黒猫貴品店第六話【友達人形】
世の中には二種類の人間がいる。
それは敵と味方だ。
敵とはいがみ合い、罵りあい、貶しあう。
味方とは助け合い、協力しあい、認め合う。
同じ考え、同じ匂い、同じクセ……共通点をもった者同士が集まり群れになり、自分達の安全地帯を作る。
犬や猫が匂いで縄張りをつくり、それを尊重して生きるように、人間も群れをつくらなくちゃいきていけない。
敵は嫌だ。傷つけられる。
味方が多くいれば敵は少なくなる?
いいや、そんなことない。
さっきまで味方だったやつが次の瞬間、敵になることもある。
嫌なんだ。人間は。裏切るから。
でもただ一つ敵を作らない方法があるんだ。それ、どんな方法だか知ってる?
★
クラスの一番後ろ窓際、クラスが一望出来て、人の動きも、表情もよく見えるこの場所が、私の席。最高のポジションだ。
私の名前は片桐晴海。高校一年生。クラスでの私の立場は、うん、悪くない位置にいる。
私は買ったばかりの小説「災難続きのエス氏 ~エス氏だって幸せになりたい〜」に視線を落としながら、時折周囲をうかがうように目を上げる。
群れと縄張り。
今日も綺麗に作られた境界線の中で、お互いに適度な距離感とバランスを保って学校生活をエンジョイしている。
この学校に入学して半年。すでに特定のグループは形成され、それぞれ高校入学で作り上げたキャラも安定してきている。
私はというと、どこにも属することも友達を作ることなく過ごしてきた。
そう、敵を作らないため。
自分の安全を守るためだ。
友達は裏切る。自分が友情だと思っていても、味方だと思っていても、それを相手が同じように思っているとはかぎらない。中学生の頃の私はそれがわかっていなかった。
今でも思い出すだけで息苦しくなる。
みじめな記憶に手足が冷たくなる。
私は周囲の視線と声に怯えながら一年以上も過ごした。
勉強なんて手につかず、かなり成績を落とした。
そして私のいた学校からは誰もいかないこの高校に逃げるように進学を決めたのだ。
もちろん周囲の反対はあった。
私の成績からすれば、この学校のレベルはずいぶん下回る。
「高校に入れば、きっとよくなる」なんて、知った風に希望を口にする学園ドラマを見すぎの熱血教師や「原因には君にもあるのではないか? 少し考えてはどうか?」なんて、クソの役にも立たない助言しかできない考えることを放棄した無気力なジジイ教師にもうんざりだった。
私は考えた。
どうすれば自分の身を守れるのか?
もう友達はいらない。
誰にも関わらない。
これが最善だ。
空気や影みたいになるんだ。興味も持たれなければ、敵も味方もない。目立つことなく、ただ静かに呼吸をしよう。それが私のこの学校でのキャラだ。
この学校の生徒にしては比較的成績のいい活発で発言力のあるグループにも、おしゃれに敏感だけど知性の欠片もない薄っぺらな会話しかできないグループにも、二次元にどっぷりはまった地味グループにも関わらない。
空気、置物、幽霊。
なんでもいい。
私は誰にも関わりあいを持たない人になると決めた。
必要最低限の発言と会話。
目立たず、無難に一人で過ごす。そして一日を終える。それが私の毎日だ。
おかげでつまらないイジメや一方的な駆け引きに巻き込まれることもない。
はじめだけ私のことを暗いとか、つまんないやつとか聞こえるように陰口を言うやつもいたけど、それも今は聞かなくなった。
私のキャラは確立された。私は私だけの安全地帯を手に入れたんだ。
このクラスに居てもいなくてもいい存在。それが今の私だ。
この居場所を手にしたおかげでクラスの様子がよくわかる。
例えば、隣の席の青島優香。彼女は、自分の身の丈に合わないグループに属している。
いや「属させてもらっている」と言った感じだ。
足がやっと乗るような幅の足場の際で、ピエロみたいに両手を広げてバランスを取っている。調子のいい返事をして、愛想のいい笑顔を作って溶け込もうと必死だ。
でも、彼女の努力とは裏腹に彼女はそのグループに不釣り合い。私にはわかる。
たぶん他のやつらもそう思っているに違いない。
でも、彼女はわかっていない。
もし何かあれば、グループの誰かがすぐに彼女の肩をコツンと押して突き落とすだろう。
彼女はわかっていない。
私もわかっていなかった。
青島優香は、昔の私だ。
★
放課後、部活に所属していない私は一人校門を出た。
私の高校生活は至って平和。順調だし、何も気に病むようなこともない。
教室にいる憂鬱さも、放課後の不安も、クラスで足がすくむようなこともない。
平和で平坦。景色の変わらない凹凸のない道を、ずっと同じペースで足音を殺し歩いている。そんな感じ。
それはあの時とは違った別の息苦しさがあるけど、でも、これでいい。
このままなら、あの時みたいにはならない。
私は今でも地元に戻ると緊張する。
中学の時の誰かに見つからないか、バッタリ遭遇してしまわないか怖くなる。
だから、これでいい。
平坦でつまらない日常、仲間も友達もいない状態が私に呼吸を許してくれる。
「あれ……?」
私は降りるバス停がすっかり過ぎていることに気がついた。ガランとしたバスの中で、慌てて降車ボタンを押す。
『次は猫神通り前……』とアナウンスが流れる。降りたことのない場所だ。
私はすぐに帰りのバスの時間を確認したけどかなり時間があった。
「どうしよう」
「災難続きのエス氏」は読み終わってしまったし。近くに本屋さんないかな?
猫神通り前のバス亭からすぐ近く。猫神通りには色々なお店が並んでいた。
オープンテラスのあるカフェ、往診中の札のかかる治療院、入るのに勇気のいる古本屋さん、肉球最中というお菓子が名物の和菓子屋さん。
商店はたくさんあるものの、不思議と人通りが少ない。気のせいか薄くモヤがかかり、いい匂いがする。
これは何の匂い?
古本屋の隣の洋食屋さん? カフェの珈琲の香り? それとも和菓子屋さんでお団子とか焼いている?
甘くて香ばしくて、頭の奥を痺れさせるような独特の香りだ。
その香りを追っていくと、私は一軒のお店の前に立っていた。
【黒猫貴品店】
厚い金属プレートの看板に洒落た赤い扉。
小さなケーキ一個が何百円もするような洋菓子屋さんみたいなお店だ。
間違いない。この匂いはこのお店から漏れ出ている。でもケーキとかはないみたい……。
アンティークショップかな?
……なんだか面白そう。
普段なら立ち入らないタイプのお店なのに、私の足は黒猫貴品店の前から離れない。
ドアに触れるとカランと月と猫をモチーフにしたドアベルが鳴った。
「……?」
店内に入った瞬間、私は、一瞬にして別の場所に飛ばされたかのような錯覚に襲われた。
温もりのある照明と木製の陳列テーブルにカウンター。
床も天井も暖色系を基調としていてファンタジーの世界に出てくる道具屋さんみたい。
私はあの香りに包まれてますます頭の奥が痺れ、まぶたが重くなるような気がした。肩の力が抜けたのか、持っていたカバンがやけに重い。どこかに置いて座りたい。
店内には様々な商品がアート作品のように展示されていた。
ルビー色のキラキラとした炎が揺れるランタン。
今にも空を駆けそうな豪奢な絨毯と精緻な細工の施された金色のランプ。
本当に履くことが出来そうな一組のガラスのハイヒール。
そんな童話に出てきそうな商品ばかりかと思えば、その横には丸々太った猫の形をした金魚鉢があり、花弁を思わせる金魚がフワリと泳いでいるし、その隣には大きなフワフワのクマのぬいぐるみがイスに腰かけていたりして統一感はない。
値札もあるものとないものがある。クマのぬいぐるみなど「ランドルフ」という名札が付けられているけど値段は書いていない。
もしかして売り物じゃないのかな?
さらに店の奥、右手側は書籍コーナー。
本屋さんにはよくいく方だが、ここのラインナップは変わっている。
「【とっても貴重な薬草全書】に【誰でもできる秘薬百科】……?」
見たことのない本が多い。
左奥の木製のカウンターの上にはレトロな赤いレジ。レジの横でこのお店の名前の通りの黒猫が「おいぼれウェントゥス」というタイトルの絵本を枕に昼寝をしていた。
お店の中に猫……? 黒猫貴品店だから黒猫? こんなに商品があるのに、遊んだりせずにいるなんて、すごくいい子なんだね……。
「あら、お客さん?」
私がパタリパタリと跳ねる黒猫のしっぽに触れようとした瞬間、ぴょん! とカウンターの裏から女の子が顔を出した。
私はドキリとして慌てて手を引っ込めた。
漆黒の長い髪と大きな瞳、黒いドレスが印象的な女の子だ。
「えっ、あ、どうも……」
カウンターの内側にいる……それにあの服は制服? ここの店員さん?
「いらっしゃい! どうぞ見て行ってください、どれもおススメの商品ばかりですから!」
まだ十代? 二十代? たぶん、私とそんなに歳も変わらないはずだけど、透けるような白い肌に大きな瞳、整った顔立ちは学校にいるトップクラスの美人連中なんかでも足元にも及ばない。
笑うとぬいぐるみたいに愛らしくて、精巧な球体関節人形みたいに妖艶で色っぽい。
私が見とれていると、黒い彼女は頼んでもいないのに商品の案内をしてくれた。
彼女は上品な猫みたいに足音もなくスルリと商品の間を歩いていく。その彼女のあとを、私は夢遊病者のようにフラりフラりと歩いた。
「今、当店の一押しはこちらの極光! 本物志向の人に特におススメ! 部屋に飾れば、幻想的な雰囲気を気軽に楽しむことができます! 一流ハンターによる産地直送天然もの! 希少価値の高い紫色は残りわずかですよ!」
黒い彼女は、幻想的な光がゆったりと揺れる瓶を薦めてくれる。
「オ、オーロラ……?」
オーロラ? オーロラって獲れるの? ハンターって、写真を撮る人とかじゃなくて、本物のオーロラを獲る人なの?
そんなことを考えながら、私はオーロラの入ったひんやりとした瓶を覗き込む。
すごく綺麗……確かに部屋で一人で見たら癒されるかも……。
作り物? 本物? どうなっているの?
でも、なんかほしいかも……。
「あの、これいくら……」
私がそう言いかけた時、黒い彼女はポンと手を叩いた。
「あっ! そうだ、あなたのような素敵なお客様にピッタリバッチシのおススメの商品があるんだった!」
「えっ?」
黒い彼女はそう言って、店のさらに奥にあるコーナーを案内してくれた。
そこは今までの商品よりも、やや古めかしい物が並んでいる。
手書きの楽譜、和綴じの写本、絵がはずされた木彫りの額、民族的な模様の刻まれた葉巻ケース、古いタロットカード……。
たぶん、ヴィンテージとかアンティークとかそんな感じだ。
どれも私には価値がわからないものばかり。ただ、どれも高い。そんな感じがする。
「あなたにおススメしたいのは、こちら!」
「人形……?」
多くの高級そうな商品の中でもそれは異彩を放っているように見えた。
「ささ、どうぞ、抱いてみてください! どうですか? 可愛らしいでしょう?」
「う、うん……」
私は人形とか興味はない。
それなのに黒い彼女に薦められると断ることができない。私は言われるまま人形を抱いてみた。
柔らかな感触、赤ん坊を抱いたようなしっくりとくる重さにすっぽりと腕に収まる感覚が心地いい。
「あっ……」
抱いた人形に目をやるとキラリとした目と合って私はドキリとした。
ふっくらとした頬に、つぶらな瞳。フランス人形に似ているけど少し違う。見れば見るほど精巧で、まるで生きているかのよう。
この子、絶対高い。
もし、新作だとしてもかなりの値段がするだろうし、アンティークならさらにプレミアとかついているかもしれない。
高校生の私に買えるわけない。絶対に。
「でも……」
この子、ほしい……。
私は、人形と見つめあったまま意識がとろけていくのを感じた。
「気に入っていただけましたか? 最高の職人によるハンドメイド、それも傑作と名高い一体……」
黒い彼女が人形のことを説明しているのに、耳に入ってこない。
人形と私だけ、人形と私しかここに存在しないみたい……。
「ただ、少し曰く付きというか、普通の方にはお売りすることができないのです……」
人形が私を見ている。
私も人形を見ている。
生きているはずもないのに、人形の温もりが腕を伝い、私の胸を温める。表情なんて変わるはずがないのに……そんなことわかっている。それなのに……。
「もちろん少しも怪しいものではありません。ただ、そう持ち主を選ぶというか……」
「ください」
私は人形を抱きしめながら言った。
「この人形、この子を私に売ってください」
私は見たんだ。この人形が私に微笑んだのを。この子は私のもとに来たがっている。私はこの子を買わなくちゃいけないんだ。
★
私は頭を抱えていた。
なんでこんな高いものを買ってしまったのだろう? いくら何でも無謀すぎる。
あの店員さんは、分割払いでいいと言ってくれたが、それでもこの買い物は高校生がするようなものではない。
人形は私の部屋のイスの上で快適そうに腰かけている。
『友達人形』
それがこの人形の商品名だ。
同封されていた取り扱い説明書には、人形の紹介やお手入れの方法、製作者の紹介なども書かれている。
「アトリエ【ピノ&ポン】……主に妖精に携わるものを製作……? 人形のことを妖精って言っているのかな?」
私はアトリエ【ピノ&ポン】の他の作品はないのかとネットで検索してみたが、それに該当するようなものはなかった。
黒猫貴品店のあの店員さんが言うように、これはあまり表に出ることのない特別な人形なのか?
取り扱い説明書の最後には、人形に対する注意事項が記載されている。
※※※
1・この人形は意志を持っているかもしれません。
2・この人形はあなたが目を離している間に動いていることがあるかもしれません。
3・例え応えなくても人形に話しかけてください。人形が喜ぶかもしれません。
4・この人形は友達のいない方を望みます。
5・この人形はあなたの本当の友達になってくれるかもしれません。
※※※
なんだこの注意事項は?
人形が意思を持っているかも?
目を離した隙に動いているかも?
話しかければ喜ぶかも?
「人形が? そういう世界観? 演出? なんか怖い想像しかできないんだけど……」
そうは言っても、可愛らしいこの人形は何故か見ていると心が落ち着く。
こうして抱き上げると何とも言えない安心感が胸に沸き起こるのだ。
「うん?」
人形のスカートの裏側に【Hedera】と刺繍がされている。
「ヘデラ?」
服の製作者の名前? それともこの子の名前? 説明書には名前のことはなかったけど。
「話しかけるのに名前がないと不便だよね」
私は人形のドレスに刺繍されていた「ヘデラ」をそのまま人形の名前にすることにした。
「ヘデラ、うん。まあ、いい感じ? この名前、あなたは気にいった?」
高校生にもなって、部屋で一人人形に話しかけているのはどうかと思うし、自分でも痛い状態であることは重々承知している。
けれど、話しかけるのは注意事項を守るためなんだから仕方がない。
するとどうだろう、心なしかヘデラが喜んだような気がした。
もちろん、表情が変わるわけでも「嬉しい」と言ってくれるわけでもないのだが……。
「問題は会話ね、何を話したらいいんだろう?」
いくら注意事項を守るためとは言え、独り言であることにはかわりない。相手が相づちを打ってくれるわけでもない。
こんな状態で毎日話をするなんて無理だし、話す内容などすぐになくなってしまう。
私はそう考えていた。
しかし、不思議なものだ。日が経つにつれ、ヘデラとの会話は自然と増えていった。
自分のことを皮切りに、中学でのことやその時の友達のこと、高校に入ってからのこと、高校のクラスメイトのこと……。
話す内容は次々に私の中から溢れ出て来る。今までしゃべらなかった分が一気に放出されたかのように。
愚痴、悪口、不平、不満。
一度話し出したら止まらない。
ヘデラに話しかけながら泣いてしまうことや夜通し話続けることもあった。
当たり前だけど、ヘデラは嫌な顔一つせず私の話を聞いてくれる。
いつしか、私は学校が終わると真っ先にヘデラの元へ行くようになっていた。
食事とトイレ、お風呂以外の時間は、常にヘデラと一緒。テレビよりも、ラジオよりも、SNSよりも、私はヘデラと話がしたい。
たぶんヘデラもそれを望んでいる。
「片桐さん、最近明るくなったね」
青島さんにそう言われたのは、ヘデラが家に来てから一か月ほど経ってからのことだ。
「そう、かな……?」
私はとぼけたが、自分の変化は自分でもわかっていた。
私は変わった。
平坦で代り映えのしない日々の生活が一変した。授業も、休み時間も、学校にいる時も毎日が違う。あれから毎日が充実している。
ヘデラがいるからだ。
「ねぇ、学校終わったらどっか遊びにいかない?」
青島さんが不意にそんなことを言った。
私は驚いた。けど「ごめん、私、用事があるんだ」とすぐに断った。
私は確かに明るくなったと思う。それは私に興味のないクラスメイトにもわかるほどに。
学校も以前より楽しめている。だけど、私は自分の立場を変えようと思わない。
私はクラスで誰も友達を作ることないし、自分の安全地帯から出るつもりもない。
私は少しでも早く帰ってヘデラと一緒に過ごしたい。クラスの誰かと一緒に過ごす時間など、私には興味のない時間だ。
決して一線は越えない。心は許さない。友達にはならない。
私の友達はヘデラだけでいい。
「じゃあ、LINEの交換してもいい?」
「うん」
角を立てず、最低限の社交性だけ持っていれば、目を付けられることもない。
私は笑顔で応えた。
人間は信用できない。
★
それからと言うもの、青島さんとは話す機会は増えていった。
彼女とは席も近いし、推してるアニメとか漫画とかが同じだったり、好きなアーティストが同じだったりした。
もし、中学の時のようなことがなかったら、高校では彼女と友達になっていたに違いない。
青島さんは友好的な人だけど、それでも私は自分の気持ちを曲げるつもりはなかった。
私がする彼女の話もヘデラは黙って聞いていた。ヘデラは私の顔を見つめたまま何も応えることはない。それでも私は満足だ。
ふと、LINEの着信音が鳴った。
「あ、いけない、切り忘れてた……」
LINEを開いてみると、青島さんからだった。大した内容は書かれていない。私は適当に返事をしてスマホの電源を落とした。
彼女とLINEの交換をしてから、時々こうして、このスマホはスマホらしく機能するようになっていた。
「ああ、あの時、LINEの交換とかするんじゃなかったなぁ」
返信を無視していては角が立つ。
それがつまらない争いや言いがかりの種になっては私の平和は守られない。
「こういうの本当に面倒くさい」
私がそう言った瞬間。
ピシリ。と何かが裂けるような音がした。
私は思わず部屋を見回した。
「何、今の音?」
やけに近い感じがしたけど?
ベッドフレームにでもヒビが入った?
窓に何か当たった?
もしそうだとしたら亀裂が入っているかもしれない。
でも、ベッドを見ても、窓を見ても、それらしきもはない。
「もしかして、ヘデラ?」
私はヘデラの身体が調べてみたが、これと言って異常は見当たらなかった。
ヘデラに何か異常など起きるはずがない。ヘデラは大切に私が抱いていたのだから。
……でも、異変は起きていたんだ。私が気づいていないだけだった。
私は、次の日それを知ることになった。
学校から帰り、いつものように自分の部屋に戻った時、それは起きていた。
部屋に入った瞬間わかった。
私の心臓が跳ね上がった。
「えっ?」
ヘデラがベッドの上に座っていたんだ。
学校に行く時にはいつもイスに座らせておくのに。
間違いはない。私はいつも学校の間はイスの上に、帰ってきたらベッドに連れてきて話をする。今朝も同じようにした。それなのに、ヘデラはすでにベッドに腰かけ私のことを待っていた。
「ヘデラ……?」
誰かが移動した?
いや、それは考えにくい。
両親は基本的にこの部屋には入らないし、入ったならば入ったと言うはずだ。
ヘデラは軽い人形ではない、ある程度の重みもあるし、場所がズレたという話でもない。
つまり、誰かが動かしたのではなく自分から動いた……?
※※※
2・この人形はあなたが目を離している間に動いていることがあるかもしれません。
※※※
「すごい……」
私はヘデラに駆け寄った。
「本当に動けるの!? ヘデラ!」
私は彼女を抱きしめた。
「こんな人形、他にないよ!」
私はさらに注意事項を思い出した。
「そうだ、意思を持っているんだ、ヘデラは意思を持っている!」
だから、自分の意思で動いてベッドに来たんだ!
「でも、今まで、こんな風に動き出すことなんてなかったのはどうして……?」
私は改めてヘデラの身体を調べた。
女の子の身体を調べるように慎重に。
何かスイッチのようなものがあるわけじゃない。
ヘデラの身体は球体関節で出来ているが、特別自動で動き出しそうな装置や何かを切り替えるようなスイッチなどは見当たらない。
「あ……」
私は注意事項にあった「話しかけてください」の文言でピンときた。
「たくさん話したからヘデラは動き出した?」
理由はよくわからないけど、たぶんそれだ。
ヘデラは意思を持っている。
きっと、話しかけているうちに、ヘデラが動きたくなったんだ。
私はヘデラを抱いたまま部屋の中を何往復も歩きまわる。
これってすごいよね? すごいことじゃない? だって人形が動くんだよ?
今こうしている間、ヘデラに動きは見られない。でも、もしかしたら、もっとずっと一緒にいて、たくさん話しかけたら、もっと動くようになったりしないかな? いやいや、動くだけでなく、例えば、話をしたりとかできるようにならないかな!?
そこまでいかなかったとしても、相づちを打ってくれるだけでもいい。考えるだけでワクワクする。
「ああ、学校に行きたくないなぁ」
学校に行っている間もヘデラと一緒にいれば、ヘデラはさらに動いてくれるようになるかもしれない。
惜しい。時間が惜しい。
その一件以来、私は生活の時間のほとんどをヘデラに費やすようになっていった。
私が学校に行っている間、ヘデラは部屋の中で遊んでいるらしく、その時々によっている場所が変わることが多くなっていた。
私は確信した。私の仮説は合っている!
ヘデラは一人で動ける。そして私のことを待っている。私がもっとヘデラに話しかければ、ヘデラはもっと動いてくれる!
間違いない。
私はヘデラが動いている姿が見たい。話をして、その内容に頷くだけでもいいから応えてほしい。
やがて私はヘデラと過ごすため、学校を休むことが多くなっていった。
家にいる時間が増え、私の期待は高まった。
元々、学校だって好きなわけじゃないし、休むことに抵抗はない。その上、ヘデラが今よりも私に応えてくれるかもしれない。
私は寝る間も惜しんでヘデラに語り続けた。不思議と話す内容は尽きない。言葉が身体の中から溢れ出て来る。
私は自分の中から何かが抜けていくような心地よさを感じるほどだ。
学校を休んで数日が経った頃、LINEに着信があった。青島さんからだ。学校を休んでいる私を心配する内容が書かれていた。
「余計なお世話だ」
私は返信もせずスマホを投げ捨てた。
その時だった。私はまたあの音を聞いた。
ピシリ。何かが裂けるような、亀裂が入るような独特の音に私はドキリとして息を飲んだ。部屋を見回すが何もない。
シンと張り詰めたような空間は他の音を拒絶しているみたいだった。
「痛っ!」
私は突然の痛みにヘデラを落とした。
彼女を抱いていた自分の腕にスゥーと赤いラインが引かれている。
血?
ジンジンと拍動する傷口から、溢れるように血が流れる。
「えっ? 何これ!?」
何? 何で切ったの? ガラスとか? そんなものなかったのに?
ヘデラは? もしヘデラの服に血がついていたら大変だ。
すると、またLINEの着信音が鳴った。
「今はそれどころじゃ……」
しかし、LINEの着信は鳴りやまない。次々にメッセージが送られてくる。
「一体、何?」
私はLINEの内容を見て言葉を失った。
『ブス』『グズ』『キモイ』『いなくなれ』『消えろ』……。
見た事のないアカウントから連続でメッセージが送られてくる。
「何、これ……?」
画面を消そうとしても、LINEは止まらない。悪口は止めどなく送られてくる。
「どうなってるの!?」
悪口は止まらない。やがてその内容は単なる悪口ではなくなっていった。
『あの子、何なの? 声小さいし、マジキモいんだけど』
『先生に色目使って、いい点数もらってるんじゃない? 数学の秋沢とかロリコンだし』
『だからあいつだけ点数よかったんだ、でも秋沢とかマジ無理なんだけど』
「えっ?」
私はハッとした。
これは私が中学の時に言われたものだ。
完全な濡れ衣だった。
私はその時、勉強を頑張っている時で、成績も伸びていた時だった。
誰? この話を知っているのは? 今の学校でこの話を知っている人はいないはず!
私は血を止めるのも忘れて、LINEのメッセージに魅入った。
このメッセージの主は私の過去を知っている。私が言われていたことを知っている。
メッセージは止めどなく流れていく。すると、その内容はまた少し変わり始めた。
『デブのくせに、似合わない化粧と短いスカートが痛々しい』
『頭の悪そうなやつが頭の悪そうなやつらと一緒につるんで余計にバカになるわ』
私の頭はさらに混乱した。
このメッセージ、このメッセージは?
「うそ? これ、私が言ったやつだ」
覚えがある。メッセージは送られるほどに、見覚えがあるものばかりになっていく。
それはすべて私が言った言葉。
学校では思っていても、口に出さない。この言葉を聞いているのは
「ヘデラ!?」
キシリ。
振り向くとヘデラが一人立ち上がっていた。
ヘデラが動いている。
キシリ。
そうだ、ヘデラは動く。
わかっていたじゃないか、それなのに……。
腕の傷。
ヘデラを抱いていた側の腕に出来た傷。
止まらないLINEの着信。メッセージの内容はすべて私がヘデラに話していたものだ。
キシリ。
着信音が止まらない。
「違う、こんなの……」
ヘデラは普通じゃない。
私は後ずさりした。
逃げないと、私、逃げないと……!
ドアノブに手をかけたが、中で何かが引っ掛かったように動かない。
「なんで開かないの!?」
私の背にヘデラの足音が迫ってくる。
着信音が止まった。
耳元にひやりとした人形の気配を感じる。
【晴海、どこに行くの?】
女の子の声。私と同じくらい、暗くて、優しい女の子の声。私はしっかりと聞いた。
全身から冷や汗噴き出した。金縛りにあったみたいに私は少しも動けなかった。
LINEの着信音がまた鳴る。
『本当に大丈夫?』
青島さんのメッセージ。
私は叫んだ。
「助けて! 青島さん!」
☆
私が叫んだ時、ドアが開いた。私は、自分の部屋から転げ落ちるように逃げ出し、すぐに青島さんに電話をして、助けを求めた。
その時にはもうヘデラは姿を消していた。
ヘデラがどこに行ってしまったのか、私にはわからない。
「晴海、おはよう」
「あ、おはよう、優香」
ヘデラはいなくなり、私は、学校に行くようになった。
学校で青島さんたちのグループに入れてもらった。
そして特に問題もなく仲良くやっている。
「ねぇ、今度日曜なんだけどさ……」
「うん、もちろん行くよ」
正直、拍子抜けした。
こんなに居心地いいところがこんなにすぐ近くあったなんてね……。
☆彡
「ええ、姉夫婦の所に女の子が生まれてね、そのプレゼントにと思って」
「きっと喜びますね」
「でも、その家、猫とヨークシャーテリアを室内飼いしているの、ボロボロにされたりしないかちょっと心配」
「にゃは、この子ならきっとうまくやれると思いますよ」
黒い店主はニコニコと笑いながら大きなクマのぬいぐるみから「ランドルフ」という名札を外してラッピングをする。
この子の新しい行き先が決まった。そこで新しい名前を付けてもらえるだろう。
お客さんは綺麗にラッピングされたクマを受け取ると上機嫌に黒猫貴品店を後にした。
「ふふ、よかったわね。今度はお友達がたくさんできそうよ」
微笑む黒い店主は「あら?」と気が付いた。
古めかしい商品の並ぶ店の奥のコーナー。その一角に精巧に作られたハンドメイドの人形が、買われていく前と同様に、棚にひっそりと腰かけているではないか。
「あらあら、また戻ってきたの?」
黒い店主はソッと人形ヘデラを抱き上げ、寂しそうに肩を落とす人形の髪を撫でる。
「本当に、あなたは【友達想い】なのね」
黒猫貴品店第六話【友達人形】・了
本作主人公・片桐晴海が読んでいた小説タイトル「災難続きのエス氏 ~エス氏だって幸せになりたい〜」は鈴木りんさんの作品タイトルを使用させていただきました。
《https://ncode.syosetu.com/n2990et/》
黒猫貴品店内で猫が枕にしていた絵本「おいぼれウェントゥス」は葵生りんさんの作品タイトルを使用させていただきました。
《https://ncode.syosetu.com/n0924et/》
人形ヘデラを作成したアトリエ「ピノ&ポン」はmarronさん原作「ピノとポンの森」シリーズをモデルにさせていただきました。
《https://ncode.syosetu.com/s7112c/》
ご協力ありがとうございました。
未読の方は是非こちらの作品もお楽しみください。
本作中、最後に買われていくクマのぬいぐるみ「ランドルフ」の行き先は「疾風のランドルフ」のボスのお家でございます。よろしければ、そちらもよろしくお願いいたします。《https://ncode.syosetu.com/n3552dj/4/》
またランドルフの元の持ち主のお話「夢見乃枕」もよろしくお願いいたします。
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