白の章・1
余りに多く、時間はない。
故に全てを書き記す事は出来ない。
だからこそ彼女の事から始めるべきだろう。
我々が「彼女」と呼称する怪物の話を。
――2043年 Japan
『日本列島を襲ったアンタレス・ワンの落下の悲劇から3ヶ月が経ちました。今日、私は封鎖が解かれた大阪都に来ています。ご覧下さい………あの日まで賑わっていた現在の梅田の様子です。未だ全域が水没し、地下街のご遺体の収容は』
私は残された左眼で復興の放棄が決定された都市の報道を見ていた。
3ヶ月前、私は一瞬で私の全てを喪った。
右眼、左肘から先の腕、右膝から下の脚。
そして夢と栄光。
次のオリンピック日本女子陸上の代表と謳われた私はもういない。
機械の脚や腕を付ければサイバネティックオリンピックの道はあるだろう。
だけど私には失った筈の腕の感覚がある。
確かにない。だというのにふとした瞬間、腕は確かに存在しこの白いベッドに黒い影を落とすのだ。それがたまらなく違和感を産み強烈な吐き気となって私を襲う。
父は今、最新の義手を発注しているがソレも合わないだろう事は預言じみた感覚だけど……きっとそうなのだろう。
コンコンッと小気味よくノックが鳴らされほとんどノータイムで看護師が入って来る。
「はーい芝村さーん検温の時間ですよー」
「5度2分……少し寒かったかしら? もうすっかり冬になってしまったものね」
「いえこれぐらいの室温で問題ありませんよ。エアコンはどうしても苦手で……でもそうですね毛布を頂けますか?」
「病院の毛布……でいいのかしら。執事さんに連絡した方が……」
そう迷う看護師の視線の先、追って周りを見れば病床こそ病院の物だが掛布団に枕、院内用の車椅子から花瓶や絵画といった調度品、果ては普段自室で使っているものと同じ柄と材質のカーテンに、待合室に置いてあるような無闇やたらに大きいテレビとソレを載せるためのテレビ台まで父が持ち込んだものだ。
そもそもこの大部屋のごとく広い個室は院に一つしかないVIPルームだ。
「そう、ですね。気付かなかったなんてことになれば鷹取が叱責されてしまいますから。申し訳ありませんが執事の方に連絡お願いします」
「はい。そうそうそれから来週、院と契約している美容師さんが来るんだけど」
「髪……いえ」
「あ、やっぱり専属の方がいたりするのかしら?」
「そうではな……いえ居るには居るのですが。伸ばしてみようと思って……現役の時は邪魔でショートカットばかりでしたから」
「…………やっぱり引退されるんですね」
看護師の目が一瞬大きく開き、そして伏目がちに。この人も現役の私を知っている人だったのだろう。
だけどこれからは私を知らない人は増えていくだろうし、忘れ去られていくのだろう。
「私は風を感じて風と共に走るのが好きで、サイバネの風を断ち切って進む感じとは相容れなくて」
本音はそうじゃない。
私は走り続けたかった。
スタートラインの高揚と集中。あらゆる音が消え、ただon your marksとスターターに集中して、スタート。
スタブロを蹴って、風の壁を突っ切って、誰の背中を見ることも無くただただゴールテープへ、その先へ向かって腕を振り脚を出し全速力で駆け抜けるたった数十秒のデッドヒート。
一位! その瞬間頭の中を脳内麻薬が犯し興奮と陶酔。観衆がテレビカメラが、フラッシュが私だけを見つめ私だけを讃える。
畏怖、尊敬、驚愕、嫉妬。更には欲情の視線でさえ私は堪らなく好きだったのだ。
かつて私と同じ場所に立っていた解説者が私を讃えることも好きだった。
気に入らない事を書いた記者を締め出し、それを見て媚びへつらう会社からのインタビューにこたえるのも好きだった。
最初は私の態度に難色を示していた陸連でさえ日本新記録を更新して以降、あっさりと迎合した。
速さこそが私という存在証明で、速さこそが私にとって強さで、誇りで、栄光で…………。
つまるところ機械でもいい。全身が機械化というのはまだ技術段階らしいけれど。それでも良かった。
私が称賛を受けるなら。
サイバネで真に称賛を与えられるのはソレを造った国や技術者、選手に寄り添い微調整を施す調整士であって選手本人ではない。
サイバネを装備すれば80歳の老人だろうが先天的に脚を持っていない者だろうが、性能が良く調整も完璧なら誰だって凄まじい記録を出せる。
だからこそ私は全てを失ったと言える。
残されたのは自ら死を選ぶことすら出来ないガラクタの身体に、欲で肥大し満たされなくなった精神、私を通して母を見る父に、金銭で仕える執事。
つまるところ……いや詰んでしまったのだ私は。
――――遂に、逃げ切れなくなったのだから
趣味全開で走っていく。
Tips
当世界において2028年にパラリンピックが不採算を理由に廃止。2036年より機械、サイバネティックス技術を導入したサイバネティックオリンピック通称超人五輪が開催されている。
主にG20+といった先進、新興各国の技術・兵器博覧会の様相を呈しているが健全な身体を切り落としてまでの参加や発展途上国の技術的不参加、軍需産業の積極参加など多くの問題をはらんでいるものの興行的には本家を凌駕して成功している。