プロローグ②
貴族の結婚にしては異例の早さで、私は春の盛りを迎えるよりも前に結婚式を挙げた――けれど、式場にアレクシス様は現れなかった。家臣曰く、正装には着替えたけれど頑として部屋から出てこなかったそうだ。
私だけがぽつんと祭壇に立つ結婚式を終えて、私はリーデルシュタイン辺境伯夫人になった。
その後の結婚生活は、びっくりするほど冷えきっていた。
私たちの寝所は基本的に分けられて、主寝室の大きなベッドに私一人が寝る日が続いた。
ただし、私とだけは結婚したくなかった、と呟いていたアレクシス様だけど、後継者に関してはなんとかしなければならないと思ったようだ。
しばらくすると数日おきに主寝室を訪れて、義務のように私を抱いて去っていくようになった。
アレクシス様の戦闘狂いは結婚しても治らなくて、家臣たちも手を焼いていた。
私も辺境伯夫人として無茶な戦いばかりするアレクシス様を止めようとしたけれど、乱暴に手を振り払われるだけで、目線すら合わせてくれなかった。
アレクシス様が書類仕事をほったらかしにするから、私は必死で仕事を覚えて代わりにデスクワークをこなしていった。
そして、少しでもアレクシス様の負担を軽減しようと、色々調べものをしたり領地の視察に出向いたりした。
……父や前辺境伯様が亡くなる原因となったアジトにも、出向いた。
でもアレクシス様が派手に破壊した後のそこにはほぼ何も残っていなくて、代わりに聞き取り調査や土地の調査を行って、なるべく細かいデータをまとめたりもした。
それでも、アレクシス様は私を見てくれなかった。
――結婚して一年ほど経って、私の懐妊が発覚した。
誤診でないことを何度も確かめてから、お医者様に書いてもらった診断書を手にアレクシス様に報告する。
「……リーゼに、子が……?」
「はい。あなたと私の子です」
アレクシス様が遠征に出掛けてなかなか帰ってこられないから、そうこうしている間に私のお腹には膨らみが見られるようになっていた。
すぐに次の戦に出向こうとしていたアレクシス様は呆然とした顔で剣を取り落として、私のお腹を見てきた。荒んだ緑色の目に、微かな光が灯る。
――それに一縷の希望を見出した私だけど、すぐに光は消えて、アレクシス様は私に背中を向けた。
「……それは、大義だった。ゆっくり休み、元気な子を産んでくれ」
「は、はい、ありがとうございます。……あの、アレクシス様。お出掛けの前に……お腹に、触れてくれませんか?」
「俺が?」
「はい。この子もきっと、お父様の近くに行きたい、と願っていることでしょう」
アレクシス様が振り返ったので、私はその大きな背中に歩み寄って、彼の左手を取ろうとした――けれど、直前ですっと手が遠のいていった。
「……俺に、構うな」
「でも、アレクシス様……」
「……」
アレクシス様は何も言わず、今度こそきびすを返して部屋を出てしまった。
「……アレクシス様」
夫の手を握ることのできなかった手を、自分のお腹に添える。
立ち去るときの――アレクシス様の、寂しそうな眼差しを脳裏に思い浮かべながら、私は目を閉ざした。
子どもができてからも、アレクシス様は戦漬けの日々を送った。
それだけでなくて――以前よりもいっそう、私を避けるようになった。
妊娠しているから、もう主寝室に来ることもない。早起きして出立のお見送りをしようとしても、もぬけの空。玄関でお帰りをお待ちしようとしたら家臣たちに、「今の奥様は、いらっしゃらない方がいいです」と止められる始末。
アレクシス様は、ずっと闇に囚われている。
一年前のあの冬の日に、優しかったアレクシス様は死んだ。
目の前で前辺境伯様を殺されて、ご自分を庇った私の父も死に、多くの騎士たちが斬られた経験が、アレクシス様を変えてしまった。
ご本人はおっしゃらないけれど、王国騎士団からリーデルシュタイン騎士団に転籍になった兄曰く、「前辺境伯様や父さんを見殺しにしたことを、悔いてらっしゃるのだろう」とのことだった。
そんなことは、ない。
皆、アレクシス様だけはお守りしようと頑張ったんだ。
私も兄も母も、アレクシス様を恨んだことは一度もない。
むしろ父が身を挺してお守りしたのだから、アレクシス様にはいっそう幸せになってもらいたいくらいなのに。
今でも私は、アレクシス様を慕っていた。
もうすぐお父様になるのだから、こっちを見てほしい。一緒に子育てをしてほしい。
……もう、過去に囚われずに未来を見てほしい。
その日は、雨模様だった。
私のお腹も順調に大きくなってきて、つわりの峠も一旦越えたため、外出もできるようになった。
夕方に、アレクシス様が帰城なさったという知らせが入り――すぐにまた、遠方の内乱鎮圧のために出発なさると聞いた。
私は、身仕度を調えた。
妊娠を告げてから私は一度も、アレクシス様と話ができていない。
まともに動けるうちに、言わないと。
侍女たちをなだめ、家臣たちの同行を却下して、私は小雨の降る庭に出た。アレクシス様はまだ庭にいらっしゃるから、心配しなくていいと皆に言って。
アレクシス様は、厩舎の近くにいらっしゃった。雨で濡れた背中が寂しげで、私は雨除けのために被っていた上着をずらして、アレクシス様のもとへ小走りに駆けた。
アレクシス様。
どうか、話を聞いて。
無茶な戦いはやめて、私たちと一緒に未来を考え直してほしい。
そんな想いを込めて、私は雨でぬかるんだ地面を踏みしめる。
足音を耳にしたらしいアレクシス様が、振り返った。
そして――
――銀の軌跡が閃き、私の目の前がかっと赤く染まった。
一瞬のことで、何が起きたか分からなかった。
鋭い痛みが胸から脇にかけて走り――私はその場に、俯せに倒れた。
お腹の赤ちゃんに障ると分かっていても、体の向きを変える余裕なんてない。
「リー……ゼ……?」
呆然としたアレクシス様の声と、ぐしゃ、と重いものが地面に落ちる音。
私の視界に見えたそれは……血に濡れた剣だった。
ばしゃん、と泥水を跳ねながら、アレクシス様が跪いて私の体を抱き起こした。
「リーゼ! なぜ君がここにいる!?」
「……アレクシス、様……」
名前を呼んだけれど、体が痛い。息が苦しい。
ごほ、と吐いた咳は真っ赤に染まっていて、アレクシス様の上着を汚してしまった。
ああ、いけない。
私を抱きかかえるアレクシス様の袖やスラックスにも、どんどん赤い染みが移ってしまう。
「なんということだ……くっ、すぐに医師を――!」
「……ま、て。アレク……様……」
体が、冷たい。
今は初夏だから、本当ならほんのり暑いくらいなのに。
震える手を伸ばして、アレクシス様の頬に触れる。
そこはげっそりと窶れていて、彼がこれまでの間に背負ってきたものの重さを感じて、胸が苦しくなってくる。
「どう、か……しあわ、せに……」
「リーゼ、何を言っている!?」
「奥様!?」
アレクシス様の声に混じり、誰かの叫び声が聞こえる。
ああ、ごめんなさい、少し、静かにしてくれないかな。
少しでも長く、アレクシス様の声を聞いていたいから。
「……わたし、ずっと、あなたのこと……あいして、ます……」
「リーゼ……!?」
「もう、だいじょ、ぶ、です……あなたは、ひとりじゃ、ない、から……もう、ごじぶんを、せめない……で……」
ああ、よかった。
言いたかったことは、全部言えた。
安堵のためか、それまではなんとか動いていた手やまぶたから、力が抜けていった。
私を抱きしめるアレクシス様が、慟哭を上げている。
体がばらばらになりそうなほど強い力で、抱きしめられる。
私は、幸せ者だ。
最期に大好きな人の声と温もりを、感じていられるのだから。
……愛する人の子をこの世に送り出せなかったのは本当に残念だし、この子に申し訳ない。
でも……もう、何も考えられない。
私はアレクシス様に名を呼ばれながら、意識を手放した。