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黒猫貴品店第四話【世界樹の花弁】

 これで全部解決できる! 今まで苦労から解放される! 

 それがどんなものであっても、手を取らずにはいられなかった。


  由美子


 リリリ……。

 カーテンの隙間から差し込む緩やかな朝日に目覚ましの人工的な電子音が混じる。

 私に背中を向け、まだ眠りの中にいる慶悟が目を覚まさないうちに目覚ましを止めるとそばに準備しておいた体温計を手にとりまた横になる。

 朝の温もりに、身体が眠りに向かおうとするのを必死に食い止める。この朝の儀式さえなければ、もう少しだけ微睡を味わっていたいのに。

 朝、体温を計る。この単純でつまらない行為を始めてもうどれほど経つだろう。

 ベッドの温もりが睡魔を呼び寄せたが、体温計の冷たいアラームで再び現実に引きずり戻された。

「いつも通り、問題なし」

 映し出されたデジタルの数字を専用の手帳に記録して私はベッドを抜け出した。

 日々の体温が書かれた手帳のグラフは緩やかな曲線を描き、私の体調が今日も良好であることを示していた。

 私の名前は蓮田由美子、三十五歳。夫の慶悟とは五年前に結婚をした。

結婚をしても仕事をしたいと言った私の希望を聞き入れ、私は結婚をしたあとも仕事を続けている。

 彼は優しいし、仕事への理解もあった。二人で働けば、それなりに生活にも余裕もある。派手な遊びや趣味もない。地味だがおそらく同年代の夫婦の中ではいい暮らしをしている方なんじゃないかと思う。

 結婚をして三年も過ぎると、お互いの両親の期待が高まるのをヒシヒシと感じるようになった。直接言葉にされなくても、求められていることがわかる。

 子どもだ。

 私たち夫婦は何の問題のない夫婦だった。収入も、仕事も、夫婦仲だって悪くない。多少年齢がいってからの結婚だが、特別遅いというわけではない。当然子どもだって自然にできると信じて疑わなかった。

「おはよう」

 私が朝食の用意をしていると、まだ眠そうな慶悟がリビングにやってきた。彼は自分でトースターに食パンを入れ、テレビをつける。

 ピリリとした二人の間にある緊張の糸を縫うように、BGM代わりの朝の情報番組が流れていく。

 内容など耳に入ってこない。知り合いでもないタレントの明るい声が不思議と背中を押してくれる。

「ねえ、今日の病院なんだけど……」

 私は彼の前に湯気の上る紅茶をおきつつそう切り出した。

「ああ、今日だっけ? ごめん、急な仕事が入ちゃってさ」

「うん、わかった」

 私は特に追求することもなくうなづく。

 どうして? 前から言っていたでしょう? また病院の日に急用なの? 口から零れそうになる言葉を飲み込む。こんなことで言い合いをしたくない。

「結果はメールするね」

「うん、待ってるよ」

 子どもができない。そのことが私たちの夫婦生活を冷めさせる要因となった。

 病院での不妊治療を始めて、もう半年になる。それでも目に見えた成果は何一つなく、ただ時間と治療費だけが消費されていっていく。

 最初こそ励ましあっていたいが、時間と費用がかさむほどに、言葉は少なくなり、落胆のため息だけをお互いに聞かせるようになっていった。それは二人の間に見えない壁か、飛び越えることのできない溝でも出来てしまったみたいだった。

 いつからか夫婦の営みは、子どもを作るという義務感に縛られるようになった。夫婦のベッドは甘い時間を過ごす場所ではなく、子どもを作るという作業場となった。

 本人たちの欲求とは関係なく行われるそれらの行為は、ただただ、心をすり減らす時間となった。

 急な仕事……たぶん、それは嘘。彼は仕事という免罪符で病院に行くことを拒んでいるのだ。

「行ってきます」

「いってらっしゃい」

 私は出かける慶悟を送り出し、病院の予約時間に遅れないように準備を整える。

 慶悟は不妊治療に対して協力的ではない。病院での検査や実際の治療が始まっても一緒に付き添ってくれたことは少ない。

 不妊治療で通う婦人科の待合に一人でいるのは不安だ。

 どうして私はここに一人でいるのだろう? 子どもができない責任を私だけ負わされているような気持ちになる。

 表面だけ温もりを感じさせる無機質な診察室、事務的な問診に単調に耳に届く検査結果。冷たい器具を身体の内に入れられ、他人に体内を見られる。それほどの恥辱に耐えても、何も進展を見せない。

 待合に帰る時には、持ちきれないほどの徒労感と惨めさに耐え切れず椅子に身を沈めてしばらく動けない。

 そんな私の前をお腹の大きくした若い子が髪を染めた軽薄そうな男と仲睦まじく歩いく。

「……」

 どうしてあんなカップルに子どもができて、私にはできないの?

 お金だって、仕事だって、学歴だって私の方があるはずなのに。そんな安っぽい服着て、馬鹿みたいな男を連れている、あんたにはどうして赤ちゃんができるの?

 胸の中に沸き起こる感情を声にしないように抑え込むと今度は涙が滲んだ。

 せめて、誰かが私の隣にいてくれたら、この気持ちを共有してくれたら、こんな惨めな気持ちにならなかったかもしれない。

 私は会計を済ませ、病院を出た。

「メール……」

 またできなかったと慶悟に言わなくてはいけない。また次もこれを繰り返さないといけない。

 親や兄弟や職場の人間にまた出来なかったというニヤついた憐れみの目を向けられ同情される。

「もう嫌だ……!」

 何でもいいから子どもがほしい。子どもができないというこの状況から今すぐにでも解放されたい。

 なんで私にはできない?

 私が駅につくと、改札前で子どもを連れた女が、自分に似た子どもを置き去りにして早足で歩いていった。置き去りにされた子どもは泣きじゃくりながら母親を何度も呼ぶと、目を吊り上げた母親が幼い子どもに怒鳴り散らす。

 あんな女にも子どもができる。

 原因は何?  

 検査上私に問題はない。

 体温だって、食生活だって、生活リズムも問題ない。嫌いな運動もしているし、夜更かしも煙草もお酒もやめた。

 原因は慶悟にある。

 そのことが頭を離れない。

 でも、慶悟は病院での検査を頑なに拒み続けている。検査をしてほしいと口に出せば、言い合いになりケンカになる。

 私は今のこのやり方を続けるしかない。

 子どもができるなら、今のこの状況がかわるなら何でもいい、妊娠するなら何でもいい。何か方法はないの?

「……?」

 そんな時だった。たまたま通りかかった帰り道で私はそれを見た。

 そこはジブリ映画に出て来そうな少し洒落た感じのアンティークショップのようだった。

「黒猫貴品店」それがその店の名前。

 私は店の窓に顔を寄せ、その不思議な光景に目を奪われた。

 猫耳と笑った猫の顔がついた丸々としたガラス製の入った容器に水がたっぷりと入れられている。

 この店の店員と思われる漆黒の髪に黒いドレスを着た女の子が鼻歌まじりで手にした小瓶から一枚の花弁を取り出したのだ。

 細く白い指先で花弁をつまむとそれをフワリと水に浮かべる。水に浮かんだ花弁はスルリと水に飲まれていく。

 花弁は瞬く間に姿を変え、なぜかそれは花弁と同じ模様を持つ金魚になった。

「えっ……?」

 自分の目を疑った。

 だって、花弁が金魚の形になったのではない。水の中を泳ぐ本物の金魚そのものになったのだから。

 花弁が金魚に? 

 猫型金魚鉢のお腹の中で、金魚は気持ちよさそうに尾ひれを揺らし泳いでいる。

「いらっしゃいませ! 何か気になる商品がありますか?」

 窓の外で釘付けになっていた私に気がついたのか、黒い彼女はカランとドアをあけた。好奇心旺盛な子猫のように大きな目を輝かせる。

「別に何でもないの。気にしないで」そう言おうとしたが、喉につかえたように言葉は出てこなかった。それほど花弁と金魚が印象的だったのかもしれない。

 あの金魚を間近で見てみたい。

「ささ、どうぞ、是非見てください! 他では売っていない特別な商品もありますよ! 今だったら、この極光オーロラが何よりオススメ! 夜のベッドルームに飾ればムード満点!」 

 オーロラ? ……確かにあまり見た事のない商品かも……

 黒い彼女はその他にもオシャレな感じの眼鏡や刃の部分に不思議な模様のあるナイフ、それにクイズ番組に出て来そうなスイッチと色々商品を見せてくれた。

 どうやら単なるアンティークショップや雑貨店というわけではないらしい。奥には書籍コーナーなどもあり、見たことのないタイトルの本が並ぶ。

「わわっ、店長ダメだよ、金魚さんをいじめちゃ!」

 猫型金魚鉢をエメラルド色の目をした黒猫が興味深げに覗きこみ、前足でちょんちょんと水面を叩いていた。黒猫店長が金魚鉢を覗くために「星の落ちた夜」絵本を踏み台にしていたが、あれは黒い彼女の私物だろうか。

「もう、店長ったら……」

 店長は黒い彼女に抱き抱えられ、不満げに「ふにゃお」と鳴いた。

「あ、あの、その金魚なんですけど……」

「はい? もしかして、この金魚さんが気になりますか? 申し訳ありません。この金魚さんは売り物ではないんです」

「そ、そうなんですか。えっと、とっても綺麗な金魚なのに残念ですね……」

「ありがとうございます! 実はこの金魚さんは新しい商品の見本なんです」

「新しい商品の……?」

 ドクンと心臓が跳ね上がった。新しい商品。それって、もしかして……

「はい、こちらの商品、世界樹の花弁。今日入って来たばかりの商品ですよ」

 そう言って黒い彼女は花弁の入った小さな小瓶を見せてくれた。

 さっき店の外から見たあの花弁だ。この花弁を水に落としたら、瞬く間に金魚になったのだ。

「世界樹の花弁……?」

 黒い彼女からその小瓶を受け取ると、ドキリとして、思わず見入った。

 小瓶を近づけて見れば、なかには美しく不思議な花弁が一枚。薄桃色のような色のようだけど、よく見ればプリズムのように花弁自体が七色に光っているようにも見える。そんなはずはないのに花弁の入った小瓶はどことなく温もりを持ち、それが瓶を越して伝わって来るような気がする。見た目は一枚の花弁のはずなのに、まるで小さな生き物が瓶の中で眠っているようだ。

 それは何か、生まれるのを待つ生き物のように……。

「この花弁は命の可能性を持っています」

「うん……」

 この瓶を手にしているだけで心地いい。花弁の入った瓶を抱いているだけで気持ちが落ち着いていく。

店の外の音がスーッと遠ざかり、黒い彼女の声だけが耳元に届く。

「花弁が落ちた場所。花弁が触れた場所に応じた生き物になるの。水なら魚とか、卵の上なら鳥とか、猫のお腹の上に置くと子猫が……」

「うん……」

 彼女の声が聞こえていたはずなのに、それも遠くなっていく。

視界には花弁だけ。花弁と私だけ。

 今、あの子……なんて言っていた? この花弁には命があって? 花弁が落ちた場所に応じた生き物になって、水なら魚に? 卵なら鳥に? 猫のお腹の上に置くと子猫に……? えっ……?

「にゃは!」

「……!?」

 黒い彼女が突然笑ったので私はハッとした。周囲の音が耳に飛び込み、目の前にまで迫っていた花弁が急に遠ざかる。

 私は小瓶を握りしめていたことにやっと気がついた。

「えっ、その、つまり、この花弁は……」

 この花弁が、水に置かれると魚に、卵の上に置けば鳥に、お腹の上に置くと……?

 そんなことあるはずがない。

 そんなことあるわけがない。

 でも……

 私は猫型金魚鉢のお腹の中で気持ちよさそうに泳ぐ金魚を見た。

 花弁は金魚になった。

 水に浮かべれば魚に……。

 その場所に応じた姿に変わる。

「だとしたら……」

 もし、本当なら、もしこれが本物なら!この花弁を私のお腹に落としたならば!

「子どもが……?」

 そうだ! これで全部解決できる! 今まで苦労から解放される! 

「これ、ください!」


   慶悟


 俺は由美子に見送られ家を出ると、特別重要でもない用事を済ませてから早々と仲間と別れた。

「……まだ連絡はなし、か」

 俺はスマホに連絡がないことを確認して公園のベンチに腰かけながら、コンビニで買ったよく冷えた缶コーヒーを開ける。

 病院の日はすぐには気分的に帰れない。あの重い空気と沈黙が辛い。

 俺は由美子との生活に満足している。

 不妊治療を始めてからというもの二人の関係は変わってしまった。

 真っ白なシャツに食べこぼしでシミが出来たみたいにその一点に関してだけ問題で、その一点のおかげで全部が台無しになっている、そんな感じだ。

 結婚をして、夫婦生活があって、意図的に避けなければ子どもができる。

 そう思っていた。当然俺たちだって、そうなるはずだと安直に考えていた。

 それは俺だけではなく、おそらく俺たちのまわりにいる人間、特に親はそう思っていたに違いない。由美子には弟がいるが、俺は一人っ子だ。弟は結婚をする気配がまるでない。必然的に両方の親が孫の誕生を待っている。

 とはいえ、最近ではその話題も避けられるようになった。特に由美子の前では。相変わらず俺の親は俺には催促を繰り返している。

 何とか由美子の耳に入らないようにしているが、それも限界がある。しかし、いくら催促され、期待され、願われても俺たち夫婦の間には、一向に子どもが生まれそうな気配がない。

 由美子は懸命に婦人科への通院を繰り返し、俺も検査を薦められている。でも俺は何とか理由をつけて病院にいくのを避けて来た。検査上、由美子の身体に原因のないことはわかっている。ということは、もしかしたら、原因は俺なのかもしれない。

 自分に責任がある。

 そんな可能性があるのにわざわざ検査をする必要があるだろうか?

 愛する女が欲するものを与えてやれない男がどれほど惨めなものか。検査をすれば、それを決定的に見せつけられてしまうかもしれない。 

 情けない話だが、検査をして真実を聞くのが恐い。もし原因が俺だった時、辛うじて夫婦として関係を保てたとして自分が今までと同じように由美子に接することができるかどうかわからない。

 どんなフォローをされたって、どんな風に慰めてくれたって、突きつけられてしまえばその事実を避けることはできないのだから。

「おっ……?」

 ふと、俺の足元にカラフルな蛍光色のボールが転がって来た。良く弾むそのボールを追って小さな男の子が顔を上気させて駆けて来た。

「ほら、気をつけてな」

 俺はそのボールを手にとり、男の子に渡すと男の子はニコリ笑い「ありがとうございます」と言ってペコリと頭を下げた。その後ろでは男の子の父親であろう男性が彼と同じようにペコリと頭を下げる。

 それにつられて思わず俺も頭を下げた。

「……休みの日に子どもとボール遊び、か」

 自分がそんなことをするなんて少しも想像することができない。でも、きっと子どもができたらするんだろうな……。

 休みの日に子どもを連れて外で遊んで、家に帰ると由美子が夕食作って待っていて……って、なんだかシチューとかカレーのCMみたいだ。でも現実はテレビみたいにはいかない。

「きっと、原因は俺にある」

 だけどそれを明らかにしたくない。子どもができないという事実を二人のものとしておきたいのだ。

そうしておかなければ、やせ細った男のプライドを保つことができない。

 由美子のここまでの頑張りや苦しみを理解しているつもりだ。だからなおさら諦めようと言えないでいる。

 俺は飲みかけの缶コーヒーを片手に、公園を出た。

「手ぶらでは帰りにくいな」

 そうだ、この近くで売っている肉球最中でも買っていくか。

 気休め程度にしかならないだろうが、手ぶらよりも幾分マシだ。

 見た目可愛らしい肉球最中は由美子も気に入っている。小倉が入った「くろにゃんこ」に白あんの「しろにゃんこ」小倉と栗入りの「とらにゃんこ」がある。

「……うん?」

 和菓子屋の前までやってくると、俺の目はとなりの店に釘付けになった。

黒猫貴品店……? こんなところに、こんな店あったけ?

 鉄製の厚いプレートに、文字が型抜きされた看板に、洒落た赤い扉。ジブリ映画に出て来る怪しい雑貨屋のようだ。

 雑貨屋? アンティークショップ?

 普段だったらこんな店に興味を持つことないはずなのに、この店はなぜか興味をそそられる。

「ちょっと入ってみるか……」

 何か面白いものでも売っているかもしれない。それをお土産にしてもいいかもな。

 カランとドアベルが鳴る。

「……!?」

 ドアを一歩越えた瞬間、俺はまるで別世界に吸い込まれたような気がした。

 ランプのような柔らかみのある照明に、温もりを感じる木目と暖色系の色を基調とした内装。使い込まれた棚に木の香りと本のインクの匂いが混じり合う中に見たことのない商品が溶け込むように並んでいる。

 ルビー色の炎を宿すランタン。

 千一夜物語で語られそうな豪奢な絨毯。

 驚くほど薄く精巧に作られた一揃えガラスの靴。その横には丸々太った猫の形をした金魚鉢。その金魚鉢の中には金魚がユラリと泳いでいる。

 右手側奥は書籍コーナー。普通の書店では見たことのない本が揃っているが、

「【とっても貴重な薬草全書】?【誰でもできる秘薬百科】? 一体どういう人がこういう本を買うんだ?」

 何だか謎の本が多い。

 左手奥には木製のカウンターと今どき珍しいレトロなレジが置かれている。

 そのカウンターでは毛並のいい黒猫が「ELEMENT」とタイトルの書かれた本の上で丸くなっていた。

「あ、お客さん?」

「えっ……」

 ちょうど俺が雑貨コーナーで【瓶詰めの人魚】と書かれた空の小瓶を手にしていると、店の奥からやってきた女の子に声をかけられた。

 漆黒の長い髪と大きな瞳、それに黒いドレス。その黒さが彼女の新雪のような白い肌を際立たせ、顔立ちは童顔にも見えるのにどこか妖艶さを感じさせる。

 店員さんかな? それとも店長?

「いらっしゃいませ! どうぞ、ゆっくり見て行ってくださいね!」

 先ほど感じた妖艶さをあっさり裏切るような明るさで言われ、俺は肩透かしを食らったような気分になった。

「あっ!」

「えっ?」

 黒い彼女は大きな瞳をさらに大きくすると俺が手にしていた【瓶詰めの人魚】の瓶をひょいと取り上げる。

「お兄さんにはまだ早いみたい」

「早い?」

「うん、だってまだ空っぽだしね」

「まだ……?」

 ということは中身が入ることがあるのか?

 首を傾げる俺を尻目に、黒い彼女はパタパタと商品案内をする。 

「今のオススメは、何と言っても極光オーロラだよ、 産地直送の天然ものだから光り方が違う! 暗くしたベッドルームに飾って奥さんと一緒に見上げたらロマンチック!」

 天然物のオーロラ? 産地直送って、北欧とか? 南極とか? そんなバカな。

「あと、今日入って来たばかりの新商品もオススメですよ」

「新商品?」

 黒い彼女はそう言ってと猫型金魚鉢の方に俺を案内する。

「新商品……金魚? それとも金魚鉢?」

「いえいえ、こちらは新商品の見本ですよ。こちらがその商品です」

【新商品!】と可愛らしいポップで書かれた商品札と一緒に薄桃色の花弁が一枚だけ入れられた小瓶が金魚鉢の横に並べられている。

「世界樹の花弁……?」

 世界樹って、よくゲームに出て来るアレのこと? 葉っぱじゃなくて、花弁?

 小瓶のとなりには商品の取り扱い説明が書かれている。

【この花弁は触れた場所に相応しいものに姿を変化させます。

 淡水に浮かべれば淡水魚、海水に浮かべれば海水魚、水槽の大きさ、水の量に応じた命ある生き物に変わります。卵に乗せれば、卵に溶けて雛になります。

 花弁が落ちた場所、環境、状況に応じた命が育まれる命を吹き込む不思議な命の花弁です。】

 ……命の花弁……? この花弁が、魚になったり、鳥になったりする? 

「じゃあ、その金魚ってもしかして?」

「はい、こちらの花弁からなりました」

「本当に!?」

 俺はまじまじと猫型金魚鉢を覗き込む。金魚鉢の中を泳ぐ金魚は、少しも不自然なところはない。強いてあげれば、花弁のような薄桃色かかっているように見えるくらい。正真正銘の金魚である。

 水に入れれば魚に……?

 卵に乗せれば雛に……?

 俺は頭が混乱してきた。

 そんなことあるわけない。

 そんなことあるわけないが、もしも本当だったら……この花弁が命になったら、つまり、生き物に変化するのだとしたら? 

 俺の中で何かが開けていく気がした。そうだ、これはもしかしたら! もしも人間にこれを使ったとしたら?

「にゃは!」

「えっ……?」

 俺はハッとして顔を上げると、黒い彼女はニコリと笑う。

「あ、あの……一つ聞いてもいい?」

「はい」

「この商品、例えばですけど、卵に乗せれば雛になるなら、哺乳類にも使えますか? 例えば、例えばですけど、人間とか」

「もちろん! 花弁がその環境に応じた姿になりますよ」

「……!」

 だとしたら、だとしたら!

 これで全部解決できる! 今まで苦労から解放される! 

 俺は思わず叫んでいた。

「これをください!」


   由美子

   

 世界樹の花弁・取扱説明書

【この花弁は封を切ったならば三分以内を目安に目的の場所に花弁を置いて下さい。

 一度花弁を置き、花弁が変化を始めたならば触れないようにご注意ください。 

 この花弁の触れた場所に相応しいものに変化をいたします。

 淡水に浮かべれば淡水魚に、海水に浮かべれば海水魚に、水槽の大きさ、水の量に応じた命ある生き物になります。

 卵に乗せれば雛になり、雌猫のお腹に乗せればその猫は妊娠をします。

 花弁が落ちた場所、環境、状況に応じた命が育まれる商品です。】

 私は取扱説明書を読みながら考えた。

 この花弁を自分のお腹の上に乗せれば、きっと妊娠できる。この花弁が私の中で子どもになるのだ。

 妊娠できる!

「ふふっ……」

 そう思っただけで思わず頬が緩む。

 もう一人で婦人科に行かなくてもいいし、診察台の上で足を開かなくてもいい! 

 私の親にも、慶悟の親にも、白い目で見られずに済む。

 すべてが解決だ。

 私は悩んだが、慶悟には知らせないまま花弁を使うことにした。もし、反対されたら使いにくいし、つまらないことを言われてケンカをしたくない。

 だいたい、慶悟は何もわかっていない。どれほど私が苦しんでいたのかを。

 妊娠して子どもさえ産めば、それでいい、このことは黙ったままにしておく。

 私はそう心に決めた。

 ただ、失敗は許されない。

 私はもう一度説明書に目を落す。【花弁が落ちた場所、環境、状況に応じた……】だ。花弁は落ちた場所に環境や状況に応じて変化を起こすとある。

 私の身体は、検査上問題はない。だけど万全を考えるなら、おそらくそれは排卵された時だ。

 私はギュと小瓶を握りしめる。

「ああ、待ち遠しい……!」

 待ち遠しい、待ち遠しい!

 私は手帳を開くと秘密の計画実行の日に赤い丸印をつけた。


   慶悟

 

 俺が帰るとなぜか由美子の機嫌はそれほど悪くなかった。それどころか、夕食のおかずがいつもより多いくらいだ。

 もしかして、病院で良い知らせでも聞いたのかと思ったが、それならいの一番にそのことを言うはずだが、それもなかった。 

 由美子が風呂に入ると俺は買ってきた「世界樹の花弁」をこっそりと取り出し、その取扱説明書を出して読みふけった。

 たとえ子どもができる可能性があったとしても、こんな怪しいものを使うことに由美子が抵抗を覚えないはずがない。

 ……使うとしたら、由美子が寝ている間にこっそりとやるしかないな……。

 あとは使うタイミングだ。【花弁が落ちた場所、環境、状況に応じた……】とあるし、妊娠しても不自然ではない状況じゃないといけない。となると、やっぱり……

「排卵時期まで待つべきか……」

 不妊治療が始まる前は考えもしなかったことだが、今ではすっかり意識するようになった。その方が成功率は上がるはずだ。

「うん……」

 俺はギュと小瓶を握る。

 これで由美子の願いを叶えてやれる。俺は安堵と高揚感を覚えながら、瓶を鞄の中にしまうと、自分の手帳を開き、計画実行の日に赤い丸印をつけた。


   由美子


 こんなに清々しい気分で朝を迎えるのはいつぶりだろうか。

 もうすぐ私は子どもを妊娠する。遠足前のドキドキ感のように胸が高鳴っている。 

 ずっと目標としてきたものが、もうすぐ叶う、それがもう手に届くところまで来ているのだ、抑えろというのが無理というもの。

 計画まであと数日。

 次に病院に行く時は妊娠をした時だ。私はそう心に決めていた。

 ああ、仕事はいつまでしようか、今妊娠すると出産はいつになる? 産休をとって……仕事の復帰はいつ頃がいいだろう? 

 男の子が産まれるかな? それとも女の子? 女の子の方が手がかからないとか言うけど、どうなんだろう? 名前はどうしよう?

 仕事の帰り、私は自分の期待と妄想にニヤけながら、スーパーで夕食の買い物をする。すると、小さな女の子を連れた家族が私の前でカートを押しているのが見えた。

 お母さんが買い物カートを押し、お父さんが娘を抱っこしている。

 きっと、子どもが生まれたら、私もあんな風に買い物をしにここに来ることになるのだろう。

 何度も頭の中で描いた光景だ。私のそばで私に甘える可愛らしい子ども。私のとなりには……

「……?」

 私は首を傾げた。

 私の想像の中では、隣に慶悟がいるはず。なのに、頭の中で想い描く家族の姿に慶悟の顔が浮かんでこない。

 いや、もちろん存在はしているが、うまく顔が思い浮かんでこないのだ。

 いつも顔を合わせているはずなのに……何となくイメージがあやふやだ。

 こんなに思い出しにくかったっけ?

 いや、それ以上に子どものイメージが鮮烈なのだ。

 私は、前を歩く家族の姿を脳裏に焼き付けながらスーパーをあとにした。


   慶悟


 落ち着かない。こんなに落ち着かないものかと思うほど気持ちが落ち着かない。

 事前に買ったクリスマスプレゼントを隠し持ったまま過ごしているようなそんな気分だ。バレてはいけないという気持ちとこれがもたらす期待に興奮している。

「蓮田さん、何かいいことでもあったんですか?」

「えっ? そんな風に見える?」

「ええ、わりと」

 後輩の川城雄大に言われ、俺は慌てて自分の顔を抑えた。自分ではそうは思わないが、由美子に言わせると俺は顔に出やすいらしい。

 計画実行まであと数日だ。とにかく由美子にだけはバレないように気をつけなければいけない。

「ところで川城のところは子どもはまだだっけ?」

「はい、うちはまだです」

「そうか、まだ若いもんな」

 川城はまだ二十代。確か奥さんは大学の同級生だったはずだ。

「なるべく早い方がいいぞ、遅くなると色々大変だからな」

「はい。家族が増えるっていいですよね、最近そう思うようになってきました」

 川城の言葉に俺はうなづいた。

 家族が増える、か、確かにいい言葉だ。 

 公園なんかで子どもと遊んでいた父親みたいに、俺もなるのかと思うと何だか不思議な気持ちだが、きっとそうなっていくのだろうと思う。

 俺はその光景を頭に想い浮かべてみた。

 俺と由美子、そして二人の間にいる子ども……。

「……?」

 俺は首を傾げた。

 俺と由美子の姿は想い浮かぶのに、子どもの姿を想像することができない。

「……」

 まあ、当たり前か。実際に子どもができたわけでもあるまいし、実感も自覚もないのだから。実際に子どもが生まれたら、きっと気持ちも変わるはずだ。

 俺はふと窓の外を見た。外では子どもを連れた子どもを連れた母親が歩いている。

 ああやって、由美子も歩くんだな……

 俺はそんなことを想いながら仕事に戻った。


   由美子


 計画実行の日が迫っている。

 体調も、体温も問題はない。このままなら予定通り、あと三日で花弁を使う。

 私は慶悟の帰りを家で待ちながら、もう一度は世界樹の花弁の小瓶を見る。

 この花弁がすべて変えてくれる。今の状況を解決してくれる。孤独な病院通いも、辛い検査も、子どもが産めない女という烙印もすべてが解消される。

 この花弁は希望だ。私の未来を明るくするものだ。それしかない。それしかないはずなのに、頭の中に家族のことを考えると慶悟の姿が薄くなっていく。

 別に慶悟のことなんかどうだっていい。

だって少し協力してくれなかったじゃない。妊娠出来て、子どもが産めればそれでいい、それで問題ない……。

 それに、私は浮気や不倫をして他の男の子どもを妊娠するわけでもない。

 それなのに胸がキリリと痛む。

「私のお腹に宿って私のお腹から産まれるだから、私の子。慶悟は関係ない」

 私は自分に言い聞かせた。

 産まれて来る子どもがどのような過程で産まれてきたのかを慶悟は知らないまま、父親になる。いや、父親にしてやるのだ。

 慶悟だって父親になりたいはず。

 だから、問題ない。

 申し訳ない、なんて思わない。

 私は世界樹の花弁の入る瓶を握りしめた。これですべてが終わるのだから。


   慶悟


 計画実行まであと三日。

 俺は手帳を開き、丸印のついた日までの日数を何度も確認する。

 世界樹の花弁を使えば、由美子はきっと妊娠するだろう。そしてそのまま出産することになるはずだ。

 これで、俺たち二人の取り巻く環境は大きく変わる。親も納得するだろうし、今までの病院通いからもおさらばだ。

「何も問題はない……」

 そのはずなのに、不安が胸を過ぎる。不妊治療はどれほど続けても子どもができないこともある。

 治療は子どもができなければ、当人たちが諦めるか、年齢的な制約がくるまで終わることはない。諦めずにいるかぎり、妊娠を望む限り、ただひたすらに苦悩が続く。

 産まれてくる子は俺の子じゃない。だけど、由美子の子だ。俺は自分の子だと思って育てればいい。

「何も問題はない」

 そう自分に言い聞かせる。

 この事実を自分さえが黙っていれば、何も問題は起こらない。

 そうわかっていても、何度自分に言い聞かせても、やはり心のどこかで疼くような不安を拭いさることができない。

 この行為は由美子を裏切っていることにはならないか?

 それに……俺は産まれてきた子どもを本当に愛せるのか?


   二人の決断


 その日は訪れた。

 いつも通りの朝。

 いつも通りの朝の会話。

 いつも通りの出勤。

 いつも通りの仕事。

 いつも通りの帰宅。

 毎日繰り返されるいつも通りの日常の何でもない日。

 私は【世界樹の花弁】を手に決意を固めた。こんな商品を買ったのだと、慶悟に告白をしようと。

 計画実行の日が迫るほどに私の胸は絞めつけた。後悔する。私はどうしてもその直感を無視することができなかった。

 慶悟は何と言うだろう? 

 馬鹿らしい、そんなことあるわけない。それとも、少しでも可能性があるなら試してみよう……。

 もし、なんと言われようとも、この花弁を秘密のまま使おうとしたことを告白する。そして、子どもを諦めると言おうと決めた。

 子どもが産まれれば何でもいい、そんな風に思っていた。けれどそれは違う。

 いつの間にか、すっかり忘れていた。私はただただ子どもが欲しかったのではなく、慶悟との子どもがほしかったのだ。

 もし、二人の間にこれからも子どもができないのだとしたら、それでいい、と。

 たぶん、慶悟はそれを理解してくれる。そんな気がする。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 慶悟の声に私は隠すように持っていた小瓶をさらに握りしめた。

「慶悟……あの……」

「由美子、話したいことがあるんだ」

 そういうと慶悟はテーブルの上に、コトリと小瓶を置いた。

「えっ?」

 それは今私が持っているものと同じ、世界樹の花弁の入った小瓶。

「慶悟、それは……」

「こんな形になったけど、ちゃんと言っておかなきゃいけないと思ったんだ」

「……?」

「俺の頼み、聞いてくれないか?」


   ☆彡 



「蓮田さん、今日どうですか?」

 川城が手をクイッと挙げて見せる。

「いや、遠慮しておくよ。早く帰らないといけないからさ」

「あ、そうか。それもそうですね」

 川城も察したようにすぐに引き下がり頭を掻いた。俺はまっすぐに手早く帰りの準備を整えると足早に会社をあとにした。

 「あ、とらにゃんこ。二つください」

 俺はいつもの和菓子屋で由美子の好きな肉球最中を買うと隣の黒猫貴品店をチラリと覗いてみた。

 店の中では相変わらず黒猫が昼寝をしており、あの黒い店主の姿が見えなかった。 

 もしかしたら店の奥にいるのかもしれない。

「また今度でいいか」

 俺は肉球最中を手に家へと足を向けた。以前は少し遅くなることもあったが、今ではまっすぐ帰宅することが日課になった。

 すべてはあの世界樹の花弁のおかげと言えるかもしれない。

「ただいま」

「おかえりなさい!」

 由美子は返事が部屋の奥から聞こえてきた。彼女の声に混じり幼い笑い声が耳に届き、俺は思わず頬を緩めた。

 男の子と女の子。

 由美子は双子を産んだ。

 女の子は活発で、男の子はやや大人しい印象だ。この子らの出産を期に由美子は仕事をやめ、育児に励んでいる。

「最中買ってきたんだ、あとで食べよう」

「うん、ありがとう」

 本当によかった。由美子のこんなうれしそうな顔を見られるなんて。

 計画実行の日を境に俺たち夫婦の運命は変わった。

 俺が世界樹の花弁を持っていたように、由美子も花弁も持っていたのだ。二枚の命の花弁を握りしめ、二人は同じように苦悩していたのだ。

 しかし、その花弁は今はもうない。

「お父さんが帰って来たよぉ」

 由美子が言うと幼い二人はまた笑う。

「ほら、慶悟、抱っこしてあげて」

「うん」

 俺は二匹の薄桃色の金魚がユラリと泳ぐ金魚鉢の隣に最中を置くと、愛する妻と子どものもとへと駆け寄った。


おわり

黒猫貴品店内の商品棚に並ぶ「瓶詰めの人魚」《http://ncode.syosetu.com/n3198dd/》は葵生りんさんの作品タイトルを使用させていただきました。


黒猫貴品店内で黒猫が怒られた時に乗っていた本「星の落ちた《https://ncode.syosetu.com/n5747dz/》

は葵生りんさんの作品タイトルを使用させていただきました。


ご協力ありがとうございました。

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