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投稿実験場  作者: ignited
魔人の章
1/2

街道の馴れ初め1

 

 平原を往く集団がある。

 集団の数は十ほど。それぞれ武装した騎馬と歩兵が十台前後の馬車を取り囲むように足並みを揃えている。

 人影を数えて千にも達する集団は、しかし行列を乱す事なく整然と進んでいる。


「そのような所から顔を出すものではないぞ、ナトリア殿」


 行列の先頭集団。

 その中ほどを走る馬車の中、名を呼ばれたナトリアは視線を声の方へと動かした。方向は頭上。馬車の客室から御者席へと通じている小窓から首を出すこちらの頭部の位置は、手綱を握る御者の足元で、見上げると青い毛皮を持った獣相の人狼がこちらを睨んでいる。


「戦監を見下ろして意見を言うものではないぞ、リックス兵長」

「普通は位の高い方が見下されぬような努力をするものだ」

「なんだ、我が白銀隊はアットホームで楽しい職場を合言葉にしていた筈だろう?」


 言って、ナトリアは小窓から右肩を出した。次いで、左。窓枠に手を掛け、体を引っ張り上げようとする。


「んむ……」

「どうした?」

「……巨乳がつっかえてしまった。あ、いや待て。……いかん、肩も戻らんぞ。どうしよう」

「我輩に言われても困る。見れば分かる通り、今は行軍中で、手綱を握っている」

「分かっている。まあ待て。よし、片腕はなんとか戻ったな。あとは鎧を何とかすれば……」


 戻した片腕で鎧の留め具を探す。

 プレートメイルの主流は頭上から被せるように装着するものか、前後を革の帯で留めるものだが、今身に付けているのは胸元が左右に開いて脱着の出来る特製品で、大陸外製の珍しい逸品だ。一体成型で頑丈な上に着脱も容易であり、裏側に鎧下を張り付けられるようになっているので下には何も着る必要がない。それがいい。


「フフフ。君には分かるかね?この良さが」

「それにしても、この体勢は私がまだ女学生だった頃を思い出すなあ」

「うぬ?」

「いやな、我が故郷の学園では壁係という者が居てだな。学舎の至る所の壁に丁度いいサイズの穴が開いているのだが、休憩時間になると壁係が全裸でその穴に体を挟み込むと、前と後ろに列が出来て順番にだな……」

「もう想像できたから言わなくて良いぞ」

「そこで想像で済ますから君は奥手のままなのだぞ。もっと現実世界で欲望を解放させないと駄目だ。っと、よし外れた!」


 留め具を外すと、鎧の前方が左右に僅かに開く。体を身じろぎさせて鎧を下に落とせば、押さえつけていた胸部が自由になる感覚がある。

 そのまま腕を小窓に通し、もう一度、身を引き上げる。小窓は相変わらず窮屈に身体を絞めたが、鎧とは違い生身の胸部は柔軟性が違うので何とか潜り抜ける事に成功した。

 腰まで身を乗り出し、そこで仰向けに半回転。御者席の縁を掴み、足を引き出す。完全に御者席に躍り出れば、肌の上を風が撫でていく。

 ナトリアはそのまま手綱を握るリックスの隣に立った。行軍の列の中、誰よりも高い位置に視点を置いたナトリアはおもむろに腕を開いた。天を仰ぐように胸を張り、そして。


「この開放感!」

「おいやめろ」

「んむ?今この白銀隊の隊長であるところの、この私、ナトリア・ローズレッド白銀官に向かって不遜な物言いをした者が居なかったか?」

「いや。被害妄想であろう。ともあれ、やめてくれと我輩は諫言する」

「理由を述べよ」

「三つある。一つは、そこに立つと危ないということだ。二つに、上半身が裸だ。三つに、歩兵の隊列が乱れている」


 風を浴びる視界の中、見渡すと、確かに背後の様子を窺った前方の歩兵がこちらの胸部に目を奪われて歩調を乱していた。

 さもありなん。自然体でも乳頭がつんと前を向くこちらの胸は弾力から色艶、大きさとしても自信の逸品であり、己の身体の各部位の中でも最も理想を体現した部分だ。それは誰もが探し求めるもので、その果実にたどり着く者は数少なく、そしてこの場に居る兵はみな幸運な探求者だ。


「ならば今ここで真理を目撃せよ!」

「だからやめろと言うのに!一足飛びの思想を流布するものではない」


 と、その時だ。

 馬車が地面の小さなくぼみに車輪を取られ、がたんっと僅かに上下した。立ちの姿勢が揺らぐほどのものでは無かったが、上下の振動にこちらの巨乳が同等の運動を見せた。おお……!という前方の兵のざわめきの中、特にこちらを注視していた竜人の若者が歩調を緩めてしまい、背後の者とぶつかり、よろけ、転倒。そのまま、


「おっと」


 ゴトゴトゴト!という、今度はこちらも体勢を崩さざるをえない大きな振動を馬車に与えた後、背後の方へと消え去って行った。


「大丈夫かなあ、今の奴」

獣人族(ルーガル)は総じて生命力が高いものである。特にアレは竜鱗の加護も持っているからして、軽傷では済まんだろうが……まあ奴も本望だったろう」


 嘆息を一つ。リックスは手綱から離した片手を伸ばし、こちらの手を取り、御者席の隣に腰を据えさせた。


「これからまた一戦である。流石にこれ以上、兵が動揺するとまずいのでな」


 そう言うとリックスが自身の外套を差し出してきたので、受け取る。

 袖を通さず、肩に羽織りながら前に視線を向ければ、遠く、街道の行先は森林地帯に続いている。




・ ・ ・




 リックスは手綱を握ったまま、己の隣に視線を流した。

 右手側。こちらの肩口と同じ位置にナトリアの頭がある。それは漆色の広がりで、こちらの顔を映してしまいそうなほどの艶と輝きを持った黒の美髪だ。

 黒髪の半分は背中側へ、もう半分は肩から前へと続き、その漆色の隙間からは白い肌が直に見えている。こちらの渡した外套を羽織っていはいるが、その姿は半裸で、本人はその肌を隠すという行為に無頓着だ。

 本人が好きでやっている事ではあるが、しかし、その人物は自分が所属する隊の首領である。もう少し威厳を出してもらいたいものだと常々思うが本人にその気が無いのでどうにもならない。


「む」


 その時、地面のあぜに馬車が揺れた。

 隣。黒髪の下、肩口に引っかかっていた外套が外れ、左半身がはだけた。片手に余る白く大きな乳房があらわになるが、その程度のことで気を乱す己ではない。手綱から右手を外す。たわやかな膨らみに手が伸びそうになるのは本能ゆえの事だから仕方がない。自制心で腕を止め、外れた外套をかけ直すと、こちらの顔を金色の双眸が見つめてくる。その表情は笑みの形。

 息を呑んだ。相も変わらず、とリックスは思う。


(息が止まるよう、であるな)


 ナトリアという女を表すのに、美辞麗句を並べるのは無意味だ。余人の想像力で、この人物の美貌を思い描くことは出来ない。

 何の構えもなく、無防備なままにその(かお)を直視すれば、誇張なく、比喩ではなく、息が止めることだろう。

 実際、自分はそうだったのだと、リックスは思い返す。出会いは不意で、その姿に呼吸を忘れた。目に映すことすら眩くて、盗賊だというのに手も声もかけず見逃した。その時は惜しい事をしたと後悔したものだが。


「その後悔こそが、最も至福だったのであろうか」

「なんの話だ?」

「出会った折の話だ」

「懐かしいな。ああ、私も覚えているよ。君が問答無用で私を組み敷いて仲間と共に散々に回し犯した話だろう」

「違うぞ。ナトリア団長が私に一発カマせと酒場で絡んできた話だ」

「友好を結ぼうとしただけだ。結局、君は一発と言わず八発ほどカマしてくれたが」


 思い返す。土地柄ゆえ、その酒場には獣人族(ルーガル)が多く集まっていた。

 何事に関しても即物的で刹那的なのが獣人の性質であり、他の種族を交えぬ場では生殖の為の個人間活動が堂々と始まる事も珍しくない。

 その日もまた、年若い獣人の雌雄が行為に及ぶ前段階として素手の殴り合いを敢行していた。負けた方が下になるというのが条件であり、どちらの勝負もバックを取れた方が有利だ。

 その夜は雄よりも雌の方が威勢が良く、勝負も佳境に入り、酒場の盛り上がりが最高潮に達しようとした、その時だ。ナトリアが現れたのは。

 まず、魔人族(ディーバ)というのが珍しかった。しかし何より、その姿に目を奪われた。酒場に居た者全てが、だ。雄と雌の区別もなく、宴の狂乱に飛び込んできたナトリアを前に、言葉を失ったのだ。


(何せ、全裸で突入してきたのだからな……)


 覚えている。第一声はこうだ。


「私抜きで乱交パーティーを始めるつもりかー!」


 ヤバイのが来たと酒場の誰もが思った。

 己の驚きはその中でも一際だったろう。昼に街で見かけ、息を止めさせられた女が、夜に裸で酒場に突撃してきたのだ。比喩ではなく息の根が止まるような気がしたが、その夜の驚きはその瞬間に留まらず、


「お、君は街で会ったな。目を逸らすほど、私は眩しかったかい?」


 酒場の奥に座っていたこちらへと、真っ直ぐ、その女が来た。肢体に布一枚纏わぬ姿を前に、言葉と呼吸を失った感覚を今でも思い出す。


「ふむ。よし、一人目は君だ。獣人の猛りを私に突き立ててみせろ」


 その瞬間、ナトリアの登場で水を打っていた酒場の空気が沸き立った。何故なら彼女は、一人目、と言ったのだ。

 やっちまえ!などという粗野な掛け声にも後押しされ、自分は目の前の美貌を床に組み敷き、猛り、一度、二度、三度を迎えた辺りから主導権を向こうに取られ、四度目以降からは記憶が朧ではあるがナトリアの言によれば八度まで達したらしい。

 そこで一端、こちらの記憶は途切れる。

 目を覚ました時には店の中に居た三十余りという獣人の悉くが倒れ伏しており、灯りの消えた深夜の酒場の中、テーブルに胡座をかいたナトリアが一人、月下の陰影を肴にエール酒を煽っていた。


「吾輩は恐怖というものをあの時に初めて感じた」

「いい初体験だっただろう?」

「まことに、であるな」


 しかし、


「あれから五年であるか。御身一つで百名の傭兵団を作り上げたのは驚きであった」

「獣人はその日暮らしが好きだからなぁ。そんな事だから想像力が貧困になるのだ」

「ふむ。それが今や魔王軍である。もはや常人にとっても慮外の話であろう」

「百の獣人が今では五千の獣人に魔人に……まあよく出世したものとは思うが、まさか君はこれが栄華の到達点だと思ってはいないだろうね?」

「他の者になら、大言壮語も甚だしいと言ってやるのだがな。それにしても、今回は敵軍の別働隊をよく見つけたものであるな」


 ナトリアの率いる白銀隊は魔王軍に存在する他の部隊とはある種、一線を画す役割を担っている。任務の主目的となるのは戦闘ではなく前線各地への物資の補給と伝令・救援など。その性質ゆえ、隊が単独で敵と交戦する事は珍しいものだが、今回は少し事情が違った。

 北方で発生した戦線への補給として隊を動かしたナトリアだが、当初の計画からして最短の補給路を大きく迂回する形に進路を取っていた。当然、隊の者からは疑問の声が上がるが、ナトリアはその声を「獣人のくせに細かい事を気にするんじゃない」という(げん)で黙殺するという、大体いつも通りの姿勢で対応し、出陣。そして行軍の最中、味方の砦を後方から強襲しようとしている敵軍の別働隊を発見して、これを撃破したのがここ数日の話だ。


「まるで出陣の前から敵方の動きを俯瞰していたかのようですらあると、兵の間では評判であるな」

「ふむ。この程度で評判にされても困る所だが、まあ前線への手土産にはなったろう」

「手勢一千とはいえ、兵として戦う役目の者は約七割ほど。兵数にして二千の敵軍を打ち破ったのは、普通は快挙と言うのではなかろうか。獣人族(ルーガル)がいかに人間族(ヒューマ)より爪牙に優れようと、集団ならば二倍差で同等である。個人でも、三倍差で勝ち得る者は少ない」

「勝ち負けは数ではなく、誰が差配するかで決まるものだ。名将とは、戦が始まった時には既に勝利しているのさ」

「で、あるか」


 さて、と居住まいを正して背筋を伸ばせば、前方、平原の遥か先は木立に挟まれた狭窄の林道へと続いている。


「隘路だな。人軍の指揮官が多少の戦術に通じるなら、伏兵が居るはずだ」


 声は己の隣から。声色をやや高く、張りをもって響く。焦点を持たない音の広がりは、自分に対する会話ではない。進軍する多くの兵に対するものだ。

 それは下知と呼ばれるもの。

 澄み渡る声音に対し、周囲は進行の速度を緩めぬまま、やや体を緊張させた。視線ではなく耳で、ナトリアを注視する。


「さあて楽しい追撃戦だ。───駿兵を放て!」




・ ・ ・




 影が疾走している。

 数は百。速度は早馬にも匹敵する高速であり、しかしそれは革と鉄を繋ぎ合わせた簡易な鎧を身に纏う、歩兵の集団だ。

 集団には共通点があった。それは外見上のもので、即ち、耳と尾と毛皮である。

 頭頂部の髪を掻き分けて覗く大きな耳。腰より僅かに低い位置から伸びる尾と、地肌を覆う毛皮に、獣相の容貌。毛並みや色柄、面容、全てが異なるが、しかし全員がこれらの部位としての共通点を持っていた。

 それは駿兵(しゅんぺい)と呼ばれる高速走法の訓練を積んだ獣人族(ルーガル)の歩兵部隊だ。

 砂塵を上げる駿兵の先頭集団、十という数の中央後方を走るのは黒の毛皮で覆われた猫科の獣相を持つ大柄な壮年の獣人。

 大猫は前方を行く九人の背を見つつ、さらに先、木立で狭まった街道の入口に視線を向けた。


「そろそろ速度上げんぞ、若造ども。お前ら正面突破な。ワシは右のほう回るから」

「オイコラオッサン。獣人が保身してんじゃねえよ」

「そーだぞオッサン。老い先短いんだから正面から行って戦場の誉になってこいよ」

「アンタの首拾って帰ったらナトリア様慰めてくれっかなあ。具体的に一発くらい」

「じゃあ俺はオヤッさんが一応倒すであろう敵将の首持って帰ってご褒美のやつ一発もらおう」

「勝ち戦の勢いで抱かせてくれって頼み込んだら一発くらい普通にヤラせてくれねえかな」

「お前ら少しは落ち着け。兄貴分として言うが、一発で済まそうとか本当に獣人か?」


 連れてくる者を間違えたかと思ったが、しかし若い獣人はどれも精強であり屈強だ。敵と当たるに際しては必要条件を揃えている。誤っているのは人格だろうか。まあ獣人族(ルーガル)の若人などは飯と喧嘩と交尾の事だけ考えているのが普通なのだから、健全といえば健全である。


(白銀殿もエロを隠さないからなあ)


 ナトリア・ローズレッド。

 大猫は隊を率いる雌の魔人を思い浮かべた。全軍にして五千の魔族を率いる美姫は、身体も言動も全方向的に扇情的だ。


「よし、帰ったらその物言いをそっくりワシが白銀殿に伝えておいてやろう」


 あの御仁がどのような行動で示すか大猫にははっきりと想像できた。

 私の為に武功を立てろ、そしたら、遺憾なく私を抱かせてやるぞ。そう言って憚らないナトリアの言葉は、嘘偽りのない真実だ。


「次の日にはお前ら全員、揃って搾りカスだ。自分の限界に挑戦できるぞ、良かったな」


 おお……!という歓声が上がった。その反応に苦い笑みを浮かべたのは、まだ彼らが年若い青年であるという事を認識したのと、半年前の大戦(おおいくさ)で勝利した宴で始まった乱交騒ぎを思い出したからだ。

 前を行く者達はその宴参加していないため、未だ経験が───ナトリアという雌と交わった経験が無い。

 思い返す。

 あれは限界突破の日だった。比喩でなく死ぬかと思った。次の日は食欲が無く、ふと気晴らしに行った商路のバザーで雌の獣人同士が乱闘騒ぎを起こしており、常ならもっとやれと囃し立てる所を早々に切り上げて帰路につこうとした己の行動に驚愕した。

 獣人にとって闘争心と性欲は表裏一体のものだ。強い者に焦がれ、魅力ある者を屈服させたいと思うのは種族的にごく自然な本能の働きだったのだが、その日はそういった獣人の本能が一切働かなかった。まさかと思って駆け込んだ娼館でまさかの不能の醜態を晒した事をよく覚えている。

 結局、いつも通りの己を取り戻すのには三日を費やした。その間は雌を見る度に不能に陥った己自身を思い知らされるので同様の症状が出ていた旧知の人狼と呑んだくれて「やっぱ雄同士だよな」などと、今思えば人狼の顔を十回は殴打もののやりとりをしていた訳だが。


「まあ、若気の至りは若い内にやっとくもんだって事だな」


 己の内で一つの結論を飲み込み、大猫は頷き一つ。


「さて───」


 疾走する風の中、言葉を区切ったのは林道の入口がいよいよ間近に見えたからだ。

 呼吸を整え、息を吐く。牙を剥き出しに歯を食いしばり、疾駆する身体、その各部位の接続と連動を確かめる。噛み合せ。喉の唸り。闘争心が喉の内側を焼くような、その昂ぶりを感じ取り、己が獣人である事を強く思う。

 共に走る者達も同様に戦闘の体勢を整えている。叫びとも掛け声ともつかない威勢の唸りを若者がそれぞれに発すれば、後方、九十の集団にまで威勢は伝播する。

 戦の狂騒を感じつつ、大猫は林道の入口に焦点を合わせ、距離を測った。前傾に身体をやや沈めたのは、突入の前段階として足腰のバネを縮めたからだ。


「───るガァゥ!」


 喉が震え、獣咆が鳴った。響きとしては声というよりも音だ。

 縮めたバネを一気に解き放つ。先に立つ者の務めとして、一歩で前方の若者と並び、二歩で追い越し、三歩目で置き去りにしながら黒の大猫は進んだ。直進だ。後方ではこちらに追随する動きと散開し樹林に突入する動きの、二つの気配がある。

 進む。

 速度を高速に保ちながらしばらく行くと、大きく緩やかなカーブの向こうに人影を見つけ、大猫は咆哮した。背後に警戒を促すためだ。

 思い出す。殿軍(しんがりぐん)が居て、さらに伏兵が潜んでいるぞ、とのナトリアの言を。的中だが、しかし妙だと黒の大猫は思った。


(相手が、たった一人ではな!)


 愛手の顔は兜の面当て(バイザー)で見えない。プレートメイルと各種の装備で身を覆い隠しているが、それぞれ不揃いで傷も汚れも目立っている。恐らくは傭兵。

 それだけだ。

 それ以外には何も無く、ただ一人。

 大黒猫は後方に向けて掲げた腕と喉笛の唸りで指示を出した。進行する速度を僅かに落とし、樹林に入った者達を先行させる。

 伏兵を警戒しての事だ。

 この一人は囮で、他に、何処かに、兵が潜んでいるだろう。樹林の中を突き抜ける狭窄の道に兵が息を潜める場所など一つしか無い。

 つまり、樹林の中である。

 居残る敵は少数だと、ナトリアは言っていた。故に、狭窄の路に人垣を作るのではなく、左右の木々に兵を潜める可能性が高い、とも。


(読みの通りか。ならば後は簡単だ)


 樹林に伏せているであろう兵は、樹林に入った二人が蹴散らす。追い立てられて街道に出てきた所にこちらが更なる一撃を加える。それを全滅させるか、後ろから来る本隊が追い付けば、人軍の本隊の背を追う追撃戦が始まる。

 手筈の決まっている戦闘ほど呆気ないものも無いなと思いつつ、街道に立つ一人に向かい走り、距離は縮まり、あと二百歩。

 大猫は進行する先を見据えた。相手の体格と装備がよく見える。

 背丈はこちらより頭一つ以上は低く、人間としても小柄な方だ。装備は平凡で、兜と胸元のプレートメイル、腕甲、脚甲などに見るべき点は無い。唯一、得物だけが身の丈の半分を超える刀身を持つ大剣であり、華奢な体つきに不釣り合いで、まるで大人の真似事をする稚児のようにも見えた。


「まあいい。どうせ殺すだけだ」


 本命は伏せてある兵の方だ。

 しかし、囮とはいえたった一人というのは妙ではないか、と。思っている内に距離は詰まり、そろそろ樹林の中ではこちらの獣人と敵の人間とが接触しても良い頃合いではあるが───


「───ん?」


 何かおかしい、という感覚に捉われたのはその時だった。

 異変、というほどのものではないが、しかしどこかに違和感を感じ取って、大猫は速度を落とした。

 耳を逆立て、鼻を利かせ、視野を広く、辺りの気配に気を配る。

 感じ取ったのは、己の鼓動と獣人の呼吸。それを省くと、後には静寂と呼んで差し支えのない木々の合間の空気だけが残る。

 まさか。

 違和感の正体を突き止めた大猫は、前に出した駆け足を強く踏みしめ、制動。辺りを見回す。


 動きを止めたこちらの前方、視界の両端で同時に動くものがある。

 街道の脇、こちらから見て左手にある木陰から獣人の一人が飛び出し、次いで、右手からも獣人の若者が顔を覗かせる。

 位置関係的には左手側の獣人は囮のすぐ前方で、右手側に至っては囮を通り過ぎた背後だ。

 驚く、というよりも呆れの感情が先行した。

 街道に立つ人間、粗末な鎧と身に不釣り合いな大剣を携えたその一人に、焦点を合わせる。


「どういう事だよ、オイ!」


 声を荒げたのは囮の前方、数歩の距離で対峙する位置に身を置く獣人だ。肩越しに振り向き、赤毛の狂犬の獣人は、その表情に不満の感情を露わに、一息。


「伏兵なんざ、一人も居やしねーぞ!」




・ ・ ・




 さあて、どうするか。

 状況に対して狂犬は思った。

 追撃戦。初陣だ。予定では数百からなる人間の群れに突っ込んで暴れ回るのが役割だった。

 世に出たばかりの己を試す機会であり、働き次第では夜にご褒美までもらえるという噂まであったのだが、しかし。

 自分の目前にあるのはたった一人きりの人間のみだ。

 腕を掲げ、そして下ろせば、全てが終わる。そのようなものを闘争とは呼ばない。戦功とも、誉とも呼ばない。

 困惑している。そして苛立ちの感情が胸に来る。白けるような虚脱の感覚がさらに続く。


(ヤル気でねえなあ、ったく)


 小さな嘆息を鼻に通しつつ、赤毛の狂犬は歩を進めた。

 結果はどうあれ、人間どもの軍がここを通ったことは事実だ。この先、さらに進んだ所には、多くの敵が待っているのだろうか。というか、待っていてくれなければ困る。

 自分はそれを追い、追い付き、叩き潰して、褒美にありつくのだ。

 腰にある得物の柄に手をかけ、片刃の剣を引き抜く。心胆はほとんど無感情だ。

 刃を右手に掲げると、呼応するように、人間は地面に突き立てた大剣の柄を強く握り込んだ。ほう。感嘆一つ。抵抗の意思があるのか、と。

 無駄だ、などという言葉をかける事は無い。そんな事は言わずとも理解出来る事だ。

 赤毛の狂犬は、故に無言で、見下ろす程に小さい華奢な体躯に向け、刃を振り下ろした。


「───ッ!」


 勝負は一撃で決した。

 衝撃の感覚が右手に来る。赤い液体の飛散を視界の中に見る。景色が、時間がゆっくりと流れるような感覚。思考と感覚が、圧縮されて剥離するかのようだ。

 どさり、という落下の音を耳が捉え、ようやく、僅かにずれた思考と感覚の剥離が元に戻り、胸に到来したのは驚愕の息吹だ。

 赤毛の狂犬は、それらの感情を吐き出すように、短く、簡潔に呟いた。


「おいマジか」


 己の肘先。右腕と呼ばれていた物が、そこで断ち切られていた。





・ ・ ・




 黒の大猫は踏み足を切っていた。

 前に出る視界の中では、二匹の獣人が動きを見せている。右腕ごと得物と攻撃の勢いを失った狂犬の獣人がたたらを踏むように後ろへ下がり、視界の奥から人間の背後を衝く動きで若い人狼が走っている。

 獣人の多くは種として人間の能力を凌駕する。こと、戦闘に限れば他の魔族ですら圧倒する。豪腕、壮健、強靭、の三拍子に加え、発達した感覚器と野生の本能があり、知性と戦術を駆使する。人間個人の武勇など、誇張なく虫ケラ同然に蹴散らすことが出来ると思っていたし、それは昨日までの事実だった。

 それが、だ。


「ヌ、ゥンッ!」


 左から右へ。視界の中で人間は振り向きざま、背後から襲った人狼に向けた横薙ぎの刃を振るった。

 人狼も当然、対応する。背におびた剣を手に取り、抜刀から振り下ろしまでを一つの動きで連動。

 抱き合うような距離で二つの白刃がぶつかった。

 拮抗の鍔迫り合いは無い。一撃の瞬間に威力を発揮したのは、やはり人間の持つ大剣の鈍い輝きだった。

 人狼の刃が砕ける。左腕から入った大剣は勢いのまま、その刃の届く範囲にあるものを悉く断ち切った。

 血の飛沫が上がる。

 薙ぎ払いの勢いが横合いに血の雨を殴りつけて、上下に寸断された骸が崩れるのを待たず、


「おお……!」


 人間はそこで動きは止める事はない。

 振り抜いた剣の重さに身体の動きを乗せて、爪先を軸に回転。風を伴った刃が回転の挙動でこちらを向いた。


「ぐるァッ!!」


 獣声。赤毛の狂犬の傍らを跳ねるように進み、こちらも戦斧を振りかぶる。

 手首を起こし、接地している後ろ足を蹴り、前へ。

 跳ぶ。

 振り下ろす。

 鋼鉄の激突音。

 横合いの振り抜きに対し、こちらは上段からの振り下ろしと言う形で刃はかち合った。

 重さも威力も勝るはずの己の一撃は、しかし相手の刃を押し込むことが出来ず、激突の反動は彼我の距離を僅かに開けた。手には痺れの感覚。骨に軋みの痛みを感じ、大猫は叫んだ。


「どこの化け物だテメー?!」


 言葉と覇気を携え、大猫はもう一度戦斧を振り上げた。獣人の膂力で振り下ろせば、人体など紙細工のように引き裂くその威力を、今は人間の持つ得物に向けた。先の激突で下がった大剣の切先に、こちらの戦斧を真上から叩き込む。快音。衝撃。分厚い大剣の刃が砕けるのを、大猫は確かに見た。

 よし、と頷く。

 続く動きで足を屈伸させ、身体ごと戦斧を跳ね上げ、狙うのは相手の胸元から首筋。


「っ」


 半分以下の長さとなった剣を捨て、相手は背後へステップ。戦斧の攻撃を逃れた。舌打ち一つ。空振りした戦斧を構え直し、後ろ足に跳躍の力を踏む。

 呼応するように、相手も構えた。腕甲の拳に打ち付けられた鉄板が、握り込んだ拳の前面で直線に噛み合っている。まさしく鉄拳だ。人間が、獣人と拳で打ち合うつもりでいるのか。その事に、もはや驚嘆の念は抱かない。


「おお……!」


 大猫は己を鼓舞するように、大音の咆哮を上げた。


「ヌ、ゥ、あぁぁっ!」


 叫び。相手も、また。

 咆哮の重なるタイミングで、二つの打込みもまた重なった。鋼同士の激突音が響く。街道に射す僅かな日差しに、鉄の破片が反射した。

 破砕音を伴ったのは、大猫の戦斧の方だった。衝突点となった刃が浅く割れ、力の集中した柄の接合点が砕け折れる。


「なんと!?」


 驚嘆、などという言葉ではとうてい言い表せない。

 動揺だ。幾つもの戦場を駆け、幾つもの死線を超え、悉くの敵を葬った己が、浅からぬ動揺を得ている。

 不覚だと思うが、もはや遅い。連撃の機は敵にあり、徒手による二打目はこちらが動揺を掻き消す僅かな間より、さらに疾い。


「ハ、」


 と、息を吐き、その息はもう戻らない。

 目前の敵は、右腕を振り抜いている。打撃は鉄の胸甲を()き、毛皮とぶ厚い筋肉の繊維を、しかし圧し千切って、胸骨は砕かれ───右腕は二の腕まで深々とこちらの胸部に突き穿った。


「ふ、」


 と、敵が詰めた呼吸を吐き出す音が聞こえた。右腕が引き抜かれ、一歩、背後へ。


「カ、ハ───」


 賞賛か、怨嗟か、今際の一つでもと思ったが、もはや喉に言葉は通らなかった。代わりに、むせ返るような血の塊を吐き出し、視界が傾ぐ。上体が揺れ、膝が折れた。倒れる。倒れながら、しかし無念とは思わなかった。全力を尽くし、それでも及ばず、疑問の余地もなく、己は敗れた。


(やはり、)


 戦場(いくさば)に出た獣人の最期とは、こうあるべきだ。

 思考の最後までを想うこと無く、大猫の意識は暗転した。




・ ・ ・




 熱だ。

 赤毛の狂犬は己の身体に、火で炙られるかのような温度を感じていた。

 熱は二つの箇所にそれぞれ燻っており、まず一つ目は己の右腕だった。断ち切られて出血する傷口に、血と痛みの高熱がある。もう一つは胸の奥とも腹の奥とも言えるような、どこか自分でも捉えようの無い感覚で、それは高揚、あるいは興奮と呼ばれるものだった。

 戸惑いがある。戦闘による高揚や興奮は慣れ親しんだ感覚だが、しかし今、体に感じている熱はそれら親しみのある感覚よりもさらに熱く、鋭敏にこちらの心胆を焦がしている。

 これは何だ、と思う。

 分からないが、表現するならば、(たぎ)っている、というのが最も正確かもしれない。

 ともあれ今は前だ。十歩ほどの距離を置いた目前には毛皮の骸がある。それは、己の人生の中で最も強いと認めていた者の成れの果てだ。知らず、舌打ちが一つ。


「本当に戦場の誉になってんじゃねえよ、オッサン」


 もはや届かない軽口を小さく呟きながら、骸の先に立つ人影を見る。

 人間だ。

 しかしその人間は、種族として脆弱な筈でありながら、一振りで自分の腕を落とし、仲間の獣人を一刀で斬り伏せ、剛腕で知られた大猫の戦士を素手で葬り去った。

 勝てねえな、と。素直にそう思う。また同時に、大猫の死に様を美しいとも。

 肉と血が必要な分だけあればいいという、獣人の生き様は単純だ。故に、それ以外のものを尊いと思う。如何に死ぬか、というのがそれで、それは突き詰めると強さへの憧れだ。

 強者として戦場に赴くならば、その死は一切の言い訳も疑問も無い壮絶な討死が望ましい。

 その点で言えば、既に骸となった仲間の二匹は言葉通りの一刀両断と一撃必殺で、尋常な敵と戦ったのでは得られぬ死に様である。

 種族的に壮健と頑強の揃う獣人族(ルーガル)にとって尋常ではない敵を得るのは珍しい事だ。

 故に先に逝った友柄と先達の死に様を美しいと思うのはこの場合、間違った心理ではない。まあ、羨ましいと思うほどの戦闘狂ではないが。


「さあて……」


 どうするか。

 赤毛の狂犬は思考を回した。

 腕の傷口には布を巻き、鎧を繋ぐ皮のベルトで縛り上げて一応の処置をしてあるが、それでも失血は多い。動き回れる時間は少なく、また、立ち向かって九死に一生を得られる相手でもない。

 状況的には逃げの一手だが、既にこちらは機先を制された立場だ。斥候は百という数だが、統制を担っていた大猫は三つ足ほど早く冥府へ旅立ったので、隊が一度崩れれば立て直しは難しい。その間を与える相手でもない。

 選択肢は少ない。


(時間を稼ぐか)


 狂犬は最も無難な選択を思った。

 敵方の戦闘力は目測で見て一騎当千であり、こちらの数は百に二つほど足りない。数を頼みに



しようにも、狭い林道で相手が一人ともなればそれも限界がある。

 しかし本隊が追いつけさえすれば、そこには合わせて千にもなる獣人の群れが控えており、そして何より、隊を率いる


。いかに目の前の相手が剛腕であろうとも、数の差で千倍を覆すのは不可能だろう。……不可能な筈だ。常識で考えれば。


(常識が通用すっかなあ……?)


 強く断言できないのはこちらの未熟ゆえか否か、ともあれ今は時間だ。

 相手は大猫の骸の傍らを通り過ぎてこちらへの歩を進めている。赤く染まった右手は握り締められており、こちらの身体は黒の大猫よりも容易く突き破られるのだろう。

 上等だ。威勢を吐くように口端に笑みの形を作り、赤毛の狂犬は喉と腹に力を溜めた。声に消耗の響きが乗らないように。言葉を作る。


「まあ、待て。どうだ取引しねえか?」

「死ね!」


 交渉は決裂した。相手は歩みの速度を駆け出しのそれへと変調し、血濡れの拳を振りかぶっている。


「クソッ!短い人生だった!」


 言いながら迎撃の体勢を取った。

 己の命運を儚むより、敵と相対する威勢の方が今はまだ自分の中で勝っている。

 恐怖は無い。死を望む気持ちも。

 息を吸い、向かい来る手甲の拳へと、こちらも足を踏み出す。

 前足を踏み、後ろ足で駆け出―――そうと、した。その時だ。


「いや退がれよ!馬鹿野郎!」


 鋭く吠える仲間の一声に、咄嗟、赤毛の狂犬は踏み足に乗せる体の重心を背後へと移動させた。飛び退きのステップを踏む。

 前へ出た人間はこちらの行動に対して前傾姿勢、飛び込みの体勢を作ったが、しかしそこで動きを止めた。見上げる。こちらの頭上だ。

 何だ。

 思った瞬間、幾つもの風切り音と共に、矢羽の群が上空から殺到した。




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