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黒猫貴品店<外伝>第一話・「とある商品の裏事情」

 僕は選択しなくてはならない。

 退くか進むか留まるか、どうするのが一番いいのか、そんなことやってみなきゃわからない。

 ただ、わかっていること。それは今選ばなくてはならないってことだ。

 今この瞬間に! 今この瞬間に選ばなきゃ、僕は選択する権利を失ってしまう。

 僕がここに来た意味を考えろ、僕は何のためにここにいるんだ?

 

   ☆


 一か月前、午前。


 昼間だというのに重みを感じる灰色の雲が空の大半を覆っている。日差しも青空も見えるのに、重い雲の下をくぐる風は白く輝いた。

 北極圏の中でも人里離れたこのキャンプは昼間であろうと厳しい寒風にさらされる。

 白雪舞子は日本の大学を卒業し、ここで働き始めてまだ半年。冬に向かい日々気温が下がっていく寒さに体はまだ慣れていない。寒さがジャケットの中にスルスルと侵入し、室内から持ってきた熱と混じっていく。

 その感覚に身を縮めるが、どこか心地よい。

 ああ、やっぱり来てよかった。

 舞子はそう思った。

 広大に広がる大地、純白の雪、輝く風と空、植物も、生息動物も日本では見られないものばかり。事実、ここに来て色々な野生動物を見た。可愛らしい白毛のキツネ、巨大な北極熊も見ることができる。もちろん野生の北極熊は近くで見るには危険すぎるため、遠目から見ただけであるが。

 ここまで来ると日本のような動物はあまり見ない。特に猫や小型犬などの動物を見ることはないに等しい。猫と見かける機会の少なさが、猫好きの舞子にとっての唯一の不満だった。

「ふぅ、やっと着いた」

「えっ? ……?」

 急に足元から声がして、驚いて目を向けるとそのまま言葉を失った。

 周囲は誰もいない。足元にいるのは小さな猫だった。

「ね、猫っ!?」

「あれ? 君、キャンプの人? もしかして新人さん?」

「ええっ!?」

「な、なに!?」

 舞子の足元にいた猫は、白が多いしましまの小柄なアメリカンシュートヘアーを思わせる一匹の猫だった。しかし、その猫は普通と少し違っている。猫用かと思われる小さなダウンジャケットを着こみ、足はやはり小さな防寒用ブーツのようなものを履いていた。

 猫って? ええっ? こんなところに、猫って、そんな馬鹿な!?

 声を上げた舞子に猫は目を白黒させている。

 こんな可愛らしいにゃんこがこんな寒い場所にいるなんて……いやいや、そうじゃない、そうじゃないぞ。それも問題だけど、今はそれじゃないの!

 頭の整理に時間のかかっている舞子に猫は首を傾げ「日本人だと思ったけど違った? Hello Nice to meet you, are you a staff member of this camp?」と尋ねた。

「なっ!?」

 なんてネイティブで流暢な英語! 私よりも数倍上手い!

 英会話教室で外国人の先生に褒められたという舞子の自信にピシリと亀裂が走る。

「もしかして英語はダメ? えっと……じゃあRavi de vous……」

「わあっ! 日本語で平気よ! むしろ日本語大歓迎!」

「白雪、何を朝から騒いでいる……? あっ?」

 今まで寝ていたのか、無精ひげを生やした四十過ぎの男が姿を見せた。

「き、北岡さん! おかしいです! 猫が、こんなところに猫がっ! いえ、おかしいのはそれだけじゃなくて、言葉! しゃべっているです! ここ北極圏なのに日本語と英語で! あ、じゃなくて猫が言葉を!」

「シマネコ!」

「ご無沙汰しています、北岡さん!」

 シマネコと呼ばれたその猫は北岡銀司に駆け寄ると彼の腕に飛びのった。

「久しぶりじゃねぇか、どこ行ってたんだ?」

「アイスランドの方に行っていました。またしばらくお世話になりたいと思います!」

「き、北岡さん、し、知り合いですか?」

「ああ、白雪はまだ知らなかったな。こいつはシマネコ。本物の猫だ」

「はぁ……」

 北岡に見たままのことを言われ、返す言葉もない。そんな白雪を尻目に北岡はシマネコに新人である白雪を紹介している。

「最近ここにやってきた白雪舞子だ。まだここに来て半年だっけか? 大学卒業したてのヒヨッコだ。仲良くしてやってくれよ」

「白雪さんっていうんだ。僕はシマネコ、しばらくここでお世話になるんだ。よろしくね」

 シマネコは北岡に抱えられながら右手を伸ばす。それが握手を求められているのだと気がつくまでに白雪は少し時間がかった。彼女は慌ててシマネコと握手する。

「よ、よろしくお願いします」

 シマネコの訪問はキャンプメンバーの中に瞬く間に広がった。白雪以外のスタッフはシマネコのことをすでに知っており、その夜には彼の来訪を歓迎するパーティーが開かれることになった。

 白雪はそこで初めて北岡とシマネコがかなり古い付き合いなのだということを知った。

「初めてシマネコに会った時は俺も驚いたよ。何せ、言葉をしゃべるだろう? 日本語、英語、フランス語、ロシア語、ポルトガル語にスペイン語……あとバスク語だっけか?」

「ううん、バスク語は難しいので諦めたよ」

「六か国語? 私なんか英語しかしゃべれないのに……」

 シマネコは上機嫌に酒を飲む北岡の横で大型のストーブ当たりながら皿に盛られたハムをかじる。その姿はどうみても猫そのものだ。

 そんなシマネコを見ながら、北岡は目を細め「変わった猫だろう?」と自慢げに言った。

普段よりも口数の多い北岡の様子に舞子は驚きを感じていた。

「日本語話せるくせに、日本に行ったことがないしな」

「えっ?」

「日本は僕の憧れなんです。日本には荷物を運ぶことにかけては一流の技術を持つ世界でも有名な黒猫さんがいるんでしょう? 僕もそんな一流の猫になりたいんです」

「荷物を運ぶ黒猫……?」

目を輝かせるシマネコに北岡は豪快に笑う。

「はっはっはっ、確かにあのクロネコは一流だな。だが、あれになるのは大変だろうな」

「先輩にもそう言われました。けど、僕、絶対一流の猫になってみます!」

「先輩って?」

「日本にいる猫の先輩です。荷物を運ぶ黒猫さんみたいな一流の猫ですよ! 今は日本のとある企業で働いています。確か、綺麗な湖の見えるところで特別な仕事をしているって聞きました」

「へ、へぇ……」

 猫が企業で……? ということはその猫もしゃべるってことだよね?

 信じられない話だが、それを猫が言っているのだから信じないわけにもいかない。

 舞子が驚いたのはそれだけではなかった。

 シマネコと北岡は今までに何度も一緒に仕事をしているというのだ。シマネコがここに来たのも仕事のためなのだという。


   ★


 降り積もる雪は匂いを消す。

 激しい吹雪は音を消す。

 凍てつく風が感覚を鈍らせ気配を隠す。

 大丈夫、まだ気づかれていないはずだ。

 僕は、息を潜め、このままやり過ごせる可能性を考えた。寒さも忘れるような緊張感が、呼吸を荒くさせている。自分の息で僕の存在がバレてしまうのではないかと思え、慌てて手で口を押えた。

 やり過ごせればいい。

 それが一番いい。たぶん、最善の策だ。

 僕は後ろに置かれたいくつもの瓶を見る。僕の仕事道具……これを持って帰るんだ。

 それが、僕がここに来た理由なんだから。

 足音はゆっくりと踏みしめるように進んでいた。進路を変えることなく。


   ☆


 一か月前、夜中。

 夜も更けた頃、シマネコと北岡が口論になった。特に北岡は酒の勢いもあって、語気が激しくなっていた。

「そんな場所で一人でキャンプを張ろうっていうのか? 何かあったらどうするんだ!」

「ちゃんと準備をしてきたし、僕だってこの仕事を始めて長いんだ。なんの問題もないよ」

 酒も深くなった北岡が立ち上がる。酔いがかなり回っている北岡は千鳥足だ。

 舞子は咄嗟に肩を貸そうとしたが、北岡はそれを手を振って断った。

「だったらわかっているはずだろう? この時期の寒さや気候の変化を甘く見るな。一人でなんて危険すぎる。猫のクセに無茶をするんじゃない!」

 バランスをとるために一拍おいてから北岡は言った。気分のよさにまかせて酒をあおったことを、まだ酒に冷めてもいないのに後悔した。

 発端はシマネコの今回の仕事の話になった時だった。

 いつもはシマネコと北岡の二人で雪原にキャンプを張り仕事を行う。それを今回はシマネコだけで行くというのだ。

「無茶じゃないっ! 僕は猫だぞ! 人間に難しいことでも僕ならできる!」

 シマネコは立ち上がった北岡に対抗するようにテーブルの上に駆け上がり、しっぽを勇ましく立てた。

 シマネコのプランはこうだった。

 このキャンプから雪上飛行機に乗り、単独で人里離れた雪原に一か月もの間、滞在するというもの。

 すでに十一月、気温の低下もさることながら極夜の影響で夜が長くなっている。一か月の間にさらに気温は下がるだろう。その分、危険さは増すことになる。

 もし何かあったとしても、天候が荒れれば容易に救助の飛行機を飛ばすわけにはいかない。

「猫は寒さに弱い!」

「人間ほどじゃない!」

 そんな言い合いが夜遅くまで続いた。

 大丈夫だと言い張るシマネコと危険すぎるという北岡はお互いに一歩も譲ることはない。  

 舞子もはじめ、誰も二人の間に仲裁に入ることができないほど言い合いはヒートアップし、やがて疲れ果てて眠ってしまうまで続いた。

 結局二人がわかり合うことなく、シマネコは当初のプラン通り、雪上飛行機に乗り旅立っていった。シマネコが旅立つまで北岡とシマネコはお互いにこの話は触れることはなかった。

「シマネコさん、行っちゃいましたね」

 シマネコの乗った雪上飛行機が飛んで行くのを見上げながら舞子が言った。

 それでも北岡は何も言わなかった。


   ★


 雪原、初日。

 目的のポイントに到着。天候は良好。

 僕は飛行機の窓からその場所を見下し、お腹の底から湧き上がってくる緊張感を奥歯でかみ潰した。

 遥かなたに雪山がそびえ、眼下には厚く雪の積もる雪原。雪上を走る風が雪を巻き上げ風がキラキラと輝いている。

 何度見ても見惚れるような景色だけど、一歩外に出れば寒さの厳しさは半端ではない。

 飛行機が着陸するころには、その緊張感は幾分落ち着きを見せていた。

 ここで一か月過ごさなくてはいけない。そう思っただけで出発の時の楽しみによりも、憂鬱な気分の方が大きくなる。

 無理に決まっている! 僕の脳裏に北岡さんの声が蘇る。

 僕は首を振ってその声を振り払った。

 北岡さんとはこの仕事を始めた時からの付き合いだ。ここでの仕事だけじゃなく、他の場所でも一緒に仕事をしたことがある。

 猫は寒さに弱い、という北岡さんの言葉は本当だ。慣れてきているとはいえ、僕も寒さには強くない。

 北岡さんを頼る一つの理由が、まさにそれだったからだ。だけど、いつまでの北岡さんに頼っているわけにもいかない。

 僕は一流の猫になるんだ。そのためには一匹で仕事をこなせるようになる必要がある。これは僕が一流の猫になるために通らなくてはいけない道なんだ。

 だからこそ、北岡さんには応援してもらいたかったけどな……

 チクリと胸が痛んだ。

 もっと僕のことを信用してくれていると思っていた。僕の考えにも賛同して、応援してくれると思っていた。あんなに反対されるなんて少しも考えていなかった。

 正直、キャンプで過ごした数日の間で気持ちが揺らいだ。

けれど、ここまで来たら、もう引き返すことはできない。飛行機が次にやってくるのは一か月後だ。

 しっかりやらなきゃ!

「よし、早めにイグルーを作ろう」

 イグルーとは雪で作るかまくらのような仮説の家のことだ。雪さえあれば作ることができるので木材などは必要ない。これが雪原で過ごすための拠点となる。

 本来は雪を積んで作るためにかなり重労働だけど、それは人間サイズでの話。猫だったら、それほどの大きさは必要ない。ここに一か月間を過ごすための食糧などの荷物と仕事道具も保管するんだ。

 その仕事道具がいつもよりもかなり数が多い。今回はいつも以上に荷物を厳選し、仕事のための道具を増やした。

 今回の仕事はただ成功させるだけじゃダメだ。それ以上の成果が欲しいんだ。

 そのためにギリギリの調整をしてある。

 僕は手早くイグルーを完成させた。この作業もずいぶん慣れたものだ。

 ドーム状の形をした中は、僕が歩き回れるほどの広さがある。この大きさであれば、荷物も全部入るし、僕も充分にくつろぐことができる。何せ一か月も滞在するんだ。快適さは重要だ。

 ドーム状に作られたイグルーの中は外見から想像するよりも意外に広い。中に入れば、ピッタリと積み重なった雪が風を遮断し、温かな場所に来た印象を受ける。

 荷物を運び入れれば準備は完了。あとは待つだけだ。

 雪原、七日目。

 天候は良好。収穫はなし。何もないまま時間だけが過ぎていく。夕方に雪が降り、夜中には止むという日が続いた。

 雪原、十日目。

 突然。天候が荒れた。やはり雪原の天候は変わりやすい。夕方から強くなった吹雪が強くなってきた。今日もこの分だとダメだと思う。

 雪原、十七日目。

 天候は良好。

 夜の十一時を回った頃のことだった。

 ついに来た!

「すごい!」

 僕は思わず歓声を上げた。

 夜の空に風になびくカーテンのようにゆっくりと光が揺れる。オーロラだ。

「しかも、赤いぞ! すごい!」

 僕は飛び跳ねて喜んだ。

 オーロラには色々な色がある。緑や黄色、赤や紫などだ。緑はもっとも現れやすく、赤は現れにくい。紫は特に希少だ。

 今、目の前に浮かぶのは赤いオーロラ。僕も数えるほどしか遭遇したことがない。

 僕は少しの間赤く揺れるオーロラを楽しんでから、仕事道具である蓋つきの瓶だを取り出した。

 僕は瓶の蓋を開けて、瓶の口を空に向ける。

 すると空に浮かぶ巨大なオーロラの一部が空からポロリと瓶の中に落ちていく。中に入ったのを確認したら僕は急いで瓶の蓋を締める。

 瓶の中には空にあるオーロラをそのまま小さくしたようなに収まっていた。

 こうしてオーロラを採集するのが僕の仕事。珍しい色のものや形のものは特に価値が高い。

 今回のオーロラは平凡な形ではあったけど、色が特別だった。赤いオーロラなんてそんなに見られるものじゃない。

 僕は持ってきた採集瓶のうちのほとんどを使ってオーロラを採集した。

 これを見たら北岡さんも僕を認めないわけにはいかないぞ。僕はホクホクしながら、採取したオーロラの瓶をイグルーの中に運び入れた。たくさん瓶を持ってきてよかった。この瓶全部にオーロラを詰めて、そして僕は帰るんだ。

 北岡さん、きっと驚くぞ!

 雪原、二十日目。

 あとは持って帰るだけ。

 瓶はまだ残っていたけど、もう充分に採集できている。僕は帰りの飛行機がやってくるのが楽しみで仕方がなかった。早く、北岡さんに見てもらいたいし、立派な猫だと認めほしい。そんなことを思いながら、僕は上機嫌で空を眺めては、時々見える小さなオーロラを採集したりした。

 天候はやや崩れ始めていた。

 雪原、二十三日目。

 それは突然やってきた。


   ☆


「北岡さん」

「……」

「北岡さんってば!」

「なんだ、聞こえているぞ。俺は今忙しいんだ、少し静かにしてくれ」

 何もしていないくせに忙しいだなんて! と舞はいらいらしながら北岡に詰め寄った。

「北岡さん! 今日も吹雪です。一週間も連続で」

「ああ」

「しかも、この季節にこんなに強い寒波が来るなんて異常だって、他の人も言ってます!」

「ああ、わかってる」

 北岡は食堂の椅子に腰かけ、すでに山になっている灰皿にくわえていたたばこを押し込み、途切れることなく新たなたばこに火をつける。

「北岡さん! この温度の下がり方は普通じゃないです! シマネコさんを助けにいきましょう!」

「……」

「北岡さん!」

「落ち着け白雪」

 北岡は煙を吐きながら、彼女の方を見ずにそう言うと一言一言確かめるようにゆっくりとした口調で言葉をつづけた。

「シマネコのいるところまでは飛行機でなければいけない。この荒れた天候の中で、飛べるわけがないだろう」

「そ、それはそうですけど……でも、何とかしないとシマネコさんが!」

「うるせぇ!」

 食い下がる舞子に北岡が声を荒げる。舞子がビクリと身体を震わせると、北岡はばつが悪そうに顔をそらす。

「お前は、あいつのことを人間の言葉をしゃべるただの猫だと思っているんだろうが、そうじゃないんだ」

「そうじゃない?」

「あいつは、あんなにちいせぇがプロなんだ。雪原に出たら俺たちよりも目も耳も利く。判断力だって俺以上だ。プロの猫なんだよ。だから簡単にはくたばらねぇ。あいつが行けるって言ったんなら行けるんだ、行って帰ってくることができるから行ったんだ」

 北岡の言葉はシマネコが雪原で無事に過ごしているということに対して何の根拠もない。

 必要な機材、天候の変化、キャンプからの距離、支援活動の有無。どれも安心を得るのに充分とは言えない。

 シマネコが無事と言えるのは、北岡の中にあるシマネコへの理解だけ。

「あいつは本物なんだ。だから、こんな吹雪になんかに負けねぇよ」

 そう言いながらも、北岡のたばこが止まることはなかった。


   ★


 雪原、一か月目。

 二十三日目から大きく崩れた天候は、雪原に猛吹雪をもたらした。それから一週間。今まで吹雪が微かに弱まることはあっても止むことはない。

 ゴゥゴゥという轟音とシンシンとした寒さ。僕はイグルーの中で丸くなりながら吹雪が去るのをジッと待っていた。

 こんな時は下手に動かない方がいい。エネルギーを温存して、食料の消費を減らすんだ。

 幸いにして、オーロラは充分に採れている。迎えの飛行機がくる日も目前。

 最低限のことだけをして、このままジッと過ごしていればそれでいい。

 僕はイグルーの中で、今回の成果をあらためて確認した。濃い緑色のオーロラが数種に青色も採取できた。それに何といっても、赤いオーロラ。赤いオーロラが今回の収穫の目玉だ。

「これだけあれば充分だ」

 早くみんなのいるところに帰りたいなぁ。そして、このオーロラを見てもらうんだ。

 僕はワクワクしながら、赤いオーロラの入った瓶を色々な角度からのぞき込んだりした。

 向こう側が透けて見える光のカーテンはルビーのように輝きながら、瓶の中でゆったりと揺れる。角度によって濃淡を変え、万華鏡のように変化していく。今まで見たオーロラの中でもとびきり美しいオーロラだ。

「……!?」

 僕はハッとして顔を上げた。自然とゾワリとして毛が逆立つ。

「なんだ、この音?」

 吹雪。外は猛吹雪だ。その音とは違う音が聞こえたような気がした。

 僕は息を殺し、耳を立てた。

 錯覚かもしれない。

 空耳かもしれない。

 勘違いであったほしい。

 淡い期待を抱きながら僕は音を探る。

「錯覚じゃない……」 

 吹雪の中だというのに、今度はしっかりと聞こえた。暴風を砕きながら、雪を踏みしめ進む足音を僕の耳は確かに感じ取っていた。

 雪に沈む音とそのリズム。間違いない、ここに向かってくる動物は僕よりもはるかに巨大だ。僕は慌ててとイグルーの中から足音の方を覗き見た。

 外は激しい吹雪が何もかも飲み込もうとしている。姿も匂いも気配も。それでもわかる。この先にいる。

「北極熊だ……!」

 こんな吹雪の中……散歩? いやあり得ない。この天候で腹を空かせて狩りに出たか?

 北極熊は地上最強の肉食動物と言われている。腹の空かせた熊は危険だ。

 やり過ごす。息を潜めて、やり過ごすんだ。

 気づかれずにこのままどこかに行ってくれるのを待つ。それが得策だ。

 だけど、僕の気持ちとは裏腹に、熊はまっすぐにこちらに近づいてくる。

 近づくほどに吹雪のベールは薄れ、その姿が徐々に鮮明になってくる。

 吹雪をもろともしない厚い毛並み。雪を踏みしめる太い腕と足。そして何より圧倒されるのはその体の大きさだ。ゆうに三メートルはある。

 僕が出て行って何とかなる相手じゃない。

 でも……でも、このままあいつが進路を変えなかったら……。

 僕のイグルーは簡単に潰されてしまうに違いない。イグルーが潰されたら……。

 食料を奪われる?

 最終日まで過ごす場所が奪われる?

 オーロラを採取した瓶が危険にさらされる?

 食料は我慢すればいい、イグルーは修復すればいい、でもオーロラはそうはいかない。

 このままの進路であの熊が進んでくるのであれば……僕はこのまま見過ごすわけにはいかなくなる。

とはいえ、僕が熊を威嚇したとしても、彼が方針を変えてくれると思えない。

熊は迫っている。肩が揺れ、時折周囲を伺うように首を回す。獲物を探しているのだろう。

 まだ距離はある。

 もし、出るなら先手を打つべきだ。今なら間に合う。威嚇して、熊の目を反らすことができるはずだ。

 まだ距離はある。

 熊は進路を変えるかもしれない。息を潜めていればこの状況を脱するかもしれない。

 こんな時、北岡さんがいれば……。

 僕が危険を察知し、北岡さんがライフルで威嚇をする。今までだったら、それで乗り越えられた。今、北岡さんはいない。僕だけで何とかしなきゃいけないんだ。 

 熊はさらに足を進めた。進路は変えない。

 足が進むほど選択肢はなくなっていく。

 僕は選択しなくてはならない。

 退くか進むか留まるか、どうするのが一番いいのか、そんなことやってみなきゃわからない。

 ただ、わかっていること。それは今選ばなくてはならないってことだ。

 今この瞬間に! 今この瞬間に選ばなきゃ、僕は選択する権利を失ってしまうだろう

 僕は耳を立て、身を伏せた。 

 僕がここに来た意味を考えろ、僕は何のためにここにいるんだ?

「僕はオーロラを持って帰るんだ!」

 オーロラを守るんだ。

 そのために熊の進路を変える!

 僕はイグルーの外に飛び出していた。

 オーロラを守る。熊の目をそらして、オーロラの入った瓶を守るんだ!

 熊との距離はすでに数メートルを切っていた。僕は力の限り言葉にならない声を上げた。

 その声に熊も気がつき歩みを止める。

 猫と北極熊。体長56センチの僕に対して相手は三メートルを超える。

 雪の中で活動することに適した北極熊と猫である僕とでは、環境も味方はしない。

「ここから立ち去れ! ここは僕の縄張りだぞ!」

 僕の叫び声は吹雪に飲まれる。

 熊に届いたか届いていないのか、熊は腰を落とし、僕に視線を合わせた。

 来る!

 狩るつもりだ。

 熊の視線に、僕の猫の本能が急に顔を出し、頭の中で叫び声を上げた。

 逃げろ!

 わかってる!

 逃げろ!

 逃げるさ、今、逃げる! だからもう少し待ってくれよ!

 逃げろ!!

 うるさい黙れっ!

 先手を取るんだ。熊の注意を反らすために、進路を変えるために! それだけでいい、あとは逃げるだけ。イグルーから離れて、それから迂回してここに戻るだけだ。

 怯むな! 顔を上げてしっぽを立てろ!

 僕は自分に言い聞かせ、今にも地につきそうなしっぽを高々と上げた。

 しかし、先に動いたのは熊の方だった。

 僕は自分でも気づかないうちに躊躇していた。決意が遅れた。そのわずかな迷いを熊は見逃さなかった。

 疾駆する熊の一撃を、僕は雪に足を取られながらもかわす。北極熊の爪が僕のいたところの雪を大きく削り、熊が飛び込んだ場所はクレーターになった。

「ここから立ち去れ!」

 僕は虚勢を張って一喝した。

 内心では混乱しはじめる気持ちを押さえつけているだけで精一杯だ。ここまで距離を縮められたら、熊に背を向けて逃げるなんてとてもできない。

 避けるだけ、避けるだけ、このまま僕に注意を引きながらイグルーから遠ざけるんだ。熊から逃げる方法はそのあと考えればいい。少しでもオーロラから離れさせないと!

 僕は吹雪の中にいることも忘れ、熊に威嚇を繰り返す。

「うわっ!?」

 その時だった。

 ゴウゥッ。と突然突風が僕の背中を押した。

 僕は一瞬、風の中で張りつけになったみたいに固まってしまった。

 僕のことなど飛ばしてしまうような強風でも熊はビクともしない。

 熊の腕が振りあがる。

 ダメだ! 動けない!

 熊の腕が僕をとらえた。僕はゴムボールみたいに弾かれ、背中から雪に叩きつけられた。

「くぅぅ……」

 大丈夫。息はできる。熊の攻撃が腕だったから助かった。それに雪の上だから衝撃もそれほどじゃない。勢いよく雪に埋まったけど、大きなケガはない。

「こうしちゃいられない!」

 僕は雪の中で必死に動いた。

 身体の周囲を雪が圧迫してうまく動けない。

 早く体勢を整えるんだ。じゃないと熊は僕に留めを刺しにくる。僕に向かって飛び込んでくれば、ひとたまりもない。

「えっ?」

 雪の中で足を伸ばすとコツリと何か堅いものに触れた。

 そんな? もしかして? ここは?

 その感触は覚えがある。これは採集瓶だ。

 熊がやってきて僕は目を反らしたはずだった。けれど、僕が弾き飛ばされたのはイグルーのすぐ近くだったのだ。

「そんな、このままじゃ!」

 雪の向こうで足音が駆ける。

 来る! 熊の目を反らすのはもう間に合わない!? 僕が盾になれば、瓶を、オーロラを守れる? それとも僕だけでも逃げる?

「そんなのダメだ!」 

 赤いオーロラが採れたんだ! キレイなオーロラなんだぞ! オーロラを捨てて逃げるなんてできるものか!

 でも逃げなきゃ、逃げなきゃ、僕は……!

 迷うな! 迷うな! 

 僕はここに何をしに来たんだ! 僕が今しなくちゃはいけないことは一つしなかないはずだ!

 熊が僕をめがけ飛び込んだ。

 小さなイグルーは潰され、同時にガラスの割れるひどい音が吹雪の中に消えていく。

 それとほぼ同時に雪の中からいくつもの光の筋が爆発した。赤、緑、青の光が幾重に重なるように飛び散ったんだ。

 その光に驚いた北極熊は怯えたようにしっぽを巻いて逃げていった。

「ああ……」

 飛び散り、空に消えていくオーロラを僕は茫然として見上げていた。オーロラは吹雪の中にかき消されるように消えていく。

 僕は慌てて壊されたイグルーに駆け寄った。熊の一撃を受けたのはちょうどオーロラの採集瓶が保管してある場所だった。

 ある瓶は粉々になり、ある瓶は使いものにならない状態になっていた。赤いオーロラを含め、オーロラを取り込んだ瓶は全滅。皮肉なことに分けて置いてあった空の瓶の方は無事だった。あと一歩、わずかに熊の一撃がズレていたら、きっと赤いオーロラは無事だった。

「……」

 今まで忘れていた冷たい吹雪が僕の背中を押す。

 まだ、僕は助かっていない。

 早くイグルーを直さなくてはいけない。イグルーの中に入って寒さをよけなくてはいけない。猫は寒さに弱いのだから。

 頭でわかっていても僕は壊れた瓶の前から動くことができなかった。 

 僕は逃げ出してしまったんだ。

 熊が来た時に、瓶を抱えてでも守れば、赤いオーロラを守れたかもしれないのに。

 僕は何で逃げてしまったんだろう?

 僕はここに何をしに来たんだろう?

 僕はオーロラを守れなかった……。

 涙が溢れては凍っていく。

 情けなかった。一流の猫になるはずなのに、僕は一匹では何もできない。僕は壊れたイグルーの片隅に身を寄せた。

 僕には直せない。そう思った。

 やがて吹雪は止み、凍てつく夜の空気が眠るように雪原に沈殿する。

 ジッとしていれば何とかなる。それだけのスペースは残っている。僕はただの猫のようにそこで丸くなった。

 どれほどそうしていたのか、ふと、暗闇の雪原の中で光を感じて顔を上げた。

「……?」


   ☆

 

 一か月と二日後。晴天。

 一機の雪上飛行機が雪煙を上げて雪原に着陸した。飛行機の中から飛び出したのは、北岡と白雪だった。

 二人は飛行機から降りるとすぐにシマネコの名を呼んだ。

「シマネコ!」

「シマネコさんっ!」

 吹雪のために飛行機が飛ぶことができなかったために、迎えに来る予定は大幅に遅れていた。居ても立ってもいられなくなった北岡と舞子は、パイロットに頼んで迎えの飛行機に乗せてもらったのだった。

「シマネコさん、いない?」

「いないわけがない、この周辺に必ずいる。シマネコのことだ、自分用のイグルーを作っているはずだ。小さいから埋もれているかもしれない。雪の盛り上がった場所を探すんだ」

「はいっ!」

 雪原は連日の吹雪のために雪が深くなっていた。北岡は少しでも雪の盛り上がった場所があれば、そこを自分の手で堀り、小さな猫の姿を探した。

 どうして出てこない? 食料もなく、帰りの飛行機を待ち望んでいたはずだ。少しでも早くこの環境から温かな場所に還りたいはずだ。

 北岡の脳裏によくない想像ばかりが浮かんでくる。北岡はそれを振り払うように必死で雪をかいた。

「死んだりしたら承知しないぞ。どんなところからも生きて帰れなきゃ一流じゃないだろう? シマネコ、お前はただの猫じゃない、そうだろう?」

「北岡さん!」

 舞子が声を上げた。

「こっちに来てください!」

 彼女に呼ばれ、北岡が急いで向かうとそこには割れた瓶がいくつも雪に埋もれていた。

「あいつのものだ……」

「シマネコさん、ここでキャンプを?」

 北岡は瓶をかき分け、周辺の雪をかいた。すると、雪の中で指先が空洞を見つけた。

「シマネコ!」

 北岡は急いで雪を払う。するとその空洞の中でシマネコは丸くなっていた。

「シマネコさん!」

 舞子が声をかけると、シマネコはゆっくりと顔を上げた。

「北岡さん……? 白雪さん……?」

 かなり弱ってはいるが、かすかにしゃべるシマネコの姿に二人は安堵のために力が抜け、笑みがこぼれた。

 北岡はシマネコの仕事道具の散乱した様子やイグルーの状態から、ただ事ではないトラブルが起きたのだと理解した。

 無茶をしたに違いない。北岡はそう思った。

「シマネコさん、何を持っているんですか?」

 ふと、舞子がシマネコが大事そうに抱える瓶に目を向けた。シマネコは数本の瓶を抱えるようにして雪の空洞の中で迎えを待っていたのだった。

「お、おい、これは……!?」

「色々あって、たくさん逃がしてしまったけど、最後に採れたんだ」

 北岡は瓶を手に取るとその中の光景に目を見開いた。

「すごくキレイです、これなんですか?」

 白雪ものぞき込み驚きの声を上げた。その色合いは深く、清廉でいて妖艶。一点の曇りもないアメジストのような光の帯が揺れている。

「これは紫のオーロラ、それもオーロラ爆発だ」

「オ、オーロラ……?」

 放射状に激しく揺れるオーロラ爆発は、放射状に広がったオーロラが激しく揺れる珍しい現象だ。そして紫色のオーロラもまた珍しい。

 長くオーロラを見てきた北岡でもここまで見事なオーロラは見たことがない。

「北岡さん、僕、一流になれるでしょうか?」

 すると北岡は少しシマネコを抱き上げながら言った。

「まだまだだ。俺に心配させずに、無事に帰って来られないうちはまだまだ……」

 シマネコは納得したように肩を落とす。そんなシマネコに北岡は言葉をつづけた。

「一流になるのは本物だけだ。だからなれるさ、お前は本物だからな」 

「……はい!」

  

   ☆彡


「こちらにサインお願いしまーす」

「はい。いつもありがとう」

 漆黒の長い髪と大きな瞳。新雪のような白い肌を際立たせるような黒いドレスを着たどこか妖艶な雰囲気を持つその少女は、宅配された荷物に【黒猫貴品店】とサインをする。

「えっと、今日届いた商品は……。あら……」

 箱には産地直送便の文字。中を見ると瓶がぎっしりと詰められ、その一つ一つに採れたて最上級「極光【オーロラ】と書かれていた。

「相変わらずここのオーロラの質は最高ね」

 彼女は瓶の一つを取り出すと大きな瞳でのぞき込んだ。

「本当にキレイ。でも、この商品、売り込んでも買っていく人あまりいないのよね。こんなにキレイで、想いも詰まっているのに。……もしかしてみんなこれが本物の極光だってわからないのかしら?」

 黒い彼女は手にした瓶の封を切る。ふわりと瓶からオーロラが部屋に放たれる。店内がわずかにひんやりとして、かすかに雪の匂いがした。  

 放たれたオーロラは紫色に光りを放ち、いつまでも消えない花火のようにゆっくりと爆発を繰り返している。

「ふふ、まあ、本物だとわからない人の手にこの商品が渡っても意味はないかもね」

 店の陽だまりで日向ぼっこを楽しんでいた黒猫が顔を上げる「にゃお」と一声鳴いた。


おわり

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