過去を乗り越えて③
「これは……デュルファー男爵、失礼しました」
すぐにアレクシス様は私から離れて会釈をしたので、私もお辞儀をした。
男爵とアレクシス様では年齢の差があるけれど、アレクシス様はシェルツ子爵位も持たれているから、立場ではアレクシス様の方が上だ。
だから男爵もお辞儀をしたけれど、彼は続いて私の方を見て、ふん、と鼻を鳴らした。
「オリヴァー殿が捜しものをする間、私は城内の散策をしていたのだが……アレクシス殿、いくらなんでも婚約者がいる立場でありながらメイドとの逢瀬をするとは、見逃せませんな」
「いえ、こちらの女性はメイドの衣装を着ておりますが、私の婚約者です。……前にも手紙でお知らせしましたが、リーデルシュタイン騎士団長の娘である、リーゼ・キルシュです」
「お初にお目に掛かります。リーゼ・キルシュでございます」
エプロンドレスを摘んでお辞儀をすると、男爵がまたしても鼻を鳴らした音が聞こえた。
「……その顔、先ほど見ましたな。アレクシス殿の婚約者でありながら、メイドの真似事をしていたと?」
「リーゼは自分にできることをすると申し出て、今宵の晩餐会の補助を担ってくれました。彼女は確かに下働きをする身分ではありませんが、主に力仕事方面で活躍したと聞いております」
「力仕事……?」
「はい。彼女は騎士団長の娘として、剣術も心得ております。ちなみに以前私とも稽古をしましたが、彼女は私の攻撃を三回も防ぎました」
「そ、そうか。それなりに実力はあるようですな」
……それまでは馬鹿にするような目を向けてきていた男爵が、明らかに焦った顔を見せた。
確かに、この男爵に剣を持たせても、アレクシス様の攻撃を受け止めることはできないだろう。
男爵はちらっと私を見てから、アレクシス様に視線を移した。
「そういえば……アレクシス殿は昨冬、後に婚約者となる女性と共にならず者退治をなさったということですな」
――どくん、と心臓が鳴る。
すかさず慎ましさの演出のために顔を伏せたので、アレクシス様には動揺で歪む顔を見られずに済んだはずだ。
「そうです。彼女が偶然、南方地方で怪しげな廃屋を見つけまして。調査に行ったところ、そこで活動をしていた盗賊たちを発見したのです」
「そのようですな。……しかし、それははたして『偶然』なのでしょうか?」
――どくん、どくん、と全身が心臓になったかのように、激しく脈打つ。
なんで、どうして、男爵はこんな……いや、もしかして――?
「……それはどういう意味でしょうか?」
やめて、アレクシス様、聞かないで。
男爵は、きっと――
「ああ、いえ、素朴な疑問ですよ。……まさか、そちらの女性が盗賊たちの動きを事前に知っていた、というわけではありますまいし」
――一瞬、目の前が真っ暗になった。
それでも、心の動揺を知られたくなくて、私は顔を伏せたままやり過ごしたけれど……一瞬だけ冷えた後、私の胸からはふつふつと怒りが湧いてきた。
男爵は――計画を潰すことになった私を、恨んでいる。
だから……もしかしたら、私への嫌疑を掛けることで、アレクシス様に不信感を抱かせようとしているのかもしれない。
「……何をおっしゃるか。リーゼが盗賊たちと繋がっていたとでも仰せなのか」
「いえいえ、まさかそのようなことは」
「なぜ今になって惚けなさる? ……つまりあなたは、リーゼが盗賊たちと繋がっていた可能性があるから、私の妻にはふさわしくない……そう指摘しているのではありませんか?」
さしもの男爵もアレクシス様にここまではっきりと言い返されるとは思っていなかったようで、戸惑う気配が伝わってきた。
「ま、まさか! しかし、念には念を、ということで。いつどこに、あなたやオリヴァー殿の命を狙う者がいるか分かりませんし……」
「ああ、そうですね。……しかし私は、リーゼを疑うつもりはありません。……行こう、リーゼ」
アレクシス様はばっさりと言うと、私の手を掴んだ。
私は小声で応えて、男爵に背を向けたけれど……背中に突き刺さるような視線をずっと感じていた。
男爵が、私への疑いを口にした。
アレクシス様に手を引かれて歩きながら、私はぐるぐると答えの出ない思考に浸かっていた。
男爵はもしかしたら、私がアレクシス様の側にいると目的を果たせなくなるから、引き離そうとしているのかもしれないし――主犯が判明しなかったあの襲撃事件を、私になすりつけようとしているのかもしれない。
ゆっくり顔を上げると、無言で歩くアレクシス様の背中が。
……もし、アレクシス様に疑われるようなことがあれば。
私は、何を目標に、何を頼りに生きていけばいいんだろう。
幸せにしたい、と願っていたあなたの方から拒絶されたら、私は、また――
「リーゼ、入って」
「……はい」
促されるまま、私はアレクシス様の部屋に入った。
いつもなら夜になってから呼ばれることはほとんどなかったし、呼ばれるとしても「何かあったらいけないから」と、ご自分の方からメイドや騎士を呼んで、二人きりにならないように配慮してくださっていた。
今もアレクシス様の部屋には下働きの少年がいたけれど、アレクシス様は彼に退室を命じた。
「ああ、それから……今日、リーゼはこの部屋で休ませる予定だから、メイドに着替えなどを持ってこさせるように」
「はい」
「はいっ!?」
アレクシス様の指示に従順に応えたのは少年、叫んだのは私の方だ。
少年はさっさと出て行ったけれど、私は思わずアレクシス様の腕を引っ張ってしまう。
「ア、ア、アレクシス様! な、んで私、今日、ここで……!?」
「男爵はしばらくの間、城に滞在する。……君は男爵に目を付けられたようだから、一人にするのは不安だ。ベッドは君に貸して俺はソファで寝るから、ここで寝てくれ」
「そ、そういうことですか」
なるほど確かに、私の部屋は別棟にあって本館ほど警備がしっかりしていない。
だから、もし男爵が私に対してよからぬことを企んでいたとしても、本館よりもずっと楽に警備を突破されてしまいかねないんだ。
「ヨナタンの許可は取っていないので、明日にはどやされるかもしれないが……それくらい、耐えてみせる。その場できちんと次第を報告して、明日以降は堂々と君を部屋に招けるようにする」
「……ご配慮に感謝いたします。しかし、ベッドは不要です。私の方が小柄ですしお邪魔する立場ですから、私の方がソファに寝ます」
「だめだ。あそこで寝落ちしたことがあるが、翌朝の体の軋みがひどかった。リーゼは大きなベッドを使った方がいい」
「それならますます、私が使うわけにはいかなくなります! アレクシス様の方が大柄ですしあなたのお体の方が大事なのですから、アレクシス様がベッドを使ってください!」
「いや、女性に窮屈な思いをさせるわけには――」
「失礼します、アレクシス様」
私たちが言いあっていると、辺境伯様の従者である青年が入ってきた。
彼は辺境伯様のお気に入りで、アレクシス様や私の兄とは子どもの頃からの付き合いでもある。
「先ほど使用人から事情を聞きました。どうやら、リーゼ様の安全確保のために今晩から、リーゼ様をアレクシス様のお部屋に泊めるということだそうで」
「ああ、そうだ。……父上に何と言われても、俺はリーゼを部屋には帰さない」
「ええ、私と一緒に話を聞いた旦那様も、同意なさいました」
え……そうなんだ。辺境伯様も、ご存じなんだ……。
でもそこで、いつも冷静であまり表情を変えないことで有名な従者は、唇の端にほんの少し笑みを浮かべた。
「ただし……申し訳ありません。リビングのソファのカバーは、現在洗濯中でして」
「……はい?」
「……は?」
私とアレクシス様の声が重なった。
……洗濯中? こんな夜中に?
「おい、それはおかしいだろう。先ほど見たときには、普通に掛かっていた」
「いえ、洗濯中なのです」
「……替えは?」
「ございません」
「洗濯は、いつ終わる?」
「デュルファー男爵がお帰りになるまでには」
いやいや、ソファカバーひとつ洗濯して干すのに、何日掛けるつもり!?
しかも今、隣の部屋でごそごそと作業をする音が聞こえるし……。
アレクシス様の口元がぴくっと引きつる中、従者がそそっと寄ってきた。
「……リーゼ様のことが心配なのでしょう? であれば同じベッドで寝る方が、いかなるときにも対応できるはずです」
「ぐっ……! だ、だがヨナタンに!」
「旦那様の方からご説明になるそうです」
「……リーゼの意志は!?」
「いかがですか、リーゼ様」
「……アレクシス様がソファで寝ずに済むのでしたら、それで十分です」
「であれば問題ありませんね」
私が本当に素直な意見を言うと、従者はにっこりと笑い、アレクシス様は顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「アレクシス様のベッドはとても大きいので、お二人で横になっても大丈夫でしょう。……それに、もし『何か』があったとしても、アレクシス様ならば大丈夫だと信じております」
「お、俺はいくらリーゼが可憐で魅力的でも、結婚までに手を出したりはしない!」
「いえ、私はリーゼ様が何者かに狙われるかもしれないことを指摘しただけですが……?」
あ、これはアレクシス様の敗北だ。
昔からこの従者は口が達者で、アレクシス様や兄を言い負かしていたけれど……それは十年近く経った今でも同じだったみたいだ。
真っ赤な顔のまま言葉を失ったアレクシス様と私を微笑ましく見つめてから、従者は一礼して去っていった。
その後、隣室で「リーゼ様の夜のお召し物を持って参りました」「ご苦労、そこに置いておきなさい」というやり取りが聞こえていたけれど……。
「……」
「……」
「……あの、アレクシス様?」
「……リーゼ」
「はいっ」
「夜の間、俺とリーゼの間には要塞を建設しておく。そして君の近くにはありとあらゆる武器を備えておくので、もし俺がよからぬ動きをするようなら、それらで俺をぶん殴ってくれ」
「殴りませんよ!?」
「そうか。では就寝中は、俺の手足を縛って――」
「縛りません!」
結局、私の枕元に棍棒や剣を置いておく案やアレクシス様を縄でぐるぐる巻きにする案は却下したけれど、アレクシス様がどうしてもとおっしゃるので毛布を固めた要塞の建設は許可したのだった。