置物
妥協するのが一番良い時だってある、そういう言葉が自然に出てきた時点で、自分は何かに取り憑かれているのではと後ろを向いた。
いや、まだ取り憑かれているならまだ良い。まだ自分の意思ではないと建前と区別できるからだ。
自分がこう考えてしまうのは誰か他人が、第三者がやっていることなんだ、と目を背けることができるからだ。
人は宗教にしても、心理にしても何かに例えたり分離させて考えるのが好きだ。
人を罪に陥れようとする悪魔がいると考えたり、自分の中にいくつも考えが違う自分が存在すると考えたりする。
そういう「自分」でないと我が保てない人が沢山いるのは事実だ。
そうなるのは人それぞれ要因が違うし、相談にでもかけられない限りどうにかしようとも思わない。
だがしかしなぜだろう。
何でこんなに悲しいのだろう。
なぜそれを自分が体現した時に、笑いと悲しみが同時に襲ってくるのだろう。
自分はその時、初めてと言っていい教師に対しての抵抗をした。内容は伏せておくが、最終的に教師の暴論にまくしたてられてボロ負けした。
教師の言っている単語一つ一つが自分の頭を揺さぶった。
耐えきれなくなったのだ。
けどそこで感情に身を任せてはいけないと思い、自分は言える限りの言葉をさも知っているかのような素振りで話した。
大人ぶって話して、勝手に動揺しては早口になって、結局口数少なくなったところを揚げ足取られて自滅した。そうして自分は泣いた。
初めて家族以外の人前で泣いた。
泣きながら笑った、笑いながら泣いた。
そんな時、笑っている自分と泣いている自分が別々に存在するなんて考え方はしなかった。心の底から自分の滑稽さに笑っていたし、教師に負けた悔しさと自分の口論のスキルの無さがあらわになったのが恥ずかしくなって泣いた。
あの時自分は教師に対してももちろんだが、自分とも向き合っていたんだと思う。
自分の色んな面を知ることができた一瞬だった。あの場面は、ある人にとっては意味を成さないが自分にとっては良い経験だ。
ただ、今その時に同じような状況になったとして、その時と同じように自分と相手と向き合って行動できるかはどうかははっきりと答えることができない。
自分の退化の大きさに、非常に苦しんだ。