまでの私は、防戦に徹していた。
でも、迷わない。
私から、攻撃を仕掛けてみせる。




