甘い反撃①
私の名前は、リーゼ・キルシュ。
父親のヨナタン・キルシュは騎士爵を賜っており、リーデルシュタイン辺境伯家の騎士団長を務めている。
母親のエリーザベト・キルシュは辺境伯領の平民階級出身で、父とは少々身分差があるけれどそれを乗り越えて結婚した。その後、辺境伯家子息の乳母を務めたこともある。
兄のリヒャルト・キルシュは父から剣術を叩き込まれて、現在王国騎士団員として王都で働いている。二年ほど前に結婚していて、私の義姉と甥っ子と一緒に暮らしている。
そして妹の私は、現在十八歳。リーデルシュタイン城の経理補佐として、デスクワーク全般を担当している。書類作成や算術は得意な方。
……そんな私だったけれど、今では「次期リーデルシュタイン辺境伯夫人」として、城内でもあらゆる人々から敬意を払われる立場になってしまった。
私は一度、二十歳で死亡した――はずだ。
でも二十歳まで生きた記憶を持ったまま、私は十八歳の秋に逆戻りした。
そして、誰一人として幸せになれなかったあの未来を変えようと、秋から初冬にかけて努力してきた。
私の一番の願いは、主君であり初恋の人であるアレクシス様が幸せになること。
【一度目の人生】のときのように仕方なく私と結婚し、愛のない日々を過ごすのではなくて、アレクシス様の身分にふさわしい令嬢を奥方に迎えて幸福に暮らしてほしかった。
……自分の恋心は抑え込もうと思っていたけれど、何の因果か、私はアレクシス様からプロポーズされてしまった。しかも、ずっと私のことが好きだったという熱烈な告白付きで。
【一度目の人生】でのアレクシス様の言動とはあまりにも違うので驚いたけれど、実際に私はアレクシス様に愛されているようだし……私も、【一度目の人生】でぞんざいな扱いをされて挙げ句の果てに斬り捨てられたとしても、アレクシス様のことが好きだった。
私も、アレクシス様と一緒に暮らしたい。
一緒に幸せになって、このリーデルシュタインの地を守っていきたい。
そうして私はおっかなびっくりしつつアレクシス様の求婚を受け入れて、彼の婚約者になった――のだけれど。
「……ああっ! そんなところにいらっしゃったのですね、リーゼ様!」
廊下を歩いていると背後から呼びかけられて、思わず背中をびくっと揺らしてしまう。振り返らずとも、声の主と――あと、彼の用事の内容は予想が付く。
だからといって背中を向けたまま会話はできないので振り返ると、予想通りそこにはアレクシス様付きの従者の一人がいて、きらきらした目で私を見ていた。
嬉しそうな顔に弾んだ声、ってことは、悪い内容じゃないと思うけど……。
「どうかしましたか?」
「アレクシス様が、リーゼ様とのお茶休憩をご所望です!」
……またか、と零れそうになった台詞を呑み込み、私は笑顔の仮面を貼り付けた。
「ま、まあ、それは嬉しいことですね。……しかし残念ながら、こちらの資料を書庫に返しに行き、新しいものを経理室に持っていかなければならないので……」
「あ、それなら僕がもう、経理長から許可をもらっています! 資料運びは後でいいから、アレクシス様のご要望にお応えするように、とのことです!」
「……そう、ですか」
どうやら根回しは完璧だったようだ。
私は抱えていた資料を渋々従者に渡し、「アレクシス様は中庭のガゼボでお待ちですよー!」という声を背に、きびすを返した。
アレクシス様の婚約者になって、早一ヶ月。
私はしょっちゅう、アレクシス様とお茶を飲んでいた。
婚約者同士なのだから、一緒にお茶を飲んだり庭園を散策したりする、というのはおかしなことではない。それに私はリーデルシュタイン城で暮らしているのだから、よほどの事情がない限り予定の都合が悪いこともなかった。
でも……それにしても、頻繁すぎる。
というか、これまでアレクシス様はガゼボでお茶を飲んだりなさらなかったというのに。
どうやらアレクシス様は私と過ごす時間を少しでも多く取りたいとお思いのようで、何かにつけてこうして呼び出して、お茶を飲んだりお喋りをしたりしていた。
……かといって、彼の我が儘放題で私たちを振り回しているわけではない。
城の経理補佐をする私は、資料作成とか計算とか文章校正作業とかについ没頭して、休憩時間を潰してしまうこともあった。
上司である経理長にもしばしば苦言を呈されていたけれど、耳を貸さなかった――というのは、私が悪い。
そんな私だけど、アレクシス様から呼び出しを受けることで強制的に休憩を取ることになる。
アレクシス様も、ご自分のお仕事と私の勤務時間をすり合わせていい感じのタイミングで呼び出してくるから、周りの人たちもとやかく言わない。騎士たちでさえ、「アレクシス様が定期的に休憩を取られるようになったので、嬉しいことです」って言っているくらいだ。
城を出てガゼボに向かうと、そこにはもうアレクシス様の姿があった。
給仕たちがしずしずと茶の仕度を進めていて、私用らしい椅子にはふかふかのクッションが置かれている。
アレクシス様の姿はガゼボに向かうことではっきり見えてきたけれど、私が目視できるようになった時点で既に、アレクシス様はこちらを見ていた。前に聞いたのだけれど、「リーゼが近づいたら足音ですぐ分かる」らしい。
今日のアレクシス様は、黒のスラックスに襟元のリボンタイがおしゃれなシャツ、その上にキャラメル色のジャケットを着ていた。
一応腰に剣を下げているけれど、本格的な戦闘用ではない護身用の片手剣のようだ。確か今日は、シェルツ子爵として書類の決裁や招待状への返事書きなどをなさっていたはずだ。
騎士団の制服姿のアレクシス様も格好いいけれど、普段着姿も文句なしに素敵だ。
スラックスの太もも部分は筋肉のためにぱつぱつで、体のラインが何とも艶めかしい。胸筋も立派で、肩幅もある。アレクシス様の胸囲は城で働くどの女性よりも大きいとの、専らの噂だ。
そんな剛健な体と、物語に出てくる王子様のように甘い美貌を持つアレクシス様は、目元を緩ませて私をじっと見ていた。緑色の目はとろりと優しい光を孕んでいて、薄い唇は幸せそうに弧を描いている。
私が近づくと立ち上がり、わざわざガゼボの前まで下りてきてくださった。
「来てくれてありがとう、リーゼ。今日も君と一緒に茶を飲めて、嬉しい」
「私もです。お招きくださり、ありがとうございます」
着替える暇はなかったので仕事用のシンプルなドレスのスカートを摘んでお辞儀をすると、アレクシス様は満足そうに頷いて、「座ってくれ」と促した。
アレクシス様に呼び出されるたびに「またか」とは思うけれど、嫌ではない。
私だって……アレクシス様のことが好きでプロポーズを受けたのだから、好きな人と一緒に過ごせるのは幸せだ。
「さあ、リーゼ。今日は君の好きなものをたくさん取り寄せた。このフルーツは、君が子どもの頃から好んで食べていたものだろう?」
そう言ってアレクシス様の太い指が示すのは、皿にこんもりと盛られた赤い果実。
……えっ? これって、まさか――
「こ、これってペラルタベリーですか!?」
「ああ。今年で最初に穫れたものを取り寄せたんだ」
「こんなに高価なものを……」
私が指差す先にある赤い果実はペラルタベリーといい、ここゲルタ王国より南西にあるペラルタ王国で栽培されている。
ペラルタはここよりも温暖な気候で、ペラルタベリーはゲルタ王国が春の盛りを迎えるよりも前に収穫され始める。
暖かい時季になるとたくさん市場に並ぶけれど、まだ初春で寒さも残っているこの季節だと、かなり高価なはず。




