過去を乗り越えて①
その日、リーデルシュタイン城では客人を迎える準備が進められていた。
辺境伯一族の住まう屋敷であるので、城はとてつもなく広い。おまけに辺境に位置するという条件もあるので、堅牢で厳めしい造りになっている。
そんな城は昨日のうちから念入りに掃除をされて、晩餐用の高級食材もどんどん運び込まれる。
庭の花を切って花瓶に生けたり、テーブルクロスを新調したりと、皆忙しく動いているけれど……使用人たちの表情は、あまり明るくない。
その理由は、来訪する客人にあった。
来客の名は、ディーター・プロイス――社交界での名は、デュルファー男爵。
デュルファー男爵たちの所属するプロイス家は、元々リーデルシュタイン辺境伯の家系だった。
でも男爵の父親にあたる人が若い頃にやらかしたため、辺境伯位が傍系であるフェルマー家に移され、今に至る。
デュルファー男爵は……【一度目の人生】で盗賊たちを雇って、辺境伯一行を襲撃させた。
その事件で辺境伯様や私の父たちが死亡し、アレクシス様は生き延びた。その後、結果として男爵一家は狂乱状態になったアレクシス様に見つかり、一族皆惨殺されたということだった。
……去年の冬に計画されていた襲撃事件は、私が行動を起こした結果、防ぐことができた。
ただ襲撃犯たちも男爵の名前は知らなかったようなので、主犯の名を挙げることはできない。
アレクシス様の婚約者として充実した日を過ごしている私だけど、デュルファー男爵への警戒は怠らなかった。
辺境伯様やアレクシス様にも、「辺境伯家を狙う者がいるのは確実なので、外部の者には気を付けてください」と忠告しているので、昔よりも警備は頑強になっている。
それでも、辺境伯様のいとこにあたるデュルファー男爵の来訪を突っぱねることはできない。
しかも今回は辺境伯領についてのご相談をするために滞在するそうなので、晩餐会を催すことになったのだった。
ただ、男爵の評判はあまりよくない。
下働きではなくて事務担当だった私はよく知らなかったけれど、男爵は最近になって辺境伯様やアレクシス様に擦り寄ってくるようになったそうだ。
……きっと、冬の計画を潰されたから別の手を考えているんだろう。
男爵は、辺境伯様とアレクシス様が死ぬことで自分に辺境伯位が回ってくることを渇望しているのだから――
「……リーゼ?」
ぼんやりとしていたら、婚約者の声が掛かってきた。
……いけない。せっかくのアレクシス様との休憩時間なのに、考えごとに現を抜かしていた。
「すみません、少しぼうっとしていました」
素直に言うと、私の向かいの席でお茶を飲んでいたアレクシス様が少しだけ、目を細めた。
「……疲れているとかか? それなら、今夜の晩餐会での手伝いは不要だ。そもそも君は文官で、料理を運んだり客をもてなしたりする役割はないのだから」
「いいえ、大丈夫です。夕方からいっそう皆忙しくなるでしょうから、私も喜んで手伝いをさせてもらいますよ」
確かに私は騎士団長の娘で、経理補佐をする文官。城の人から「リーゼ様」と呼ばれる立場にあるし、アレクシス様の婚約者だ。
でも、だからといって使用人たちの仕事を手伝ってはならないというルールはないし……晩餐会の手伝いをすれば、デュルファー男爵の様子を見られるかも、という狙いもある。
【一度目の人生】と【二度目の人生】は既に、別の道を辿っている。
おそらく男爵は執拗に辺境伯位を狙ってくるだろうけど……私が手を回せたのは、あの襲撃事件までだ。
これから先のことは、【一度目の人生】では経験しなかったことばかり。
手探りになるのだから、少しでも敵の情報を集めておいて――できることなら、証拠を掴んで確実に縛り上げたい。
そんなことを考えているとまたぼうっとしてしまっていたようで、アレクシス様がむっと眉根を寄せた。
「リーゼ……もしかして、別の男のことを考えている、とか?」
「……実はそうなのです。デュルファー男爵が――」
「待ってくれ、リーゼ! お、俺は……男爵以下の存在だというのか!? リーゼは実は、自分よりも倍以上年上の男がよかったのか!?」
「違います違います! そうじゃなくて……アレクシス様は、男爵にあまり会われたくないご様子でしたので、気になっていたのです!」
未来のことを考えていた、というのもあるけれど、こちらも事実だ。
アレクシス様と男爵は元々懇意ではなかったけれど、最近になって頻繁に手紙を寄越してきたり贈り物を押しつけてきたりするので迷惑だし、警戒もなさっているそうだ。
アレクシス様は、男爵に命を狙われています――そう言えたらいいけれど言えない状況の中、アレクシス様たちが男爵を警戒して、自衛に努めてくださっているというのは私としても喜ばしいことだ。
できるならこのまま、誰も死ぬことなく男爵の尻尾を掴んで、円満に処分してほしいところだけれど……。
私の説明を聞いて、アレクシス様はほっとしたように紅茶のカップ――気のせいか、少しひび割れている気がする――を置いた。
「それならよかった。……まさかリーゼは、本当は男爵のような男が好きなのかと焦った」
「ないですないです。私の理想は、幼い頃から今でもずっとアレクシス様です。あなたは永遠の私の憧れなのですから、他の男性に目移りしたりしません」
「っ……嬉しいことを言ってくれる」
アレクシス様はほんのりと頬を赤く染めた。
「だが、晩餐会の補助ではくれぐれも無理をしないようにしてくれ」
「はい、そうします。……アレクシス様もご無理はなさらないでくださいね」
「ああ、もちろんだ――あっ」
「あっ」
アレクシス様が気合いを入れたからか、口元に運ぼうと持ち上げた紅茶カップがぱきり、と音を立てて割れてしまった。