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黒猫貴品店第七話【グラスヒール】

 体にタオルを巻いてバスルームを出ると、鏡の前で短く整えられた髪かき上げる。 

 身長175cm、体重72キロ、体脂肪率15%。太く発達した上腕二頭筋、厚みのある三頭筋、程よく肥大した大胸筋、キレた腹筋。上半身だけでなく、下半身もトレーニングの追い込みでほどよくパンプアップされ、ている。自分で言うのもなんだが、俺の体は見事なまでに出来上がっていた。

 俺は鏡に映る自分の姿にため息を漏らす。


「やりすぎたか……」

 

 もっとも日課となっているトレーニングは体を作り上げることが目的ではない。正直な話、筋肉の状態などどうでもいい。

 ただ過剰な筋肉肥大は望んでいないのだ。

 日々のトレーニングは俺の体の内側にくすぶる熱を消化させる最も簡単な方法だということにすぎないのだから。


「ふぅ……」


 俺の体は充分エネルギーを発散して落ち着きを見せている。

 いい状態だ。体の方はこれでいい。

 普通ならきっとこれでいい。

 でも、俺にはまだ足らない。

 体ばかりを満たしても、心に満足感を与えることはできないんだ。

 次は「心」だ。           

 俺はクローゼットを開け、奥にしまわれている一つの箱を取り出した。

 箱の中身は一足の靴。

 その靴を両手で包みこみ胸に抱く。ひんやりとした靴に高揚した胸の熱が移っていく。

儀式の時間だ。

「俺」が本当の「私」に戻るための……。

  

   ☆


 三ヶ月前。

 急な予定変更があり、俺はいつもより早く会社を出た。本来回ってくるはず仕事が相手側の都合で遅れたんだ。

 仕事終わりは、課長の絹田さんと飲みに行くことが多いのだけど、絹田さんの方が別の案件に追われていた。

 手が空いたことを理由に手伝いを申し出たが「たまには早く帰れ」と言い渡された。

 俺は仲間外れにされたような寂しさと突然の自由な時間に戸惑った。


 ジムでも行こうか? 

 それともどこかで買い物?


 空席の目立つ時間外れのバスの中で、愛読している「恋愛模様」シリーズを片手に自分の行き先に思いを巡らせる。

 甘い恋愛小説と取り残された現実の世界を行ったり来たり。

 俺の考えは揺れるバスのように定まらない。

 情けないかな。俺はこんな時どうやって過ごしたら有意義なのかわからない。

 朝起きてから夜寝るまで、俺は予定はできるだけ隙間なく予定を作っている。

 それは何でもいい。

 勉強、トレーニング、仕事、家事、友人たちとの時間……。

 予定があるだけでいい。

 次に何に何をしようか? ぽっかりと空いた時間は不安を生む。

 予定されていたこと以外のことを入れるとすれば、絹田さんと飲みに行く時くらいのものだ。

 今日も本当は絹田さんの手伝いをして飲みに誘いたかった。

 俺はいつも降りるバス停より一つ手前で降りて少し歩くことにした。

 猫神通り前と書かれたバス停のすぐ横に「猫神通り」という商店通りがある。

 その通りに一歩入った瞬間だった。

 俺はゾクリとするような違和感を覚えた。

 変な場所。

 それが第一印象。

 見た目に特におかしなところはない。

 専門色の強い難解な本を扱う古本屋、清潔感のある近代的な図書館、イタリア映画に出てきそうな洒落たオープンカフェ、猫をモチーフにしたお菓子を名物にした和菓子屋。


 ……どれも普通の商店。人通りこそ少ないが普通の商店街通り……のはず……。


 なのに、どこかここは変だ。

 夜の学校や誰もいない病院の通路。

 見た目には何もないとわかるが、ゾワリと鳥肌が立つようなあんな感じ。

 何もいないのに、あたかも何かが潜んでいると感じてしまうような感覚に似ている。

 錯覚なのか直感なのか、区別がつかない。

 こんな時はすぐに方向転換をすべきだ。

 中高校生じゃあるまいし、余計な冒険心などいらない。

 普段の俺なら間違いなく引き返したに違いない。だけど、今日の俺の足はすでに歩き始めていたんだ。

 見えない何かに手を引かれるように……文字通り、フラフラと。

 通りのどこかにスピーカーでもあるのか、ゆったりとした音楽が流れてくる。その音楽が和菓子屋の甘い匂いと一緒に俺を包む。

 通りを歩く人はまばらで少ない。

 それが一層この通りを奇妙なものに感じさせたが、小学生くらいの女の子が俺の横を通り過ぎて行った。

 なんだ、あんな子もいるのか……だったら、気のせいかもしれない。

 妙な安堵感が起きて、ここに来たことも悪くなかったのではないかと思えてくる。自分がこの空気に馴染んでいく気がした。

 気がつくと俺は一件の店の前に立っていた。


【黒猫貴品店】


 それが店の名前だった。

 俺は少しの迷いもなく店のドアに手をかけた。カランとドアベルが鳴る。


「……?」


 店内は暖色系の照明と陳列棚にカウンター。雰囲気はさながらファンタジー系アニメに出てくる高級な道具屋だ。

 ルビー色の炎が揺れるランタン。

 広げればすぐに宙に浮かびそうな絨毯。

 エキゾチックな細工の施された金のランプ。

 そんな御伽噺のなかに出てくるような商品ばかりかと思えば、その横には丸々太った猫の形をした金魚鉢が置かれていたりする。

 なかには花のような柄の金魚がフワリと泳いでいたり、何かとミスマッチな光景だ。

 ここはなんの店なんだろう?

 とにかく商品に統一感がない。

 手前に雑貨。

 右手側は書籍コーナー。

 本屋では見たことのないタイトルも多いが同じ棚にDVDも売られている。


「ディスペル【Ⅳ‐Ⅰ】……?」


 深夜に放送されて人気になっていたアニメだ。会社からの帰りが遅くなるとちょうどやっていて何度か見ている。棚に置かれているのはアニメ四期のものだった。

 左奥の木製のカウンターの上にはレトロな赤いレジ。

 レジの横では、この店の名前の通りの黒猫が「とある騎士の物語」というタイトルの絵本を枕に昼寝をしていた。

 

 猫が店長? いや、まさかな……。


「いらっしゃいませ!」

 

 黒猫に近づこうとしていると、突然声をかけられた。黒い髪と大きな瞳が印象的な黒ドレスの女の子だった。


「ああ、どうも……」

 

 彼女は好奇心旺盛な子猫のように目を大きく見開き、


「どうぞゆっくり見て行ってください。どれもおススメの商品ばかりですから!」

 って言ったんだ。


 俺はその勢いに押されて「あ、ありがとう。そうさせてもらうよ」なんて適当に答えた。 


 でも、確かにせっかく来たのだから、何か買っていってもいいかもしれない。

 あんまり高価なものじゃなくて、荷物にならないもの……。小物とか、小さなお菓子とかあればいいんだけど……。

 店内をクルリと見渡す。

 すると、一つの商品に目が止まった。


「産地直送採れたて極光オーロラ……?」


 野菜か果物でも売ってそうな売り文句で、不思議な瓶が飾られているではないか。

 どんな仕掛けなのかはわからないが、その瓶の中では、幻想的な紫色の光が放射状に揺れている。手に取ると手の平だけでなく肘の辺りまでひんやりとした。

 なんだこれ? オーロラ? 本物……? 偽物には見えないけど、まさか……?


「ああ、ごめんなさい。そのオーロラはもう売れちゃってるの」


 黒い彼女は申し訳なさそうに言った。

 彼女の言う通り、瓶の底にはすでにご成約済みのシールが貼られていた。


「そちらは、一流のオーロラハンターの手で採取された産地直送ですよ。紫は特に貴重で、今度いつ入荷するかわからないんです。他の色でしたら、結構入ってきますので、入荷の際にお知らせしましょうか?」

「いや、いいんです。……何か他におススメとかありますか?」


 俺の質問に、彼女は少し考えてから


「そうだ、お客さんにピッタリの商品がございますよ。どうぞ、こちらへ」


 と言って、俺を店の奥へと案内してくれた。

 店の奥はアンティークコーナーなのか、高級そうな商品が並んでいる。

 商品なのか、妖艶なフランス人形のような美しい人形となんとも愛らしい人形が肩を寄せあう友達のように飾られている。可愛らしい人形の方には「たゑ」と名札がつけられているが、フランス人形の方に名札はない。

 それにタロットカードだろうか、占いの道具らしきものや古めかしい雑貨などもある。

 そのさらに奥から、彼女は「それ」を持ってきたんだ。


「こちらの商品なんてどうですか?」

「これは……ガラスの靴?」


 ガラスのハイヒールを俺に?


「こちらはグラスヒール。どうぞ触ってみてください。ヒールの高さは脚がスラリと綺麗に見える8cm。最高級のクリスタルガラスを使用し、当店独占契約の職人によって作られた一品です」


 黒い彼女は半ば強引に俺にその靴「グラスヒール」を持たせてくる。

 俺は答える間もなくグラスヒールを手渡された。ガラス製の靴は、ひんやりとして心地よく。硬いガラスのはずなのに、革製の靴のようなしなやかさを感じさせる。


「このグラスヒールはただインテリアとして飾るだけの商品ではないんです。なんと! 実際に履くこともできるんですよ」

「実際に履くことができる? これが?」


 そんなバカな。ガラス製の靴が?

 しかし、自信満々に言われると、もしかしたら履けるかもしれないと思えてくる。

 ……いや、履けるはずがない。

 ガラス製の靴だぞ? 履けたとしても……。


「ただ、いくら履けると言っても、やはりガラス製……サイズがぴったり合う人でないと履くことはできません」


 サイズがぴったり合わないと……?

 い、いや、それでも履けるはずないじゃないか、これは伸びることも、曲がることもないガラス製なんだぞ?

 もし履けたとしても……。

 

「それにこれは一点もの。もし履くことができるとしたら……運命的な出会いだと思いませんか?」


 もし履けたとしたら? 


「あ、ああ……」


 ただただ彼女に圧倒されていたんだ。俺は、この黒い彼女に圧倒されていた……。


「お客さんの足……」


 彼女の視線が俺の足に向けられる。

 俺はドキリとした。


「お客さんの足、この靴とピッタリだと思いますよ。試着してみませんか?」


 俺は心のどこかで願い始めていた。運命なんてものがあるんじゃなかって……。


「ああ、そう、だね……」


 俺は言われるままに靴を脱いだ。そして、靴を……グラスヒールを履いたんだ。


   ☆


 グラスヒール・取り扱い説明書


   ※※※

1・こちらの靴は足をあなたの足を包み込みます。人間工学をもとに設計されているため、快適にご使用いただけます。

2・製品は強化ガラスを使用しています。強度は抜群ですが、過度な負荷にはご注意ください。

3・この靴はガラス製です。洗浄の際には、中性洗剤をご利用ください。

4・この靴は左右ともそばにある時には、ごく普通の靴でございます。靴が離れ離れになると時にはご注意ください。

5・もし、靴が離れ離れになり、それが誰かの手に渡ってしまった場合。もう片方を持っている相手には十分に注意を払って下さい。安易に、もう片方の靴を履かせてもらうようなことはしないでください。

   ※※※


   ☆


 俺はその場で靴を買った。

 この靴を履いた自分の足を見た時「買わない」という選択肢は心の中になかった。

 今では、この大切な儀式に欠かすことのできないものとなっている。

「今日はこれにしよう」

 俺はクローゼットの中に収められていた女物の上着を取り出す。

 筋肉質の太い腕や厚みのある肩を隠すために厳選された洋服はシルエットが少しでも細く見えるものを選んである。

 大好きなピンクや黄色といったパステルカラーは避けることにしている。少しでも細く見せるためだ。

 ネットで購入したマキシスカートを履き、俺は鏡の前で自分の姿を確認する。

 うん、悪くない。

 思わず鼻歌が出る。

 高揚感が俺の心を満たしていく。

 さらにメイクをして、ロングヘヤーのカツラをかぶる。求める姿に近づくほど「私」は自分を取り戻していくのがわかる。

 グラスヒールは最後の仕上げだ。 

 この姿でこの靴を前にするといつも最高に気分が上がる。

 私はつま先の感触を楽しみながらグラスヒールに足を滑り込ませる。ガラスとは思えないフィット感がすっぽりと足を包むと、冷たい感触がゾクリと背中を駆け上がった。

 完成だ。

 私は姿見の前で微笑んだ。

 これが本当の「私」。これが中村なかむらたくみの本当の姿。

 私は外見こそ男だけど、内面はそうではない。もちろん、恋愛対象も女性ではない。

 普段は一般的な男性を演じている分、女性になる時間がなければ心がもたない。


「それにしてもこのグラスヒール……」


 この儀式を何年も、何度も繰り返してきたけど、この靴ほどこしっくりとして、満たされるものに出会ったことがなかった。


「ああ、最高……」


 この秘密は、親兄弟はもちろん、誰一人として知る者はいない。もちろん、この先誰に教えるつもりもない。

 私は、この秘密を誰にも知られないまま、生きていく。そう心に決めている。


   ☆


 俺の生活の9割は嘘で塗り固められている。

 会社、ジム、近所付き合い……どこでも見た目通りの男として過ごしている。

 同僚たちの中で、俺がそんな本性を持っていると怪しむやつは一人もいないだろう。

 見た目やしぐさはもちろん、ちょっと話題や反応なども怪しまれないように充分に気を使っている。

 もちろん、同僚の女性たち話の輪に入っていきたい欲求はある。

 可愛らしい小物や最新のスイーツの話、彼女らが不満を抱く上司には少なからず俺も同じ感情を抱いている。

 逆に、溶け込んだ男たちの輪から逃れたい時もある。彼らが興味を抱く部分に俺は興味を持てないことが多いからだ。

 それでも、その場を逃げるようなことはしない。俺自身を守るため。この生活を守るためだ。その甲斐あって俺は、男女問わず良好な関係を築いている。

 男性、中村匠であるということを踏まえ、不自然にならないように一定の距離を保つようにしている。

 近づきすぎず、遠ざかりすぎない。

 過度に親しくなく、声をかけづらいというわけでもない。

 いてもいなくてもいいけど、いなくなるとすぐに気づかれるくらいの存在感。

 それぐらいの距離感で俺はうまくこの場所に溶け込んでいるんだ。


「中村、このあと空いているか?」

「これが終われば今日は終わる予定です」


 上司の絹田さんに声をかけられ、俺は思わず声が弾んだ。


「そうか、じゃあ終わったら今日は二人で飲みにいかないか?」

「はい! すぐに終わらせます!」


 絹田さんの方から誘ってくれることは珍しい。しかも「二人で」だなんて!

 絹田一郎、38歳。俺よりも8つ年上のこの人は俺の上司で、俺がここに転職する前からの知り合いだ。

 仕事に熱心で部下に対しても思いやりもあり責任感もある。上に取り入るのも下手じゃないし、必要とあればリーダーシップも発揮できるタイプだ。

 顔だって悪くないけど、身長が低いのがたまにキズかな。

たぶんだけど160無いと思う。

 俺がとなりに並んで歩くと「中村、少し離れて歩けよな。俺が小さく見えるだろ」なんて自分でネタにしているくらいだ。

 それが原因かどうかはわからないけど、俺が知っているかぎり女の気配はない。

 女の気配はないけど、絹田さんはこちら側ではない。それはわかる。

 そんな絹田さんと初めて出会ったのが五年前のこと。

 俺の完全な一目惚れだった。

 その気持ちは、今も変わっていない。

 俺は元々別の会社で働いていたんだけど、絹田さんを目的にこの会社に転職をした。

 もちろん、そんなことは絹田さんは知らない……。

 俺は絹田さんと一緒にいたい一心でここまでやってきた。そして絹田さんの右腕としての地位を築くまでになった。

 今では仕事以外のことやプライベートなこと、愚痴や将来の夢なんかの話もしたりする仲にまでなった。

 今いるこの場所が、俺が絹田さんに近づける最大限の場所だ。

 もうこれ以上の関係は……たぶんない。

 同じオフィスで仕事をして、同じジムで顔を合わせ、たまに一緒に飲みにいく。

 これだけでいい。

 俺は幸せだ。

 仕事を終えた俺たちは行きつけのBARに行きそこで乾杯をする。

 この店も絹田さんに教えてもらった店だ。

 人通りが多いほつま通りを少し外れた路地裏にある隠れ家のようなこの店は、一歩店内に入ると軽快なジャズが出迎えてくれる。

 カウンター席に並んで腰かければ、音楽が他の客の話し声を遮る壁になり二人だけの空間を作ってくれる。

 今日はツイてる。

 絹田さんはお決まりのジャックダニエルをロックで楽しみながら、会社では我慢しているHOPEを口にする。

 BARの名前が書かれたブックマッチを、親指と人差し指で器用に弾いて火をつけるとじっくり楽しむようにタバコの先に火をともす。

 俺はタバコは吸わないが、この匂いに包まれると妙に心が安らいだ。

 こんな時の絹田さんは機嫌がいい。

 フーッと吐いた煙が、一瞬絹田さんの顔を隠す。次に見えた時には俺の方を向いていた。


「中村、実は、お前には先に言っておこうと思ってな」

「何ですか」


 絹田さんの声、いいな。

 会社にいる時とは違った落ち着いた声だ。

 俺はもっと間近で聞きたくて肩を寄せる。

 息づかいを感じる手前まで近づいてから少し体を離す。調子に乗って近づきすぎた。

 男として、部下として、仲間として、友人として、近すぎず、離れすぎない。

 触れることはなく、体温をかすかに感じる程度のこの距離。これを保っていれば、俺は絹田さんのそばにいることができる。

 このままこれを保てば……。


「正式な辞令はまだだが、今度異動になる。どうやらほぼ決定らしい。……まずお前に知らせておきたくてな」

「えっ……? い、異動ですか?」

「ああ、そうだ。お前が協力してくれたあのプロジェクトが認められてな」


 あ、あのプロジェクト!? 

 自分の脳がその記憶を引き出すまでにそれほど時間はかからなかった。そして、その詳しい内容を思い出すことも。

 もし、そうだとするならば異動先は?


「行先はシンガポールだ。上はできるだけ早くと思っているようだ……」 


 俺は目眩がしたような気がした。

 異動? 海外? 絹田さんが……?

 絹田さんの功績が認められたんだ、シンガポール支社は今うちの会社が力を入れている。これは栄転だ、間違いない……。

 でも、海外だなんて……しかも、あのプロジェクトの内容なら、いつ帰ってくるかもわからないじゃないか……!

 俺は言葉に詰まった。

「おめでとうございます! 絹田さん!」そう言わなきゃいけないのに、言葉にならない。

 絹田さんはこの仕事をやりたがっていた。喜ばなきゃいけない、喜ばないと、絹田さんの夢が叶うんだから……。


「中村、俺はお前に本当に感謝して……」

「すみません。俺、ここで失礼します」


 俺は絹田さんの言葉を遮り、顔も見ないまま店を出た。

 絹田さんが俺を呼ぶ声が聞こえた。

 けれど、俺は振り返ることができなかった。


   ☆


 それから一週間も経たないうちに、正式な辞令が出た。絹田さんの海外転勤は部署のみんなが知ることになった。

 あれから絹田さんとまともに話せていない。

 もちろん、会社ではお互いにいつも通りだ。仕事に支障はない。

 だけど、それ以外で話す機会などなかった。

 絹田さんが俺を飲みに誘って異動の話をしてくれたのは、俺のことを信用してくれていたからだ。

 それなのに、あんな別れ方をしてしまった。絹田さんは俺をどう思っただろう。

 どうして言えなかった? 

 一言「おめでとうございます」と笑顔で言えばよかっただけなのに……。


「ねえ、中村さん。中村さんはもちろん参加するでしょう?」

「えっ? 何が?」


 メモ帳とペンを持った同僚の三原さんが俺のことをのぞき込んでいた。どうやら話しかけられていたにも関わらず、気が付いていなかったらしい。


「課長の壮行会。中村さん、課長の誘いなら断らないし、もちろん参加だよね?」

「……ああ、そうだね」


 そうか、壮行会か……。そんな話が進んでいるんだ……。

 絹田さんは部下の人望も厚い。仲間内では、絹田さんがいなくなってしまうことを悲観する者も多い。


「よかった、場所とか時間とかはまだ決まっていないんだけどさ……」

「うん……」


 ハキハキとしゃべる三原さんとは裏腹に俺の心は浮上する気配を見せなかった。

 絹田さんが海外に行ってしまう。

 俺がこの会社にいる意味って何だろう?

 好きな人と少しでも一緒にいたいと思ったからこそ、ここに来たのに。

 もし、絹田さんが誰かと結婚をしたとしても、昇進して部署が変わっても、そばにいられるだけでいいと思っていた。

 俺の想いは元々叶うはずもないものだから。

 でも、海外に行かれたら……今までのように会うことはできなくなる。

 声を聴くことも、一緒に酒を飲むことも、話をすることだって簡単じゃない。


「でねでね! 今ね、みんなで余興はどうしようか考えてるんだ。中村さんは課長の右腕だし、最後の締めの言葉とかお願いできる?」

「うん……」

 

 俺はまた気のない返事をした。


「余興か……」


 この異動は絹田さんにとってプラスなことなんだ。みんな快く送り出そうとしている。

 俺、このままでいいのかな……? 

 絹田さんとこのまま別れてしまって……それで本当に……?

 出社して、仕事をして、夜になって帰って……また朝になって出社して……。その繰り返し。その繰り返しの中でも、絹田さんがいたことでまるで違うものになっていた。

 俺は一人自分の部屋で明かりもつけずに考えた。

 何も余計なことは考えないで過ごせるように、自分で設計した毎日をただただ過ごす。

 この予定を壊す唯一の存在、最優先事項にいた絹田さんがいなくなる。

 絹田さんが俺の毎日からいなくなる。

 その期日は確実に迫ってきている。それは変えられない。俺の力ではどうにもならない。


「絹田さんがいなくなったら、俺……」


 ふとグラスヒールが目に入った。


「……ガラスの靴」


 絹田さんの前で本当の自分を見せたことはない。……でも、本当に……このままでいいのか? 本当の自分を見せなくていいのか?

 俺はグラスヒールを胸に抱きしめた。


「この靴があれば……」


 本当の俺を、絹田さんに……。

 本当の気持ちを絹田さんに……。


「俺は……」


   ☆


 我ながら、なぜこんなことを考えてしまったんだろう?

 私は、私しか知らない……他の人には見せたことのないこの姿を晒そうとしている。

 メイクも、衣装も、そして、グラスヒールも……たぶん、これ以上の出来はない。

 もっとも私らしい、私の姿。


「大丈夫いける……」


 私にはこの靴がある。

 このグラスヒールは特別なものだ。

 うすうす感じてはいた。

 この靴を履いた時の高揚感、自信、興奮はどれも普通じゃない。

 きっと、魔法みたいのがかかっている。

 だから、私は決心することができた。

 この靴さえ履いていれば……私はできる。


「さあ、次は中村さんです!」


 司会の三原さんが私の名前を呼んだ。

 余興は私で最後。出し物のあと、感謝の言葉を述べて終わる。

 私は、意を決してみんなの前に出た。


「「「おおっ!」」」


 声があがる。

 普段の私からは想像できない姿にみんなが驚いている。

 お酒も入っているし、余興の最後だ、みんな盛り上がっている。歓声に交じって、笑い声も聞こえる。

 ウケたのがせめてもの救いだ。

 私は絹田さんの方を見た。

 絹田さん、見てますか?

 三原さんにマイクを渡される。


「絹田さん……」


 声は男のままだ。

 姿とのギャップにまたみんなが沸き立った。

 曲が流れ始めた。

 するとまたみんな声を上げた。

 この歌で気持ちを伝えるんだ。

 それが私にできる想いの伝え方だ。




   ♪グラスハート♪


 黄金色に光に立つあなたの姿

 あの時、出会って

 私は初めて生まれたんだ

 

 暗闇を抜けた先の光のもとに

 遥かに遠く前を行く君に手を伸ばす

 届くことないこの想いは

 私の心の中にだけ


 触れることのできない

 あなただから

 想いだけは届いてと星に願う


 見えない心にある確かな想い

 あなたに届けグラスハート


   ♪

《セリフ》

 何も言わずに行ってしまうの?

 振り返りもさえずに。

 私にはわかるよ。

 あなたの背中が泣いているものを。

 あなたにはわかる?

 私の心も泣いているのが。

   ♪

  

 陽だまりに似たあなたの手のぬくもりで

 いますぐ私を抱きしめて

 見えない心だから確かめてほしいの

 あなたの元へグラスハート


『グラスハート』「金五郎放浪記・テーマ曲」

 作詞・葦原佳明 作曲cats&docksapplause

 歌・ソフィア・ダズルムーン  




 曲が終わり、拍手が起きた。

 私の姿を笑う者は減っていた。

 会場は盛り上がっていた。

 絹田さんも手を叩いてくれていた。


「絹田さん!」


 私は叫ぶように前に出た。

 私の気持ち、届きましたか? 

 絹田さん、私はあなたのことが……。


「絹田さん、シンガポール支社配属おめでとうございます!」


 好きです。


「今までありがとうございました!」


   ☆


 壮行会は無事に終わった。

 用意した花束が女性社員らから渡される。


「みんなありがとう……」


 絹田さんが言った。

 私はみんなの後ろでその言葉を聞いていた。

 私は、別れを惜しむその輪に入ることができず、少しだけ離れた場所でその光景に微笑むだけだった。

 絹田さんが手を振り、私たちの一団から離れていった。私たちはみんなでその姿を見送った。

 絹田さんはこれからの準備のため、もう会社に顔を出すことはない。

 これでお別れだ。

 私は一定の距離を保ち続けた。

 踏み込み過ぎないように。仲良くなりすぎないように。

 だからうまく行っていた。

 だけどこれで終わってしまう。

 それでいい。私はそう思った。


「中村さん、絹田さんを送ってあげたら?」


 三原さんが突然そんなことを言った。


「あ、いや、でも、今こんな格好しているし、着替えてる時間は……」

「そのまま行けばいいじゃん」

「えっ?」

「キレイだよ、中村さん。だから、まだ間に合ううちにさ」


 私は彼女に背中を押された。でも、すでに絹田さんの姿は見えない。


「走れば間に合うんじゃない?」

「でも……」


 この服で? 

 この靴で?

 この格好で?

 混乱する私に三原さんはもう一度尋ねた。


「間に合わない?」

「わかんない」


 でも、私は走り出した。

 三原さんが言われるままに。絹田さんが行ってしまった方向に走った。

 絹田さんとの距離は遠い。

 私が止まっていたらからだ。

 躊躇していたからだ。

 このままにしたら、二人の距離は離れていくばかりなのに。

 何度も履いたグラスヒールだったけど、こんな風に走ったことはない。足が痛い。

 いくら足にぴったりの靴だからって、ガラスはガラス。ヒールだって8センチはある。

 走りにくい。

 少しの段差で足首を捻挫しそうになる。

 でも、今言わなかったら、もう言う機会はない。今、言わなきゃ! 今夜、言わなきゃ!

 昼夜を問わず宣伝を繰り返すLEDビジョンの明かりに照らされた道。客引きが立つ人通りの多い道を駆け抜け、信号機の色を無視して私は通りに飛び出した。

 急ブレーキをかけた車からクラクションが鳴る。

みんなが私を見ている。

 でも構わない。人がどんな風に見ているかなんて、構っていられない。

 絹田さんは駅に向かったはずだ。

 駅への道は? 絹田さんの性格なら、この通りよりも……。

 今の絹田さんなら静かに歩きたいと思っているはずだ。だとしたら……!

 見えた!


「き、絹田さん!」


 小さいけれど厚みのある背中がピタリと止まり振り返った。


「中村……?」

「絹田さん……! うわぁ!?」


 追いついた。そう思って気が抜けた。

 いや、私の足はすで限界だった。無理をしたせいか足が震え私は盛大に転んでしまった。

 その勢いに靴の片方は脱げた。

 私はあわてて脱げた靴の行方を捜したが見当たらない。


「中村……」

「き、絹田さん、私……」


 見上げると絹田さんが驚いた顔で私のことを見下ろしていた。


「絹田さん、私は……!」

「中村……靴、脱げたぞ」


 絹田さんの手には脱げたグラスヒール。


「……!」


   ☆

【5・もし、靴が離れ離れになり、それが誰かの手に渡ってしまった場合。もう片方を持っている相手には十分に注意を払って下さい。安易に、もう片方の靴を履かせてもらうようなことはしないでください。】

   ☆


 私は慌ててガラスの靴を取り返そうとしたが、絹田さんはいたずらっ子のように靴を取り戻そうとした私の手から靴を離し返してくれない。


「ガラスの靴か……よくできているな」

「か、返してください!」

「中村、足……」


 絹田さんは私の前で膝をついた。


「……?」


 絹田さんはそう言って私の足とガラスの靴に手を添える。

 

   ☆

【もう片方の靴を履かせてもらうようなことはしないでください。】

   ☆


「すまんな、慣れていないんだ」


 絹田さんは申し訳なさそうに言った。私の足は再びガラスの靴に包みこまれた。絹田さんの手によって。


「あ、あの……!」

「今日は驚いたよ。お前、そんな格好をすることがあるんだな」

「えっ?」


 絹田さんは私の手を取り立たせる。

 あれ……?

 絹田さんの手、こんなに厚みがあっただろうか? それに私をこんなに軽々と?

 立ち上がるとまだ足が痛み、よろめいて、絹田さんの肩につかまった。


「大丈夫か?」

「は、はい、絹田さん、私、言わなきゃいけないことが……」


 絹田さんが私のことを見上げている。

 ヒールを履いている私と絹田さんとの身長差はいつもよりもさらにある。

 私は慌てて絹田さんから離れようとした。

 その時、絹田さんは逆に私の手を引いた。


「小さな俺が、お前みたいな身長の高い【女】を連れている方がカッコいいと思わないか?」 


 そう言って、絹田さんは私に肩を貸す。

 足の痛みが和らいだ。


「なあ中村……」


 絹田さんが私ことを見上げ目が合った。


「これからも俺の隣を歩いてくれないか?」 


   ☆彡


 ある日の黒猫気品店でのこと、新しく入荷したガラスの靴を目にした男性客が彼女のプレゼントにしようと店主に商品のことを尋ねてた。

 すると店主は微笑みこういった。


「こちらの靴をお買い求めに? いえ、残念ですがこの靴【グラスヒール】は一流の職人と最高級のクリスタルガラスで作られた一点物。製作工房の意向で、【女性にのみ】直接お売りすることにしているんです。何せこの靴はインテリアにするだけでなく、実際に履くこともできる特別なものですから。えっ? もし男性が履いたら? ふふ、ガラスの靴を履くのはお姫さまと相場が決まっているものですよ。もちろん、あなたがお姫さまになりたいとおっしゃるなら別ですけどね」


   黒猫貴品店【グラスヒール】・了


 バスの中で主人公が読んでいる本のタイトル

「恋愛模様」は、奈月ねこさま作・「恋愛模様」〈https://ncode.syosetu.com/n6566dj/〉

 よりタイトルをお借りました。


 黒猫貴品店書籍コーナーで売られているDVD「ディスペル」はSINさま作・「ディスペル」

〈https://ncode.syosetu.com/n2378bs/〉

よりタイトルをお借りしました。


 黒猫貴品店アンティークコーナーに置かれた「たゑ」と名札のついた人形はmarronさま作・「中身は綿でできている」〈https://ncode.syosetu.com/n3379ff/11/〉登場の人形「たゑ」より出演していただきました。


 黒猫貴品店で黒猫が昼寝時に枕にしていた絵本のタイトルは葵生りんさま作・「とある騎士の物語」〈https://ncode.syosetu.com/n7087co/〉よりタイトルをお借りしました。


 主人公が作品中歌う「金五郎放浪記・テーマ曲」の金五郎の活躍をご覧になりたい方は、ぜひ「変化きつね先生一門記・消える乗客~「四つ木坂通りの新怪談」の巻~」をご覧ください。

〈https://ncode.syosetu.com/n1363et/3/〉霜月透子さま主催・ひだまり童話館参加作品です。

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